第一章 ・・・ 5
揺れている。
規則性のある振動を感じる。
それでも決して動かない。体勢を維持する努力なんて、欠片もしていないのに……動かない。指先ひとつ動かない。
運ばれているんだ、と思った。
どこへ?
俺はまだやらないといけないことがあるのに。どこかへ行っている場合じゃないのに。あと少しで辿り着けたのに。
俺のするべきことってなんだろう。
おまえは必要ない、っていう久保田さんの声がやけに残っている。
それからすごくたくさん“馬鹿”って言われた気がする。
あんまり言われるとシャレになんねえからやめろよなって、怒鳴りたかった。
命がかかってるとか大袈裟なんだよ。おまえにそんな殺気なかったくせに。おまえに、そんなことできるわけないって、ちゃんと知ってんだよ。……ってちゃんと言いたかった。
でも断念された。
目の前が真っ暗になったんだ。
瞼が重くて開かない。
それから寒い。
すごく寒い。
頑張ってどこかを動かそうとすればするほど頭がガンガン痛む。意識を手放せと訴える本能。
そうすれば楽になるから。
(ラクになりたかっただけなのか、俺は)
キレイごとをいくら並べても、結局それが答えか。
――悠汰、好きよ。
あの日、玲華がしばらく逢えないと告げに来た日の別れ際。
彼女はそう言った。
――悠汰のことが好き。だから大丈夫よ。
なんでわざわざ念を押した?まるでそう言わないと、自分自身が不安にでもなるかのように。
そうだよな。
強そうに見えるけど、彼女も普通に怖いことはあるんだよな。
知っていたはずなのに。
――あたしを護ってくれるんじゃなかったの?
あれはいつ言われた言葉だっただろうか。
だけど結局、護ろうとさせてもくれないじゃないか。
いつも。今回も……。
……違う。
俺に純粋に玲華を護る気持ちがあったかと訊かれれば、俺はたちまち目を逸らしてしまうだろう。
だってラクになりたかっただけだから。現状を知って、自分を落ち着かせたかっただけなんだ。おまえの、無事な姿を。笑っている顔を。
それじゃあ愛想を尽かされても仕方ない、よな――。
* * *
――ここがどこで、自分が誰でいったい今まで何をしていたのかわからない。
目覚めたらそんな感じだった。
なんだかとても切なかった感情だけが、胸に残ってるみたいだった。
眠っている間、話し声がしていたような気がする。意味まではつかめない。遠い場所で聴こえたり、近くなったりしていた。
それから嫌いな臭い。嫌いだと判る臭いが、ここには充満している。ここにはいたくない。
(あ……)
家族の顔が出てきた。
順々に視界が開けてくる。それから――全てが。
(ああ、そうか……)
記憶の混乱はおそらく物の五分。それだけ。
忘れていた方が幸せだったのかもしれない。そう思うほど無神経になってる。
ここは親父の病院だと、思い出せたらすぐにわかった。ここへは何度か来たことがある。
誰もいない。個室だった。
とりあえずホッとしてしまう。誰とも絡みたくない真情は、怪我をしたところで変わってなかった。いや、寧ろもっとひどい。
なにもいまは考えたくなかった。
時間とかの感覚がわからない。とりあえず暗いから夜なのはわかる。その程度。
だけど時計を確認するほどの興味もなかった。腕時計は外されている。
(クサイ……)
薬品のにおい。臭覚だけは放っておいても自然と醸し出してくるから厄介だ。無視できない。
この臭いを嗅いで思い出す光景がひとつ増えている。今までは子供の頃の落胆した気持ちだけだったのに、今は兄貴が父親を刺したことが克明に呼び起こされていた。
思い出すと、あの時の血の臭いまで混ざっているような気さえしてくるから不思議だ。
気分が悪くなる。
「あ。神崎くん?」
突然病室のドアが開いたと思ったら人が入ってきた。
(――拓真)
なんでこいつがここにいるんだろう。
俺はまた幻覚でも見ているんだろうか。
「良かった。目、覚めたんだね。呼んでくるから待ってて」
ドア付近まで来て、そう言うなり踵を返して出て行ってしまった。
誰を、呼んでくるんだろう。
そういうことが、いまの俺にはすぐには思いつかない。
だけど人が来るのは嫌だという感情が湧き上がりはじめていた。
勢いよくベッドから上体を起こす。
「痛っ……」
途端、頭に激痛が走った。そのまま動けず両手で頭を押さえつける。
頭に包帯がされているのにこのとき気づいた。むしゃくしゃして包帯を掻きむしっても、しっかり巻かれていてほどけない。
「畜生……」
もう嫌だ。こういう痛みとか苦しみは。もう充分だ。
でも。
嫌だと思うのに、殴れなかった。……久保田さんを。
すごい気迫で、本気だったと思う。でも隙はあった。あったのに……。
(イタイ……)
胸が痛い。息苦しいほど。
俺のことぐらい見透かしてるはずなのに、久保田さんは手加減しなかった。本気で拒んでいた。
一番最初に現れたのが久保田さんだとわかったときには、かなり驚いたけど、なにより一瞬安心したのに。
久保田さんなら通してくれると思った。それどころか、協力してくれるんじゃないかとまで考えた。
甘かったんだ。
――頑張れって……。
微かに根底に残っている言葉があった。
(頑張れって言った?)
誰が?
思い出せない。
これ以上何を頑張れというんだろう。
「神崎くん!まだ起きたらダメだよ!」
また、拓真の声がした。かなり焦ったような声が、今度は先ほどよりも近くまで―俺の近くで聞こえた。いつの間にか。
顔を上げると、拓真の背後に兄貴と……それから父親がいた。
思わずそのまま顔を伏せる。
「おまえは進歩がないな」
父親の呆れた声が振ってくる。どうせまた、無様な失態をした俺に見切りをつけたんだろうと思った。
「悠汰。おまえ何してたんだ?」
兄貴も同じ位置に立っていた。父親と同じ側に。
もう庇うことさえ厭わしく思っているのかもしれない。こんな失敗をした俺に。
「関係ないだろ」
俺は煩く思ってベッドに潜り込んだ。
ダメだと、危険信号がする。痛んだ頭の片隅で、こんな気持ちのまま会話をしたらいけないと。
「彼、萩原くんに聞いたよ。最近授業にも出てなかったそうだな」
兄貴が近寄ってきたのが気配で分かった。
「うるさい」
「干渉されるのがウザいのは聞いた。けどな、夜も出歩いてこんな大怪我して、それで何も言わないってことは許されないんだ。何があったか話してもらう」
兄貴は硬質の声だった。怒っているのかもしれない。
なんで?怒られる理由なんてない。
そう思ったら止まらなかった。
ガバッと布団を右腕で押しのけ感情に任せて怒鳴る。
「兄貴に言われたくないんだよ!自分だって好き勝手してたんだろ!ほっとけよ!」
僅かに、でも確かに兄貴の顔が歪んだ。傷つけたんだと気づいた。
ここでそんなこと言わなくても良かったのに。意図しなくても、兄貴を責めるような意味が含まれてしまった。
自分の馬鹿さ加減が悔しくて、また布団で自分の顔を隠す。
(違う)
こんなことは間違っているってわかっても、どうしたら良いのか完全に見失ってしまう。
言わなきゃ。言わないといけない言葉が、ある。
「そうか。それは悪かったな」
だけど兄貴が先に言葉を発した。
「今日は帰る。また明日来るから」
そう言うと数秒して扉の開閉する音がした。本当に帰ったんだ。……俺が謝る前に。
(馬鹿)
俺が馬鹿だった。久保田さんの言うとおりだ。
「悠汰。おまえ俺にあんなに偉そうなことを言っておいてこのザマか。たいしたものだな」
「…………」
「親として事情は聞かせてもらうぞ。それから罰を考える」
この人は変わらない。いつも俺が何か問題を起こしたらこう言うんだ。
だけど俺は変わった。良くも悪くも。
もう怯えて黙り込むことは出来なかった。
「親として?よく言えるよなそんなセリフ。自分だって未だに答えが出せてねえじゃねえか!離婚も出来なければ母親と全うに話もしない!そんなんで偉そうにバツとか言ってんじゃねえよ!」
「神崎くん!」
拓真の叱る声が聞こえた。
「そんなことを布団被ったままでしか言えないおまえはなんだ?そういう態度ばかりとっていると、周りから人がいなくなるぞ。……それでも俺は構わないがな。無駄な交友関係を律する手間が省ける」
父親もそれだけ言って帰ったようだった。音だけで判断した。
――布団剥がされて、殴られるかと思ったのに。
以前のあの人ならそうしてたと思う。
人がいなくなる、というキーワードが上滑りして落ちていくみたいに掠めた。
いまの俺にはよくわからない。
「神崎くん。良くないよ、ああいう態度。二人ともすごく心配してたんだ。君がなかなか目覚めないから」
「拓真が、説教かよ」
「違うけど。でも言いたくなるよ、いまの神崎くんを見てると。だから授業サボってたことも言わせてもらったよ。最近おかしいから」
「これで普通なんだよ、俺は。これが本当の俺なんだよ。だからおまえももう帰れ」
いまは碌なことが言えない。口を開けば傷つけるような言葉しか出ない。
「なんだよそれ。そうやって今度はボクを追い出すの?でもボクは帰る気はないんだ。神崎くんの本音を聞くまではね」
静かだったけど、有無を言わせない何かを拓真から感じた。
こいつも実はおかしくなってんじゃないか?こんな奴だっただろうか。
「本音なんて、知ってどうする」
「君が辛そうなのはボクでも分かるよ。見ていてすごく分かる。だから少しでも助けられることがあればって思うんだ」
助け?
出来もしないのによく言う。比絽も同じように言ってくれたのに、結局失敗したんだ。
(そうだ、比絽)
彼はどうしているんだろう。俺の侵入がバレたせいで、比絽にも何か迷惑がかかっているかもしれない。
俺は布団を退かして、ゆっくり起き上がった。もう、大丈夫だった。
だから拓真に言った。
「だったらここから連れ出せよ。ここにいたくない」
「駄目に決まってるだろっ!バカじゃないのか、君は。あと最低でも一週間は安静にしてないといけないって言われてるんだよ!」
「怪我ならもう大丈夫だから。行きたいところがあるんだ」
「神崎くんはなんにも分かってない!脳は今のところ問題ないって先生言ってたけど、本当は大事な神経ぶっ飛んだんじゃない?」
「おまえ!喧嘩売ってんのかよ!」
「君と喧嘩して勝てるわけないよね。君はねえ、怪我だけじゃなかったんだよ!風邪をこじらせて肺炎だってさ!あとあんまり寝てなかっただろう。栄養も偏ってたみたいだし。何やってんのさ!だからこんなに目覚めなかったんだ!」
「ちょっと待てよおまえ……。耳元で怒鳴るな。頭に響く」
なんだかグッタリしてしまう。
状況が呑み込めてない俺にそんなに責めるか?普通。
肺炎って嘘だろ、と思った。
だってそんな症状はなかった。咳も出なかったし、熱も……。
(熱は、わからないか……)
なにせ測ってないんだから。でも頭がくらくらしていたような気もする。
「自業自得だよ。自己責任の範疇だよね」
「俺はどれくらい寝てたんだ?」
やっとこの質問に俺はたどり着いた。
なかなか目覚めないって辺りで、聞き逃していたことをいまごろ思い出したみたいに甦る。
「丸二日だよ。今日は日曜日だからね」
「え?」
思っていたより、かなりの日数が経っていた。まったく感覚がつかめない。
(二日?)
確か二日って。
曜日の感覚はどうでもいいけど、二日というキーワードは最近聞いた。綾小路があと二日くらい待てないのか、ってあの日に言っていた。
俺は頭を抱えた。痛みではなく、思い出そうとするときの条件反射だった。
「玲華。あいつ、戻ってきてないのか?」
玲華の祖父が言った二十日の期限。それが今日だったはずだ。
ならばもう、あの家にいる必要はないんじゃないのか。相続のことなんて知らないけれど、俺は単純にそう考えていた。
「玲華さまはまだだよ。神崎くんは玲華さまに会いに行ったんだね」
なぜか断定的に拓真は言う。まるで予言者のように、どこか優しげに。
「行ったけど、会えなかったんだ。久保田さんが……邪魔した人がいて。でもその人が言うには玲華は俺が来ることを望んでないって言うんだ。あいつが何を考えているのか、俺はわからない。わからなくなってしまった」
気づいたらスラスラと喋っていた。あまりに惨めで説明するのも嫌だったのに。
拓真が、真剣に聞いてくれているからだと思う。なぜだか解らないけど。
「心配してるよ、玲華さまは。きっと君のためなんだ。あの噂だってそう。それ以外考えられないよ」
「そうは、思えない、俺には……。俺は間違えたから。玲華の足を引っ張るようなことをしたから、きっともう、心変わりを……」
「それって順番違うんじゃない?ボクはそうは思わないけど、もしも今回のことが玲華さまの足を引っ張ることなら、なんでその前に拒むんだよ。そもそも君が動く前に噂は流れたじゃないか」
そう。確かにそうだった。あの噂で原動力となったんだ。
混乱してる?
でも不思議とその一箇所に感情が留まっていて、動かない。
そうでなければ説明がつかない。きっと他に理由があったんだ。心変わりする理由。
「じゃあ、俺に愛想尽かしたんだろ」
「どうしてそう思うの?」
「わからない」
ひどく疲労感を覚えた。そんな理由知りたくもない。
「わからないはずないよ。ちゃんと考えなよ」
だけど拓真は諦めなかった。俺の変わりに必死になっているような気さえしてくるほどの、力強い声だった。
「もういいんだ。ちょっと寝たいから、おまえもう帰ってくれる」
「神崎くん……」
最低だ。
寝る気なんてないのに言い訳みたいに使ってしまう。これは正直ではない。意地っ張りでもない。ただの嘘だ。
人が嘘をつくなんて、本当に簡単なことだ。
「結局、君は何も言ってくれないんだね」
静かに、言葉を落とすように小さく拓真が言った。
「いつもそうだね。ボクには何も言わないよね、神崎くんは」
「なんだよ?」
なにを言っている?拓真は。
「どうしてボクがここにいるのか、そんなこと君にはどうでもいいんだね」
「拓真?」
「久保田さん、知ってるよ、ボクも。一度会って喋ったよ」
「え?……ああ、保健室で?」
拓真が言いたいことがよくわからない。
でも拓真が会ったというならあの日だ。綾小路とか美山に絡まれた日。絡まれて過呼吸になって意識不明になった俺を、久保田さんが保健室まで運んだと聞いている。
「その日じゃないよ。球技大会の時、久保田さんは玲華さまに会いに来たんだ」
「ああ」
そうか。そういうこともあったなと、いまごろ思い出した。
学校まで久保田さんは行ったんだ。拓真が会っていても不思議じゃない。
「久保田さんが玲華さまに君のことを語った日だよ。ボクも君のこと知ってるんだ。全部じゃないけど、君が事件に振り回されていたのを聞いてるんだ。家族とうまくいってないってこともね」
抑制されたように淡々と拓真は語る。
俺は眉をひそめた。なにが言いたいんだ、こいつは。
「聞くだけ聞いて何もできないから、すごく気になったし心配したよ。君は何もボクには言わないから……ボクから何か言ったり出来ないじゃないか!それをフォローしてくれたのは玲華さまだよ!一応ボクには報告しとくって、もう大丈夫だって教えてくれたんだよ!」
「拓真……」
知らなかった。そんな裏の事情があったなんて。
拓真はずっと黙っていたんだ。あんな前からずっと。
だけど玲華はあの時だから、気遣っていたのではないか。だって現在じゃない。
「だけど拓真には他にも友達いるし。俺のことでわざわざ気にさせるのって優しくないだろ?」
いいだろ?わざわざ暗い話なんかしなくても。
学校の教室のあの一角では、俺だって現実から離れたかったんだ。きっと。
「なにそれ?うわっ!サイテーだ!」
大袈裟に拓真は嫌な顔をした。でも本気だったと思う。本気で引かれてた。
「サイテーだよ、俺は。だからもう放っとけば」
本当に。
最低なことしか言えない。危機管理がなってない。
心が一定の場所から動かなかった。
「ほっとけなんて言うけどね!だったらほっとかれても大丈夫なようにしてろよ!それがちゃんと出来てから言えよ!」
拓真にまた怒りが舞い降りた。怒らせてばかりいる、今日は。
「玲華さまだってそうだよ!神崎くんが大変だから病院に来てあげてって!メールくれたんだ。ごめんねって、玲華さまが謝ることじゃないのに!」
ポケットから最新形の薄い携帯を取り出して、拓真は俺に見せ付けるように突き出した。
「おまえには来るんだ、連絡」
俺にだけにこない。やっぱりそういうことじゃないか。世羅にも綾小路もあいつに何らかの関わりを持っているのに。
「なんでそこにいっちゃうのさ!君だけ連絡こないのがどういうことかちゃんとわかれよ!」
「だから!何度も言わせるなよ!嫌われてるんだろう?もう!」
「違うだろ!今玲華さまは大変で!詳しくは知らないけど思ったよりその大変が長引きそうで!それまで君に連絡ないのは辛くなるからだろ!君にだけ連絡ないんだよ?それは君が特別だってことじゃないか!声を聞いたら会いたくなる!でも会えない状況で。我慢してるんだよ、玲華さまは!何でか解る?これでわからないって言ったら絶交だからな!」
一気にまくしたてて、拓真は肩で息をしていた。僅かに涙目で、かなり興奮しているようだった。
それで俺は。
俺は少しだけ動いていた。頑固に根が這って留まっていた場所から、心が動いた。
「拓真、なんでおまえが泣いてるんだ?」
「うるさいなっ!ボクは君みたいに怒鳴り慣れてないんだよっ。こんなに怒ったこと、今までないってくらい怒ってるんだからなっ、悪いけど」
痞えながらも拓真は言い切った。腕で目をゴシゴシ拭ってる。
感情と共に自然と出た涙みたいだった。
そういうのは純粋で、綺麗だと思った。いまの俺にないものだ。
「悪いな。泣かせて。ごめんな、馬鹿で。………でも」
でも、と頭が纏まらないまま口にして。
玲華のことを言いかけてやめた。怒鳴り慣れってそもそもどうなんだって言おうとして、やっぱりやめる。
「でも、絶交は高校生にもなってどうかと思う」
考える間もなく言葉をつむいだら、もう一度うるさいなって言われて睨まれた。
* * *
いきなりでごめんね。
悠汰が大変なの。怪我して総合病院にいるわ。
あたしのせいなんだけど、詳しいことはまだ言えない。
勝手なお願いだと思うんだ。でもお願い。悠汰を、助けてあげて。もう萩原くんにしか頼める人いないのよ。
あたしは期限が伸びたから、まだ悠汰の前に出ることが出来ない。
でも必ず戻るわ。悠汰と萩原くんのあの教室に、必ず帰るから。
拓真は帰りがけに俺にメールの内容を見せてくれた。
よくわからない中で、胸だけが騒いだ。じっとしていられない衝動が突き上げる。
「無茶させるために見せたわけじゃないよ!大人しくしてよ」
次の日は祝日で休みだった。
俺はそんなこと当然頭になくて。病院を脱け出そうとしたときに、朝早々にやってきた拓真に見つかった。
こんなことなら、形振り構わず真夜中に実行しておけば良かったと、またいまごろになって思う。
「おまえ……暇なのかよ……」
「違うけど、玲華さまに頼まれたからね。意地でも君を安静にさせるよ」
「結局。おまえも玲華が好きだよな」
俺の周りは全員、玲華が好きだ。それが比絽の言うようなことなのか……それはわからないけど。
「なに?嫉妬?心配しなくてもボクは玲華さまはもちろん好きだけど、君のことも好きだよ」
「…………」
やっぱり拓真は拓真だった。こういうことをスラスラ言える辺りが。
聞いてる方が恥ずかしい。
「だから神崎くんは寝てていいから」
「俺は本当にもう大丈夫なんだ。むしろ動きたい。というかここにいたくない」
「我が儘だなあ。まあ分かってたけどね」
拓真はぶつぶつ呟いた。敢えてそれには返さないでおく。
外科医からの説明は受けた。いまが問題なくても今後数日で悪化するかもしれないこと。それには定期的に検査して内出血をしてないか見守ること。
(なんかメンドイ……)
いまはそれどころじゃないのに。一刻も早くこの状況をなんとかしたいのに。
「なんとかなんねえのかな……」
「退院のこと?それとも玲華さまのこと?」
「とりあえず両方。もう一度あの家に行くんだったら、ここにはいられないだろ」
「まだ行くつもりなの?意外とシツコイね」
意外としつこいって玲華にも言われた気がする……。かなり前に。
「おまえは意外とキツいよな。そんな言う奴だったか?」
「元からこうだよ。っていうかもう神崎くんには遠慮しないことにしたから」
「ここにも本性隠していたヤツが……」
「誰だってさ、嫌われたくなくて汚い部分は隠すものじゃないの?ボクは明るくて良い子って言われたこともあるけど。無意識に隠しているところもあると思うんだ。円滑な人間関係を構築するために」
「円滑な人間関係ねえ……」
「君はねえ、最初から遠慮なしだよね。そういうところ。ちょっと羨ましかったんだ。だからもっと話したいって初めに思ったんだよ」
そういえば入学したてのころ、こいつはやたらと話しかけて来た。
そんなこと考えていたとは……侮れない。
本当はみんな単純そうに見えても深いんだな、と思った。いつも楽しそうに笑っている奴だと、そんな浅墓な目でしか俺は見れていなかったんだ。
それから拓真は、本当にずっと病室にいた。
余程俺が信用できなかったみたいで、傍らの椅子に座ったまま読書していた。
君は寝てなよって言ったきり集中している。なんの本なのかブックカバーがしてあってわからないけど、とりあえず分厚かった。
昼過ぎに、兄貴が宣言通りやってきた。俺は億劫で布団に潜りこんだままだったけど、拓真と交わす話し声でわかってしまった。
そして入れ替わるように拓真は立ち上がる。
「気を遣わなくても、居てくれて構わないよ」
「いえ、ボクもお昼ご飯食べたいので、それまで神崎くんのこと見張ってて貰えますか?隙あらば脱走しようとしてますんで」
そういえばコイツはご飯食べてないよな。俺は病院食なんて初めから食べる気もしなくて置きっぱなしになっていた。看護師に文句言われながら下げられたけど。
拓真はちゃっかりしていた。告げ口と同時にそんな役目を兄貴に押し付けるとは……。ムカつく。
「ああ、なるほど。了解した」
冗談混じりに兄貴は笑ったようだった。
とりあえず怒ってないみたいで、ホッとする。
本当に拓真が出て行ってから、兄貴が変わりにそこに座った音がした。
なぜか息を殺して俺はじっと気配を窺う。
……つーか、失敗した。
これでは起きるに起きられない。どうしよう。どういうタイミングで起きればいいんだ?
自然に、いま起きたように振る舞って、それで……。あ、来てたんだ兄貴って……。
そうだ。それで完璧じゃないか。
それにはまず、そうだ、まず寝返りを……。
(…………出来ねえ……)
んなわざとらしい真似は到底出来ねえ。
といっても、今の状態が充分にわざとらしくて苦痛だ。
どうしようと完全に迷路に迷い込んでいたら、布団の向こう側から低く笑う声がした。
「おまえな、起きてるのバレバレだよ」
「気づいてんなら言えよな!」
俺は思わず怒鳴りながら起きた。ばっちり兄貴と目が合う。
やられた。
こういう姑息なことが、なぜかすんなり出来てしまう人なんだ。腹黒いんだ、兄貴は。
「寝た振りをするなら呼吸はしといた方がいい。無音だと逆に怪しいからな」
「そんなんじゃねえよ!狙ったわけじゃねえぞ!たまたま、流れで……」
「ああ、わかった。そういうことにしておこう」
俺の弁解を聞きもせずに兄貴は笑んでいた。
昨日のわだかまりがなくなっていて、不思議だった。
多分違っているのは俺の方だ。もやもやは完全には晴れていないけど、確かに前より楽な部分がある。体調が良くなってきているせいかもしれない。
「ごめん、兄貴。いろいろヒドイこと言った」
「全部本当のことだ。気にしなくていい」
なんで兄貴はこんなに大人なんだろう。二個しか違わないのに。嫌だな。
「俺はおまえが無事ならそれでいい。言いたくなったら言えばいいから」
「…………」
でも兄貴。俺はまだ諦められないんだ。心のどこかでずっと、玲華を追っている。
玲華が俺をどう思おうと、会いに行かないとふんぎりがつかない。
それで余計に嫌われることになっても。
というより、まだそういうことでしか動けない。他の手段が思い付かないんだ。
「そこで黙られると、まだ何か良からぬことを企んでいるのかと疑うけどな」
「別に企みなんて……」
比絽に会いたい。携帯があればすぐに連絡が取れたのに。
「なあ、俺はいつ退院できる?兄貴」
「まだ決まってない。最低一週間は検査入院だ」
「俺は病院の臭いが駄目なんだ。そんなにこんなところにいたら、おかしくなりそうだ」
「悠汰……」
「家で安静にして、あとは通院になんない?」
兄貴や拓真の心配は分かる。だけどせめて少しでも動ける隙があれば。
「話してみよう。親父が許すか分からないが」
「悪い」
あの人は子どもを監視下に起きたがる人だ。
きっと兄貴から言ってもらえれば、許しは得られそうな気がしていた。
「勝手に脱け出されるよりはマシだからな」
兄貴はそう言って俺の頭に手を置いた。
そういうの、子供扱いされてるみたいで、嫌だからやめろって言ってんのに。
罪悪感が、残った。
誰かに優しくされればされるほど、いつも罪の意識に苛まれる。それは多分昔から。
いまは、胸に陰謀めいた意志があるからだろう。俺は兄貴を利用してしまった。だから、だ。
ならば以前は?
子供の頃は……。
(慣れて、いなかったんだ)
慣れていないんだ、今も。
優しくされるような人間じゃないと、そう思うから。いちいち申し訳なくなるんだ。
もう一度俺は悪い、としか兄貴に言えなかった。