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第四章 ・・・ 5

 凄惨な状況だった。

 深影はピクリとも動かなくなった。殺したのは毅さんだ。

(この人。本当に自然に撃った)

 迷いだけじゃなく、気合とか意識の変化とかそういうのが無かった。

「どうして……。あなたの命令で動いた人を……」

 玲華が青ざめている。

「そう、こちらから話を持ちかけたのだがな。ここ数日抑えるのに苦労していたのだ。感謝するぞ。おまえたちがここまで弱らせてくれたおかげで、簡単に仕留めることができたのだ」

「とうとう本性をあらわしましたね、兄さん。いつも裏で動く人とは思えない行動じゃないですか」

 稔さんは冷ややかな笑みを浮かべていたが、冷や汗が見える。

「さすがに俺もおまえがそちら側につくとは思ってなかったぞ。どこまでも馬鹿な弟だ」

「あなたには一生わからないでしょう」

「軟弱なおまえの言葉など耳に入らぬわ」

 弟と言いながら、まったく毅さんにとっては抑止力になっていなかった。後ろの護衛たちともに一斉に銃口を向けられる。

「あーあ……最も最悪な展開じゃない?これって」

 面白くもなさそうに比絽がぼやいた。

 この危機的状況が本当に解っているのか?だったらなんでそんなに間延びした口調なんだよ、おまえは。

「もう逃げないのか?玲華。賢いおまえのことだ。逃げても無駄だということぐらい薄々気づいていただろう」

 毅さんは勝利を確信しているようだった。

 陶酔感に満ちた笑みを浮かべている。

「悠汰」

 玲華は俺の名を呼んだ。

 一言だけ。他には何も言わない。

 だけどわかっていた。俺の決心を玲華は待っている。

 俺が決めないと、きっと玲華もここから先には行かない。それも、なんとなくわかってしまった。

「おまえが生きていて良かったよ。さあ、続きをしようか玲華」

「しないわよ。馬鹿じゃないの」

 だけど一刀両断に切り捨てる。

(おまえが馬鹿だ!)

 こんなときに挑発してどうするんだ!

 思ったとおり、毅さんから怒りが含まれた目を向けられた。

 俺は焦りだした。

 ゆっくり噴水の中をチラリと覗いてみる。そこまで汚い水ではないようだけど、緑色の照明が当たっていて底が見えない。太陽に反射してキラキラ光っていた。

 あそこに、入るのか?本当に……?

 ゾクリとする。

「ほお、死にたいようだな。いつまでその強気が続くか見物だ。ひとりひとり順番に()っていこうか。おまえが頷くまでな」

「性格悪いわよ」

「誉め言葉としてとっておこう」

 俺が決めかねている間にもどんどん会話は進む。しかも望まない方向へ。

 毅さんが俺たちの顔を見ていった。同等にひとりひとりを見て行き、それが京香で止まる。

「ではまずはその女からだ」

 その台詞で前列にいた護衛たちが、一斉に京香へ銃口を向けた。

 まさか、本気か。

 今までの流れから、本当にそれをやりそうな人だと思った。ただの脅迫とは思えない。

 玲華が京香の前に立った。

「させないわ。あたしなら殺さないんでしょう?」

「玲華!」

 いくら最終目的が玲華だからって、無謀すぎる。

(どうすればいいんだ)

 たとえ俺が決意したところで、これでは背中を向けた段階で撃たれそうだ。後列にいる人は、それぞれに照準を向けてきているから隙がない。

 しかも沈んで浮かんでこなければ、追ってこられるかもしれない。

 こんなとき、久保田さんならどうするんだろう。

 テンパって働かないのに、そんなことが頭を掠めていた。

「やめろ!毅!」

 姿を隠したと思われていた京香の父親が、この部屋に足を踏み入れた。護衛たちを通り越し、毅さんの前まで行く。

「京香を殺すだと?そんなことはさせん!」

 そして両手で拳銃を突きつけた。しかし発砲したのは毅さんの方が早かった。もともと撃つ気でいたのだから、そのままスライドさせれば良かったんだ。

「きゃあ!」

 亜衣と麻衣が手を取り合って悲鳴をあげた。

「いたのか和志。あまりに存在感が薄くて気付かなかったぞ」

「貴様……」

 京香の父親が唸るように跪いた。腹を撃たれたようで、苦しそうにうずくまっている。

「安心しろ。おまえは殺さない。さすがにいくら和志とはいえ後々面倒なことになるからな」

「こんなことをして、本当に継承出来るとお思いですか。兄さん」

「当然手は加えるさ」

「そうやってあなたの経歴は白いままか。表だけいくら取り繕ったところでその黒い腹は濁ったままだ」

「それがどうした?稔」

 毅さんに揺らぐところはない。稔さんはギリリと歯を食いしばった。

 俺にはわからない想いがあるんだろうと思えた。

(これが、兄弟……)

 ショックを隠せなかった。こんな兄弟もいるんだという事実を目に当てられて。

 しかし俺だって例外じゃない。ずっと誤解し合ったままだったら、こんなふうになったのかもしれないと思ったら、いたたまれなくなった。

「パパ……」

 また、京香が呟いた。だけどその顔は血の気が引いていて青白かった。

 真っ直ぐ父親を捉えていて凝視している。

 その声に京香の父親も痛みを堪えて、ゆっくり振り返った。血だらけの掌を、京香に向かってまっすぐ伸ばす。痛みで声が出ないみたいで、口だけが京香と動いたみたいだった。

「パパ?」

 再度呼びかけながら、京香は近づこうとした。それを玲華が押さえる。

「駄目よ。いま行っては駄目」

「パパが、わたしを、求めてる。玲華じゃなくて、わたしを……」

「…………」

 つい、と言った感じで玲華はその手を離した。

 多分それはその内容に。いくら玲華が、周囲の人が優しくしても、たった一度の親の変化はそれを上回る。

 京香は一歩また一歩と父親に近づいていく。脳が勝手に指令を出しているように見えた。

 駄目だ。恰好の餌食となっている。

 そう思った矢先、毅さんの腕が動いた。

「京香!」

 一番近くにいた玲華が京香を抱き締めながら一緒に転がった。何度か回転し、壁の近くで玲華が上になって止まった。むくっと玲華が顔だけ上げる。

「バカ!動くなっつったじゃない!ちゃんと周りを見なさいよ!」

 玲華に遠慮がなくなっていく。

 動けない自分に腹が立った。いくら助けたいと思っても、結局助けたのは玲華だ。

 同時に、この面子のなかで本当に京香に撃った毅さんに、俺は不合理さを感じていた。

 最も弱いものを選んだのだ。しかも弱っている彼女を。

 なんて残虐な心を持ってるんだろう。非道な人だ。

 玲華が咄嗟に庇ってなかったら、京香の頭は打ち抜かれていた。間違いなく。

(俺が、早く覚悟を決めないから)

 だから、行き詰っている。好き勝手に動くことを許している。

(しっかりしろよ!)

 命と代えられないものじゃないだろう。俺のこんなささやかな恐怖なんて。

「玲、華?」

 そこにいる誰もが、毅さん側の人以外の誰もがハッとなった。

 あまりの衝撃からだったのかもしれない。玲華の優しさがようやく伝わったのかもしれない。本当のところは本人にしかわからないだろうが……。

(京香……戻ってきた)

 その目に、光が。

「玲華、もしかしてまた綺麗になった?」

 自分の上に乗っている人物の顔をまじまじと見つめて、復活した京香が一番最初に言ったのがこれだった。

「はあ?あんたなにっ……。いいわ、もういいから黙ってなさい」

 さすがの玲華も脱力して、再びそのまま倒れ込む。

「良かった。ちゃんと覚醒したのね」

 だけどその優しい声で倒れ込んだんじゃなくて、もう一度抱き締めたんだと気付いた。

「覚醒?」

「いいから周り見なさいよ!この状況を早く察して!」

 ノロノロと京香が上半身を僅かに起こす。玲華もそれに合わせてすこしずらした。

「なにこれ……。どうやったらこんな最悪な状況になるわけ?」

「うるさいわね。いいから寝てなさいよ」

「命令しないで!相変わらずムカつくんだね、あんたは」

「ちょ……。助けてあげた恩人に言うセリフ?ソレ……」

「しょうがないじゃない。いままでそんなふうにしか、玲華に接してないんだから」

 京香の言葉が弱くなり、そして俯いた。

 やはり、いままでの声は彼女に届いていたんだと、俺は確信した。今更どう感謝の気持ちを表したらいいかわからないんだ。

 玲華がこっそり何かを京香に耳打ちする。

「勘違いしてないか?玲華」

 硬い声で毅さんがこの空気を切り裂いた。

 まだ、京香の上に庇うように包み込んでいる玲華を、威圧するように見下している。

「俺はおまえを殺さないと思っているようだがそれは違う。おまえが頷かなくても俺は困らない。別のやり方をとるだけだからな。それでもここまで付き合ってやっているのは、ただの退屈しのぎにすぎない。それからけじめだ。ずいぶん好き勝手してくれたおまえには懲戒を与えねばならん」

「な……」

 どこまでもこの人は他人を凌駕している。

 決して踊らされることがないんだ。つけ入る隙がないくらい、人に弱みを見せない。

 毅さんの本気を感じ取ったんだろう。玲華は起き上がった。それでも京香の前にいることに変わりはない。

 俺はすぐにでも走り寄りたくなった。だけど銃が容赦なくそれぞれに向いている。一歩でも動けば躊躇うことなくやられそうだ。

「それで?狙いをあたしに変えるってわけ?」

「バっ!」

 もう、ホントに馬鹿だ!

 なんでそう堂々とできるんだよ。

(だから……)

 やっぱり俺だって負けてられないっていう気持ちになって。

「玲華!行こう!先に進もう!」

 こんなところでこんな奴らに停止させられてる場合じゃないんだ。そのためだったら、苦手な事だってするし、情けないプライドも捨ててやる。

 玲華は俺を見た。それからなぜかすごく嬉しそうに笑った。

 いや、だから笑っている場合でもなくて……。

「何かを企んでるな。そんなことはさせん」

 鋭く言って毅さんの指が動いたのが見えた。

 その先にどうなるか、とかそんなことを頭が掠める前に俺は動いた。もちろん玲華のところへ。

 しかし誰かが俺にぶつかって阻止された。 

 稔さんだった。

 俺が動くより早く玲華の元に行き、そして。

「っ……!」

 左肩を撃たれた。一瞬だけ痛みに顔を歪めたけれど、すぐに玲華から拳銃を奪い取り毅さんへと向ける。

「本気か?おまえに俺が撃てるのか?」

「侮られては困る。だがおれは、あなたとは異なる意味で撃ちます」

 稔さんも本気だった。ピリピリした空気が充満する。

 こんなのは嫌だと思った。

「やめろよ!実の兄弟が撃ち合うなんて、そんなことあり得ないだろ!」

「黙れ小僧。ここにいる奴等から聞かなかったか?血の繋がりなど、なんの意味も為さないことを」

「そうだよ。邪魔しないで」

 毅さんだけでなく、稔さんからも睨まれた。

 確かに比絽が言った。そういうものが希薄だと。

(まさか、本当に?)

 いや、そんなはずはない。結局、京香だって父親の言葉がきっかけで目覚めたのではないのか。なんの感情も生まれないなんて、そんなことあるはずない。

「悠汰」

 玲華が俺の近くまで来て腕を引っ張った。

(おまえまで、こんなこと許すのか)

 俺には堪え難い。これ以上傷つく人だって見たくない。

「切り抜けるためよ。どのみちこのままじゃ、飛び込めないわ」

 こっそり玲華が耳打ちしてきた。俺にだけ聞こえるように。

 そうか。稔さんは憎しみで撃つわけじゃないんだ。

 ならば仕方ないと思わなければいけないのだろうか。

(でも嫌だ)

 どんな理由があったって、ただの作戦だって嫌だと思った。

 そのとき、俺の目に第三者の人影の動きが目に映った。

 その人たちは影のようにこっそり動き、部屋の中に入る。

「動くな」

 それは久保田さんたちだった。久保田さんは毅さんの後ろにピタリとくっついていて、千石さんと加藤さんは護衛たちに左右に別れて拳銃を突きつけている。

「久保田さん、どうして……」

 突然の登場に玲華が驚きの声を発した。

「頭数が減ってるのに気づいてな。もうあそこで予防線を張る必要はないと判断した。おかげでおまけもすぐここまで来るだろう。おまえたちはいまのうちに行け」

 どこまで格好いいんだ、この人は。普段が普段だけに、とても信じられないけれど、久保田さんは仕事はデキる人なんだ。

 久保田さんの言葉に玲華は頷いた。そしてまたこっそり囁く。

「じゃあ行きましょ。でもあたし、さっきはああ言ったけど、状況が変わったわ。あたしは京香をつれて泳ごうと思うの。だからあんたは綾小路先輩とでも来てくれる?」

「えっ……」

 せっかく湧き上がった決意が崩れ落ちそうになった。

 そこへ京香も確かな足取りで歩いてきた。

 良かった。ちゃんと目に意識がもどってる。でもまだ顔色は悪い。

「わたしは大丈夫だよ」

「なに言ってんのよ。まだ本調子じゃないでしょ。そんなんで潜水なんて出来ないわよ。足を()って溺れるのがオチだわ」

 確かに京香にもサポートが必要なんじゃないかと思えた。そうしたらそれは玲華しかいない。

 稔さんは怪我をしてしまった。いまも出血している。こんなんで潜水なんて、俺としては考えただけで見も毛もよだつが、本人は大丈夫だよと気にしてなさそうに言った。

 比絽はそもそも興味もなさそうで、してくれそうにないし、預けるには京香の方が心配になる。

 でも。

「綾小路に任せたら、俺、無事に辿り着けるかわからない」

 ウヤムヤに何をされるかわからない。信用できない。

「貴様、この僕がそんな卑劣な真似をすると思うのか?撤回しろ」

「無理だ。日頃の行いが悪い」

 綾小路が俺のためになることをするはずがない。なぜかそれは心髄から知っていた。

「しょうがないわね。だったら比絽ぐらいしかいないけど?」

「ああ。その方が全然いい。比絽と行く」

 さらりと振られた玲華の提案に俺は大きく頷いた。

 そしたら、えって比絽がものすごく驚いてこちらを振り返った。驚くというか、ちょっと呆れが含まれているような気がする。

 貴様……とまた綾小路が怒っていたけど、それは無視した。

「亜衣ちゃんは行ける?」

「わたくしが連れていきます」

 麻衣がきりりとした表情でそう言った。とても頼もしい。

「じゃあそういうことで。綾小路先輩は稔叔父様のフォローお願い」

 時間がないせいか、さくさくと玲華は仕切っていった。

 刻々とその瞬間が近づいてくる。水に浸からなければならないときが。

「おまえら!なにをゴチャゴチャ喋っている!」

「動かないでください。死にたいんですか?」

 息巻く毅さんを背後から久保田さんは抑え続けている。

「おまえみたいな素人に俺が、いや、人が殺せるのか?」

「確かにオレはこんなもん扱うのも初めてなら、人を殺したこともありません。ですが、こいつらを()るというのなら、オレだって覚悟は()うにしてるんです」

 久保田さん、すごく険しい表情のままだ。仕事用の顔を持っている人だけど、ここまで厳しいのは初めて見た気がする。

「久保田さんはどうやって脱出するんだ?」

 俺は気になって玲華に囁いた。ここで俺たちが先に進んでも、久保田さんは残されたままになるんじゃないだろうか。

「心配しないで、自分のことだけ考えて。あたしたちがここにいる以上、あの人は防御にまわるしかなくなるのよ」

 玲華のそれは答えではなかった。俺を納得させるだけのただの説得だと思った。

 つまり、すでにこれは計画の範疇になかったことなんだろう。久保田さんが抜け出す算段までは出来ていないんだ。

「悪いけど案内も兼ねてあたしから行かせてもらうわ。次は亜衣ちゃんと麻衣ちゃん。女性が先のほうが安心だもの。あとは好きにして、でも絶対すぐに着いてきてね」

 玲華は窓を上に押し上げた。冷たい風が吹いてくる。

「じゃあね、悠汰。先で待ってる」

 目に力を込めてそう言うと、玲華は京香を連れて噴水に飛び込んだ。派手な音が二階まで聞こえてきて、その辺りが一瞬血のり色に染まる。

 本当に、行ってしまった。

「おまえらなにをっ!」

 毅さんが突然飛び降りたことで追おうと一歩踏み出した。それを久保田さんが押さえる。

 その中で、亜衣と麻衣が続き、綾小路は一度稔さんを見た。

「おそらく大丈夫だと思うけど……」

「なに言ってるんですか?玲華が心配してるんだから大丈夫なはずないでしょう?」

「きみの基準は相変わらずだね」

 軽口を叩きあいながら、二人揃ってダイブする。 

 ……っていうか、なんでみんなそんなに早いんだ。自分たちの番に否応なくなってしまった。

 比絽がちょっと困った顔をして、ため息を吐いた。

「なんでぼくが、こんなことしなくちゃいけないんだよ。知らないよ、ぼくは。勝手に決められても迷惑なんだけど」

「いいから行こうぜ。もう迷ってる場合じゃないし」

 久保田さんもいつまでも押さえられない。他の連中もすぐに来ると言っていたし、状況がまたいつ悪くなるとも限らない。

「ねえ。また間違えたね、悠汰くん」

 俺を直視して、比絽は笑う。良くないことを企んでいるときの笑みだって、もう知っていた。

「ここまでぼくがついてきたのは、決して諦めたわけでも、心を許したわけでもないんだよ。まだチャンスを狙っていたんだ。それなのに簡単にぼくを選んでさ。信用したら駄目だって言ったよね?どうなっても後悔しないでよ」

「おまえ、またそんな人を惑わすようなこと……」

 それでなくても心が折れそうなのに。

 でも比絽は何もしない。きっと口だけだ。俺が綾小路より信用したんだ。なにがあっても後悔はしない。

「中でおいて行ってさ、窒息死させても事故だったとぼくには言い張ることができる。証拠なんて出ないから」

「まだそんなこと言ってんのか。だったらなんでわざわざ言うんだよ。脅かすためだけのセリフは聞き飽きてんだよ、こっちは。いいから行くぞ。早く行かないと決心が鈍るだろ」

 窓の桟に両手をついて、そこに乗った。みんなあっさりと跳んで行ったけれど、そこまでの思い切りがまだ出てこない。

 俺を見下すように見ながら、比絽は嫌な顔をした。

「ぼくの手に余るよ、こんなの。玲華からお荷物を押し付けられた気分だ」

 また、俺の胸を騒がすような言い方をする。

(お荷物って……)

 否定できないところが辛い。とくにいま、この状況ではなにも言うことができない。

「なんだ?おまえらは行かないのか?」

 モタモタしている俺を見て、毅さんが嘲笑った。本当に銃を突きつけられてるとは思えないほどの余裕っぷりだ。もしかしたらもう、俺たちがなにをしたいのか見極めたのかもしれない。きっと隠し通路の存在は深影から聞いていて、そしたらこの先を予測することぐらいこの人なら訳無いだろう。

「悠汰、どうした?」

 俺よりも高いその身長は、毅さんよりも頭ひとつ分出ていて、久保田さんは悠々とこちらの状態を見ている。

 そういえば久保田さんにも水恐怖症のこと言ってない。

 だからかもしれない。すごく怪訝そうな顔をしている。かといって、ここで皆に聞こえるように事情を話すつもりは毛頭なかった。いや、それがなくても言いたくはないが。

 俺が比絽を催促するように見ると、彼は仕方なさそうに呟いた。

「わかったよ、仕方ないな。じゃあはい、息吐いて」

 吐く?

 なんで吐く?とか思いながらも俺はその通りにした。

「次は思いっきり吸って」

 すうっと大きく息を吸う。

 と。

 突如、比絽は俺に飛び掛かってきて、そのまま一緒に空中に投げ出された。頭脳派だと言っていたのに、その跳躍は素晴らしいものだった。ただ単に協力的なことをしたくなかっただけだったらしい。

 浮遊を感じたと思った刹那、背中から一気に水が全身を覆う。

 水に浸かる場所から侵食されるように鳥肌がたった。

(――っ!)

 冷たさだけが理由じゃない。恐怖からだ。わかっていたはずなのに、一瞬、恐慌状態に陥る。

 圧迫感が半端ない。

 なにかに掴まりたい衝動に駆られた。掴むように手で水をかき分けたが、いくら掴んでも水は逃げていくだけで、そのまま沈む。

 水の中で目が開けることができなくて、見えない恐怖感がプラスされた。

 苦しい。息が、出来ない。

 自分の意思で呼吸が出来ないのは、俺にはパニックでしかない。

 だけど比絽の腕が俺を押さえ込んでいて、思うように動けなかった。これではストロークしても上昇することも出来ない。

(元の位置に)

 待て。

 一旦ちょっと待て。戻らせてって思ったけど、待てるはずはなく容赦なく沈んでいく。

 克明に、浮かび上がる記憶。

 何度も何度も風呂湯に顔をつけられて、沈み込められた。あの時の記憶。

 ――過呼吸を治すためだって、父親が言っていた。

 そんなのは嘘だ、とそのときは反発心を持っていたのだけど。

(ああ、そうか……)

 あながち嘘だけでもないのかもしれない。必要以上に呼吸をすることで起こるって、今なら知っているから。水中で過呼吸なんか起こるはずがないんだ。

 でも、息継ぎのときに焦って短く呼吸を繰り返してなってしまうことはある。まさにそうなったんだ。

 結局俺がそれでも治らなかったから、途中でやめたのか?

(だって、あれからはしてこなかったから)

 そう、三回でやめた。

 もしかしたら全部、父親には父親の理由があってやっていたことなのかもしれない。褒められた行為じゃないことが多かったけれど。

 そのとき、なにかが俺の口を塞いだ。

(比絽……)

 どういう意図かわからない。だけど鼻を含め片手で口元を塞がれている。

 ――あんたはただ息を止めてジッとしていればいいわ。

 そして玲華の先ほどの言葉が思い出された。

 それで、ようやく俺は自分が暴れて比絽に迷惑かけてたんだって……理解した。無意識に息が漏れていたんだ。

 目を固く閉じているままだから、状況がつかめない。

 でも俺は、その通りにすることが正しいと思った。なにがあっても動かない。死にそうに苦しくても、動いちゃいけないんだって。

 空気はなくなっていくばかりだけど、少しずつ、気持ちは落ち着いていった。

 するとそれに気づいたのか、比絽は加速しだした。

 やっぱり、俺が暴れたせいで遅れていたようだ。これでは比絽がなにか仕掛けてこなくても二人とも息絶えていたかもしれない。

 圧迫されていく気圧。

 十月とはいえ冷たい水。

 冷静になればなるほど、リアルに感じる。

 どれだけ距離があるか玲華から聞いてない。つまり、何分息を止めていれば抜け出せるのかってところだ。

 普通そこを教えるものじゃないのか。聞くのを忘れた自分も悪いけど。

 不意に速度が落ちたのを感じた。

 そして比絽からの拘束がほどけた。嫌な予感がする。

(なにかを、企んでるのか)

 まさか本当に、俺を殺そうとしているのか。

(いや、違う)

 それならわざわざ口元を覆ったりなんかしない。

 もしかすると、比絽にも迷いがあるのかもしれないと思った。自分に素直になれないで、俺を殺すことが幸せに繋がると思っているならそれは間違いだ。

 ならば断じて俺はここで死ぬわけにはいかない。

 彼に手を汚させたりなんかしない。

 思いきって俺は薄目を開けてみた。ぼやけていてなにも見えない。けれど影の感じで比絽がこちらを覗きこんでいるのはわかった。

 比絽だって苦しいはずだ。それなのにこんな水中で余計なことで迷って全滅するなんて馬鹿だ。

 俺は空気を出さないように配慮しながら、なんとか口パクで意志を伝えようとした。

 ――はやくしろ。一緒に死にたいのか。

 俺を憎んでくれていい。だけどそんな俺と一緒には死にたくはないだろう。比絽だって。

 それから。想いが伝わったのか、再び比絽は加速した。

(そうだ。それでいい)

 おまえが俺を殺したら、憎んでいるあの家の人間と同類ということになる。だったらそんな感情捨ててしまえ。

 きっと後悔するから――。


   * * *


 次に目が覚めたときには、俺はコンクリートの上に寝ていた。

 すごく体がダルい。

 濡れた髪のままの玲華が覗き込んできていた。

「良かった。目覚めたのね」

 そういって抱きついてくる。

 俺は意識を失っていたらしい、ってそのときに気づいた。

 横を向くと、コンクリートで統制された間を水が流れていた。地下水路みたいだ。

「玲華」

 そっと俺は彼女の髪を一掴みした。まだ湿っている。

 いまにも泣きそうな顔で玲華が顔を上げた。

「なに?」

「重い」

「馬鹿!」

 思ったまま口にしたら玲華に頬をビンタされた。ひでえ……。

 こいつは俺の気持ちを知っているくせに、平気で殴るんだからやってられない。

「あんたね!言いたくなかったけど、呼吸止まってたのよ!あたしが人工呼吸しなかったら死んでたんだから!このぶぁあかっ!」

「えっ……」

 力いっぱい馬鹿って言われた。

 そんな成り行きとは知らなかったとはいえ、目覚めた第一声が重いだったら、それは怒るよな。ひどいのは俺の方だったみたいだ。

 でも玲華が重いってわけじゃなくて、体が重いって言いたかったんだけど。

「ごめん」

 そんな説明したところでただの言い訳だなと思って、とりあえず謝った。

 それからこんなことしてる場合じゃないって頭に閃いて、無理矢理体を起こした。

 玲華のすぐ後ろに京香と双子の二人がいた。眉尻が下がっていて、同じような顔をしている。双子じゃなくて三つ子みたいな。もしかして心配してくれていたのだろうか。

 ちょっと遠くのほうでは、稔さんと綾小路が先を見つめながらなにやら会話をしていた。その間には比絽がひとり、座りながら水の流れを見ている。

「みんな無事だったんだ」

「あんた以外わねっ!」

 あっ、これは怒りの根が深い。きっとそれだけ心配させたんだろう。

 そっぽ向いている玲華を抱き締めたい衝動に駆られた。だけど人の目線が気になって俺はぐっと抑える。

「ホント、悪い……」

「いいわ。先に行きましょう」

 仕方ないというように、彼女に笑みが戻った。

 頷いて俺は立ち上がる。少し立ちくらみがした。それを隠して歩き出す。

「生きてたの?」

 全然歓迎してなさそうに比絽が言った。

「ああ。サンキュな。マジで助かった」

 俺が礼を言うと、比絽は何も答えずにふいっと先に進んでしまった。

 なんだ、あいつは。

 いつものように皮肉を言われるのかと思ったのに。

 そう思っていると、玲華が手を握ってきてそのまま引っ張っていく。これもなに?と思ったけど、聞く前に玲華は反対側から後ろを向いた。

「行くわよ、みんな」

「わかってるよ!」

 ぼんやりと俺たちを見つめていた京香が、はっとしたように慌てて寄ってきた。亜衣と麻衣もしっかりとした足取りでついてくるが、とくになにも言わない。

 なんなんだろう。この空気は。

 俺の知らないところでなにかあったんだろうか。そう思わせる気まずいような妙な空気が流れていた。

 しかし聞けるような雰囲気でもない。

 稔さんと綾小路がこちらに気づいて振り向いた。

「あああっ。なにをしているっ!」

 俺と玲華が手を繋いでいることで、綾小路はぎゃんぎゃん騒ぐ。

 こいつだけは変わらないよな。

 玲華は玲華で無視してさっさと追い越すし。

 稔さんの肩は白いハンカチできつく圧迫されていた。

 妙な空気のまま、俺たちは出口に向かっていく。だいたい三十分ぐらい歩いたところだろうか。上へと上る階段があった。

 上がりきると古めかしい扉があって、その先は何の変哲もない空間が広がった。

「ビルの地下になってるらしいの」

 誰にというわけでもなく、説明口調で玲華が言う。

 きっとここも西龍院家が持っているビルなんだろう。でもなにも物がない。ただの出口として買われた敷地なんだろうか。

 ビルの外に出たら、確かに水路は川に繋がっているのがわかった。ちょうど合流地点で地下水路は終わる。

「考えたな。これならこの地下水路から侵入しようなんて思いつかないもんな」

「っていうかあんた知らなかっただろうけど、間に柵があるのよ。普通の身体能力じゃ逆流してるから泳ぎきるなんて難しいわ」

「あ、そうなんだ……」

 また浅墓な発言をしてしまった。

 どこで失神したかなんて憶えてない。それでも川の流れを逆らって行くことが難しいことぐらい気づいても良かったのに。

 一時はあれだけ侵入することを頭に思い巡らせていた。つい思ってしまっただけだから許して欲しい気もする。

「玲華様」

 その川沿いにあるビルの出入り口で、俺たちに近づいてきた人がいた。

「えっ?あれ?」

 俺の知っている人だ。玲華の専属の運転手、眞鍋さんだったのだ。

「やだ。そういうことなのね……」

 玲華はとくに驚いてないようで、隣でそう呟いたきりだった。

 眞鍋さんはすべて承知というようにバスタオルを持っていた。全員分ある。

「はい。皆様用のお車もご用意しております」

 なんで?

 分からないことだらけだ。

 驚いてないのは他に稔さんと綾小路だけだった。これが計画の全貌を知っている人とそうじゃない人との違いだろう。当たり前だけど。

「車で今までのこと一から全部話すわ。悠汰はあたしと一緒に来て」

 そう言うと、玲華は俺の手を離してタオルを受け取る。そして、はい、って固まったままの俺にも渡してくれた。

 用意されていた車は三台。

 綾小路は玲華に頼まれて比絽と一緒の車に乗った。比絽への説明を頼んだのだ。そして稔さんには京香と亜衣と麻衣を預ける。

 でも一台がまたすごいデカいベンツだったもんで、皆で乗れるんじゃないかな、と思った。どこに座ればいいか一瞬迷う。

「あたしからの話なんて聞きたくないでしょうからね」

 誰が、とは言わなかったけど、玲華は車内でそう言っていた。

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