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第四章 ・・・ 8

「なんで突然やめたんだ?源蔵さんとの話」

「あのままあそこにいたら、あんた間違いなく怒鳴ってるわよね。駄目よ、お祖父様は度胸がある人が好きなの。お祖父様にたて突けばたて突くほど好かれるのよ。しかも裏切らないで、たて突く人よ。あんたぴったり当て嵌まっちゃうの。そんなとこ見抜かれたら、もう一騒動起きるのは目に見えてるわ」

 っていうやり取りを廊下に出るや否やした。

 玲華は常に先のことを考えていて、本当に偉いと思う。当人から言わせてもらえば、好かれている気はこれっぽちもしないんだけど。すごい睨まれてたし。

 それから俺たちは、会が始まるまでロビーの隅っこにあるソファで休みながら待っていた。

 そのときに毅さんの動機に繋がるだろうことを教えてもらった。

「あの人、ずっと遺言状を探していたと思うの。どれだけ手を尽くしても見つからないから、お祖父様と共に眠ってると考えたのかもしれないわ。だからお祖父様の遺体が置いてある場所へ、椿原さんに案内させたかったのよ」

「……って、え?まさかそれだけのために、自分の子を……」

 いくらなんでも違うだろ?

(でも……)

 弟にだってあれだけ冷たい目を向ける人だ。まさかと思うと、ぞっとした。

「今回の条件に法を犯した者には相続もしくは遺贈させないってあったの。一般的には当たり前のことだけどね。それでも殺人が起こったことがポイントだと思ったのよ」

 こういう説明を俺にしてくれるときに、とくに疲労感がその表情に表れている。言わせない方がいいのかもしれない。だけど玲華は続けた。

「それでも殺人を犯してしまった犯人なら、もっとばれにくくすると思う。死体を隠すとか……。だけどそれが理由なら隠す必要がなくなるわ。むしろ見つけてほしいのよ。そこに違和感にもたれないようにするには、牢屋の中にいて隠せない状況だった人を狙えばいい」

「だからって……」

「毅叔父様も幸祐のやらかしたことが不祥事だと思っていたのね。稔叔父様はまだなんとか戻れると考えていたようだけど、毅叔父様には終わりが見えてしまったのかもしれないわ」

「…………」

 だからせめて自分の手で我が子を?

 そういう、ものなんだろうか。父親の心理というものは。

「間違ってることだとあたしは思うわ」

 片手を俺の腕に添えて、玲華は俺を見た。

「でも揉み消すなら、お祖父様が稔叔父様に伝えた理由が表向きなものになるでしょうね」

 そうか。そういう意味で稔さんも尋ねたのか。

 毅さんを候補から外す理由。

「玲華」

 俺たちの空間と化していたところに、一人の女性が近づいてきた。

 メイクが派手で、露出度も高い若い女性。ちょっともの憂げに立っていた。

「杏里」

 呟くように玲華が呼びかける。この人が稔さんの元彼女で幸祐とも関係をもった人。

 なんか知らないけど、なるほどと納得してしまった。

 俺は一瞥しただけなのに、この女性はジロジロと俺を見てきた。品定めされてる気分になる。

「ふーん。この人があんたのカレシ?」

「なんだよ?」

 意外だ、なんてまた付けられたらたまらない。自分から口を開いた。

「うん、そうよ。……悠汰」

 なぜか隣で玲華が焦っている。そしてこっそり耳打ちした。

「悪気はないの。変な喧嘩売らないで」

 俺が売ってんのかよ、この状態は……。なんか理不尽。

 それでもこの家の人に睨まれたら玲華にも迷惑かけると思い、抑えることにした。

「あなたもいたのね。お祖父様の部屋で会わなかったから知らなかったわ」

 完璧でいて、そつのない笑顔を玲華が向けると、杏里は抵抗の欠片もなく俺たちの前に座った。

 足を組んでダルそうにしている。

「後ろの方にいたからね、解散直後に出ていったし……。稔さん、さっき帰ったよ」

「そうなの。話、したの?」

「うん。……それで、もうあんたとも話していいって言われたからさ。ごめんね、シカトしてて」

 まったく笑みを見せないけれど、その内容は否定的なものではなかった。

「やっぱり稔叔父様に箝口令敷かれていたのね」

「そうよ。最初は余計なこと言うなっていう一言だけだったんだけどね。玲華が来たときの会話、聴いていたんだって。ベラベラしゃべると、言う気がなくても玲華は嗅ぎとるから会うなってさ。酷くない?お喋りな女扱いしてさ」

 いや、いまでもすごい勢いで喋ってる。稔さんが正しい。

 口を開きだすと、すでにアンニュイな雰囲気は払拭されていたから不思議だ。

「ちょっと!いま同感したでしょ!言っとくけど今は抑えられたのが解き放たれたから特別なのよ!」

 すかさず俺の顔色を読んで、ビシッと突き付けられた。こういうところ、玲華の血縁者だな。

「えと、二人はやっぱり、付き合ってたの?」

 どこか遠慮がちに玲華が訊いた。

「あの人があたしなんか相手にするはずないでしょ」

「え?そうなの?」

「あんた、あの人のこと、女なら誰でも良いって思ってない?」

「違うの……ね」

 鋭く突かれて、玲華は力ない笑みをみせた。なんか玲華が圧されているように見える。珍しい状態だ。

「そういう節操のなさは幸祐だけよ。あたしは助けてもらっただけ。幸祐と一緒に堕ちていったあたしをね。必然的に好きになったけど諦めたわ」

「堕ちた?」

「もう知ってるんでしょ?クスリ」

 僅かに気まずそうな顔で言った。

「あたしはまだなんとかなったけど、あいつ根性ないからね」

「そういえば……あなた、幸祐様のところに行ったんですって?」

「そう。クスリ持ってこいって稔さんじゃない、あたしに言ってきてたの。あたしはもう手を貸すつもりも無かったからさ。断りに行ったんだけど……」

 不意に彼女は黙った。でも俺たちはその先をもう知っている。

 毅さんを見たんだろう。玲華はそう、とだけ返していた。

「あとね、あなたをつけて怖がらせたのも稔さんだって。ごめんねって言っといてくれって言われちゃったわ」

「ああ……。確かに一度あったわね。現場から立ち去るときに」

 思い出しながら玲華が呟いた。

 ここは聞いていなかったところだ。淡々と説明されたけど、やっぱり怖い目にいろいろ遭っていたみたいだ。

 でも、忘れていたわと続けた彼女から、それが本音に聞こえた。

 忘れるか?普通。

「まあ……そういう事情だから。気にしてるって聞いたし、説明だけしようと思って。なにか知りたいことあるなら、いまだけ話してあげるわよ」

「だいたいわかったわ。ありがとう」

 盗聴で知った事実と統合し、玲華はそう結論づけた。俺としては怖がらせたってときのことを、もっと知りたかったんだけど。

 あっそう、とあっさり杏里が立ち上がると、あわてて玲華も立ち上がり改めてお礼の言葉を言う。

 そして去り際に杏里は初めて笑みをみせた。

「あたしはあんたたちお似合いだと思うわよ。性根が同類だもんね」

 だけどその内容はどういう意図なのか不明だった。俺は眉を潜め、玲華は見送りながらゆっくり座る。

「なんかお姉さまって感じね」

 二人きりになるとそう本音をこぼした。

 それについてはなんとも言えない。逆にいまのやり取りの、どこで引っ掛かったのか謎だ。とりあえず玲華は良い意味にとったらしい。

 俺はふと疑問が生まれて、そのまま口にする。

「そういえば毅さんはなんで拳銃を使わなかったんだろう」

 わざわざ紐で絞殺なんて。あの人ならあっさり拳銃を使いそうだ。

「拳銃を持っている人は限られているわ。杏里に脅すような口止めをしていたって言うし、すこしでも疑惑の目が向けられる可能性を減らしたかったんじゃない?」

 玲華がまた、厳しい表情になった。やっぱりやりきれない想いが拭えないようだ。

 しばらく俺は余計なことは言わなかった。少しでも気持ちの整理する時間をやりたくて。

 そうこうしている内に、千石さんが近づいてきた。

「玲華様。源蔵様がお呼びです。控え室まで来るようにと」

 あの人、まだ諦めてなかったんだ。どうしても玲華を隣に置きたいようだ。

 玲華はため息をついた。

「仕方ないわね、行ってくるわ」

 俺を見ながら立ち上がる。

「え……行くのか?」

「話を聞くだけよ。わかってると思うけど先に帰らないでね、悠汰」

 そう言って彼女は、千石さんとともに本当に行ってしまった。



 説明会と称した立派な大会場の壇上に、玲華は結局付き合っている。そう、源蔵さんの隣に座っていた。

 それも俺のためと思うとちょっと情けなくもある。今後、大事(おおごと)にならないように、我慢してあそこにいるんじゃないかと思えた。そんな大袈裟なことじゃないわよ、って笑っていたけど。

 俺は家のことは関係ない人間だし、ちょっと離れた場所からそれを聴いていた。

 ところどころで毅さんとか清志郎さんとかが怒鳴っている。

 玲華は本当に隣にいるだけで、澄ました顔で何も言わずに、源蔵さんとか椿原さんに任せていた。

 なんか……。これを見ている限りでは、説明会というより、苦情受付会になってる。

 それでも軽食とか飲み物とかバリエーション豊かに用意されていて、まったく雰囲気は違うけど、世羅の家のパーティを思い出した。

「よお。電話したか?」

 同じように無関係で爪弾きされている久保田さんが近づいてきた。

 実は会が始まる前、玲華に携帯電話を渡されていたのだ。

「どうせ連絡まだしてないんでしょ。これ貸してあげるから、心配かけてる人にもう大丈夫だって報告しなさいよね」

 偉そうにそう言いながら……。

 なぜそれを久保田さんが聞いているんだよ。そう思いながら答える。

「まだ」

「だらしねえやつだな」

 こいつも偉そうだ。

「おまえは祥子さんにしたわけ?」

「まだだ」

「一緒じゃねえか!」

 まったくもう……。どうしてこいつは俺に偉そうに言うのを、生きがいみたいにしてるんだろう。

 実は拓真に真っ先に掛けたんだ。一番心配してるだろうと思って。でも、話中だった。

 よく考えれば今日は金曜日で平日だ。いま頃はきっと、部活中だと思う。

 ちゃんと玲華が拓真にメールで伝えていたし、心配はさほどしてないと思う。

 あとは自宅なんだけど……。

(つーかさ、なんで玲華まで兄貴の連絡先知ってんだよ!)

 そう、電話帳のか行を表示させると、ウチの自宅の番号の下に兄貴の名前と、十一桁の携帯番号とメールアドレスまで登録されていたのだ。

 これに関してこそが“いつの間にっ?”というのに相応しい。

 俺が知る限り、番号を交換しているところは見ていない。つまり、俺のいない間に二人は逢っていた日があるということだ。これは問いたださないといけない。

 衝撃が強くて、そこから携帯を閉じたから、まだ掛けることが出来ていないという流れだ。

 俺だって知らないのに、兄貴の番号。

 携帯を持っているのは薄々感づいていたけれど、きっと親の目をごまかして契約したんだと思う。兄貴はそういう巧妙な手が得意だから。

「おまえって意外と頑丈だよな」

 久保田さんが壇上に視線を移したままそう言った。

 怪我のことだと思った。確かに結局ひどくなってないし、完治したも同然だから。

「良かったよな、俺が頑丈で。殺人罪にならなくてさ」

「ああ。本当に良かった」

 皮肉として言ってやったのに、真面目な顔して久保田さんが肯定した。

 少し意外な反応だ。それに戸惑いを感じて顔をしかめる。

「でも言っとくけど傷害罪には間違いないからな!」

「おまえは不法侵入罪だな」

「どっちが重いんだ?」

「……一般的には傷害罪だ」

 硬い声のまま、それでも答えてくれた。ふうん、としか返せない空気だ。

 謝りにくいことこのうえない。

「あれ?なんで俺が謝らないといけないんだ?」

 不意に思ったことをつい口にした。

「はあ?」

「なんか謝らなくちゃいけないと思い込んでいたけど、でもよくよく考えたら、俺は謝らないといけないことは何もしてないんだよな?」

「おまえ……打ち所が悪かったのか?」

「まあいいや、玲華には謝ったし。久保田さんは玲華のついでだもんな。だから久保田さんも謝らなくていい」

 独り言から久保田さんに向かって言う言葉に流した。

「オレがなんで謝るんだよ」

「本当は気にしてたんだろ?でももういいから。終わりよければすべて良しだよな」

 いい言葉だ。本当に。

 おそらく久保田さんは謝らないと思った。たとえどんなに後悔していても、仕事としてやったことだから。そこには真情を挟まずに納得したうえでやってるから。

「おまえさ……何を思ったかは知らないが、謝ろうと思ったんなら素直に謝った方がいいぜ」

「嫌だ。なんか損した気分になる」

 俺だって後悔はしてないんだから。謝ったら無駄なことをしたって認めたことになりそうだ。

 俺はなにもしてない。暴れて捕まって一緒に逃げただけだ。そういうところが頭の片隅にあったりするから、余計に認めたくなかった。

「強くなったな」

 なんの前触れもなく久保田さんが言った。

「何度かもう駄目だと思った。だけど悠汰は持ちこたえた」

「よほど弱いやつだと思われてたんだな」

 なんか失礼だ。つい拗ねたような顔をしたら久保田さんは俺を見た。

「自覚してないのか?自分の変化に」

「……どこが?」

「そこは相変わらずだな」

 薄く笑みを浮かべられた。

「いま馬鹿にしただろ。それだけはわかる」

 ホントに、不思議だけれどそういうところは敏感みたいだ。

 こんな会話をしていると理事長がやってきた。

 そうか、この人もここでは無関係な人物にされてるんだった。

「やあ。久保田君今回はどうもありがとう。玲華から聞いてるよ。君には感謝の言葉をいくら並べても足りないな」

「いえ、仕事でしたので……」

「依頼料を支払うから、これが終わったら(うち)に来てくれるかな?」

 なんか大人同士の話になった。

 俺は途端に居辛くなる。とくに理事長に合わせる顔が無くて。

 それで下がろうかなって思ったとき、理事長が俺を見た。

「良ければ神崎君も一緒に。夕飯をご馳走したいんだ」

「え……?」

 嫌われてなかった。ここで無視されてもおかしくないのに。でも、それはありがたいんだけど、いきなりな展開で戸惑った。

「ではお言葉に甘えて。請求書を作成してから伺います。悠汰、おまえもいいだろ?」

 さくさくと久保田さんが進めていった。

 それで断る理由もなくて俺も頷く。

「結局誰が継ぐんでしょうね」

 また舞台上に視線を移して久保田さんが呟いた。

「さあね。でも父の中ではすでに順位は決まっているだろう。その胸中は直前まで誰も知られることのないままね。あの人のことだ。自分が動けるうちに決断し、引継ぎしていくだろうと思えるよ」

「本来であれば、こんなやり方を通す人ではなかったということですか?」

「そうだね。私はずっと腑に落ちなかったが、話を聞いてようやく納得したってところかな」

 理事長は軽く笑っている。自分も辛かったはずなのに。この人には辛いことが何度も起こってるはずなのに、それでも笑えるってすごく強いことなんだ。

 俺が求めていくのは、そういう強さじゃないといけないんだって、思った。


   * * *


 すべてが終わった。

 そう実感したのは玲華のうちについてからだった。時間にして夕方四時半。

 いつまでも終わりそうもない会を途中で切り上げ、強引に帰ってきた。あのまま残っていたら、身内のパーティになだれ込み、抜け出せなくなるんだそうだ。

 どういう空気の流れかは解らないが、とりあえず帰る直前には源蔵さんがすべてを押さえ込み、和やかなものに変化していた。というより毅さんや清志郎さんといった、主に怒っていた人たちが先に帰ってしまったせいだと思う。

 帰るや否や、小百合さんと玲華がひとしきり抱き合っていた。

 こんなにわかりやすく両親に甘える彼女って、実は珍しかった。いつも自分でなんでもやってしまうし、この家では玲華が一番しっかりしてるんじゃないかと思ったこともあったし。

 久保田さんは一度事務所に戻っていて、まだ到着していない。

 そして夕食の準備が出来るまで、応接間にいるように勧められた。玲華の両親と玲華と共にいるから、俺がその間に入っていいのかなと恐縮してしまう。

 しかも話の内容が比絽のことだったりする。

 理事長が小百合さんに詳細を話していたのだ。

 居心地が悪いなんてものじゃない。

 でもみんな何も言わないから、その場所から離れず、俺はジッと黙って聞いていた。

「でね、彼と二人きりで話したんだ」

「そうだったの」

 どんな話の内容でも小百合さんに変化は無い。いつものようにのんびりと構えているように見える。

 何も感じてないはずがないのに。凄いな、って素直に思う。

「ママになにも言わずに勝手なことをして申し訳ないけれど、これからのことは全て彼の望むとおりにしたいと思ってるんだ」

「そうね。それが良いわ。可哀相だものその子」

「お母様、本当にそれがどういうことか、意味が解ってて言ってるの?」

 間に挟む玲華は厳しい目を向けた。だけど理事長に責めるわけでもなく、小百合さんに諭そうとするでもなく、ただ現実を見ているだけのように見える。あまりにも小百合さんがあっさりしてるからだと思う。

 車内で見た玲華はどこにもいなかった。

「ええ。もちろんよ、玲華ちゃん。それでその子は何を望んでいるの?」

 小百合さんも伊達に歳を重ねているわけではなさそうだ。

 こんなこと言ったら、ぶっ飛ばれそうだけど。

「まだ混乱していたよ。すぐには難しいだろうね。今日は彼の不満を聞いて終わったんだ」

 それでも、比絽には前に進むきっかけになったと思う。

 それで良かったんだ、今回は。

「もしこのまま彼が立ち止まってしまうのなら、彼の母親にも会おうと思ってる。いくら成人を迎えたといっても、これまでがこれまでだったからね。私にも責任はあるんだ。話し合いが必要ならば、逃げるわけにはいかないよ」

「わかってるわ。それでもし彼が望むなら認知も惜しまないということね」

「すまない……」

「本当にそれでいいの?お母様。なにも怒らないの?」

 つい、と言った感じでまた玲華が間に入る。

「解ってると、答えたでしょう?ママはね、玲華ちゃんよりずっと早くこのことを知っていたのよ。いつかこんな日が来るかもしれないと思っていたわ。そのときは、その子のことを第一に考えようって決めていたの。だってパパの子よ。それには間違いないもの」

「お母様……」

 なんて、深い愛。

 理事長だけじゃない。理事長に関わるものすべてを認めているんだ。これが愛なんだと思った。恋と、愛の違いかもしれないって思った。

 俺は初めてそれに触れた気がする。

 それで、泣きそうになった。

(やべえ、な……)

 ここで関係ない自分が一番に泣くなんてありえない。それだけは自分が許せなくて、恥ずかしくて必死で耐えた。

 きっと一番強いのは小百合さんだ。女なんだ、いつだって。

「良かったわね、玲華ちゃん。この歳で兄弟なんてなかなかできないわよ」

「ママ……」

「お母様……」

 小百合さんの一言で、玲華と理事長がガックリしていた。俺としてもすっかり眼から水分が引っ込んだもんだから不思議だ。

 でも小百合さんはお構いなしで、ニコニコ笑って両手を合わせていた。

(ほんと大物……)

 いろんな意味で。

「あっ。でもまだいけるかもしれないわ。パパ頑張っちゃう?」

「もういいわよ!悠汰とあたしの部屋にいるから、夜ご飯できるまで呼びにこないで!」

 玲華がキレた。

 まあ仕方ない流れだと思う。思うのだが……。

(え……?)

 いいのか、それで。

 理事長の顔を確認したら、やっぱり顔面蒼白していた。

「待ちたまえ!部屋で何をする気だ、玲華!」

「なにもしないわよっ!なに考えてんのよ!馬鹿!」

 ああああ。

 俺のせいじゃない。これは決して俺のせいじゃない。

 だから恨まないでほしいんです、理事長……。

 でも玲華は俺の腕をつかんで強引にズカズカと歩く。

「いいのかよ、おいっ!」

「いいの!」

 こう言われたら、俺に断る理由はない。居心地も悪かったわけだし、すんなり玲華についていった。後ろで響く理事長の絶叫を聞きながら。


   * * *


 実は玲華の部屋って初めてじゃない。

 だけどそれは理事長が不在にしていたときのみだった。

「やっぱりこっちの方が落ち着くな」

「どうせね、本家よりは小さいわよ」

「いや、そこで卑屈になるのはおかしいから……」

 ここだって超がつくほどの大豪邸だ。あちらはそれに、スーパーとかデラックスとか加わるような物で、どちらも非常識並みであることに変わりはない。

 この部屋も本家ほど広くはないが、俺と兄貴の部屋を足しても余るくらいある。

 俺は勝手にベッドに座った。大きくて、俺が三人ぐらい余裕で寝れるんじゃないか。このまま寝たい気分になる。知らない間にも疲労は溜まっているみたいだ。

 頭が重たい。

「ねえ、比絽は認知なんか望むと思う?」

 窓際に置いてある白い花を愛でながら言う。ちなみに種類のことは俺に聞かないでくれ。

「イヤなんだ?玲華は」

「そうじゃないわ。ただピンとこなかっただけなの。眞奈美さんや笹宮様の感情も無視できない。比絽自身も、認知なんかされたところでそんなに得なことなんてないのよ」

「そう、なのか?」

「笹宮様だって分家の端っことはいえ、それなりの地位はあるの」

「確か比絽はそんなにお金持ちじゃないって……。運転手もいなかったし、俺は庶民感覚でいたんだけど」

 そのうえ奢ったりするから、余計に悪いと思ったわけだし。

「独立したウチよりは最終的に財産残るんじゃない?ただ、本人が気を遣って自分用には運転手を雇わなかったっていう可能性はあるわ。もしくはあんたに同情させようとしたかね」

「…………」

 そうだったんだ。最後の最後で、また騙されたって感覚に陥った。

 しかし玲華もよく把握してる。同じ高校生でいいんだよな?本当に。

 そう思ってると、ふっと玲華がこちらを見た。

「ねえ、どうしてお祖父様は全ての子どもを認知したんだと思う?」

「さあな……。子どもが好きだったからじゃないのか?」

 そんな深い問題、俺に理解できるはずがない。

「少しでも優秀な人材を得るためだと、今回のことであたしは思ったの。本当に好きっていうだけの理由なら養子でも良いじゃない?でも養子は一人もいないのよ」

「あ、そうなんだ……」

 って、認知と養子の違いってなんだ?

 俺の顔色を読んだのか、玲華はふっと笑う。

「相続するときに、認知だと養子の半分しかもらえないの。だからお祖父様は境界線を張りたかったんじゃないかしら。本当に認めた子が非嫡出子にいた場合、その子のみを養子にしようってね」

「はあ……」

 やばい。まったく理解ができない。それは言葉の意味でというよりは、その気持ちが。

「だから養子ならば、出生が誰からだろうと関係ないわよね。もし比絽が本気であの家が欲しいなら、お祖父様の養子になれば良いのよ」

 比絽の望むものが、あの家の権力や財産だった場合……か。

 でも比絽はそういうのは興味ないと言っていたような。まあ本音はわからないし、これから変わる可能性だってある。

「悠汰はどう?お祖父様の地位と名誉欲しいと思う?」

「いらねえ。あんなとんでもない人達を束ねるの、まず無理だし……。それに自分で築いた方が面白そうだ」

「ふふん、言うわね。でも同感だわ。あたしもそう言って最初に断ったのよ」

 そのときの玲華の顔が自信たっぷりって感じで、早くも俺は挫けそうだ。

(だから、その強気なとこがさ……)

 時においていかれそうになるんだって。そして、次には負けてられないって思うんだ。

 だけど同じ感覚というのは嬉しくもある。

「結局良かったのか?源蔵さんの思う通りにして」

 あんなに威勢よく反発していたのに。いまの玲華にはその威力が半減していた。

「うん。いまでも本音は揉み消すなんて良くないことだと思うわ。でもお祖父様には敵わないだろうし……」

「池田さんに話してみるか?」

 数ヵ月前に知り合った刑事の池田さんは、すごくいい人だ。力になってくれそうな気がした。

「駄目よ。本気で告発するつもりなら警視総監ぐらいじゃないと。……でもそれも無理ね、あの人お祖父様に頭が上がらないって感じだったし」

「警視総監?」

 いま、サラリとすごい一言を聞いた気がする。玲華も知り合いらしい。

(しかも否定的)

 そういえば玲華は一時期源蔵さんと各国廻っていたんだ。

「それに残された者の気持ちを考えるなら、誰も望んでないことをして意味があるのかわからないの」

 玲華が目を伏せた。

 それは稔さんのことじゃないかと思えた。

 俺には、わからない時を玲華は過ごしている。

 誰かの想いとか、その背景とか、俺は玲華からしか聞いてない。

 でも玲華の気持ちは、迷いながらも隠すほうに向いているんだと思った。

 でなければ、きっとこんなふうにウヤムヤには終わらせない人だから。

「一つ聞いていいか?」

 ずっと気になっていて、だけど聞けなかったことがある。

 本当は聞くべきじゃないかもしれない。玲華のことを想うなら。

 だけど見て見ぬフリは出来なくて……。

「なあに?」

「その幸祐って、おまえにさ……」

「うん?」

 とりあえず俺からこの名前を出しても変化はない。だったら大丈夫なんだろうか……。

 どういう言葉のチョイスをしようか、少し考える。無神経にならないように注意しなければならない。

「あー……なにもされてないわよ」

 考えているうちに……なにも聞いてないのに、あっさり玲華は答えた。

(なんでわかるんだよ)

 俺が聞きたいこと。

 比絽の話を聞いてから、ずっと心配していたこと。

「おまえ……」

「なに気を使ってんのよ。らしくないわね。あたしがひどい目に遭わされてるとでも思ったの?」

「……いや、なにもないなら良いんだ」

 安心しても良いらしい。

 玲華のあっさり加減にそう思った。

「そこは信じていいわよ。助けてくれたのは久保田さんだから、彼に聞けば証言がとれるわ」

「あ、そう……」

 やっぱりすげえな、久保田さん。調子に乗るから本人には言わないけど。

 自分がそこにいたとして、俺は護れたんだろうか。

 いや護る。なにがなんでも護るんだけど、護れたとしても俺は無傷で終われたとは思えない。そこが久保田さんと俺の違いだ。

「なに落ち込んでんのよ!なにかあったほうが良かった?」

「それは違う!絶対に違う!」

 自分で思ったより力一杯否定してしまって、少し照れくさい。

 というか、俺は相変わらず読まれすぎだ。

「じゃーあたしも聞いていーい?」

 わざと甘ったるい声を出してきた。ギクリとするのはなぜだろう……。

「京香ちゃんとのことなんだけどー」

「ああ……」

 そっか。そんな問題もあったっけ。どうして今だけ京香“ちゃん”なんだろう?

「あの写真は未遂だ。比絽も言ってたよな?確か」

「聞いてないわね」

「うそだろっ!どこかで俺、これで誤解がとけたってホっとしたような……」

 どこでだったか思い出せそうで、出てこない。

 考え込んでいると、玲華が深いため息をついた。

「あんたね、もう少しあたしに対して思いやり持ってくれてもいいんじゃない」

「持ってるだろ。……俺にも責任があったんだ、あの写真に関しては」

「責任?」

「言い訳に聞こえそうだから、説明はあまりしたくないんだけど……」

「ズルいじゃない!」

 説明したところで楽しい内容じゃない。どうしようか考えあぐねていると、こっちにも目撃者がいることを思い出した。

「世羅に聞いたら、未遂だってわかってもらえると思う」

「世羅とは連絡取ってたわよ」

「そうだったよな……。そう言ってただろ?」

「世羅からはしてるように見えたって」

「はあ?」

 まじかよ。なんか冷や汗が出てくる。やばい、頭が真っ白だ。

 あきらかに俺の方が悪いよな……。しかしこのことについては謝った後だし。今更謝っても、取ってつけたように思われたら終わりではないか。

「言っとくけどね、お母様は許しても、あたしはそういうこと許さない派だからよろしくね」

「……するかよ」

 しまった。何だこの弱々しい間は。

 疚しいことなんて何もないのに。ないよな……?

 ……あるとしたら抵抗しなかったことぐらいで。

(それか!)

 世羅は俺の態度そのものを告げ口していたに違いない。

「悪い、玲華。おまえを裏切るとか絶対にありえないことだけど、あのときはすべてがどうでもよくなってて。ほらっ熱あっただろ?たぶんそれで朦朧としていたというか……」

 結局言い訳してんじゃないか……。情けない。情けなさすぎる。

 なんとか別の言葉を探すように頭を抱えていると、すぐ近くに玲華が近寄っていた。

 影が視界を暗くする。

 それで、顔を上げると。

 ふいに唇を触れあわせてきた。ほんの一瞬、重なるだけの。しかも派手な音だけさせて。

 びっくりして何も反応が出来ずにいると、その口元がくいっと上がった。

「冗談よ。怒ってないわ」

「おまっ……」

 すかさず手を伸ばして腕を掴もうとしたけど、あっさりとかわされた。しかも笑いながら。どんだけ余裕なんだよ。

 反して俺といえば、勢いあまって体重が前傾になり、自分の膝で上半身を支えた。

「きったねえ!なんだよそれっ」

 はああああと息を吐き出しながら俺はベッドに寝転がった。あいかわらず悔しいけど、こいつんちのはソファだけでなく、シーツまで肌触りがいいときた。

「心臓に悪い……」

 でもそのおかげで、二度と裏切り行為だけでなく、誤解を与えることもしてはいけないんだって思ったけど。

「バレなければいいわ」

 傲然とした笑い方で、玲華は立ったまま俺を見おろした。

「バレなければ、ねえ……」

「そう、あんたには無理よ。だから最初からやらないことね」

「やっぱりそういうオチか」

 もちろんする気なんてないけど。

 なんかこういう流れが嫌だ。やっぱり人を試すって良くないよな、うん。

 俺は少し拗ねていた。玲華に背中を向けるように右手で頭を支える。

 それで言えたんだと、後から思ったんだ。でもこのときはただ、正直にするっと口から出た感じだった。

「あのさー……おまえ殴ったよな、ちょっと待ってって。……あの続きは?」

 言いながら顔だけ玲華に向けて、ポンポンと自分の横のスペースを叩く。

 玲華の顔が一気に真っ赤になった。

「ちょっと!何よその色気のない誘い方は!目がエロいのよっ」

「エロ……」

 そんな一言ってあるかよ。おまえがそういうことするから、こっちだってそういう気持ちになるんだろう。

「だいたいわかってんの?あのときは誰が来るかわからない状況だから止めたのよ。いまだってそれは変わらないの」

 冷静だなおまえは。あのとき一言もそんなこと言ってなかったのに。

 しかし俺だって抜かりはない。何回久保田さんに邪魔されたと思ってるんだ。

「それなら大丈夫。鍵掛けといたから、内側から」

「あんっ、たはっ!」

「玲華。もっと強い男になるから。今回みたいなことがあったときに、真っ先に呼んでもらった久保田さんより、強くなる」

 認めさせてやるから、そのときには頼ってほしい。

「目指す方向が違うのよ」

 玲華は腰に手を当てて、冷たく言う。玲華だって久保田さんのことを信頼したから依頼したはずなのに。

 損するタイプだな、久保田さんって。

「だったら玲華ってマッチョ好き?」

「なに言ってんの、あんた。噴水に入って熱ぶり返した?」

 この反応は違うってことだろうか?

 どういう方向にいけばいいか、狙いがわからないじゃないか。強くなるのは大前提であるとしてもだ。

 じっと玲華の次の言葉を待っていると、再び彼女は近寄ってきた。

 俺の額に手のひらを触れさせる。

「大丈夫そうね。じゃあ真面目に言ってたのね」

「……あんまり触んなよ。とくに、そういう気がないんなら」

 俺は背けるように顔を横にした。

 すると傍らに玲華が座った。マットレスの質の違いか、ゆっくりと沈み込む。

「もう強引に持っていかないの?」

「……やらないことにした」

「ふうん。また我慢するんだ」

 視界が陰って、ふと見ると玲華がゆっくりと近づいてきた。だけどスレスレのところでピタリと止まる。息が掛かるほど近い。

「なんだよ。誘ってんのかよ」

「違うわ。誘ったのは悠汰」

 心臓がバクバクする。だけどこの行動の意味がわからなかった。

 手も顔も、どこでも少し俺が動かせば触れる。そんな状態で玲華は喋り続けた。

「京香と比路のことが引っ掛かっているのね。だから抑えてる。違う?」

「…………」

 違わない。だけどあっさり読まれたのが面白くなくて、言えなかった。

 俺が行き過ぎたことをして、玲華が傷つくなんてことになったら、恐ろしくてたまらない。

「一度ついた傷は消えないものね」

 玲華も俺と同じことを考えていた。

 そうだ。だから万が一でも玲華が京香のようにならないように、最善の注意を払わねばならない。

 耳にかけても落ちてくる髪が俺の頬に当たりそうになる。

 銀のネックレスも律儀にギリギリのところをうろついていた。どうでもいいからこの状態をなんとかしてくれ。

「でもね。ひとつ重要なことをあなたはわかっていないわ」

「なにがだよ?」

「あなたがあたしのこと想ってくれてるの、わかるわ。伝わってくる。あたしのために自分を変えようとしてくれているのも、凄く嬉しい」

「なに言ってんだよ、おまえ」

「でもじゃあ悠汰は?あたしがどれだけ想っているか、わかってる?」

「…………」

 即答が、出来なかった。電気が全身に走ったような鮮烈さを覚えた。

 初めて突きつけられた難問。

 そこには触れてはいけないと本能が訴える。

「考えたことがなかったって顔ね。怖いの?人から想われることが、信じられないの?」

 思考が止まる。

「あたしがあなたを平手とはいえ殴ってしまったこと。ちゃんと真意を考えてほしい」

「気にしてないから。大丈夫だから。……俺がおまえを好きなんだから。いいだろ、それで」

 結局自分から玲華に触れた。右手で頭を抱き寄せる。玲華は声も上げないで一緒に横になった。

 顔が見れなかった。

「ありがとう。嬉しい。だけどそれだけでは駄目なのよ。万が一また同じようなことがあって離ればなれになったら、悠汰はどうする?」

 顔を埋めたまま言う玲華の言葉にハッとなった。

 確かに、その通りだ。

 玲華に会っていないと、会話をしていないと、触れていないと、俺はぶれていく。安心が出来なくて、すぐに荒んでいくのだ。

 きっと比絽が何かをしなくても、俺は心が乱れていたと思う。

 綾小路が言った、どれだけ玲華に縋れば気が済むのかと。

(でも違う。縋るよりも質が悪い)

 離れていたらすぐに信用できなくなる。玲華の人柄のことじゃない。

 そう、玲華が本当に俺を好きでいてくれるのかどうかだ。人から、好かれる術がわからない。

「あたしもあなたを壊したくないのよ」

 俺は壊れないとは、口が裂けても言えそうになかった。

 だいたい確かな保証なんてないじゃないかと思う。

 自分の感じたものが、ただの勝手な勘違いだとしたらどうするんだ。

(もう二度と)

 俺が好きで期待して、それが全部錯覚だとしたら……。

 落胆する絶望感は一度味わえば充分だ。

(裏切られたくない)

 とくに、玲華には。

「悠汰は“普通”を気にするわよね。だけど、あの家族を見てもらったらわかると思うけれど、あたしも普通の感覚とは言えないわよ」

 そうだ。誰より普通に拘っていたのは自分で。

 “玲華の普通”がいいんだ。玲華のデッドゾーンに知らない内に入り込んで、嫌われたくないと思うから。

 だけどこんなこと重く感じられそうで言えない。

「あなたを想っているのって、あたしだけの話じゃないのよ。お兄様や萩原くんだってそう。ちゃんと悠汰を見てる。だから自信を持って」

「自信……?」

 人に好かれる自信?

 そんなものどうやって作れば良いんだ。

 嫌われてるかどうかならわかるんだ。悪い方が伝わりやすいのは何故だろう。

 逆なら良いのに。

「拓真に殴られたんだ」

「いつ?」

「怪我した後。あの美山が拓真のこと知ってる感じだったから、俺といるせいだと思ったんだ。だから俺といない方が良いんじゃないか?って、言ったら殴られた」

「そう……」

 出し抜けに語っているのに、玲華は口を挟まずに相槌だけ打っている。

 自分でも何が言いたいのかよくわからない。

「あいつ怒って泣くんだ。怒るのも殴るのも馴れてないのに、泣きながら怒るんだ。それぐらい酷いことを言ったってことで。でも、俺にはなにが拓真を怒らせたのか理解ができなかった」

「悠汰……」

「だから……本当はそういう人間なんだ俺は。無神経で常識はずれで……いつかこの無神経さで玲華が傷つくかもしれない。いや、それよりも嫌気をさすかもしれない。心変わりを、してしまう。そういうのが、イチバン……」

 一番、怖い。

 銃を向けられることよりも、牢屋に閉じ込められることよりも、噴水に入ることよりも正直怖いんだ。

 玲華は一度おでこを俺の胸に押し付けた。それから首を曲げて俺を見る。その顔は笑んでいた。

「わかってないの?萩原くんが怒ったのって、悠汰があたしに怒ったことと同じことよ」

「え?……あ……」

 そう玲華に言われてストンと自然に納得した。

 それからすごく恥ずかしくなる。なんでこんなこと気づかなかったんだ。

(危険だから遠ざけるって、そのままだ)

「でもそれで怒られたからって、悠汰は萩原くんのこと嫌いになっていないでしょう?萩原くんもちゃんと協力してくれたわね?」

「俺が嫌いになる理由なんてないから。それに拓真は優しいって知ってる」

「そういうことよ。あなたが気にしてるほど、周りは大袈裟にとってないの」

「優しいからこそ無理やり合わせてるかもしれない。穏和なやつを俺が悪い方へ影響を与えてるんだとしたら、それは……」

「あまり否定してあげないで。気にするのなら、これからは思いやりを与えてあげるようにすればいいわ」

「…………」

「いまさら誰もそう簡単に嫌わないわよ。とくに悠汰はマイナスのイメージから入ってるから、全然問題ないわ」

「……それって褒め言葉じゃないよな」

 何気に傷ついた。

 でも心はずいぶん軽くなった。不思議だけど玲華の言葉には説得力がある。信じたいと思わせるものがある。

「おまえのもそうだけど、拓真のも痛くなかった。ただ胸にきたけど」

「悠汰」

 自己嫌悪に陥っていると玲華は両手で俺の頬を挟むようにおいた。

 また殴られたところを触れているだけかもしれないのに、勝手にドキリとなる。

「格好良かったわよ。比絽に立ち向かっていく悠汰、本当に格好良かった」

「いきなり、なに……」

「だから無理しないで。無理に感情を殺したりしないで」

「…………」

 どうして彼女がこんなことを言うのか、俺にはわからなかった。

 無理なんて……。努力は必要だろう?なんだって。

 間違っても怒りに支配されるようなことがないように、規制を張るのは当然の努力だろう。

「あなたと久保田さんは違う。なろうとしたって、なれるものじゃないわ。それよりねえ、有りのままの悠汰でいてほしいの」

「そんなこと……」

「自分を否定しないで。比絽に言った台詞、あれは悠汰にしか言えなかったことだわ。いままで耐えて頑張ってきたあんただから言えたのよ」

 あのときは必死で。誰かの言葉を借りる余裕なんてなかった。

 でもそんなに大それたことを、心に響かせられるような内容を伝えられたとは思えない。

「いまなら言えるわ。比絽を、見捨てないであげて」

「え?」

「きっと比絽は水の中で本当に実感したんだと思う。自分は悠汰を殺せないってこと。なにも言わなかったけれど、心の奥底ではあなたが息を吹き返すことを祈っていたと思うわ」

「なんで、わかるんだよ」

 人の心が。比絽の言葉に怒っていたのは、他でもない玲華だったのに。

「あのときはわからなかったわ。あたしも頭にきてたから。でも必死であなたを連れてきていた。水の中から持ち上げるときも、とても素早かったわ。確実にあなたに対する扱いが変わっていたのよ。比絽にとって初めて気を許せる人に、悠汰はなっていくと思う」

「………………」

「だからもっと自分に自信を持ちなさいって。あたしが悠汰を好きなように、悠汰も悠汰を好きでいて」

 とても切実に聞こえて、簡単には流せない。

 比絽はもちろん見捨てるつもりなんてないけれど、それは向こうが拒否しなかった場合と考えていた。

 だけど自分のことを好きになるって、最大の難関じゃないかと思えた。

 俺がいままで考えてやってきたとこが、すべて崩れ落ちるようなことだ。自分をありのまま受け入れるということ。

 だけど応えたい。

 自然な気持ちで、俺は玲華に近づく。唇が触れる瞬間、彼女から発せられる空気がふと変わった。

「あ、ちょっと待って」

「……なんだよ」

 またこの展開かよ。

 玲華は寝返りを打って俺から少し離れ、片手で自分の体を支えた。

「その前に携帯返して」

「ああ……」

 そういえば借りたままだった。俺はちょっと体を持ち上げてズボンのポケットから抜き出して渡した。

 玲華は携帯を開き、操作しながら言う。

「電話した?」

 あのあと二人とも連絡がついて、一応話をしたのでそのまま素直に頷く。

「した。っていうか、おまえいつのまに兄貴の連絡先なんて……」

「晩ご飯いらないって言った?」

 俺の言葉を遮って、たたみかけてきた。

「言ってない。じゃなくて!」

「ダメじゃない。作って待ってたらどうすんの?」

「そんな家じゃない。っつか、人の話を……」

「あ、もしかして萩原くんとのメール読んじゃった?」

 駄目だ。とことん誤魔化す気だ。

 これは教えてくれない方向だと、これまでの経験で判断する。

 返す言葉を失っていると、玲華は距離は変えずに腕だけ伸ばしてきた。俺の首に絡みつき、したり顔でニンマリ笑いながら玲華から近づいてくる。俺が諦めたのを見抜いたようだ。

 だけどそれを止めたのは今度は俺だった。

「玲華、最後にひとつ確認したい」

 俺は玲華の頬に触れる。すると彼女は悪戯っぽく笑った。

「なによ。まだあるの?」

「もう、隠してることはないよな?実はあの頃に大変だったとか、後から俺が知るようなことは何もないよな?」

「ないわ。悠汰は?もうあたしに隠してることない?」

 少し語調を上げて、そう返された。

「最初からあるわけないだろ……あっ……」

 そういえば。

 美山が手下にしたいとかなんとか、不穏なことを言ってたような気がする。

 あいつはあれからどうしたんだろうか。

「なによ、そのあからさまな“あっ”は」

 大丈夫だよな。最終的には期待はずれだってわかったみたいだし。

 いつどうやって比絽と出会ったのか、結局よくわからずじまいだけど、もうあの二人が関わることもないと思った。

 まあ美山ならなんとかなるか。

「いや、なんでもない……。なにもない」

 改めて玲華に気持ちを向き直す。

 だけど俺が近づく寸前、玲華はふっと顔だけで逃げる。

 ちょっとムッとした。首を押さえてキスしようとしたけれど、再度首を横に向けられる。笑みを作ったままで……。

「俺で遊ぶなよ」

 真意なんてあるはずない。絶対からかってるに違いないんだ。

「ふふふ。あたしが言いたいことわかってくれた?」

「ああ……努力する」

「わかってないじゃない」

 玲華が唇をとんがらかせた。でも隙はない。

(はやく、しないと……)

 そんなことより、いま問題なことが別にあって。

「わかったから」

「ダメよ。なげやりね」

 また、強引にもっていこうとしたけど、むにっと頬を押された。

 どれくらいの力で、玲華の行動を制限させてもらっていいのかわからない。

 でも。

 はやくしないと俺の体力がもちそうにないんだけど。

(やばい。本気で、眠くなってきた……)

 そう、疲れていたんだ。

 こんなやりとりを寝転がったまましているのが失敗だったと、後からわかった。包み込むような寝心地のいいベッドは、俺の残り少なかった体力を吸い取るようにして奪っていく。

「悪い。玲華……。もう、限界」

 頭も瞼も重い。性欲より睡眠欲に先に限界にこられると、非常に困るんだが。

 薄れ行く意識ギリギリのところで、玲華が起き上がったのを肌で感じた。

「なによそれ!自分から誘ってきたくせに」

 そう怒るなよ。あの牢屋みたいなところでは全然寝れなかったし、寒中水泳だってやったんだ。

 よく考えたら酷使しすぎじゃないか、自分の体。これじゃあもたないのも納得がいく。

「なによ。あたしなんてあんたがケガしてからよ。全然寝付けなかったんだからねっ」

 体力だけじゃない。いろんなことが精神にきてたみたいだ。

 それも疲労の原因になってる。

 玲華が死んだのかと思った衝撃とか……。

「もうっ!いま寝たら、あたしが襲うわよ!」

 ああ。玲華なら何をされてもいい。なんの問題にもならない。

 そう思うんだから不思議だ。

 宿題が残ったような状況だけど、とりあえず俺は幸せだった。もうこれからは玲華と離れなくて済む。それだけでいい。

 大満足のなか、俺は深い眠りに落ちた。

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