第四章 ・・・ 7
二人が立ち去って、この中も少し騒然となった。
源蔵さんが毅さんと清志郎さんをこの部屋から出させたのだ。
「この後説明会を別に設けよう。二人はそれまで与えられた部屋から出るな」
そう指示していた。
きっとこの二人がいたら、怒鳴り合いが絶え間なく続くと考えたんだろう。
それにこの部屋は定員オーバーだ。こんなに広い部屋なのに、親戚筋がほぼ来ているから、入りきらずに廊下にまで並んでいた。それは俺も後から知ったんだけど。
そして椿原さんがその為の会場を用意するために立ち去ったら、とりあえず拒否する者もおらず、ここでは解散となった。
玲華は室内にまだ残っている人を見つけては、話しかけていた。
俺としては早くシャワーでも浴びて着替えてもらいたい。風邪をひいたら大変だ。
でもそういうと、あんたに言われたくないわと返された……。
(ったく)
そのなかで、加藤さんからその後のことを聞いた。あのあと割とすぐ清志郎さんたちがあの場所について、もうひと騒動起きそうなところに理事長が現れたらしい。
そのときの衝撃はこの部屋にきて源蔵さんを見たときより、皆震撼したようだ。
それはそうだろう。いままで不参加だった人が、突然何の前触れもなく来たんだから。その場で予め源蔵さんが生きてここにいると告げて連れてきたらしいので、そのこともこちらの衝撃度が和らいだ理由とも言える。
もうひとつ外と繋がっている隠し通路は、地下室から出ていたそうだ。牢屋の方ではなく毅さんたちが住んでいた塔の下らしい。そこを源蔵さんは理事長に教え、椿原さんもそこからこのホテルに向かったのだとか。
久保田さんは立ち入ることを禁止されていた場所だから、見つけられなかったとしても無理はない。
そして一番俺が驚いたのが。
なんと深影はまだ生きていて、いま集中治療室にいるという話だった。しぶとすぎるだろう。
だけどそれを聞いたときの玲華のほっとした顔は、間違いなく素の顔だろうと思った。やっぱり玲華だって誰かが死ぬのは嫌だったんだ。当たり前だ。
「悠汰くん」
玲華が前田さんと話している間に、京香が俺の元へ来た。周囲と離れて、壁に寄りかかっている俺の隣に同じように肩を並べた。
しっかりとした、明るい表情。ただ、元の無邪気さは窺えなかった。
「良かったね。無事に、終わって」
「ああ……」
良かったと一言で言える彼女は凄いと思った。完全に吹っ切れてはいないだろうが、吹っ切ろうとしている。それだけでも前向きだ。
「パパは、病院に直行したんだって。さっきママが教えてくれたんだ」
「大丈夫なのか?」
「うん、致命傷は避けられたって」
「良かったな」
もっといろいろ言ってやりたいことや聞きたいことがあったけれど、どう伝えればいいのかわからない。
「ずっとね、聞こえてた。玲華の声」
「そうか」
「うん。不思議なんだけど考えていたのは玲華のことばかりだった。わたしは本当に玲華に勝ちたかったのかなとか。じゃあ、一体何に勝ちたかったのか、何を持って勝ったことになるのか、ずっと考えてた」
それは呟いていた。あの通路で。
やはり思考が無意識に出た言葉だったんだ。
「玲華をずっと羨んでいたけれど、でも今回はすごく恨まれているのをよく目の当たりにしたんだ。わたしだけじゃない。……ヒロにも、この家の人もみんな、玲華のことを憎悪と嫉妬の含んだ目で見ていた。とても重く、深く」
京香からすんなり比絽の名前が出た。少しドキリとしたけどそのまま黙って聞いた。
「……あんなにきつい目を向けられて、どうして玲華は平気でいたんだろうって不思議だった。わたしだったら耐えられない。もっと早く逃げていたと思う。悠汰くんのおかげかな?」
「そんなことねえよ。俺はなにもしていない」
「そうかな?悠汰くんとのやり取りが、わたしの知らない玲華だったよ。いつも通り強気で憎らしい発言なんだけど。悠汰くん相手だと、さらに遠慮が無いんだって初めて知った。だけど相手がきみだからなのかな。深刻にならなくて、すぐに流れていくんだね」
それは……。
俺は喜んでいいのだろうか。遠まわしに馬鹿だと言われているような気がしてならない。それとも俺が玲華に敵わないとバレてしまった瞬間か。
「あいつは強いから。それだけのことだろ」
「そう思うんだね、きみは」
「京香は、どうやって戻ってこれた?」
なにをきっかけに、戻ってこようと思えたのか。そこが気になっていた。本当はずっと。
「それもね、玲華だよ。温かい温もりが感じられていて。誰だろうと思ってたけど見たくなくて。視界を外に向けたら、完全に自分は壊れるんだって信じて疑わなかった。でも背中に衝撃を受けたときに、ふっと視界に向こうから入ってきたのが、玲華だったんだ。気づいたら、それまでと同じ温もりだなあって。もしかしたら幻想だったかもって思いたかったんだけど、そう思うにはあまりにも優しすぎて……」
「そっか」
やっぱりあいつはすげえな。
俺だけじゃない、京香のことも助けてる。
「それとね、悠汰くんもだよ。嫉妬と憎しみも同じじゃない。好きなやつと向き合えって言ってくれたでしょ。あの言葉も頭の中をグルグルまわっていたよ」
それは浅墓だったんじゃないだろうかと考えた。あそこまで深く傷ついていたのに、更に傷つけてないだろうかと不安になっていた。
「比絽のことは……」
言いかけて、俺は口を閉ざした。彼女が静かに首を横に振ったから。
「正直、まだちゃんと見れない」
翳った京香の表情を見て、すぐに自分を責めた。せっかく明るく笑ってくれていたのに。
馬鹿なことを言ってしまった。無神経だった。
「でもね、わたしヒロがしたことよりも、ヒロを助けられるのがわたしじゃないって感じたことの方が、ショックだったな。完膚なきまでに拒絶されたって感じで……。それが……」
「悪い」
もう言わせたくなくて、咄嗟に謝った。言わせるべきじゃなかった。
重苦しい空気が流れる。
それを断ち切ったのは玲華だった。
「ああ!あんたたちなに話しているのよ!あたしのいない隙に!」
また、なに変な誤解してんだよ……。
ガックリと肩の力が抜けた。
「わたしたち仲良しだもん。ねえ」
なんたることか京香が手の平を返したように乗ってくる。
また妙な表現だ。間に挟まれた身としては、どういう対応をするべきか迷う。
「助けなければ良かったわ」
「もう遅いよ。わたしは玲華に勝てるって聞いたからここにいるんだもん」
「あんな言葉信じたの?もっと努力しないと無理なんじゃない?」
「ちょっとあんた、忘れてるようだから言わせてもらうけど、わたしはあんたより二個も先輩なんだよ」
「学校では先輩って呼んであげてもいいわよ。土下座して頼んでもらえればいくらでもね」
「ムカつくー」
なんかこれって。喧嘩?
喋ってる会話が凄く刺々しい。しかしその表情は柔らかくて、判断に迷った。
そのとき、ひとりの大人な女性がこちらを見ているのに気づいた。
「あ。わたしもう行くね」
そしてその人を見るなり、京香がこの場所を離れる。
玲華は手を振りながら、こっそり母親だと教えてくれた。
そうか。あの人が。
ぎこちない笑顔をお互いに見せている。京香の家族もここからが執念場なんだろうと思った。
「玲華!」
またひとり、女性が玲華に近づく。
「瑞穂。あなたも来てたのね」
「玲華がほんとに死んだのかと思った」
瑞穂と呼ばれた女性は言葉を発した途端、泣き出してしまった。確か幸祐と付き合っていた人だと、名前だけは玲華から車内で聞いていた。
「もう、また泣く」
「だって、わたしなにも出来なくて。お父様も、わたしじゃ止められないし……。ずっとどうしようって」
「ありがとう。もう大丈夫だから」
玲華が瑞穂を慰める。なんか玲華のほうが年上みたいだ。
彼女からは地味めな印象を受けた。
(地味といえば……)
拓真が言っていた人、千石さんを俺は探した。その場を離れて全体を見渡す。
(あ……)
変わらず源蔵さんの後ろに佇んでいた。
源蔵さんは女性陣と会話をしている。後から玲華に聞いてわかったことだけど、毅さんや清志郎さんの奥さんや、娘たちだったそうだ。周りの会話もあるせいか、はっきりとは聞こえなかったけれど、嫌味とかクレームを言っているのはわかった。
「千石がどうかしたのか?悠汰」
久保田さんが近づいてくる。
「あの人なんだろ、俺を病院に連れていった人」
「……ああ、そうだな」
「お礼言ってくる」
「行かなくていい」
俺が軌道を千石さんに向けると、後ろから久保田さんに腕を掴まれた。
「なんでだよ」
「あいつは鉄面皮だ。冷血人間だ。おまえの身なんて案じてないし、気にもしてない。どうせ命令されたから連れて行っただけだと答えるだろう。だから行かなくていい」
「ああ……?」
なんか、すごい言われようじゃないか……?
っていうか久保田さんがとっても嫌そうな顔をしている。
……なにかあったに違いない。
「あのさあ、殴った張本人が言うことじゃねえよな」
「…………」
俺が真実を言ったら、久保田さんは神妙な顔つきに変わった。
この人も実は気にしていたのかもしれない。そう思った。
「あのな、あれはおまえも悪いんだぞ」
「勝手に来たから?」
「そうだ。仕方なくやったんだ、こっちも」
「でも俺はまた来てしまった……」
「ああ。それで予想より早く解決できたってわけだ」
「じゃあ良かったんだよな」
「おまえ、ふてぶてしいな。そんなのは結果論だ。ただのラッキーだ。実際本当に危険な目に遭っただろうが」
「もう忘れた」
玲華が言ってくれたことで、俺にはもう精算されていた。
勝手に開き直ってやる。
「てめえ……二度と忘れられないように拷問してやる」
「うわっ、やめろよ!」
「なに二人でジャレてんのよ」
久保田さんが俺の髪をぐしゃぐしゃにかき回してきて、それに抵抗していたら、冷ややかな目で玲華が入ってきた。
ジャレてなどいない。絡まれてるんだ!一方的に!
「早く部屋に行きましょ、あたし着替えたいのよ」
あのな。毎度のことだけど、玲華のその切り替えの速さにはついていけないんだけど。
「いいのか?源蔵さんにクレームつけなくて」
「神崎!」
ちっ。綾小路だ。まだいたのか。しかもまた怒ってくるし。
「いいわ。どうせいまならかわされて終わりよ。改めてゆっくり聞くわ」
そのときの玲華の顔は、いま源蔵さんの周りにいる人たちと同じようなものだった。
結局俺たちが出る頃には、やかましいという理由で全員がこの部屋から出された。確かに様々な性格の人種がいるけれど、お世辞にも静かとは言えない家族だと思う。
* * *
用意されていた部屋というのがまた、広い部屋だった。源蔵さんの部屋、最上階にはさすがに劣るけれど、その辺のビジネスホテルとは訳が違う。シャワーを浴びるだけだから別に俺なんかは下位の方で充分なんだけど、玲華が隣の部屋にしてと言ってきた。
じゃあ一緒でいいじゃん、とつい本音をぶちまけたけど、それは却下されてしまった。亜衣と麻衣がお手伝いしますと申し出ていたが、それも玲華は断っていた。
そして部屋の前まで来ると、すぐさま玲華は自分の部屋に俺を招き入れる。
「行動がわかんねえ……」
「いいから、ちょっとだけやってほしいことがあるの」
「え?やる?」
部屋の奥のまで入ると玲華はドレスの胸元からなにか取り出した。ポケットみたいにいろんなもの入れてる。
どぎまぎして見ていると、真っ黒い器機をソファの前のテーブルに置いた。
「これ盗聴受信機。さっきこっそり付けておいたのよ。一緒に聴いてほしいの」
「あ、ああ……」
なんだそんなことか、と一瞬思ってしまった。
なにを考えてるんだ俺は。こんなに玲華は真剣な顔をしているのに。
「つーかいつの間に……。まったく気づかなかった」
「盗聴器だけは嫌ってほど手元にあったからね。あたしがいる前では語らないんだから仕方がないわ」
そう独白しながら、聴こえるようにツマミを弄った。
『……今回のこと怒っているのか?』
源蔵さんの声が雑音とともに聴こえ、玲華が調節していくうちにクリアになった。
「おまえが盗聴器つけた部屋って……」
「もちろんお祖父様のところよ」
悪びれもなく言う。
バレたら大変なことになるんじゃないのか?それなのに、しれっとしていて恐ろしいやつだ。
『おれがなにを言ったところで、あなたにはなんの痛みにもならないでしょうね』
相手をしているのは稔さんの声だ。あのあと稔さんは一人残った。真っ先に話したいことがあると源蔵さんに告げ、中に入れてもらっていたのだ。
『ならばなにが言いたい』
『おれが言いたいことぐらいあなたにはすでにおわかりかと思いますが』
『甘えるな。自分の言葉で言え』
『……杏里がおれに打ち明けてくれました』
杏里、という名前に玲華がピクリと反応した。
『あの日あの場所に杏里は行ったそうです。もちろん幸祐に会うために。しかし先客がいた。それが兄です。貴方にはご存じだったのでは』
『こちらも準備があるのだ。要点をまとめて話せ』
源蔵さんの声も稔さん同様に硬い声だ。
それだけで緊迫感が伝わってきた。どういう揺さぶりをかけても、源蔵さんから言うことはない。
『貴方は幸祐が兄に殺される瞬間を耳になさっていた。それだけではない。兄が杏里に脅している一部始終をご存じのはず』
なんだって?
つまり実の親が実の子供を?
「毅叔父様だったんだわ」
「なんでだよ。動機とかあんのかよ?」
「しっ。会話は続いてるわ」
玲華に鋭く制止された。自分から呟いたくせに。
『おまえはあのとき聴いていなかったのか』
『ええ……。そこまで広げていませんでした。それを機に受信して情報を集めることに専念したんです』
悔しそうに稔さんは言う。もし聴いていたら、真っ先に止めに行くことが出来きていたわけだから、悔やむ気持ちはわかった。
そして源蔵さんは聴いていたのに止めなかった。ここにいたんじゃ、間に合わなかったから仕方ないなんて、そんなことでは納得できない。だって計画を中断して誰かに連絡すれば、幸祐は死ぬことはなかったかもしれないんだ。
『ほう。それで?ワシにどうしろと?』
『兄と杏里をどうなさるおつもりかお伺いしたい』
稔さんの声に力が加わった。ここが一番言いたいところなんだろう。
しかしこれが親子の会話だろうか。稔さんが緊張しているような気配がした。先ほどまで一緒にいた感じと違う。
そして稔さんは責めないんだ。止めなかった源蔵さんを。
『おまえは自分が犯人だと玲華に言っておったな。あれはなぜだ?』
『幸祐の罪が暴かれたくなかったんです。騒ぎにはしたくなかったんですよ。結局玲華には知られてしまいましたが』
『隠すのならそれはそのままおまえの罪になる』
『それでも。あいつは幸せなまま死んだ。止めることをできなかったおれが、最後にできることだと思ってます。それが唯一……』
その声が弱まる。つい顔を器機に近づけた。気づくと盗み聞きしている罪悪感なんてこれっぽっちもなくて、惹き込まれていた。
『よかろう。このことはワシの胸に止めておく。後のことはすべてワシがなんとかしよう。……だが、忘れるなよ。一生涯かけて胸に刻んでおけ。誰に幸祐が殺されたかを。それから毅にもおまえにも継がせない』
なんの会話だ、これは。
俺の聞き間違いでなければ、つまり隠蔽するということか。人一人の死を?
それもだけど、皆が知りたくても知ることのできないこのような内容を聴いても良いのか、というところに畏怖を感じた。だいたいこういう内容を知ったら殺されたり……。
(いやいや、いくらなんでも漫画の読みすぎだろう)
だよな。誰かそう言ってくれ、と思っても唯一聴いている玲華がまったく気にしていない。先ほどから集中して受信機を見つめている。
『もとより。淘汰された先に自分がいるとは思っておりません。……おれはあなたにそれを頼みたかっただけなのです』
『そうか?それだけには思えんが?』
『はい……いえ、良いんです。誰かを責めたくなるのは己の修行不足でしょう』
『そう結論づけるか。それが迷いの果ての答えなのだな』
『………………』
『知らなかったぞ。おまえにも狡猾な部分があったのだ。惜しいな』
実に惜しいと、源蔵さんは繰り返した。
稔さんの評価が上がっていたんだと、俺は思った。
玲華が言うには女第一だから候補から外されているというものだった。確かにあの逃走劇を一緒にしたあとでは、それだけの人には思えない。
いまあのときの状況が、再度訪れるようなことがあるなら、俺はこの人にすんなり拳銃を返していただろう。
『……兄もすでに候補から?』
『あくまで他言無用だ。混乱が生じる。おまえは毅と範義と一正が密談をしていたのは聴いたか?』
『はい。何度か……』
『あの少年が一度失敗した後に、一正からすでに情報は得ていた。しかしあやつの判断は期限はまだあるから様子を見るというものだった。上前をはねるつもりでな。そのやり方にワシが気に入らんかっただけだ。ワシなら自分で動き期限などおつりをくれてやる』
あくまで、そのことで毅さんを見限ったのだと源蔵さんは言っているのだ。幸祐や比絽の件ではなくて……。
どちらがどれ程ひどいかなんて、俺でもわかるのに。
基準があまりにもかけ離れている。
「範義というのが松倉様で、一正が光泉寺様よ。中庭で久保田さんたちを狙っていた人の中にいたでしょ」
かなり早口で玲華が説明してくれた。
そう言われてもはっきりと顔まで思い出せない。あのときは自分としても驚きの連続だったから、よく覚えていなかった。
『では、どなたに……』
『いくら秘密を共有したとはいえ、ここからは話せんな』
冷たく源蔵さんは言い捨てる。
『わかりました……。おれはこのあとの会には出席しません。もう、関わり合いになりたくない』
『好きにしろ。おまえが……』
唐突に玲華は受信機のスイッチをオフにした。そのまましばらく一点を見つめて動かない。
玲華、と声をかけようとする前に彼女は勢いよく立ち上がった。
「先にシャワー浴びるわ。ここで待ってて」
そして俺の回答を待たず、さっさと浴室に入ってしまった。
これは……玲華なりに落ち込んでいるのかもしれない。だからといって俺がなにか言えるわけでもない。
(言ってもわからないとか思われていたらどうしよう……)
またいつもの弱気な考えに辿り着く。
だからなにも言わずに、一人で心の整理をしているのかもしれないと思った。
(話を聞いてやりたくても、フロじゃーな……)
まさか一緒に入るわけにもいかない。
俺はやることがなくて、もう一度受信機をオンにした。
あんまり良い趣味とは言えない。でも源蔵さんだって聴いていたんだから、こちらだけ罪悪感を抱いていても馬鹿みたいだ。
しかしすでになにも聴こえなくなった。衣擦れと思われる音や、足音が遠くでするだけだ。きっと稔さんも出て行った後なんだろう。
(毅さんが息子を)
深影を撃ったときのあの変化のなさ。比絽の母親を裏で手を引いていた事実。どれをとっても自分から遠く離れすぎていて、得たいが知れないもののように感じる。
いくら想像しようにも取っ掛かりすらないのだ。これでは動機なんて思いつくはずがない。
そういうことばかり考え込んでいたら、機器の向こう側で変化があった。
(やべ、つけたままだった)
ノックの音がして、誰かが入ってきた気配がしたのだ。これ以上盗み聞きも心が痛むのでスイッチを切ろうと手を伸ばした。
どうぞ、という千石さんの声が耳に入る。
『よお、久しぶりだな。千石』
訪問者の声に、思わずその手を止めた。
『どこが久しぶりなんですか?相変わらずいい加減な挨拶ですね』
『おまえの主がなんの用だって?』
間違いない。この腹が立つほどの余裕っぷり、久保田さんだ。
なにをやってるんだ?あの人は。
確か久保田さんは俺たちよりも下の階に部屋を設けられていて、エレベーターで途中まで一緒だったはずだ。そのあと呼び出しをくらったということか。
しかしその会話で、この盗聴器がわりと出入り口付近に取り付けられていることを知った。声が大きく聴こえる。
『こちらです。源蔵様にくれぐれもご無礼のないように』
『へいへい。……あ、お邪魔します。何の御用でしょうか?』
一応敬語になったけど、千石さんと対するときと温度差がない。
きっと俺同様に、久保田さんにはこの人に対してなんの関わりもないからだと思う。畏敬する必要がないのだ。
『君が久保田君か。いっちゃんから噂は聞いているよ。だが噂と相違があるようだな』
源蔵さんも稔さんと対していたときと、その声質が違った。和やかな雰囲気が声を通して伝わってきた。
というより何の用なのか、俺も気になってしまって音を消すことが出来ない。
『どういう噂でしょう』
『相違があって、ワシは有能な男だと判断した。とだけ言っておこうか。結局君は誰もが気づけなかったことをこの一ヶ月であっさりと成し遂げたのだからな』
『はあ。そうですか……』
功男さんはあまり褒め言葉を源蔵さんには伝えてなかったようだ。久保田さんが脱力したように聞こえた。
『功男は気に入ったものを独り占めにする癖があるからな。まあ気にするな。……さて単刀直入に言おう。ワシの元で働かないか』
「え、えー……」
久保田さんより先に俺は弱々しい声を出してしまっていた。ちょっと驚いて頬杖をついていた体をのけ反らせる。
『はい?』
『損はさせん。今以上の充実した仕事と報酬を与えよう』
源蔵さんは本気だ。本気で久保田さんを買っている。
どういう答えを出すんだろうと身を乗り出した。
「なにしてるの?」
タイミングよく玲華がタオルで頭を覆いながら出てきた。
「いや、久保田さんがスカウトされてる」
「あっそ」
受信機を指差しながら言う俺に、玲華はさして驚いた風でもない。バスローブ姿で、髪を叩くように拭きながら近づいてきた。
「どうせ断るでしょ」
こんな玲華を見ているのも刺激が強すぎるが、久保田さんも気になって、ややパニックに陥る。
器機の向こう側では源蔵さんが具体的な金額を言っていた。高すぎてピンとこない。
『お断りします』
しばらく聞いた後久保田さんははっきり言った。玲華がほら、と呟く。
『なぜだ?悪くない話だろう』
『そうですね。魅力的な内容です。ただオレは人の下につくのは死んでも嫌なので』
(うわあ……)
一歩間違えば、高慢ともとれそうなことをあっさり言いのけた。
ある意味最強なんじゃないだろうか。この人……。
「良かったわね、悠汰」
なぜか玲華がにっこり微笑んでそう言った。
「な、なにが?」
「また久保田さんちに遊びに行けるじゃない」
こちらが考えていることなど、すべて見抜かれている。
嫌だなあとか思いつつ、まあなと一応頷いておいた。
「さっ。悠汰もシャワー浴びてきて。早くね」
「おまえな……」
少しはサッパリしたのか玲華の切り替えが早い。
釈然としないものを感じながらも、促されるように立ち上がり、風呂場へと向かった。
「ちょっとなにやってんのよ!自分の部屋で入りなさいよ」
「……いいだろ別に、ここまできたら」
「部屋にちゃんと着替えが用意されてるの。それ着てきなさいよ」
面倒くさい。
だけどここには玲華のものしかないし、女物を着るわけにもいかないので足を隣の部屋まで動かした。
あいつ、俺のこと男として見ていくれているんだろうか。上手く手の平で転がされている気分になる。
そんなことを思い巡らせながら、貰ったカードキーで開けた。
クローゼットを発見し、まずそこを開いてみると、着替えとして用意された服が確かにあった。それがまた……。
(なんでタキシード……)
二度と着ないと思っていたのに……。
まさか、この流れに持って行きたくて噴水に落としたのだろうか。もちろんそんなはずないけど、そう思わずにはいられない展開だ。
別に俺は説明会なんか出なくても、玲華から教えてもらえればそれでいいんだけど。
そう思いつつさっさとシャワーを終わらせ、仕方なく着てみる。
しばらくしたら玲華が来た。彼女も身だしなみを整え終えて、すっかりドレス姿だ。あのときのパーティを思い出す。
そして俺の着慣れない姿を見て笑っている。
「苦しかったらタイは外していいわよ」
そう言いながら玲華が外してくれた。ボタンを二つ外して襟元も微調整してくれる。
なんだ、そこまできっちりしなくて良かったのか。それならそうと言っておいてほしい。
「ごめんね、悠汰」
一息ついてベッドにでも寝転がろうかと思った矢先、後ろから玲華が口をついた。どこか遠慮がちにそこに立ったままで、まだ玲華らしさが出ていない。
いい加減元に戻ってほしいと思う。俺に言えないのなら尚更。
「なんだよ」
「あんなものを聞かせて。共犯にしちゃったわね」
「一緒に聞いてほしかったんだろ?だったら良いんだよ」
僅かに苛立つ。そんなこと気にする必要ないと思うし、遠慮されているような気になるから腹が立つんだ。
俺はそんな気持ちを押し隠すように、使用済みのタオルを片すためにバスルームに入った。適当に畳むこともなく、洗面台の隣のスペースにバッサと置く。そのまま出ると、玲華は同じ位置から動いていなかった。
「ねえ、悠汰はどう思った?揉み消すなんてこと、してもいいと思う?」
ここ最近、玲華はよく俺の意見を聞こうとする。
それがなぜだかわからない。俺が意見を言える立場だとも思えなくて、すごく困る。
「わからないけど……。玲華が許せないと思うなら好きにしたらいい。俺は反対しないし、いくらでも付き合う」
なにか思うところがあって、本来の自分が出せていないのなら、そんなの俺としても不本意だ。
「そうよね。……ちょっとついて来てほしいところがあるの」
それから俺の手を引いて部屋を出た。まったく表情が変わってない。
その雰囲気が地下水路を歩いたときのことを思い出させた。だからそのまま疑問をぶつけた。あのときの違和感の正体を。
「あんたたちがやけに遅いな、って思ったところに、悠汰だけがぐったりとしてたから。あたし比絽にどういうことか尋ねたのよ」
俺の方も見ないでまっすぐ歩きながら玲華が話し出した。
「比絽がね、悠汰を殺したって言うの。見捨てても良かったけど毅叔父様に殺させて終わりなんて面白くなかったって。だから空気をすべて吐き出させて、試したんだって。天に見放されるかどうか……。出口まで持ちこたえられなかったら、それまでの生命なんだから諦められるでしょって」
「比絽の、いつもの嘘だろ」
人を動揺させるための。
「いまなら、わかるわ。でも本当に息してないし、あたし頭が真っ白になって。人工呼吸が最優先だと思ったのに綾小路先輩は、ならば僕がするとか言ってぎゃーぎゃー騒ぐしさ。それで稔叔父様に綾小路を抑えといてって頼んだのよ」
なんか想像以上に壮絶な現場だったらしい。綾小路じゃなくて良かったとか、ここで俺は思っていいんだろうか。
「それですごく後悔したの、あの場を比絽に預けたこと。それから先に行かずに後から行けば良かったんじゃないかって。ううん、それだけじゃない。あんなに嫌がってたのに、むりやり水の道を進ませたこと自体、間違ってたんじゃないかって」
そのときのことを思い出したのか、繋いでいる手に力を込めた。
応えるように俺も握り返す。
「大丈夫だったんだから、もう心配すんなって」
「でも怖かった。一歩間違えば死んでいたのよ、悠汰」
ふと玲華が立ち止まり俺を見る。
それで情けなくて言いたくなかったことを伝えた。
「比絽は助けてくれていた。実は入った瞬間、俺はパニックになって暴れたんだ。息も自分から吐き出していた。だけど、それを押さえてくれていたのは比絽だ。それは覚えてる」
「……あんたが綾小路より信用してるのはわかったけどね」
どこか皮肉そうに玲華は笑った。それでも笑みが戻って俺はほっとする。
比絽があのとき、たとえそんな気持ちになっていたとしても、いま俺は生きている。それで充分だと思えた。
(そう、たとえ一瞬、殺気を感じたとしても)
比絽は最後の最後ではトドメをさせない。それは知っていたから。
「それで、これからどこへ行くんだ?」
「お祖父様のところよ。確認したいことがあるの。悠汰は黙って隣にいてくれればいいわ」
また硬い表情になった。
具体的なことは不明だけど、何についてなのかは俺でもわかった。
* * *
源蔵さんの部屋に戻ると、すでに久保田さんもいなくて、中は部屋の主と千石さんだけだった。
椿原さんたち使用人は会の準備に掛かりっきりだという。それがなくても、源蔵さんはいつも千石さんだけを近くに置きがちだったと玲華が教えてくれた。
その千石さんが通してくれる。
俺たちが訪問しても源蔵さんは追い返さなかったのだ。
すでにテーブルの上には将棋盤が片付けられている。上にあった駒はどうしたんだろうと、どうでもいいことを俺は不思議に思っていた。
「どうした?もうじき始まるぞ」
奥の方から正装に着替えた源蔵さんが出てくる。
「その前にお話したかったのですわ。皆のいないところで」
千石さんにソファを勧められても、立ったまま玲華は言った。
源蔵さんがなるほどな、と言って向かいのソファに腰かける。と、ようやく玲華も座った。
礼儀のひとつか、ってようやく気づいた。俺は玲華に促されるまま同じ動作をしただけで、まったくそういうことが身についていない。
俺は感心してしまった。良かった玲華がいて。
「苦情とやらか?」
「ええ。あたしはお祖父様が死ぬ予定だったってことも、遺言の期限が延びることも聞いていなかったわ」
まじかよ。恐ろしい人だな……。
チラリと源蔵さんを見たら、当の本人はなんともなさそうな顔をしていた。
「あれは玲華の為を想ってしたことだぞ」
聞き捨てならなかったようで、玲華の目がつり上がる。しかし源蔵さんは変わらず動じてない。
「へえ。その心は?」
「全く事態が動いていなかったようなのでな、皆に危機感を与えてみたのだよ。期限の件は、あのまま事が進めば、この目的も叶わず玲華への危険のみが増えると思うてな。それを阻止する為の完璧な手段だ」
「あらそう。ありがたくって涙が出るわね」
「そう怒るな。終わりよければ全て良し、という言葉があるだろう」
なんか最後の言葉については同感したくなった。
「仕方ないわね。だったら護衛の人たちはどういうことかしら?」
「護衛がどうした?立派な人材を派遣してやっただろう」
「結局、前田さんたちも加藤さんも、お祖父様の指示で動いていたんでしょう?久保田さんがそう推理したのよ」
前田さんといえば、控え室で意味深な発言を聞いている。ひとつの駒にすぎないって……。つまり源蔵さんの駒だったってことか?
「あやつらには自然体でいろと命じたのだ。誰ぞに誘いや脅しをかけられることがあれば、不自然にならん程度に付き合ってやれとな」
「なんで、それが自然体……」
つい俺は呟いてしまった。黙っていてと玲華に言われたのに。それぐらい突飛な内容だった。
「あとは適当にやれと言っておいた。各々が思うとおりに。加藤がまず、幸祐なんぞの誘いを乗るとはさすがに思わなんだったがな。最終的に前田は玲華に、加藤は久保田君に心が動いておったようだの」
聞けば聞くほど、なんて人だと思う。
実は楽しんでるだけじゃないか?今回のこと……。玲華も頭を抱えていた。
「稔叔父様、そこでも嘘ついてたのね」
「嘘?」
俺が気になって聞くと、止められることなく玲華は頷いた。
「そう、自分が幸祐のために加藤さんに手引きをしたと言ったのよ」
それもすべて今回のことを隠蔽するために?
なるほど、頭を抱えたくなる内容が少し違ったようだ。
「つまりすべてお祖父様の仕業だったということで良いのかしら?」
「……ああ、そう思ってくれていい」
なぜか一瞬だけ間が開いたような気がした。
きっと嘘だからだ。聴いて把握した内容から、そう持っていこうとしているんだ、と思った。隠蔽にもう動いている。
玲華も解っているはずなのにすんなり頷く。
「でしたらもういいです。そのまま引き続き受け入れたのはあたしですから。やっていくうちに、徐々に気づいていたの。もしかしたらお祖父様はいまも生きてるんじゃないかって。これも作戦の内だって。だから今更ぐちぐち言うつもりはないわ。理由を聞きたかっただけなのよ」
「さすがだな」
本当に愛しい孫を見るような顔になった。
とりあえず源蔵さんが玲華をめちゃくちゃ認めているのは肌で感じた。
「だって車椅子も体調悪くしていたのも、そもそもそこからが芝居だったんだもの。病気が悪化なんてするはずないのよ。病魔なんて襲われていないんだから。椿原さんがあたしまでお祖父様に近づけないようにしたのも、そちらから何のフォローもなかったことも怪しいと思ったわ」
「鋭いな。しかしワシがさすがだと褒めたのはそのことではない。潔いところだよ、玲華」
「あたしはお祖父様の期待に応えられたのかしら?」
「ああ。期待どおりだ。おまえじゃなければ疾うに毅に全権が渡っていただろう。人命の被害も結果無く、眞奈美の子供も見つかった。眞奈美自身もすぐに探し出せるだろう」
「以上でも以下でもないということね」
ぽつりと玲華が小声で呟いた。どこか悔しそうに聞こえる。
その次の言葉でその真意が俺にも分かった。
「人命の被害者は一人いたわ。それでなくても傷ついた人もいる」
ひとりは幸祐という男のことか。玲華の従兄で、今回命を落とした人。
「おまえたちは犯人探しをしておったな。あれは悔やむことは無い。その他のことについても、玲華に責任はない」
悔やむこと無いと言った源蔵さんは、睥睨するような空気が漂っていた。
それでも玲華は切り込んだ。
「お祖父様、さきほどすべてご自分の仕業と仰いましたよね?」
「それがどうした?」
「あたしには稔叔父様をも向けての言葉に聞こえました。稔叔父様とどんな会話をなさっていたかはわかりませんが、叔父様は真犯人を確認されたのでは?その返答、ということですね。貴方はすべてを引き受け、この件を揉み消そうとなさってるのではないでしょうか?」
聴いていなかった前提で玲華は話す。
それで俺には黙ってろと言ったみたいだ。俺がここで下手に口を挟むとおかしくなる。
源蔵さんは一度ソファに座りなおした。
「このことは公にはならない。だからおまえも忘れなさい」
それが答えだった。決して逆らってはならない命令。
すでに源蔵さんからは軽い雰囲気が感じられない。もし俺がいまタメ口をきいたなら、刺されそうな……そんな迫力があった。
「お断りするわ。ひとりの命が亡くなったのよ。稔叔父様だって瑞穂だってそんなこと耐えられないはずだわ」
「稔はすでに納得しておる。瑞穂はワシに何かものを言う度胸はないだろう」
「そういうことが問題ではないわ。納得したって、何も言わないからって心中が穏やかでいるわけではないもの」
源蔵さんの目に迫力が深まる。目で制するように玲華を見ていた。
だけどすぐにふっと不敵な笑みを浮かべる。
「その中に足りない名があるな」
玲華がハッと顔を上げた。
そうか、両親だ。
いくら玲華が聞いてないことにしようとしていても、毅さんを悲しむ一人に入れていない。
恐らくだけど源蔵さんはなにか気づいたのかもしれないと思った。
逡巡し、そして玲華は口を開く。
「お祖父様。わたくしは一度、あなたと真剣に対決したいと思っていました。これはまさに絶交の機会ではないでしょうか」
「むざむざ悲傷にその身を投じることはない。これは決まったことだ。一人の人間の他愛ない過ちで一族が……いや、西龍院が与える経済への影響に波が立ってはならぬ」
「よく仰いますね。ご自分のスキャンダルを棚に上げて。幸祐の覚醒剤ぐらいで、ぐらつくような家ではないでしょう?」
「そうではない、玲華。ワシのことは周知の事実で今更騒ぎになどならん。しかしこれは別だ。継承時は最も注意せねばならんのだ。揺るぐことがなくても発端になるようなことは困る」
「つまり、引退するお祖父様の過ちよりも、次に継ぐ者の不祥事は問題っていう……」
不意に玲華の言葉が途切れた。
何かを予測して、続けることが躊躇われたように見える。
「急くな。ワシはまだ誰を跡に就かせるか決めてはおらん。その者が揉み消す力が無いやもしれぬと言っておるのだ。その前にワシが処理する」
「その人が、揉み消さない可能性もあるかもしれないし?」
どこか挑戦的に玲華は身を乗り出した。
それに源蔵さんはクッと咽喉を鳴らして笑った。
「玲華。おまえは度胸があるし聡明だ。ワシはおまえが継いでくれるならと、今でも思うておる」
「冗談でしょう?あたしとお祖父様の思想は異なります。継いだ瞬間、違うものに生まれ変わってしまうわよ」
「それも面白いと思うがな。ワシとしても一度、本気でやりあってみたい」
「先ほど申したことは机上の空論ですわ。お忘れください」
玲華が手の平を返したように深々と頭を下げた。
その行動に意外に思う。玲華は諦めたのだろうか。
「それより玲華、そろそろ時間だ。おまえはワシの隣にいなさい」
「お断りするわ。あたしはもうお祖父様の命令に従う理由はないもの。貴方にはもう、ついていきません」
そう言うと、玲華の手が俺に伸びてきた。
(玲華……)
何かを求められている気持ちだけわかって、俺はそれに応えるかのように握る。
もう、どこにもやらない。
「おまえがいないと好き放題、虚実取り混ぜて話すぞ。それでもいいのか?」
なんつー卑怯な脅し方だ、と思った。
あの玲華でさえ言葉に詰まってしまった。
きっと本気でそれをやってしまう人なんだ。本気で、玲華を継がせたいと考えるなら、どんな強行な手段でもとってしまえる人なんだって、今ならわかった。
そういうのは、ムカつく。人の意思を無視したやり方なんて許せない。
「そんなの、いたっていなくたって一緒だろ?あんたの言うことが絶対になるんだったらさ。そんなみえみえの駆け引きで人を縛るのってどうかと思う」
ここで口を挟むと、今回初めて源蔵さんの目に俺が映った。
凄い眼力で睨まれたけど、俺は負けじと睨み返す。絶対に譲れないものがある。だから負けてはいけないところだってあるんだ。
それがここだと思った。
「もういいわ。行きましょう悠汰」
だけど玲華がそれを断ち切る。少し強引さを感じた。
一瞬戸惑ったけど、玲華に続いて俺は立ち上がった。いつまでもここにいたら確かに不利になるかもしれない。
(あ……)
ひとつ忘れていたことがあった。多分いまやらなければ、一生その機会は訪れないと思ったら、こんな空気でもしないわけにはいかなくて。
「千石さん。ありがとうございました」
玲華と繋いだ手を離さないまま、立ち止まってそれだけ言った。
少し玲華がきょとんとした顔をしている。説明する余裕もなくて、それだけ言うのが精一杯だった。
「は……」
突然振られた千石さんはとても困惑していた。それから俺が何を言いたいのか、ようやくわかったようで、一瞬源蔵さんの方を窺ってから言った。
「いえ、私は玲華様に頼まれたことをしただけですので」
なんか感心する。久保田さんの言ったとおりの返答だと思った。
あまりここにいても恥ずかしいので、逆に玲華を引っ張った。
「あ、ちょっと待って」
次は玲華が立ち止まる。
そして俺の手を離すと、出入り口を入って右側の壁にある絵の額縁を掴んだ。
ヒョイと持ち上げ裏にあった黒いものを取る。盗聴器か……。
「これは回収していきますわ、お祖父様」
そして傲然と微笑む。
(あっさり自分からばらしやがった)
いつもの玲華に戻った瞬間ともとれた。ビビってんのは俺だけみたいだ。
源蔵さんはとくに驚いた様子もなく、やられたなと言った。俺でも、それがそのままの真意じゃないことはわかる。
やっぱりとんでもない一家だ。