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第一章 ・・・ 4

 痛みは次の日になっても消えなかった。

 二日酔い、とは違うと思う。

 でも耐性ができたのか、痛みが緩んできたのかあまり気にならなくなった。そいうものだという認識でしかない。

 学校の屋上、というスペースを知ってから俺は意外と居心地良くて、よく来るようになっていた。誰も来ないから、本当に都合が良かった。

 それでもなぜか教えてくれた京香とも鉢合わせすることがなくて、ずっとコンクリートにそのまま寝転がって空を見上げる。体がダルくて、寝ているほうが楽だった。

 雨の日が一日あったけど、それでもここに来た。外には出ずに階段と扉の間に座っていた。

「ああ!」

 だけど今日は彼女も来たみたいだった。

 俺を見つけると素早く近寄ってくる。

「わたしの居場所だったのになー」

 ちょっと責めた色を滲ませながら、でも笑いながら京香は隣に座った。

「それは悪かったな」

 反対側に寝返りを打つ。それでも出て行く気力はなかったから。

 京香は構わないとように、平然と言う。

「いいけどさー。別に私有地ってわけでもないし。……いいっしょ?ここ」

 そして俺を覗き込むように彼女が見つめてきた。

「ああ。ラクだ」

 他人がいないことがこんなに楽だとは知らなかった。

 今まで、玲華が近くにくる前に一人きりでいたときは、そんなふうには感じなかった。ただ自ら一人になるのと、おのずとそうなってしまう状況とでこんなに違うとは思わなかったんだ。

 いまなら、あの頃はそこに寂しさが伴っていたと認めることが出来る。

 だから京香が来てがっかりしている自分も確かにいた。

 勝手な話だとはわかっている。ただ事実としてそこにあるだけだ。

「でもさ、意外だなー。きみも授業とかサボっちゃうんだ」

「え?」

 授業?

 そういえばさっきチャイムが鳴ったような気もする。遠い記憶の中で、それは何時のどの(とき)を伝えるものの音だったのか、認識できていない。

「いまナンジカンメ?」

「三時間目だよ。うち世界史なんだ。あれ嫌い。別によその国の、しかも昔のことだよ?知ってどうすんの?って思っちゃって全然頭に入ってこないんだ。しかもセンセイも教科書読んでるだけでツマンナイ」

 だからこの時間はよくサボるの、と京香は言った。

 そうか。それは大変だな。おまえも先生も。

 それぐらいの返しをしたような気がする。

 うちはなんだっけ。っていうかそもそも俺は何ジカン分授業から離れているんだろうか。

「悠汰くんはいつからここにいるの?」

 俺の思考とマッチした質問が浴びせられる。

 一瞬、間が空いた。それから努力して頭を働かせる。

 その質問には“今日は”というものが前につくんだろうか。だとしたら。

「朝から」

「ふうん。ホント意外。机の前にいるのも辛いの?それとも教室の中が辛いの?玲華がいないから?」

「ウルサイ」

 かなり実感のこもったうるさいが出た。

 辛さなんて何も感じない。本当に悪いけど、今は比絽と前に進むための会話以外がすべてどうでもいいんだ。

「かわいそうだね、そういうの」

 京香がはっきりと可哀相と口にしても、俺は無感だった。

 以前ならはっきりと嫌悪を表していたのに。

「ねえ。わたしが癒してあげようか」

 そう言って京香は俺の肩を押して自分側に倒した。抵抗の力が入らなくて、雲ひとつ無い青空が回転して真上に来る。

 そしてその空が視界から完全に消えた。どこにも触れずに彼女の顔だけが大きくなった。

 俺は彼女の耳元に光るシルバーピアスに目がいっていた。縛られているものは何もないのに、逃げるとか、避けるという思考がすでに欠如していて。

 それで。

「こんなところにいたのか!」

 第三者が、屋上と校内に続く扉が開いたために目の前の視界が広がった。

 京香がそちらを振り向いたから、俺から離れたんだって、そういうことすらどうでもよくて。

「――世羅」

 憎々しく呟く京香の声をすごく近くで聞いて、その第三者が世羅だと知った。

(世羅?)

 確か今は授業中だと京香が言ったはずだったのに。

 体を起こして俺も振り向くと確かに世羅が突っ立っていた。どこか怖い顔をして。

「京香。何をしている?」

「べつにーあんたに報告するようなことはなにもしてないけど?」

「ここから出て行け」

「そんなことあんたに言われる覚えもないけど!?」

 語調をキツめにして京香が返す。

 この二人がこういう会話をする間柄であることを俺は初めて知った。

 よくよく考えると比絽が幼馴染みの話をして、京香も小さい頃から玲華を知っていると言っていた。そこで京香もその幼馴染の一人であることを思いつくべきだったのだ。

 女性にしては大股で世羅は俺たちのところに近づいてきた。

「確かにそうだな。そんな話はどうでもいい。――おい、神崎行くぞ」

 そして俺の腕を掴む。

 ――こんなところにいたのか。

 そこで世羅が誰を探していたのか分かった。

 わざわざ授業を抜け出してまで。

「なに?」

 なぜ世羅がそこまでしてるのか分からなかった。不思議と俺のため、というところは思い浮かばなかったのは、やっぱり今までの経緯があるからだろう。

「いいから来い」

 世羅が命令する。

 それを振り払う努力さえ、俺は(おこた)っていた。

 京香は何も言わずに見送っていた。と思う。何も声を発しなかったから。

 そしてそのまま玲華の部屋まで連れて行かれた。教室へかと思っていた俺は少し意外に思ったけど、それだけだった。

 放課後以外に、ここへは来たことがない。しかもあの言い合いをしてからまったく来なくなっていた。

「なんだよ」

 俺はいつもの低位置に座りもせず、ただ突っ立ったままで訊く。

 ここまで世羅がするっていうことは、絶対玲華絡みだと信じて疑わなかった。

 それならばそれは“どうでもいい”ことだ。

 世羅もとくに落ち着こうとはせず、立ったまま言う。

「おまえ、今の自分みてどう思う?玲華の前でも今の自分、出せるか?」

 やはり玲華の名が出た。

 それぐらいの印象。

「関係ねえだろ」

 サボったことを怒っているのだろうか。それとも京香に隙だらけな自分に?

「京香とも比絽とも接触するのはやめろ」

 そして世羅から比絽の名が出ても、俺はさほど意外には思わなかった。

 すでに幼馴染みの一員だったことを聞いていたからだ。

「なんで世羅がそんなこと言う」

 やめろよ。

 我が物顔でそんな忠告すんなよ。俺の行動を制限すんな。

「それが玲華の望みだ」

 比絽の言葉が浮かんだ。一度は忘れて、沈んだ記憶の底から。

 ――世羅ちゃんも亨くんも絶対的な存在として玲華のことを見てる。

「俺は玲華のイエスマンじゃない」

 すべて彼女の言うことに肯定したりしない。操られてもいない。

 俺は俺自身の意思で動く。

 そうだろう?玲華がどう思おうと関係ない。自分は間違っていない。

 世羅は一度ため息をついた。

「玲華から伝言だから言う。おまえは玲華を信じろ。それだけでいい。比絽の言うことに耳を貸すな。……そうすれば、私もなるべくおまえに玲華の状況を話そう」

「いらない」

 今夜、すべてはあきらかとなる。

 だから。

 世羅の忠告は不要なことだった。従う理由はない。

「おまえ、すでに比絽と……」

「俺には!」

 どこか愕然として呟く世羅に、俺は言葉を被せていた。何もこれ以上聞きたくなくて、また怒鳴ってしまった。

「分からない。俺には。おまえが正しいのか、比絽が正しいのか……。だから、俺は手っ取り早い方法を選ぶ」

 確実に協力してくれる方を。前に進んで行ける近道を選ぶ。

 いくら世羅が俺にしては意外な優しい扱いをしてくれたとしても。

「私を否定するということは玲華を否定することだぞ」

 重々しく、世羅がそう言った。まるで警告を発するみたいに。

「だから関係ねえって」

 ちょっと俺は笑った。笑ったと思う。

 玲華は関係ない。俺がどうしたいかが重要なんだ。そう、それだけのこと。

 俺と世羅は違う。そして綾小路とも。

 絶対にコントロールなんてさせないし、禁断症状でもない。

 世羅はそうか、とだけどこか残念そうに呟いて、そこで話は終わった。


  * * *


 ずっと屋上にいるわけにもいかなくて、俺は人気(ひとけ)のないところを選んで校内を歩いていた。

 体中がダルくて仕方がない。早く夜になればいいのに。

 そう思って見上げると綾小路と美山が遠くに見えた。

 学園の東の塔。そこの外壁に設置されているコンクリートの階段の最上階に、背中を向けてもたれかかってる。

 咄嗟に俺は中庭の木に身を隠した。

 綾小路がいる。あいつにまだ話が聞けていない。しかし俺の姿を見たらまた逃げるだろう。

 しばらく二人の姿を目に留めたままで、どうしようか考える。

 集中力のない頭で導き出された答えは。

 昇降口に張り込みをすることにした。

 いつ綾小路が出て来てもいいようにだ。おそらく今日も部活を休んでどこかで早退するんだろう。校門のところに早々とお迎えの高級車が一台見える。

 そしてチャイムが鳴り、午後の授業が始まってから綾小路は姿を現した。

 そういうタイミングも俺を避けるためとしか思えない。

 靴を履き替え昇降口を出たときに、俺はようやく前に立ちはだかる。

「何してるんだ?授業はとっくに始まっているだろう」

 俺の姿を見てもさして驚きもせずに、あっさりと綾小路はそんなことを言った。どこか呆れているような色が含まれている。

 すでに下用の靴だから、こいつはそのままで校舎に上がる、なんてことはしないと思った。

 プライドだけは高いから、みっともない足掻きとかはしないタイプだ。

「そんなん待ってたら、おまえ帰るだろ?」

「ああ。そうだな」

 あっさりと綾小路は頷く。

 一変したその態度に俺は妙な感覚に陥った。

 もう、逃げないのか?諦めたのか?

 不審げに思っている俺に、ゆっくりと近づくように校舎を出てくる。

 聞きたかったことを、口にしようとしたときだった。

 綾小路は突然、全力で走り出した。俺の前をあっさりと抜けて校門の方へ走る。

(そういうことかよ!)

 やられた、とか思う暇なく俺はそれを追う。

 伊達に俺に大口を叩いていたわけではなかった。綾小路はとんでもなく速かった。

 だから俺も手を抜かずに、全力疾走する。追うべきものが目の前にいると、自分でも驚くぐらいのスピードが出た。

 もう少しで捕まえられる。

 そう思ったとき、直滑降で綾小路が左に曲がった。教室から生徒に見られないようにだと、後からではわかったけれど、そちらとは逆のテニスコートに続く方へ綾小路は進んでいった。

 そのときは気づく余裕もなく俺はただ追いかける。

「……てよ、このっ」

 逃げられるのが、こんなに悔しいとは思わなかった。

 意味も知らされず、避けられて俺はムカついていた。だからかもしれない。陸上部並みに速い綾小路のブレザーを俺は掴むことに成功した。

 校舎と塀の間の柔らかい土の上に、俺たちは勢い余って転がる。

「なんで逃げるんだよ」

 動けないようにすぐさま上に馬乗りになって、綾小路を見下ろした。

 やつの目が見開かれる。なぜだか知らないけれど、すごく驚いた顔をしていた。

「何故こんなに走れてどこにも入ってないんだ」

 しばらく肩で息をして、それからぽつりと呟いた。

 なんの話かわからない。

 いや、そんなことはどうでもいいんだ。俺はこいつに聞きたいことがあって……。

(聞きたいことって、なんだっけ…………)

 ふと、頭の中を探るように考えた。

 玲華のことか?でもそれは比絽が教えてくれている。

 ……婚約のこと?

(それはもう……どう、でもいい……ことだ…………)

 そうだろう?それよりも大変なことが玲華に起こっているんだ。

 俺は直接玲華に聞く。だからもういい。

 逡巡させているうちに、綾小路が力一杯俺を押した。あっさりとそれを許してしまう。だけど、もう逃げる素振りはしないで、服装の乱れを整えていた。

「おまえ、玲華がたった二十日不在になっただけでこれか。どこまで玲華に(すが)れば気が済む」

「それは関係ない」

 なにも世羅と同じようなことを言わなくてもいいではないか。

(おまえらと一緒にすんな)

 元々、玲華に崇拝していたのはおまえではないのか。猫を被ってお嬢様に相応しくあろうと演じていた彼女に、そのまま信じて狂っていたのはどこのどいつだ。

 そう言いたくなるのを必死で抑える。

「ではやはりあの噂を信じて()られているのか」

「どうでもいいんだよ、そんなこと」

 そんな話で誤魔化されない。

「もう、どうでもいいんだ」

「だったらなんだ?他に何の用がある?」

「おまえ今もあの家に行ってんのか?」

 重要なのはそこだ。どれくらいこいつが関わっているのか。

「それを知ってどうする」

 綾小路は怪訝そうに反問した。

「あの家、中はどうなっている?」

「まさかおまえ、行くつもりなのか」

 なにかを察したような、鋭い顔をした。

「神崎、おまえ自分の感情だけで周囲を無視して忍び込むつもりなんだな」

「いいから質問にだけ答えろよ」

「後二日ぐらい待てないのか?玲華がなぜおまえを遠ざけてるのか、本当にわからないのか?」

「おまえうるさい。逃げてたくせに責めんなよ」

 玲華に利用されてるだけのくせに、俺に説教なんかするな。

 しばらく綾小路は厳しい目でじっと見ていた。それに相手をしてやる気もない。

「玲華が哀れだ。あんなに頑張っているのに、好きな男に邪魔されるなんてね。本当におまえみたいな馬鹿のどこが良かったのか、僕には分からないよ」

 玲華が俺を選んだ……理由?

(そんなの…………)

 彼女はなんと言っていただろうか。俺は記憶の引き出しを探した。

 最も納得できる言葉を。

「教えるつもりはないから僕はもう行くよ」

 まだ見つからない内に、綾小路は去っていく。

 しかし、不意に思い出したようにやつは振り向いた。

「これを言うのを忘れていた。美山が“目を覚ませ”だとさ」

 前後の脈略を吹っ飛ばして、俺の顔に向かって人差し指を突きつける。

 なんのことか訳がわからない。

 だけど綾小路は説明もなく本当に帰っていった。


   * * *


「困るな」

 為す術もなくその場でじっと立ち尽くしていると、声をかけられた。

 顔を上げると、比絽がここでは目立つだろう普段着で歩いてくるところだった。

「聞こえていたよ。あれでは亨くんに今日のこと見破られちゃうじゃない」

 本当に困ったような、でもいつもの笑みも浮かべている。

「悪い。少しでも情報があれば、見つかるってヘマはしないと思って」

「それはぼくが教えてあげられるよ。見取り図だって用意したから」

「あっ、そっか……。そうだよな……」

 なにをしてるんだろう、俺は。

 結局なんの情報も得られず、比絽の好意を無駄にしただけなんて。

「きみのせいじゃない。ちゃんと言わなかったぼくも悪いよね。大丈夫だよ。絶対にぼくがなんとかするから」

「ほんと悪い」

 本当に比絽は頼りになる。それに、俺が失敗しても責めない。

 こんな人に、初めて会った。

 失敗すればそれ相応の罰が与えられるものだと、思っていたのに。

 だけど、それと同時に俺は知らなかった。

 責められないのも辛いんだ。罪悪感が余計に残るのは何故だろう。

「いや構わないよ。ぼくは迎えに来たんだ。打ち合わせも込みで早めに会いたくてね」

 しかもしっかりしてる。

 そういえば待ち合わせ時間とか決めずにいた。最初から比絽はそういうつもりでいたんだ。

「ああ。行こう」

 午後の授業のことなど、俺の頭にあるはずがなかった。


   * * *


 警備システムを操作できるのはたった五分間だよ、と比絽は言う。

 コンピュータールームの回路に侵入し、バレずにいる時間がということらしい。

 さらに人が――血族の人間だけでなく使用人含めての人が――通りにくい道筋を比絽は示した。

 ここは怪しげな場所にある怪しげな飲食店だ。何が怪しいってメニューはないしこじんまりしているし、なにより照明が暗い。

 そのなかで見取り図が広げられていた。彼の椅子の隣には黒い大き目の鞄。何が入っているのかはすでに聞いている。

 そしてここには他の客はいなくて、ひとりだけカウンターの向かい側に男性がそ知らぬ顔で座っていた。やる気がないのか煙草だけ吸っていてあとは何もしてない。

 彼は干渉してこないから大丈夫だよ、と比絽が言った。

 随分慣れた場所みたいだった。

 そしてここへ来て三分後くらいには俺も(こだわ)らなくなっていた。

「覚えられた?」

「ああ」

 かなり入り乱れているし、あまりに広いけれど今の自分には何でも出来る気がしていた。

 不思議だけど、自信があった。

 正面の門からつまり、玄関からは、玲華の部屋は一番離れた最上階にあった。南向きの部屋。

 入るのは正面より僅か十メートル西寄りにずれた一角。

 そこのセキュリティだけ、切り替えるということらしい。監視カメラの映像とセンサーを感知しないように。

 実はそこが一番セキュリティが弱いのだと教えられた。

「センサーって一つきりじゃないんだ。いろんなふうに交差してすごくたくさんある。カメラもいろんな角度でそれぞれ設置されててね。ここの上下左右だいたい八十センチくらいずつが最も狙い目なんだよ」

 どうして比絽はそんなに詳しいんだろうか。あそこに住んでいるわけでもないのに。

「ぼくなりに調べたんだよ、きみのためにね」

 とか何とか、聞いてもないのに先読みして言っていた。

 そこは問題じゃないと思った。

 ここを通り抜ければ、この自分でさえ原因不明のもやもやした感じが消え去ると……それだけしか考えられない。

「何か口にしたら?時間、まだちょっとあるから」

 なにかのついでみたいに比絽が言った。何でも言ったら出してくれるよって付け足して。

 だけど何かの重しがずっしり胸に(つか)えているようで、これ以上なにも受け付けない感じがある。そのなかで喉が焼けるように熱かったから、水だけもらった。

 一口飲んでから、緊張してるのかもなって、どこか遠くで思う。

 気づくといつの間にか比絽は店員と二人で喋っていて、俺はひとりで見取り図の前にぼんやり座っていた。

 ――ひとりにしてくれてるのかもしれない。

 俺が緊張してるから。

 わかりやすい人間だと、言われたのは誰にだっただろうか。

 知られて困る真情など俺にはない。

 だから無視した。俺も一番楽な姿勢でいた。いま楽なのは、余計な人との接触をなくすことだ。一度もここの店員と話していなかった。

 そんな状態がどれくらい続いたのか分からない。会話はひとつも耳には届いて来なかった。

「じゃあ、行こっか」

 比絽がようやく話しかけてきたのは、すでに決行直前だった。

 それを合図みたいにして俺は立ち上がる。

 あんまり深く考えられない、すこしズレた頭の中で、もっと緊張しなければ嘘だと冷静に感じていた。



 西龍院の敷地まではタクシーで来た。

 比絽には玲華や綾小路みたいに専用の運転手っていうものがいないらしい。

 そんなにぼくんちはお金持ちじゃないよ。本当にちょっとぶら下がっているだけの分家なんだ。と言った。

 それがどういうレベルなのか俺にはよく分からない。

 それでも例によって彼に全て払わせてしまっていて、さすがに焦った。

 俺の問題でやってもらってるから、って主張したけど、年下の高校生に払わせられないよ、と笑ってまた先に支払いを済ませていた。

 門よりちょっと離れたところでタクシーを降り、正面の門の周辺にそびえ立っている木に隠れるように跪く。

 比絽が持ってきた鞄を置いた。ここに忍び込むための道具が入っている。

 そして時計の針を狂いのない様にお互いに合わせた。

 今更他の打ち合わせは必要ない。すべて終わっている。

「じゃあ行ってくるね。気をつけて」

 一言だけ囁いて比絽は先に中に入っていく。

 その背中を見つめていたけれど、何ら関心が抱けなかった。実感が湧いてないんだ。

(ダメだな)

 それが駄目なことだけは凄くよく分かるのに、どうしようもなかった。

 活を入れないと、奮い立たせないと負ける。

 それは分かる。

 打ち合わせの時間まで、俺は何とか心を奮起させようと頑張っていた。

 木々の隙間から漏れる夜空を見上げる。

 上弦の月が、やけに印象的に俺の目に残った。



 丑三つ時も過ぎた深夜三時五十分。

 それが約束の時間だった。

 時間より三分前に鞄の中の中身を取り出す。

 フック付きロープだ。

 使い方は教えてもらった。比絽は忍者みたいだよね、って面白そうに言ってた。

(早く、行かなきゃ……)

 事務的に俺はそれを持って塀の前に立つ。そして比絽が言った間隔を確認する。

(見つかったら、どうなるって?)

 ――法的な不法侵入罪とは訳が違うからね。

 それが一体何を意味するのか、そこは聞けていない。でもおそらく、いまがピリピリしてる状況だから邪魔されたくないんだろうとは思う。

 それならば問題ない。俺はそんなものを狙いにきたわけではないのだから。

 もし見つかったとしても、そこを丁寧に説明したら解ってもらえるのではないだろうか。

 俺の場合、説得力のあることは言えないけど。

 不意に掠めた思考を打ち消し、ロープを投げた。

 上手く一度であちら側にフックが引っ掛かった。三回強く引っ張り強度を確認する。

 それからレンガの塀にスニーカーの底に一歩一歩力を込めた。

 思ったより腕力が要る。

「……っ!」

 三分の二を登ったところで、拳が塀に擦れて皮がめくれた。

 もっとスムーズに登れるイメージでいたのに。これはみっともない。

 だけど俺は必死だった。無視して先を行く。

 なんとか塀の先端に片手が届いて、あとは懸垂で頂上に到着した。暗くて下が見えないけれど、いまの俺には関係なかった。

 感覚が鈍っているのかもしれない。いつもなら高くて躊躇うところを、さっさと降りる。

 着地するときに少しバランスを崩した。

(ヤバイ……)

 何とか踏みとどまったけど、知らない間に足腰が弱まってるのかもしれない。最近怠惰な生活を送っていて、寝転がってばかりいたから。

 がさりと、遠くから音がした。

 俺が着地したときと同質の音。

 それで俺はそちらを見る。

「あ……」

 ちょうど人影が同じように高いところから飛び降りたんだと解った。一階と二階の踊り場にある窓が開いている。

 まずい、と思う前に、俺は見てしまった。その人を。

(なんで……)

 どうしてこの人がここにいるんだろう。

 夏休みには頻繁に会っていた人だ。見間違えるはずがない。

(久保田さん……が、ここに……?)

 必死で辻褄を合わせようとする頭。

 そうか、玲華だって久保田さんの知り合いだ。

 久保田さんはすごく頼りになるから、玲華だって頼るってことは冷静に考えれば解ることだった。

「ああ、そうか……。祥子さんが言ってた仕事で不在してるって、このことだったんだ」

 確か大きな仕事が入ったって。

 つまり玲華は正式に依頼したんだ。その内容まではわからないけれど、おそらく護衛かなにかだろう。

 そういえば比絽が言っていたではないか。護衛と称して強引に連れ込んだ部外者も一人いる、と。それが久保田さんだとしたら納得がいく。

 ちゃんとしたスーツ姿で彼は距離をとって立ち止まった。

「悠汰」

 名前を呼ばれて、俺はドキリとした。

 あまりに硬質な声。

 らしくないなんてものじゃない。いつもの声とは違うものだったから。

 でも俺は知っている。これは仕事用の久保田さんの声だ。ここまで厳しくて重いのは、初めて聞いたけれど。

「おまえをここから先には行かさない」

「な、に?」

 その内容にはすぐに認識できずにいた。

 なにを言っているんだ。なんの前置きもなく、あまりにも一方的な発言。

「だが、おまえはここを通りたいんだな?」

「ちょ……ちょっと待てよ。なんだよ……なにが……」

「二度は聞かない。答えるんだ」

 俺がいくら動揺しても、久保田さんは説明もなしで命令をする。

 これは本当に久保田さんか?

 見たことのないほどの、恐い顔だ。顔のつくりだけ同じにした別人に見えた。

「当たり前だろ。そのために来たんだ」

 別人なら遠慮することはないだろう。

 俺は知らず知らずのうちに睨みつけていた。

 見つかったのが久保田さんで良かったと、一瞬でも思ってしまった自分が情けなく思える。

 ()()()は懐から何かを取り出した。俺を見つめたまま腕を振りそれが長くなる。

 そしてそれを俺に向かって投げつけてきた。当たる前に足元に転がる。

(警棒……?)

 それは警棒だった。ネットでしか見たことのないものだ。

「だったらオレを倒してから行け」

 そう言われて反発心からその人を見る。その人も警棒を握り締めていた。

 なんだ、この展開は。

 ただ解ることは、その人の目は本気だった。

「なんでだよ……」

「チャンスをやるって言ってるんだ。本来ならばそこへ降りることすらおまえは許されていない」

「おまえ、だからって……」

「オレはおまえを排除する。そしてそれは彼女の、西龍院玲華の意思だ」

「!」

 まったく俺の喋る隙を与えずに、静かにその人は語る。

 最後の言葉は衝撃的だった。胸に突き刺さって、痛かった。

 この人が俺の知っている人ならば、こんな言い方しない。こんなやり方なんて選ばない。

 俺は落ちている警棒を見つめた。

(でも……だけど、俺は……)

 そんなこと出来ない。

「解ったか?彼女はおまえが来ることを望んでいない。それでも通りたいならオレを倒せ」

 また、そんなことを言う。 

「おまえはそれで良いんだ?」

 だから俺は確認をした。

「ああ。オレもおまえはここに来るべきではないと思ってる」

「……どいつもこいつも」

 笑いがこみ上げる。

 馬鹿じゃないのか、みんな。なにを必死になってるんだ。久保田さんまでなに言ってんだ。

 俺がただ玲華に会うってだけなのに、なんをそんなに妨害する必要があるんだ。

 ああ、そうかよ。これが玲華の意思なんだな。だったら……。

「おまえも玲華に操られてるんだ」

「何?」

 ピクリと久保田さんが反応した。

 だってそうだろう?

 久保田さんは説明もなく、こんなこと言う人じゃない。変わってしまったんだ。

「それで?やるのか悠汰」

「できるわけねえだろ……。でもここは通る」

 通る。そこだけはゆずれない。

 だってそのために来たんだから。

「通るなら、やれ」

 何度目かの短い命令後、久保田は地を蹴った。

 構えてもない俺に向かって警棒を突き出す。

 そこからは条件反射だった。咄嗟に警棒を拾ってそれを払う。

 手がビリビリと痺れた。

(そんな……)

 この人は本気だ。本気の力を出している。

 俺が戸惑ってる間にも二打目、三打目が繰り出される。

「っ……!やめろよっ!」

 もうやめてくれ。

 攻撃されることよりも、その本気が痛い。

 俺はギリギリのところでかわすことぐらいしか出来ない。

 久保田さんはもう、なにも言わなくなった。

 打ち合う音と土を蹴る音だけが暫く続く。

(いい加減にっ)

 スタミナが切れる、と感じた。

 形振り構わず、一度だけ相手の顔に向かって横殴りに払う。

 久保田さんは難なく避けた。

「何だよおまえ!俺は玲華に会いたいだけだっ!それの何が悪いんだよ!」

 その隙をついて下がり、距離をとった。

「知る必要はない。おまえはただ待ってろ」

「嫌だ!なんでみんなそう言う!?」

 説明もなしでそればかりだ。納得しろと言う方がどうかしてる。

「覚悟とか俺のためとか!訳わかんねえ……でも、あいつが一人、大変なことになってんだろ」

 そこだけは間違いなくて、変な計画を立てないといけない状況なんだ。

「大変なんだよな」

 もう一度俺は確認した。久保田さんの表情からなにかを読み取ろうとする。

「そのためにオレがいる。オレのほかにも護衛ならいるんだ。だからおまえは必要ない」

 だが、変わらない。俺のなかに後れ馳せながら怒りが込み上げてきた。

「てめえ、よくもそんなこと……」

「それから笹宮比絽と会うのもやめるんだ」

 ビシッと警棒を振りながらそれに被せられた。

 またそれかよ。俺の行動をおまえが決めるな!

「だからっ!命令すんなっ!」

 怒鳴り散らしたいのに、また無視されて久保田さんは突っ込んできた。

 クロスするように引き、勢いをつけてなぎはらうように。

 それに慌てながらも下がってかわした。

 しかしすぐさま上がった腕を振り下ろしてくる。

 俺は下がることしかできなかった。

 そうしていくうちに背中が壁に当たる。

(しまった)

 逃げ場がない。

 それでも久保田さんは跳躍した。勢いを含めた一撃。

 横に逃げなければ。瞬時に判断し、体重移動を試みる。

 しかし、そのとき。

 何故か動けなかった。脚にきていたのかもしれない。ガクンと膝が下がっただけで地面から足が離れなかった。

 ヒヤリと背筋に冷たいものが走る。

 それでも久保田さんは止まらない。

 上がりきったその右の脇腹に隙を見つけた。グッと警棒を握る手に力を込める。

 でも…………。

 それだけだった。

 確実に狙えば止められたのに、俺は動かなかった。

 そして、とてつもない衝撃を頭に食らう。

 脳が確実に揺れたのを感じた。それからこめかみ辺りから濡れてゆく感覚。すごく気持ち悪い。

「おまえっ!なんで反撃しないんだよ!」

 意識が遠のきそうになる感覚が襲ってくるなかで、それを手放さないようにしたいと、強く思ったことは憶えている。その隙間から聴こえた久保田さんの怒鳴り声。

(なんでって……)

 馬鹿だ、こいつ。そんなことも忘れてしまったのか。

 あのとき言った自分の言葉なんて、それくらいのものかよ。

 おまえが言ったんだろ、暴力を封印しろって。

 ――どんな理由にせよ、殴ることは暴力だ。そういうことを解決するために使うな。

 それを聞いて納得したんだ、俺は。普段から封じておけば、いつか攻撃的な自分は消えて無くなるかもしれないって、思ったんだ。

「馬鹿!だからっておまえ!自分の命がかかってるときにまで抵抗しないでどうすんだよ!」

 ああ、駄目だ。

 なにも見えない。なにも考えられない。

「だからっ!おまえは駄目なんだ!極端なんだよ馬鹿!」

 なにかまだ叫び声が聞こえる。だけど遠い。

 叱ってるのだけはとりあえずわかる。

「ばかやろう……」

 なに?聞こえない。

 せめて、どんな顔でいるのかを、知りたい。

「なにも心配すんな、悠汰。大丈夫だから。きっと上手くいく。オレがいかせるから。だからおまえも頑張れ……」

 なにか、聞いておかなくてはならないことを、言っている気がする。

 ちゃんと、起きて……聞か……な、きゃ…………。

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