第一章 ・・・ 3
彼は笹宮比絽と名乗った。
二十歳で大学に通っているという。
比絽は恐くない人だ。
俺が狼狽えてもちょっと怒鳴っても変わらないでいる。つい呼び捨てにしてしまっても、タメ口を利いても細い目をさらに細めてただ笑ってるだけだった。
そういうところは久保田さんより大人に感じる。
彼を見ていると、理事長の言うとおり、本当に中が凄惨な状況なのか疑いそうになってくるから不思議だ。
逃げようとしていた俺が、なぜいまだに彼について塀の周りを歩いているかというと、中のことを教えてあげる、と言われたからだ。
だから俺が問い詰める前にあっさり語ってくれた。遺産相続のことも全て。
「ぼくはそういうのに興味はないからね。でも誰が結果的に財産を手に入れるか、それを見届けたいと思って残ってるんだ」
比絽は本来ここに住んでいる身内とは違うらしい。
今回の件で押し寄せた分家の一人だよ、と教えてくれたときも彼は笑っていた。
少なくても理事長が言った恐ろしい連中には該当しないんじゃないか、と思えてくる。口外しても問題がないから、彼だけが例外なのかもしれない。
「源蔵様に呼ばれて押し寄せてきた親戚筋のうちの一人なんだ。あの会は凄かったな。親戚全てが集まるってそうないからね。しかも西龍院グループの重鎮とか、源蔵様と関係を持ったといわれているだけの人もいて、百人は超えてたよ。いまは親戚だけだけどその三割くらいがこの家のなかに残ってるかな」
すごい……、少なくとも三十人寝泊りできてしまう家なんだ。
そう言ったら、使用人がそれぞれついているからその三倍くらいにはなるよ、とさらりと返されてしまった。
ますます呆気に取られる。
「なるべくならきみに協力したいな」
「なんで?」
「きみが唯一玲華を救える人だと思うからだよ」
「無理だろ。中に入れないんじゃ……」
「それなんだよね。外部に洩らすなという規則はあったけれど、部外者を入れるなとは言われてないんだ。ぼくが協力すれば何とかなるかもしれない」
「え?じゃあ……。あ、でも理事長……玲華の父親でもなかなか入れないって」
手をまわしているのに、一度も入れずにいると言っていたのではなかったか。
「あの人は余計に、だよ。自ら離れた人だから、周りの人も今更関わるなって言いたいんだろうね。協力してくれる人がいないんじゃないかな」
「でも玲華の父親だろ?」
「ここでは関係ないんだよ。親権者とか、そういう拘りがなくなっているんだ。いまは玲華には源蔵様の後ろ盾があるけどね」
「ふうん」
やはり俺にはよく分からない世界だ。
まったくピンとこない。
「親子関係が一般家庭より希薄なのは確かだよ」
静かに、穏やかに彼は言う。自分もその中の一人だと先ほどは明かしてくれたのに、どこか他人事のように聞こえた。
「玲華は……どうしてます?」
「発表の前は源蔵様についていろいろまわったみたいだね。いまはこの中に引きこもってる。署名を希望する人たちが長蛇の列をつくっていてね、ひとりひとりを相手にしてるよ」
「とりあえず玲華はまだ無事なんですね」
人伝でも得られる情報はありがたい。
「無事と言えるかな」
だけど比絽はこんなことをさらりと返してきた。
「確かに身体は無事だよ。だけど周りの人を拒絶し続けている彼女は、傍からみても壮絶で恐ろしくもある。まるでばっさばっさと裁いていってるみたいだ」
「恐ろしい……」
「きみは彼女にそういうのを感じたことはない?つまり絶対的な存在で下にいる者を見下ろすようなことだけど」
「見下ろすなんて、そんなことはあいつはしない……けど……」
だけど王者の風格なら感じたことはあった。
クラスの皆を一言で黙らせた、そういう圧倒される空気。そういうのは確かにある。
途中で黙った俺に、また比絽は大人びた笑みをみせた。
優しく見抜かれる。
「玲華はそういうところ源蔵様にすごく似ているよ。ぼくは源蔵様は狂ってしまっているんじゃないかと感じたことが何度もある。今回の遺言にしてもそうだ。そしてその域に彼女が到達してしまわないか、すごく心配しているよ」
「狂っ……」
ドキリとするような内容だった。
思い当たる動機ということではなくて、会話そのものが、どこか怖くなってしまうものだったのだ。
「でも彼女はもう狂っているのかもれないな。そうでなければとてもあんなことできない」
「あんなこと?」
「まるで、源蔵様の強すぎる力を得て、その力を使いたいみたいに見える。最強の武器を手に入れた猛者のようにね。それくらいの非情さがあるよ。はじめから署名をする気はないんだろうな」
俺は思わず建物を見上げた。
だけど見えるのは塀だけだった。それがまるで玲華の心のように思えてくる。
玲華はいま、何を考えているのだろうか。
俺には見つけられない。
「だからきみに協力したいんだ」
また彼は反復した。
「いま彼女を助けられるのはこの家の人間じゃない。ここまで来たきみにぼくは賭けたくなったね」
誠実な目をしていた。どこか切なげに。
まるで染み渡るように俺も泣きそうになった。
理由はきっとひとつじゃないけれど。
「俺が中に入っても、出来ることなんてないかもしれないのに?」
そもそも玲華にとって俺ってなんなのか、それがすでにわからない。
「きみで駄目なら彼女は止まらない。そう思うよ」
「綾小路じゃなくて?」
そうだ。綾小路とのこと、彼なら知っている。そのことを聞かないと。
「彼は作戦のうちかなとぼくは思ってるよ。もしかしたら彼も利用されているのかもしれない」
「あいつが?」
かなり意外だった。
綾小路がどうこうということではない。あいつはきっと玲華が頼めばなんでも引き受けそうなところが前々からあったから。
そうではなくて、玲華が利用しているという点だ。
「でもぼくにもさすがに解らなくなってきているよ。彼女が心変わりをしているかどうかはね。やっぱり亨くんなら家柄に問題がないし、源蔵様の後を継ぐなら相手はそれなりの人をって考えてるのかもしれない。それだけは本人に聞かないと……ただ彼では彼女を止められない。彼は結局イエスマンになってしまうから」
心変わり、という単語が嫌に重く圧し掛かってきた。
人の心は移り変わる。そういうのも確かにあるのだけれど。
(まさか、玲華が……?)
とても信じられない。
だけど俺の鼓動が速くなっているのは確かだった。
「あ。一周した」
ようやく最初に見たゴールドの門が見え出してきたのは、このときだった。
誤魔化すように腕時計を見ながら話を変える。
これは時間を示すという役割以外のことを以前はしていた。その部分はすでに久保田さんの手によって取り除かれている。
「時間を計ってたの?」
「まあ、なんとなくだけど……。三十五分もかかるんだ。やっぱでけー家」
「……おもしろい人だね、きみは」
どこか苦笑混じりに比絽が呟いた。ほっといてくれ。
* * *
比絽は連絡先を教えてくれて、あのまま別れた。何かあれば連絡していいよ、と言っていた。
ようやくあのとんでもない家への足がかりが出来たような気がする。
比絽の出現は心強くもあったけど、その話の内容にまた思考がもっていかれていた。
何の計画かは教えてくれなかったけど、綾小路との婚約を否定しなかった。
(家柄……)
俺には遠い昔の話だと思っていた。一緒にいて驚かされることも稀にあるけれど、価値観の相違はそんなになかった。
耐えていたのだろうか、彼女は。
「おまえ本当にどうしようもない奴だな、神崎」
相変わらず部室のソファでごろごろしている俺に、気づくと世羅が近寄ってきていた。
腰に腕を当て上から見下ろされる。
もともとキツイ目つきなのが、さらにつりあがっていた。
「そんなに溜まってるのなら運動部にでも入れ。その方が幾分人の為になる」
溜まるってなにがだ、と憤然する。
突っ込んでも良かったけど、とくに言葉にはしなかった。世羅なりに気を遣っているのかもしれない、そう思ったから。
だからといって、以前の玲華と同じようなことを言わなくても、とも思う。
「おまえは平気そうだよな」
「当たり前だ。馬鹿なおまえと一緒にするな」
「バカ?」
「露骨に辛いって顔にかくなってことだ。私に嫌味だとは思わないのか」
「…………」
嫌味?どこがだろう。世羅の言っていることが解らなかった。
世羅は女性だけど玲華が好きなんだ。それで俺のことを煙たがっていた。それなのに図々しくここにいることが嫌味なんだろうか。
「じゃあ、見るなよ。俺の顔なんか」
「本当に阿呆だな!まったく!玲華もなんでこんな男なんか心配してるんだか」
「え?」
言葉の裏に隠された何かに気づいて俺は顔を上げた。
心配してる?現在進行形で?
「おまえ玲華と連絡……」
「玲華から伝言だ!余計なことするなとな!」
それだけ言い放つと世羅は踵を返した。自分の机に戻るために。
それを俺は追うために起き上がった。
「ちょっ!なんだよその伝言って」
「言ったとおりだ」
「なんでおまえには……いや、それより余計なことって……」
「土曜日本家に行ったんだって?ちゃんと玲華は知っていたんだよ」
目の前が真っ暗になった。
玲華だけがなにもかもを知っていて、俺はなにも知らない。
そして玲華は止めるのか?俺が動くことを。
「世羅さま。やめてください。もう言わなくてもいいでしょう」
ずっと見守っていた秀和が遠慮がちに口を挟んでいた。
でももう遅い。
すべて伝え終わった後だ。
「つまり玲華にとって俺は、やっぱり……」
足手まとい。迷惑をかけつづけているのか。
イレギュラーな存在と理事長は言った。それは異端。いてはいけない者。
なぜだろう。悲しみより怒りがこみ上げてきていた。
「勝手なことを!俺に何の説明もなしでそんなこと世羅に伝言するなんて」
何を考えてるんだろう、玲華は。
わかってるつもりでいたのに、全然中身が見えていなかったのか。
「おまえまさか、玲華に怒ってるのか?」
一旦席に戻った世羅が、再び俺に近づいてきた。腕組をしたまま軽蔑の色を滲ませている。
「他に誰がいるんだよ!あいつの行動は勝手なことばかりだろ!」
「自分が見抜けていないだけだろう?私には玲華らしい行動だと思うが?」
「知ってる余裕かよ!」
俺より多くの情報を持っていて、さらには連絡まで入ってる。無視されてる俺とは違う。
「少しはマシになったと思っていたが、やはりおまえは周りの見えない馬鹿だな。玲華はおまえの精神安定剤か?たった半月会えなくて効果が切れるのか?」
すでに、戻ってるのか……俺は。
気づけば怒鳴ることを抑えることさえ忘れている。
「くそっ……!」
このままここにいてはいけない。
それだけが俺に出来る精一杯の対策だった。
誰もいない廊下を走る。身体中が火照るように熱かった。怒りで血圧が上昇してるのかもしれない。
少しでも紛らわせるために不必要に全力で走った。
「あ、悠汰くん」
昇降口にいつものように京香が立っていた。一緒に帰ろうとしているみたいだ。
少し走っただけなのに息切れがする。
そんなことを気にしている余裕はなくて、俺は京香に迷いなく近づいた。
「おまえ、綾小路の家知ってるか?」
やはりあいつには話を聞かないといけない。
「亨くん?知ってるけど、行っても会えないと思うよ。それに居ないんじゃないかな?いまは」
いないということは、あいつは玲華に会いに行っているのか。
(逢いに……)
逢って、なにをしてるんだ?
「それよりどうしたの?そんな険しい顔して」
京香が俺との距離をつめてきた。
鏡がなくて確認はできないけど、そのときの俺はものすごい形相をしていたと思う。
「なんでもない」
伸ばされた京香の右手を避けるように顔を背けた。
利用はさせない、噂になどになってはいけない。理論を考えるより前に、直感的にそれだけを思う。
帰る、と一言だけ言い残してまた俺は走り出した。
頭にあったのは比絽のことだった。
それにはどうしたって家に帰るしかないんだ。電話にしろメールにしろ連絡手段も連絡先も家にあるのだから。
生まれて初めて、早く家に帰りたいと思った。
頼れるのは結局比絽しかいない。唯一協力してくれると言ってくれた人だからだ。
* * *
緩やかにでも確実に気温は低くなっている。
立っているだけで汗をかくという不快指数最高潮の真夏ではすでにない。
それどころか昨日の雨が止んで、空が晴れわたって清々しい。
街では入り乱れた季節感。
いち早く流行を取り入れた女性などは、すでにブーツに秋物の風体でいるが、少し視線を外すと未だに半袖Tシャツ一枚きりの男性もいたりする。
(なんでこんなとこに……)
俺は比絽の携帯電話に直接かけた。講義がつまっているということで、水曜日のこの日になり、比絽の大学の近くのこの場所を指定されたのだ。
真昼の繁華街のオープンカフェ。
まだ学校では授業中だ。学校を抜け出してきたから制服のままで、不審そうに店員に見られた。
今週から衣替えがあって、龍のシルエットをした校章が左胸に縫いこまれているブレザーの制服は、じんわり汗をかきそうなくらいちょっと暑い。
暑さだけじゃないかもしれない。この居心地の悪さが問題だ。なにせ高校生が行くにはお洒落で、高級感が溢れている。
体がだるくて、背もたれに預けたまま待っていると、十分くらい遅れて比絽が来た。
「ごめんね。学校休ませちゃったね」
相変わらずカジュアルで、長袖Tシャツにジーンズだった。身軽そうで羨ましい。
「いや、そんなんは全然……」
授業なんて今更どうでもいい。正直いまはこのことしか考えられないのだ。
ウェイターが注文を取りに来て、比絽はキャラメルラテを注文していた。
甘そうだな、と考えていたら、おかわりは?と比絽が聞いてきた。すでに一番安いアイスコーヒーを頼んで飲み切っていたのだ。
いらないと首を横に振り、それよりと続けた。
「俺こそすみません。忙しいのに」
この人にはこの人の生活があるんだ。そこだけは忘れてはいけない。
「いいよ。玲華のことだよね。きみがわざわざ連絡くれたのは」
「そうなんだ。あいつ余計なことするなとか言ってるみたいで、よくわかんなくて……。比絽なら何か知ってるかなって」
自分で思っていたより情けない言い方になった。これでは愚痴ってるみたいでなんか嫌だ。
それなのに比絽はまったく気にしてなさそうだった。
だけど穏やかな表情が少し悲しそうに下がる。
「とうとう恐れていたことになったよ」
その変化にドキリとなった。
「なに?」
「まず順を追って話そうね。ここだけの話で、まだ公にはなっていないけど、源蔵様がお亡くなりになられた。これで彼女はさらに追い込まれていくよ。後ろ楯がなくなったからね」
なんだ、その展開は。
俺は目を大きく見開いた。名前も数日前に初めて聞いて、顔も知らない人の死は、実感なんてあるはずがなかった。それでも、玲華がもっと危険になるっていうところだけが、俺にとっては衝撃的で。
「それからね、これは前回会ったときに言えなかったんだけど。彼女に夜這いをかけてレイプしようとした者がいる。それは彼女の父親の弟の子供なんだ。つまり彼女には従兄弟にあたる。その彼が昨日殺された」
「――え?」
淡々と語る比絽の言葉は、注意して聞かなければ頭に入ってこないものだった。
それでも鋭く感覚に突き刺さる単語。
可能ならば、耳を塞ぎたい。もうこれ以上なにも聞きたくない。
(玲華に……なんだって…………?)
そしてその張本人がすでにいない?
俺が呑気に学校なんて平和で穏やかな空間にいる間にも、確実に玲華には大変なことが起こってるんだ。
「紐で首を絞められてね、絞殺だって。残酷なことするよね。その人、幸祐くんっていうんだけど、すごく無念そうな顔だったな……。こちらも公にはなってないけれど、皆彼女を疑ってしまっているんだ。復讐をしたんだって」
首を絞められる恐怖。
それは俺も知っている。
無念そうな死体の顔も、見たことがある。そのときの事が思い出されて、俺の手がカタカタと震えだした。
比絽の顔が見れない。でも変わらない声質で彼は淡々と続けていく。
「もちろんぼくは信じてないよ。……でも、だったら誰が?っていう疑問は確かに残るんだ。現場はあの家の地下室でね。玲華は自分になにかしてきた者たちをばんばんそこに送っていたんだ。地下室は牢屋になってるからね」
ちゃんと聞かないといけないのに、頭がうまく整理できない。もっと深く尋ねたいこともあったのに声が出なかった。
俺のなかの玲華と、比絽が話す玲華が一致しない。
これはここ数日で彼女が変化したためか?それとも俺の知らない玲華の部分なのか?
「なにが言いたいかわかるかい?地下室はそのとき玲華が支配していたんだよ。他の人は入れなかったんだ」
「でも玲華はそんなことしない」
やっと言葉に出来たのが、その一言だった。
どうしても信じたくない。
「もちろんぼくもそう思う。……いや、そう思いたいよ。ただ彼女にはいろいろ取り巻きみたいなのがいるからね。護衛と称して強引に連れ込んだ部外者も一人いる。彼女自身がなにもしなくても、彼らなら可能かもしれない」
取り巻きが勝手に?
それならば玲華でさえ振り回されてるんじゃないのか。
「…………なあ、俺を中に入れてくれるってやつ、いつ実現する?」
「それでも玲華に会いたいと?」
「ああ。早く会いたい。早く真実が知りたい」
それだけが唯一のやるべきことだ。
最初に理事長に告げた“会いたい”と、たとえ意味合いが少し変わっていても、玲華に会わなければなにも始まらないし……終わらない。
他人に安心感を与えるような、大人の笑顔をして比絽が言った。
「じゃあもっと深く計画を練るよ。誰にもばれずに玲華の部屋まで行ける方法をね」
「悪い」
いまは比絽に頼るしかないんだ。一人でするにはあまりにも中のことがわからない。
彼は少し考え込んでから口を開いた。
「じゃあさ…………明日もぼくは一日講義で埋まっちゃってるんだけど、夜なら空いてるんだ。それまでに考えておくから、そこでぼくの計画を話そうかな。悠汰くんは夜とか大丈夫?」
夜……。
少し前まではバラバラで不在がちだった親が、夜には二人とも揃っている。いるのかいないのかわからないような存在だった兄も、いまはちゃんと俺のことを視野に入れてる。
僅かにそういったことが頭を掠めたけれど、他のことはどうでもよくなっていた。
「そうだな。早い方がいい。なにがなんでも行くから」
玲華に会えるなら俺は行かなければならない。
死んでも、止まりたくないことだけは確かだった。
* * *
子供の頃からなにも変わってないよ、と比絽は言った。
ぼくたち子どもは、大人たちが様々な密談とか交流をしているときにね、よくあの家の庭で一緒に遊んでいたんだ。
――ああ、そうだね。世羅ちゃんとか亨くんもその内に含まれるよ。親戚だけじゃなかったんだ。
想像つきそうだと思うけど、その中心はいつも玲華だったよ。お山の大将なんて似合わないけどね、まさにそれ。で、世羅ちゃんが片腕みたいにぴったりくっついてるの。
でも強引なところはあったけど、強制的ではなくて、なんていうかな……みんな気づいたら玲華から離れられなくなるんだよ。魅力っていうのかな。
その中にでもやっぱりそれに嫉妬や羨望なものでみるものは出てくる。それがね幸祐くんだったな。女の癖に生意気だーとか言っちゃって。
あまりにその反感が強いから、玲華が言ったんだ。
「じゃあこのドリルやって、いいテンとったほうが正しいってことにしましょ」って。
たしかそれは幸祐くんの宿題のドリルだったかな。
あのとき玲華は小学二年生で幸祐くんは五年生だったよ。――そう、幸祐くん亡くなった彼だよ。
家庭教師をバリバリつけて英才教育をしていた玲華は三学年も上の勉強もすでに教わっていたんだ。それでね、なんと幸祐くんに勝っちゃったんだ。
あれはまずいなってぼくはいまでも思うよ。だって幸祐くんのプライドはズタボロだろう?
「そんなのどーでもいいからさーいっしょにあそぼうよ。そのほうがたのしいよ」
そう言いながら、ドリルを投げ捨てて笑った彼女は力強かったな。
玲華はあのときからどこか人を操る術を知っていたんだね。幸祐くんは彼女の笑顔で素直に輪に入っていってたんだ。
だけどそれは上辺だけだったのかもしれないね。負けた彼は従うしかなかったんだ。
だってそうだろう?
あんなに歪められた性格に育ってしまったからこそ、彼は死んでしまったんだ。あのまま素直さを持ち続けてたらさ、今回あんなことしてないよね。あんな非道なことをさ。
そしたら地下に閉じ込められることもなくってさ、彼はいまも生きていたと思うんだ。
だからさ。
だから、と比絽は一旦口を切った。
そして俺のほうを見た。
「だから彼女の存在は罪だよ」
ぼんやりと俺は比絽の話を聞いているだけだった。呼び出されたバーが、お洒落な雰囲気だったのも手伝っていたのかもしれない。
どこかチカチカとしたものが目の前にぼんやり光っていた。
意識とか感覚がどこか遠くに飛んでいく。
何も感じられなかった。
「本人は自覚しているのかな。彼女の近くにいるとね、離れられなくなる症状が出るよ。まるで良くないクスリの禁断症状みたいだよね。依存と快楽でさ。でもそれは自覚されることなく染み込んでいくんだ。世羅ちゃんとか亨くんがいい例だよね。今でも絶対的な存在として玲華のことを見てるだろう?でもだから、親戚の子どもたちにとっては良かったのかもしれない。その後、薫さん……玲華のお父さんがあの家から離れたことによって強制的にだけど、それから離れられたんだよね」
「じゃあ比絽も?」
「もちろん。彼女の魅力は眩しかったからね。焦がれていた部分は否定しないよ」
だから俺は玲華に操られていたんだ、と比絽は言った。
こんなふうに俺がいま彼女に会いたいと思うのは、その禁断症状だよ、って笑って言った。
話の内容もこの場所も、それから玲華も全てが遠くに感じる。
説得力とか、信憑性の有無だとか、そういうの全てがどうでもよくなっていた。
(なにしてるんだっけ……)
アルコールはそんなに入っていないのに、すごく前後の起伏が乏しい。
ここに来て三十分ぐらい経って今頃、家から出てくるときに見つかった兄貴の顔とかが思い浮かんだりしていた。
兄貴は止めてきた。こんな時間にどこ行くんだって。
俺は腕時計を見る。クロノグラフの針が十一時三十分を差していた。
気をつけないと終電……、と少し後から思う。
「コントロールされないでね」
比絽が念を押す。
コントロールという単語がひどく心に障った。なにかあるんだっけ……。それもよくわからない。
「大丈夫だ」
あまりも根拠もないことを俺は答えた。まるで合言葉として用意されたもののように。
「そうかな?あまり他人を信じたらいけないよ。つけ入られるからね。きみはそういうところ素直そうで心配だな」
心配だと、他にも最近別の人から聞いたような気がした。既視感。
それがいまの俺には思い出せない。
「そんなことねえよ」
そんなにすぐ他人を信じたり出来ない。疑惑はすぐに感じるんだ。
信じていたら、いま俺はここにはいないだろう。
玲華を、信じていたのなら――。
「いつがいいかな?」
カルーアミルクを飲みながら比絽は話を元に戻した。
比絽は甘いものが好きなようだ。
「計画……」
そう、計画の話をしにきたはずだった。ここへは。
全てが……まわりの景色だとか人の顔だとかがぼんやりとした感覚にいるなかで、唯一はっきりしていることがある。
俺は、あのでかすぎる家に忍び込み玲華と会う。
何がなんだか分からなくなる前のたったひとつの想いは、まるで義務的にそれだけは捨てられないでいた。
「そう計画だよ。いつ実行にうつす?」
あくまで俺に決めろと、比絽は言っていた。
俺が決意したうえでやらないと失敗するかもしれないから、と。
「いつでもいい。……いや、出来るだけ早く」
「じゃあ明日にする?」
「え?」
すこしドキリとした。あまりに指定された日が早くて。
可能なのか。
どうやらすぐにでも“セキュリティーを操作すること”は可能らしい。
「ぼくはコンピュータールームに忍び込むよ。それで一部だけ切り替えておく。その隙にきみは中に入るんだ」
それが比絽が言った計画だった。
あまりに簡単なことのように比絽が言うから、俺もそれがどれだけ無謀なことだとかは考えなかった。
中のことは想像がつかないということもある。
だが。
「絶対誰にも見つかったら駄目だよ。どんな制裁が下されるかわからない。法的な不法侵入罪とは訳が違うからね」
そう言うってことは事を起こすことより、見つかった後の方が厄介なんだろう。
「わかった。んじゃあ明日」
そんなに気負うこともなく、俺はすんなり答えていた。
* * *
決行は深夜。
当たり前といえば当たり前だけど、それを聞いてから落ち着かない自分がいた。
丸一日空いてしまうことが残念だった。
明日じゃなくて今夜、と答えれば良かったのかもしれない。
(そうすれば、家に帰らなくても良かったのに……)
あれからやっぱり終電の時間は過ぎて、そしたら比絽がタクシーを拾ってくれて、そのお金も負担してくれた。
比絽はカフェのアイスコーヒー代もバーのカクテル代も、こちらが何か反応を起こす前に払っていてくれていた。
そういうの悪い、という気持ちは残ってて、なんとかしようと思ったんだけど……。
全部自分が誘った場所だからとか、自分が時間忘れていたからと、のらりくらりとかわされて、財布を出す暇さえ与えてくれなかった。
で、帰ったら二時くらいで、兄貴が起きていてまた見つかった。
「どこに行ってたんだ」
わざわざ部屋から出てきて、廊下で訊かれた。
別に悪いことなんてしていないのに、ちょっと顔が見れなくなっていた。家でしかかけない眼鏡の奥が直視できない。
俯いたまま答える。
「べつに……友達と会ってた」
言い訳のように友達、という言葉を使ったらやっぱり違和感が残った。
比絽は友達じゃないから。
(じゃあなに……)
比絽は何。
計画の共犯者?協力者?先導者?
どれもピタリと当て嵌ってくれない。
「酒を飲んでいたんだな。あまり顔色が良くない。なにかあったのか?」
たて続けに訊いてくる。
苛々していた。意識が不明瞭なままでもはっきり感じる窮屈さ。
「今までほったらかしにされすぎたせいかな……。そういう過干渉、すごくウザイ」
自分でもこんな低い声が出るんだ、と思うような怖い声が出た。
でもそれを自覚する前に部屋に入ると、兄貴はそれ以上突っ込んでは来なかった。
散らかった部屋で頭を抱える。
計画の話以外、なにも思い出せないのに気づいた。思い出そうとも、思わなかった。
無いなら無いでいい。
その程度のものだ。
ただ抱えた頭がキリキリと締め付けられるように痛み出した。身体中の関節も軋むように痛い。それから胸焼けのように吐き気が伴って、すごく不快だった。




