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第四章 ・・・ 6

 あたしが真っ先にお祖父様に言われたことがね、誰を後継者にするか決めかねているってことだったの。あの発表をしたうえで、誰がどういう動きをするのか見極めたいって。

 だからあたしに協力してもらいたいって。

 最初は当然断ったわ。だってあたしには誰が跡を継ぐかなんてどうでもいいもの。

 それにやめるようにも説得したわ。みんなを試すような、そんな馬鹿にした話ってないじゃない?

 でもお祖父様は言ったのよ。

「このところ学生生活が楽しいようだな。それを泡沫(うたかた)のものにしたくはあるまい」

 すぐに悠汰のことを言ってるんだと思った。お祖父様の呼び出しよりパーティを優先にし、そこで同伴させた見知らぬ男がいるってことで、お祖父様の耳にも届いてしまっていたの。

「あたしを脅すつもり?」

「この程度で狼狽するようでは、これから先が辛いぞ。代え難い駆け引きや選び難い選択が待ち受けるだろうからな」

「それはあたしがやることを前提とした言葉ね」

「そうなる。もう決まった未来だ」

「ならば、引き受けるだけ引き受けて、あっさりあたしが適当に署名して終わらせたらどうするの?」

「おまえにそれは出来ない。そういう性分だと見抜いておる」

「でもあっさり負けて、強引にさせられるっていう流れもあるわよ。そしたら見極める前に終了ね」

「それならそれで構わん。予告どおりその者に望むものをやるだけだ」

「えっ。マジ?」

「そうマジだ。だからおまえももっと軽い気持ちでやってくれれば良いんだよ、玲華」

 柔らかい口調で引き受けてくれるか?と、お祖父様は続けたの。

 そのときはとりあえず考える時間を欲しいと伝えたわ。だけどお祖父様はしたたかね。期限を与えられちゃった。



 玲華は一旦言葉を切って、濡れた髪を拭くことに気を取られていた。

 車が走り出し、怒涛のごとく話し出してくれたけど、これからどこに向かうのかは教えてもらっていない。

 そこまでまだ到達してないんだろうけど、気になっているところから教えて欲しいものだ。

「その期限ってあれだろ?おまえが結婚式抜け出した日だろ」

「知ってたの?」

 たまらず口を挟んだら、玲華がちょっと驚いていた。

「理事長に聞きに行った」

 そういえば俺がどこまで知ってるか言ってなかった。

 あまりこの部分は面白おかしく話せるところじゃない。一番最初に俺が玲華を信じられなくなった起点だから。

「そう……。他には何を聞いたの?」

 俺は聞いたことすべてを答えた。二重説明をしてもらう時間を避けるために。理事長に余計なことするなと釘を刺されたところまで。

「お父様は悠汰に期待をしようとしたんだわ。自分が動けない代わりに動いてくれる別の人を探していた。でもそれがとても危険なことだと、悠汰と話しているうちに改めて感じてしまったのよ。それでそんな中途半端なこと言ったんだわ」

「中途半端……」

「だってあたし、もうひとつお父様に重大なことを話していたの」

 僅かに眉を寄せて、切なそうに吐息を吐いた。

 話すことさえさせてはいけないような。そんな気分を、傍から見ているものに与える哀愁があった。

「あたし……。比絽が、あたしの義兄(あに)だって知ったとき、ものすごく驚いたわ。……でもそれは、それが比絽だってことに驚いたの。つまり知っていたのよ、そういう人が存在するっていうこと」

「えっ?」

「それは、今回のことで知ったんだけどね……」

 フェイスタオルを被って玲華はちょっと俯いた。



 あたしがお祖父様の提案を決意して、条件を出したのは、時間をもらってもっとじっくりやりたかったからなの。どうせ逃げ切れないことはもうわかってたしね。

 でもあのときはそれどころじゃなかったし、こんなタイミングでやってもすべて失敗するような気がして。それが怖かったんだわ。

 お祖父様は了承してくれた。

 世羅と悠汰の件が解決して、何度かお祖父様のところへ行ったの。打ち合わせをすることにしたのもあたしの提案だった。

 話を進めていくうちに、どうしても気になっていることを聞いたのよ。

「でもどうして毅叔父様では駄目なの?みんな薄々、継ぐのは毅叔父様で間違いないと思ってるわよ」

「それだよ。本人も確信めいたものを持ってしまって、最近はどうも粗野な態度が見える。とはいえ清志郎はあの気性だしな。和志もいまいち度胸が足りん。稔は女第一でこういうのは向かない。他のものは論外だな。平均点でも劣っておる」

 会話を続けていくうちに、お祖父様もくだけた口調になっていった。本当に孫との会話を楽しむ祖父って感じだったわ。だからあたしも遠慮がなくなってしまったのよね。

「稔叔父様のその評価は、間違いなくお祖父様に似られたと思うのよね」

「言うようになったな、玲華。男を知ったな」

「やだーお祖父様、その表現エローい。相変わらずねーもう」

「あたりまえだ。まだまだ現役だぞ」

 豪快に笑うお祖父様の隣で、青ざめている千石さんがとても印象的だったわね。

 でも、その会話の後、ふっとお祖父様が真面目な顔になったの。

「このまま毅に任せては騒乱が起きる。おそらく清志郎あたりが派閥をつくり、この血族は決裂するだろう。それを抑える力は毅にはない。あやつはただ腕ずくで抑える手立てしか知らんからな。……上に立つものの素質、本来必要なのはそれだ。下のものに信頼を得られないものは、未来永劫立ち続けることは叶わん」

「そういう人はここにいるの?」

「さあな……。それに最も近い者を探したいんだよ、玲華。まだワシにも見せてない、そういう一面を持った者がいるかもしれんからな……」

 何かを探るようにお祖父様の目が泳いだ。

 その表情であたしはあるひとつの可能性に気づいたんだ。

「もしかして……お祖父様……」

 口にしようかどうしようか、あたしはすごく迷った。

 それでも、止められなくてつい言ったの。

「本当はお父様に継いでもらいたいんじゃないの?……まだ、お父様を……」

 それは禁句だった。

 この家で除籍されたお父様は、お祖父様から正式にいないものと思えと、言われたようなものだから。里帰りすることが年に一回くらいあった。許されていたのはそれだけで、こういう話題で出すことはとくに禁断とされていた。

 でもお祖父様は制止したりはしなかった。ただ少しだけ寂しそうに笑ったんだ。

「あやつは最も均衡が取れていた。おまえには情けないように見えるかもしれんがな」

「そんなことは……」

「ただあやつ……薫は、小百合さんに会っておまえが産まれて、そして変わった。それは間違いない」

「以前のお父様はどんな人だったの?」

「自分というものをひたすらに隠しておった。このワシにもな」

 そして、あたしは聞いたの。

 あたしのまえに、お父様が子どもをつくっていたことを。

 それはとても許されない、裏切り行為だった。お母様とすでに婚約していたうえに、お祖父様の相手を寝取ったってことだから。

「ワシは薫の話も聞かずにただ怒ることしかやらなんだ。そのとき初めて口答えをしたあやつの話を、ひとつも聞いてやらなかったんだ」

「お祖父様……」

「信じられるか?玲華。そのときの薫の言い分は、女性側、眞奈美(まなみ)から仕掛けてきた罠だったと言いおった。一昔前からよくある言い逃れだ。ワシは到底信じられなかった。それでも眞奈美を完全に追い出し、薫にはその時任せていた企業をすべて撤退させることで終わらせた」

 苦渋の表情を、お祖父様は浮かべていた。

 あたしは初めて聞く話の連続で、すぐには何も言えなかったんだ。

「おまえの前だから言えることだが、あのときの処分を悔いておるよ。今ではな……。ワシは知らなかったのだ。女は奥が深い。今でも理解することは不能だと思っておる。そう眞奈美の性質を、あの頃のワシは洞察することができておらなんだ……。あれから調べさせて、薫の言うことが事実だとわかったのだ」

「罠って、どういうこと……?」

 直接的に聞いたら、お祖父様は珍しく一瞬言葉に詰まった。

「まあ、それはあれだ……。仮にも未成年の玲華に話すとなると……どこまで言っていいものやら……」

「あ、そう。ふうーん。そんなところで都合よくあたしの年齢を気にするんだ。まー男は単純だもんねー。どんな色仕掛けだったとしても、起こしてしまった過ちは女からしてみれば許せないのよねー、お祖父様ー」

「そう言うな。……ともかくワシは共感してしもうたんだ、薫の苦しみを。それでは仕方ないと……」

「いいわねえ男同士で理解できるってねー」

「玲華。気をつけろ。男とはそういう生き物なのだ。いくらおまえが信用していようとも、なにが起こるかわからん。今の男とて例外ではないぞ」



「……って、言われたのよねー」

 なぜかそのときだけ、玲華は目を細めてチラリと俺を一瞥した。

 完っ全になにか言いたげだ。しかも俺にとって良くない方向。

(無責任なことを!)

 いまは亡きそのお祖父様とやらを、俺はちょっとだけ恨んだかもしれない。そうか、恨むってこういう感じか。

「えっと……それで?」

 なす術なく、俺は先を促した。

 玲華はちょっと、どうしてやろうかって目をしたけど、話を続けてくれた。

「それで、お祖父様はその後、その眞奈美さんに子供がいたって事実を知ったのよ。で、たまたまとはいえ、お父様の血を引いてる男がいるってことを知って、その子供を捜したいって打ち明けてくれたの。これが今回の本当の目的だったってわけよ」

「えっ……。比絽の存在は知られないまま……?」

 こんなにいろんなことがすぐ耳に入ってしまえるのに、比絽のことだけわからなかったっていう事実が納得いかなかった。

「そうなの。その女性がどこでその子供と生活しているのか、手がかりが無かったんだって。眞奈美さんはかなり聡明な人だったみたいね。巧妙に自分を隠し、こっそり笹宮さんに預けていた。でも必ず彼女なら現れるとお祖父様は思ったみたい。だから隅々にまで今回の発表のことが届くように通達を出したの。その女性は西龍院という名に拘っていた。そう、初めからお祖父様に近づいたのも計算のうちだったらしいわ。後から気づいたみたいだけどねっ。あのお祖父様でもっ」

 なぜか後半ちょっと怒ってる。男全てが、そういう……女性に騙されるもんだと思わないで欲しいんだけど……。

 目だけでそれを訴えたら、とりあえずそれについてはなにも言わなかった。

「でもあたしも違う想いでその子供のことを知りたいと思った。だって、お義兄様になる人よ。知りたいじゃない?まさかそれが比絽だとは思わなかったけどね」

 複雑な表情を玲華は浮かべた。とんでもない展開で、俺にその気持ちが解るはずなくて、どういう顔をしていいかわからない。

「でもあたしだって、簡単にお父様を許せたわけじゃないの……。話を聞いたその日に、お母様のいないところで、ちゃんと本人から聞きたくて伝えたのよ、あたしが知ったこと」

「理事長はなんて?」

「一瞬青ざめていたわ。それでどんな言い訳をするかと思ったら……。ただ謝ってきたの。……最悪ね」

 玲華の目が赤くなってきた。俺はその横顔を見ていることしかできない。

「でも許したわ。だって仕方ないじゃない?お母様が許したのよ。だから現在(いま)があるの。いまさらあたしが何かを言ったって……それがなんになるの?」

 必死で泣くことを堪えながら、でもそう言う玲華は、すごく大人に見えた。

 許すってことは容易じゃない。だからみんな苦しむんだ。

「その仲直りの印が冷蔵庫なのよ」

 へへっと玲華が笑う。

 俺は堪らなくなって、玲華を抱き締めた。

「おまえ……俺になにも言わねえで……」

 聞いたところで、俺になにかできたとは思えない。それでも不参加だった事実があまりにも悔しかった。

 やっぱり後から聞くだけなんて嫌だ。

「悠汰……。このことはトップシークレットだったのよ。だってお祖父様はその子に期待してたんだから。とくに直接的にはなにも仰らなかったけど、あたしにその女性の子供を見つけて欲しいと思ってると察したわ。……お父様の子供っていうことだけで……。お祖父様は結局、お父様しか認めてなかったのよ。このことが知れたら、毅叔父様や清志郎伯父様が暗殺してしまう可能性があるでしょう?」

 だから言うわけにはいかなかったの、と玲華は続けた。しっかりとした声だった。

 家の事情で言えなかったのか……。

 ならば仕方ないと、思うべきなんだろうな、俺は。

「いつからか、あたしね。お祖父様の想いとか、今までのこととか、なんとかしたいと思うようになって……。これが解決しなければ、あたしも前に進めないと思ったのよ」

「前に、進むため?」

「そうよ。晴れやかな気持ちでこれからも悠汰と進むためよ。だから徹底的にやろうと思ったの。こんなふうにあたしがやることも、お祖父様にはお見通しのことだったんでしょうね……」

 それは俺も考えたことだった。進むために、拓真を選んだときと同質の想い。

「そこに、俺が邪魔しに行ったのか……」

「それは違うわ。悠汰ももう歯車の一員だったのよ。様々な要因が重なって結果があるのだから。悠汰がいなければ、比絽は明かしてこなかったかもしれない。それに悠汰がいたことで、間にクッションになってくれたから、まだ被害が最小限に抑えられたのよ」

 いつものように、確信的に彼女は言う。

 それが本当ならば、どれだけ良いか……。

 俺のしたことが役立っていて、無駄じゃなかったって玲華が言ってくれたことで、本当に救われた想いがした。

「じゃあいい。良かったんだよな」

「そうね。何回もヒヤヒヤさせられたけどね」

 悪戯っぽく彼女は笑う。

 そんなのは俺だって同じだ、バカ。

 そう返したかったけど、胸が一杯で何も言えなかった。


   * * *


 結局、どこへ行くのか説明してもらえないまま、ベンツは目的地にたどり着いた。

 というのも、これまでの話をお互いにしていたら案外長くなってしまって、その内に着いてしまったのだ。

 駐車場につけることなく、ベンツはその建物のロビー口につけられる。常備佇んでいる制服姿の人が、何人も左右に分かれ花道で丁寧に出迎えられた。

 そこはホテルだった。

 レイシエロ(きらめき)ホテル。五ツ星で豪華で世界的にも超有名なところだった。

「ここ西龍院の系列のホテルなの。あのときの結婚式もここであったのよ」

 玲華がそう説明して車を降りる。

 優秀なドアマンは、あきらかに濡れて渇いた状態の俺たちを見ても顔色ひとつ変えないで、お辞儀をしていた。

「お待ちしておりました」

 なぜかそこに燕尾服の椿原さんがいて、俺たちを案内してくれた。

 あの混乱に乗じていつの間にか移動していたみたいだ。

 比絽たちもちょうど同時に着いたから、六人で案内されるままエレベーターに乗車した。フロント係の人やホテルマンたちも、とくに気に留めたりしない。

 でもおそらく俺がこんな姿で一人突っ切ろうとしたら、怪訝な顔をされるか最悪止められるんだろうな……。この差はすげえよな。

「ここで休憩でもするのか?」

「行けばわかるわ」

 またこの対応だ。

 俺はこれまでと同じように納得できない感情に陥る。

 目の前にわかってる奴がいるんだから、さっさと聞いて落ち着きたい……。元から俺はそういう性分みたいだ。

 それでなくても、先ほどまでの妙な空気がまだ漂っているのに。

(っていうか悪くなってないか……)

 とりあえず誰も口を開かない。居心地が悪い。

 また乗ってる時間も長かった。どこまで上がるんだろう。

「こちらです」

 エレベーターを降り、謎めいた微笑みを残し、先に椿原さんが歩く。

 誰もなにも言わないで、椿原さんにただ着いて行くだけだ。だから俺も黙っていた。

 きらびやかで長くて広い廊下。ホテルの警備員が二人立っている奥の扉の前で椿原さんは止まった。

 ノックをしてから促すように扉を開けてお辞儀をする。

 それに稔さんから入っていく。

 足を踏み入れたとき、中の豪華さに唖然とした。いや、あの家にいて少しは耐性ができていると思ってたんだけど。それでもこれが噂のスウィートかって……。別の凄さがある。

(この人……)

 中には使用人が五人ほどいたが、それを除くと二人の人物が顔を並べていた。

 一人は知らない顔だ。でももう一人に俺は意外に思っていた。

 なぜ、ここにいるんだろう。

(まさか……)

 俺が気後れするほど広くて豪華な部屋に、その人はこんな部屋には似つかわしくない和服だったりする。それなのに当たり前のようにそこにいた。気後れすることなんてあり得ないようだ。

 もう一人の人は馴染んでいるうえに悠然と構えている。それどころか、その人の前ではこの部屋さえくすんで見えた。高価そうなスーツ姿で、見る人が見ればマフィアっぽい。

 いや、それよりも二人の間にあるのは将棋盤ではなかろうか。洋風のテーブルの上にあって、不似合いすぎる。

「おっ?やっときたか。遅かったな」

 見知った顔がそう言う。

「どういうことだ?玲華。なんでこの人がここにいるんだよ」

「それはあたしも知らないわよ。遊びにきたんでしょう?」

 俺が疑問をぶつけると、玲華はさして驚いた様子もなく淡々と答えた。

 あ、遊びって……。

 そういう表現がまったく似合わないんですけど。

「驚いてるのは少年だけのようだな、つまらん」

 どこか不服そうにその人――浅霧功男さんがひとりごちていた。

 えっ、ちょっと待てよ……。その功男さんよりもオーラがハンパないこの人って……?

「そう言うな、いっちゃん。遥々(はるばる)戦場の地から戻ってきた者たちだ。もっと笑顔で迎えてやれ」

「そうは言うてもな、ワシはそこを楽しみにわざわざこんなところまで、げんちゃんの暇潰しの相手をしに来てやったんだぞい」

 なんか和やかすぎる二人の会話。そして極めつけ。玲華の挨拶が……。

「お久し振りですわ。功男様。お祖父様もお元気そうで」

 おじ……お祖父様っ!?

 あれが玲華の祖父?いや、そんなことより。

「えええっ!どういうことだ?死んだんじゃなかったのかっ!」

「こら!言葉に気をつけろ!」

 驚きのあまり玲華にたたみかけたら、なぜか綾小路に怒鳴られた。

 自分は知っているから余裕かましていられるだけのくせに……卑怯なやつだ。

「ごめん、悠汰。なかなか話すチャンスなくて。今もほら、会話途中で着いちゃったでしょう?」

「真っ先に言うだろ!普通は!」

「知らないわよ、普通なんて」

 申し訳なさそうに両手を合わせていたくせに、俺が突っ込むと腕組みをしてそっぽを向いてしまった。

 あのなあ。矛盾してないか?

「ふぉっほっほ。久しぶりだの玲華さん。それに少年も。変わりないようだな」

 軽く笑いながら片手を上げる功男さんのその奥で、源蔵さんが言う。

「死んでなどいない。もちろん幽霊でもないから安心してよい」

 俺の非礼を責めるどころか、豪快にその人は笑った。

 安心してよい、って……そういう問題じゃない気がするんだけど。

「本当……だったんだ」

 聞いていても信じられなかったのか、どこか茫然と比絽が呟く。

「今までのこと、全て嘘だったんですね。どこまでも人を馬鹿にしたっ……」

「嘘ではない。芝居だよ。なかなか難しかったのう、死体役は」

「その場にまずワシを居合わせろと言うたのに、げんちゃんは頑なに拒否しおった。まったく頑固じじいが」

「当然だ。流れがおかしくなる。あと、頑固さではいっちゃんが(まさ)ってるぞ」

「そんな話しはどうでもいい!」

 笑い合う二人に比絽が爆発的に怒鳴った。

(比絽……)

 そうだ。比絽はこの人も憎むべき対象としているんだ。

 そんな人が死んだと思っていたのに、いま目の前に存在している。

 俺にはそれがどんな想いなのか計り知れない。

 きっと、戸惑いとか憤りとか……半端ないんだろう。感情が高まって真っ赤な顔になっている。

「ぼくのことを知ってたっていうのは本当なんですか!?それでこんなことをしたって言うんですか?」

「おまえがあの時の子か。随分長らく日影に隠れておったな」

 優雅に肘を突き、まったく動じずに源蔵さんは口を開く。

 それでも感慨深かったはずだと思った。玲華の話によればきっとそうだ。

「逸らさないで答えて!」

「そう逸り立つな。嘘ではない、と言っておこうか」

 比絽の癇癪にもまったく意に介さない。本来醸し出されている威圧感が凄いから、比絽も言葉に詰まったようだった。

 だけど、代わりに稔さんが比絽の肩を押さえて、一歩前に出た。

「ちゃんと説明していただけますね?なぜこんなことをされたのか、これまでのこと全て」

「よもやまさか、おまえが毅より早くワシのところまで辿り着くとはな」

「それも想定内だったのではないですか?おれよりもずっと内情を把握されていたのでしょう」

「どういうことだよ」

 なぜ中にいる稔さんより、いない源蔵さんが詳しいんだろう。

 聞かないとどんどん進みそうだったんで、口を挟ませていただいた。

「おれが持っていた盗聴器、実は父が設置したものなんだ。おれは便乗受信をしていただけだったんだよ」

「え?」

「あら……やっぱり?」

 なんだと?ええとつまり……稔さんが聞いていたことはすべて源蔵さんも聞いていた?

 混乱してきた。

 だけど玲華は少しだけ意外そうに口元を押さえただけだった。

「それがなくても、沢山自分の配下を置いていったわけだからね。情報を得ることぐらい容易いことだったと思うよ」

「それはそうよね。お祖父様、あたしも実は言いたいことがたくさんあるの。ええ、苦情に類するものかしら。聞いていただけるわよね」

 あ、玲華がむくれてる。丁寧な口調で怒るパターンだ。

 源蔵さんが苦笑した。この人が玲華にビビるわけはないだろうけど、どこか視線を逸らして誤魔化そうとしてるように見えた。

「まあな。しかしもうじき皆も来る。集まってからにするというのはどうだ?」

「みんな?」

 皆って、つまりどういう範囲を言うんだろう。

「そう、みんなだよ」

 俺の呟きに律儀に源蔵さんは答えてくれた。

「もうじき薫が連れてくるだろうからな」

「え?理事長が……?」

 俺はおうむ返ししかしていない。それくらい動揺が引きずっていた。

 それから、すごく納得いかないことがあって……。

「そうだ。なにか問題があるかね?」

「……それってアナタが一人で家に帰れば、その方がスムーズだったんじゃないですか?」

「だから立場をわきまえろと言っているだろう!神崎!」

 また綾小路に注意された。こいつ俺ばかり目の敵にしてる。

 だってそうだろう?

 みんな集めるんなら、おまえが来い……とまではさすがに言えないけれど、言いたくなる気持ちはあるじゃないか。それぐらい大変だったんだから。

(この人が来れば一発で解決したんだから!)

 そうだよ、俺は泳がなくても済んだんだ。……実際には泳いだとはいえなくて、ただ比絽につかまっていただけだけど。

「まあ、よい。亨君。しかしな、薫が出向いたのはあやつの判断なんだ。ワシはここから離れて明かすつもりは今も尚、皆無なのだよ。しかしあやつはいくら止めても全く聞こうとせんかった」

「完全にお主の子だな」

 再び功男さんが茶々をいれる。頑固って言いたいんだろう。

 って、そうだ。実は見た目より軽いキャラだった、この人……。一度会話したときのことを思い返した。

「お父様はなにしに向かったの?」

「何をしにってな、おまえのことを憂慮(ゆうりょ)したに決まっておろう、玲華。ワシがここにいる情報をつかむや否や怒鳴り込んできたんだぞ。あの薫がな。滅多に見れんものを見せてくれたお礼に話してやったんだが、それから行くと言ってきかん。それでも暫くは薫を止めていたのだが、ある情報が入り込んだ途端ワシでも止められんようになってしまった」

 その時を思い出したのか、源蔵さんが僅かに柔らかい顔になった。

 それに合わせて威圧的な雰囲気がなくなる。こんな一面もあるんだ。だったらずっと笑っていてくれたら周りの人も恐くないんだろうに。

 でもその次にちらりと俺を見たときには、源蔵さんは不敵な笑みになっていた。

 うっ、と思わずたじろぐ。

「お主のことだぞ、神崎君とやら」

「は?」

「お主が忍び込んだことを耳にしたからだ。大局が動くことを予見したのだろう。ワシは邪魔をされたくなかった、玲華が自発的に出てくるまではな。しかし薫は全てを振り切り、先のことも考慮せずに飛び出して行きおった。娘が関わると冷静になれんのは相変わらずだな」

 うわ……。

 俺も理事長の制止を無視して行ったんだって今頃思い出した。しかも俺のせいって……。

 なぜか理事長には嫌われたくないって想いがある。それはやっぱり、玲華の父親だから。

(これを期に引き裂かれたらどうしよう……)

 もう逢っちゃいけませんとか……。実に言いそうだ。

「それであなたは手を貸したのですか?兄さんに」

 稔さんの声が一オクターブ低くなった。

「なぜそう思う?」

「あなたは昔から兄さんだけは贔屓目で見ていた。わかっていて、むざむざ不法侵入なんてさせないでしょう」

 すべて知ってるんだ、この人。

 理事長しか認めてないって玲華が言ったこと。稔さんはきっと長年近くでいて、肌で感じていたのかもしれない。

「気にすることはない。この期に及んで復権などさせん。ワシがしたことはあくまで時間稼ぎだ。力を貸す代わりに一日待てと言ったまで」

 稔さんは俯きがちに黙る。

 きっと、そういうことじゃないんだ。理事長だけが特別扱いされてるって感じているのは、権力のことだけじゃなくて……。

 兄弟間の嫉妬って多かれ少なかれ、どこにでもあるんだって思った。

「皆が来るまで別の部屋で休むといい。ワシがすでにいくつか手配しておいた。おまえたち、寒中水泳をやったままだろう?」

 不意に源蔵さんが話を変えた。

 そういえばそうだ。気持ち悪いままだったりする。車内でガンガンに暖房をかけてくれたらから、寒くはないし、大方渇いてはいるけれど。

「まさかいくつかある脱出口のなかから、あの場所を選ぶとは思わなんだわ」

「え……」

 ちょっと待て、本当に必要なかったんじゃないか?俺の決意……。

 これには玲華も眉をひそめていた。

 わざとじゃないわけだ……。

「ではワシは帰るかの」

 よいしょ、と一声かけて功男さんが重い腰をあげた。

 玲華がそれに反応する。

「えっお帰りになられるんですか?」

「暇つぶしという努めは果たしたからの」

「勝ち逃げとは見下げたやつだな」

「心配せんでもそれもワシの勝ちだ。言っておくが、動かすなよ、じじい」

 功男さんが将棋盤を指差した。

「抜かせ。ワシはチェスでは誰にも負けんのに。ルールを覚えろと言っておろうが」

「あんなもの無用の俗物だ」

 ふん、と功男さんは鼻を鳴らす。

 というかこの二人、いつもこんな感じなのだろうか……。

(すごい二人なんだよな……)

 確認せずにはいられない。それは以前功男さんと会ったときもそうだったんだけど、今日は輪にかけてそう思うし、もうひとり増えてるときた。

 功男さんが出ようとするちょうどそのタイミングで、ノックもなしにいきなり扉が開いた。

「玲華!」

 理事長だった。いつものスーツ姿でビシッと決めているけれど、その顔には余裕がない。

 その後ろには久保田さんたちが続いていた。どんどん人が入ってくる。

 久保田さん、無事だったんだ。

「玲華!よかった無事だったんだね」

 人目もはばからず、理事長は思い切りガバっと玲華を抱き締めた。いや、抱きついたというのが正しいかもしれない。

 いまは玲華以外目に入ってないんだろう。

「お父様……」

 玲華の顔が、俺からは見えなくなった。だけどぎゅっと理事長を抱き返しているところを見ると、玲華もいろんな想いがあったみたいだ。

 いつもは適度にかわしてる。

 俺が二人から視線を外すと、そのとき視界に入ってきたものがあった。

 少し離れたところで、比絽が複雑そうに視線を逸らしたのを、見てしまった。

 駆け寄って、何か語り掛けたい気持ちになったけど、なにも言うべきことがみつからない。

 俺なんかがなにを言ったって、結局何にもならないんだ。軽々しく慰めるなんて、比絽だってされたくないだろうと思った。

「おっ。間に合ったか。久しいのう久保田君」

 のんびりと功男さんが出入り口付近でそう言った。

 いろいろ顔見知りはいるんだろうけど、真っ先に久保田さんにいくなんて……本当に好かれてるんだな。

「げっ」

「げっと言ったのはこの口か?」

 久保田さんは功男さんに頬をつねられて、大袈裟に痛がっていた。

 あそこはあそこで放っておかれる。なにやってんだか、久保田さんは。

 だけど久保田さんがきっちりお別れの挨拶を終えると、本当に功男さんは出て行ってしまった。もしかして、久保田さんを待っていたんだろうか。

 代わりに毅さんが驚愕の色を示して、中までずかずか入ってきた。源蔵さんの前まで強引に入り、仁王立ちになる。

「なんだ、これは?どういうことだ、いったい!」

 俺よりも驚いている。

 与えられた影響を考えればそれも当然と言えた。

「見たままが真実だ、毅。これであの声明は、白紙に戻ったということになるな」

「なんだと?……いや、どういうことですか?私はあなたの遺体を見ている」

 偉いもので、もう毅さんは自分の中の憤りを押し殺した。

 しかしその声色には怒りが含まれていて、抑えている分過剰に恐かった。

「他の者が去った後も、椿原たちが運んでいるところを見ていたのだ。とても芝居であそこまでできるとは……」

「さすがだな。そう、演技などではない。さすがに近くまで寄られれば、いくら芝居をしたところで公然となるのは必至。だからな、あの時は本当に死んでいたのだよ。人為的に仮死状態としてな」

「なぜ、そこまでして……」

「知ってしまったのだよ、ワシは。眞奈美を手引きしてワシに近づかせたのはおまえだということを。それだけでなく、薫に裏切り行為をさせようと眞奈美をけしかけたのもおまえだな、毅」

「えっ!」

「なんですって!」

 そこにいた誰もが、驚愕の声を上げた。源蔵さんの眼光が鋭くなっている。眼だけで圧倒されそうなくらい、迫力があった。

 玲華も、理事長でさえも知らなかったようだ。

 源蔵さんをただ凝視するばかりで、唖然としていた。

(比絽は……)

 比絽は、青ざめていた。一番皆から離れて、壁に寄りかかりながら、ただ青ざめていた。

 もしかしたら比絽は、母親から仕掛けたことだっていうことも、いま知ったんじゃないだろうか?

 ずっと、すり返られた情報を与えられていたのではないだろうか。

「幾ら聡い女だろうが、独りで隠れ続けることなど叶わん。それには協力者がいると思うてな。毅、おまえ薫を陥れたかったんだな」

 毅さんは否定をしなかった。ただギリリと歯軋りをして、源蔵さんを睨みつけている。

 もう言い逃れはできないと思ってるんだ。

 これまでそのことを言わなくて、今明かすということは、ちゃんと源蔵さんは確かな証拠を持っているということだから。

「それで私に継がせられないと思ったのか……」

「ふははははっ。これは傑作だな!」

 緊迫した空気を打ち破って、高笑いを仕出したのは清志郎さんだった。

 本当に愉快そうに、目に涙を溜めてまで笑っている。心底嘲る、悪い表情(かお)だった。

「覇権をとるために策を弄して自発的に堕ちるとはな」

「黙れ!清志郎!」

 毅然として毅さんは一喝した。ビリッと空気に走る声。

 それと共に抜き出された拳銃が清志郎さんに向いた。瞬時に周囲に囲うようにいた護衛たちが毅さんへ銃口を向ける。

(え?)

 彼らはいままで、毅さんの指示で動いていたはずなのに。

 玲華についていたはずの千石さんも、先ほどのタイミングで源蔵さんの横についていた。素早い動きで、いつの間にそこに行き着いたのかわからない。

 でもとくに何も言わずに傍らに落ち着いていた。まるでそれが、当然であるかのように。

 源蔵さんもそれについては何も気に止めてない。

 なんだろう、この状態は。

 胸が騒ぐのを感じた。

 源蔵さんは指を絡めて悠然と座った状態から、僅かさえも変化がなかった。いまここで起こっていることが特別ではないかのように、難なく。そして、あくまでも静かに口を開く。

「初めから遺言などという物はなかった。つまりはまだ、決定していないということだ。どちらもそう、功をあせるな」

「なにを……。いまさら何を言う!?私を零落(れいらく)させたかったんだろう!」

「いいや、計略はもとより結構なことだ。ワシをも一杯食わせる策ならば、見てみたいと思うもの。あの際にはワシにも落ち度があったしな。しかし露見した今、責任は負わねばならん。この件に関してはすでにワシが言うことではない。薫、おまえはどうだ?毅を特赦できるか?」

 そこにいた者が一斉に理事長を見た。

 まだ玲華の肩を抱いたままだった理事長は、そっと彼女を離し一歩この緊迫した中心に近づく。

「私よりも、最大の犠牲者は彼です。私にはその判断をすることはできません。彼が裁決するのが最も相応しいかと」

 そう言って、比絽を垣間見た。それに合わせて人々の視線も移る。

 比絽はまだ混乱しているような表情でそこにいた。

 突然振られて、唇が震えてしまっている。

「な、に……?この状況で、この流れで……ぼくに、何を言わせたいわけ?」

 声も震えていた。

「比絽」

 俺はそこでようやく比絽に近寄った。

 きっとこれは転機となる。ここで考え方を変えなければ、一生恨みは晴れないんじゃないかと思った。

 だから余計な気のまわし方はやめた。ただやりたいように、動いたんだ。

 だけど比絽は、俺が差し出した手を弾いた。

「許せるか、だって……?許せるはずがないだろう!ここにいる奴らみんな、全員そうだ!同罪だ!みんな地に堕ちればいいんだ!」

 いまにも飛び掛っていきそうな勢いで比絽は叫ぶ。

 だから俺は咄嗟にそれを抑えた。こんなところで暴れて、源蔵さんにでも飛び掛ろうものなら、間違いなく撃たれる。

 それだけは阻止したかった。力強かったけど、だから必死で、全身の力で抑えた。

「ただひとつの計略なら良いって?バレなければ問題ないって!?冗談じゃないよ!母親は本気でこの家を憎んでいたんだ!復讐をしたらっ、幸せになるって言われ続けていたんだ!ぼくだってっ……!ぼくだって、ずっとそれを信じてっ……」

 比絽の細い目から、大粒の涙が溢れていた。

 それと共に弱まる力。

「比絽……」

 覗き込むと彼は目を伏せた。

 だけど涙は途切れない。溢れて零れていくのに、比絽は笑みを浮かべていた。俺を騙そうとするときのでもなく、自分を誤魔化すためでもなく、もう笑うことしか残されていないような……。

 きっとこれまで、人前でこんなふうに素直に泣いたことがないんじゃないかと思った。それがわかるくらい、引きつった泣き笑いだった。

「知らないよ。誤解、なんて。そんなもの……あったとしてそれが何だって言うんだよ。それでぼくの今までは、無しになんてならない……」

 それは俺に以前言っていた言葉。

 あの地下で。

 俺があの地下で言ったことが、実は比絽の心に引っ掛かりとして残っていたことを、知った。

 やはり比絽はすべて、源蔵さんと理事長が悪の権化だとして教えられていたんだ。

 それが、どちらかといえば逆だったって解ってしまった。思い当たるところがあったのかもしれない。それは俺にはわからないけれど。

 ――比絽は、源蔵さんの言葉の方を、信じたんだ。

「誰のせいとか、関係ない……。ぼくの邪魔をするやつが……全員、敵だ。実母(ははおや)だって……憎い!そうだ、あいつも憎むべき対象だったっていうだけだ!なにも変わってない。ぼくのやるべきことは変わらない!」

 カッと赤い目を見開く。

(違う。それじゃダメだ)

 なぜか鮮明に俺にはみえた。このままでは比絽は憎しみに戻っていく。更に深く。

 それを止まらせたい。そんな場所から引き上げたかった。

「そうだな、比絽。許せるはずないよな」

 いつも玲華が俺にしてくれたように。俺が心を乱したときに、光になってくれたように。少しでも俺に出来ることがあればと、それだけが頭にあった。

 比絽の肩を強引に引いて俺に向かせた。目線を合わせて、思ったままを言う。

「間違った話をされ続けて、実の両親とも離されて、寂しかったよな。それは悔しいよな。馬鹿にされた気分になるの、すごくわかる。だからこれからは幸せになろうな。復讐なんてしなくても、幸せになっていいからさ。良いんだからな、比絽は。素直に、本当に望むものを手にして良いんだ。間違うなよ、誰かのために生きるんじゃなくて、自分のために生きるんだ。自分が欲しいものを掴みに行くんだ」

 選ぶのは比絽自身だ。

 だから間違えないでほしい。復讐なんて、本心で望むことじゃなかったはずなんだ。

 きっと望むものは両親の愛だ。それは子供からみれば、誰もが平等に与えられた渇望。

 ――親が、それをくれることが、たとえもう、無くても。

 それに代わるものを求めてほしい。

 俺にはそれが、玲華だったように。比絽にもきっと、比絽だけの人がいるから。

「いまさら、そんな……」

 絶望に双眸を見開いて、涙を流しながら、比絽は膝から崩れ落ちた。もう、笑ってなかった。怒りでつり上がっていた眉尻も下がっていた。素直に哀しんでいる顔だった。

 すぐには切り替えることなんて出来ない。それは当たり前だろう。

 二十年という時間は、あまりに長すぎたんだ。

(それでも諦めんな)

 幸せになることを、自分から手放したりするな。

 そう思いながら、俺は比絽を支えるように隣に一緒にしゃがむ。

 すると、人影が俺たちを覗き込むように近づいてきた。

 理事長だ。

 比絽に向けて、理事長が辛そうな顔で口を開いた。

「少し、二人きりで話をしないかい?別室もいくつか押さえてあるんだ。そこで、これまでのことを聞かせて欲しい」

 やっぱり、理事長は優しい人だった。ちゃんと逃げずにそう言えるんだから。

 少しだけ比絽が羨ましくもあった。

 だけど、そういう羨みが妬みに変わってしまうって、今なら解る。それにどう足掻いたって、自分の親が変わるわけではないんだ。

 比絽は迷っているのか、なかなか動こうとしない。

「行けよ」

 だから俺が背中を押した。

 行ってこい。すべてが無にならなくても、ほんの僅かでもわだかまりが解けるようにぶつかればいい。一度まっさらな状態にして一からやり直すんだ。

 そうすれば前に進めるから。

 ゆるゆると、それでもしっかりと比絽は立ち上がった。

 理事長に背中を支えられて、二人で出て行く。

「ありがとう」

 一度だけ理事長が振り返って、俺にそう言った。なんの為のお礼なのかが、よくわからなかった。

 気恥ずかしい気分だけがしていて、何も返せなかった。

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