第三章 ・・・ 7
計画はまた失敗だったんだろうか。
俺を最初に捕まえた男が言った言葉で、菊池さんは無事に逃げたんだとわかった。
聞いたときから完璧だと思っていた計画。
けれど俺が失敗した。
スムーズに玲華の部屋まで行けたけれど、いったいどこでバレたんだろう。どこが失敗だったんだろう。
俺はいま、牢屋に見立てた部屋にいる。
途中から目隠しをされたから、どういう経路で来たのかは不明だ。
拓真に狭所恐怖症もなにもないって言ったけど、狭いのは本当に大丈夫みたいだ。
一応簡易だけどベッドがある。トイレも簡易だけど、ちゃんと隔離されてある。
だけど、とにかくここは寒い。それだけ何とかしてもらえればと思う。
そんな中で、これまでのことを振り返っていた。時間だけはあるから、どこが失敗だったのかちゃんと考えようと思った。
そう、比絽に庭で会ったんだ。予定外だったのはそれだけだ。
だけど中に入れてくれたのが誰でもない比絽自身なのだから、そのせいでバレたとは思えない。
ただ、比絽はすごく重要なことを話してくれた。
玲華と比絽の秘密。
「もしかして玲華から聞いてなかった?玲華に義理の兄がいること」
彼の方が驚いていた。
俺が玲華から聞いている家のことって、本当にあの一回だけで、後は玲華の家に行って知ったことだけだった。玲華が一人っ子だとは、そう言えば誰も言っていないような……。
「玲華は意外と何もきみに話してないんだね。そう、ぼくは虐げられてきたから玲華のことは嫉妬していたよ。すごく酷いことを子どもの頃にたくさん言われたんだ。本人は無意識だったと思うよ。だから憶えてもいないかもれないね。でも敗者のぼくには忘れられないんだ」
とても強い怨念みたいなのを比路から感じた。
これまでの比路からは想像がつかないほどの感情。
俺はその話を聞いてから、また苛立ちだしていた。平常心を保つのに苦労した。
比路が嘘をついてるようには思えない。でも玲華が酷い人かどうかと聞かれれば、それはまた別の話で。だからそのことで腹が立っていたわけではないんだ。
ただ、何も言ってくれないから。こんなに嫌悪的な感情を持っている人が京香以外にもいたっていうのに、俺はなにも知らないで自分のことばっかりで。自分に苛々していたのかもしれない。
それと、そんなに俺は頼りがいがないのか、とも思った。
(そりゃあ…………ないよな……)
いまならそう思う。
理事長が俺に言ってくれたこと。それを俺は全く解ってなかった。理解できてなかったんだ。
ここは想像してたより壮絶で、凄かった。
いきなり銃とか出てくるし、押さえつけられた腕も、悲鳴を上げてしまいそうなほど痛かった。押さえつけると同時に密かに捻られていたのだ。
でも声だけは出さないように必死で耐えた。それだけは意地だった。
ここに連れて行くように命じた人。毅叔父様って玲華は呼んでいたから、理事長の兄弟なんだろうと思う。あの人がここから去るときに言った。
「おまえに未来はない。おまえを殺すことは容易いが、そう簡単にはしない。おまえの未来を奪うことは殺すことだけじゃないんだ。おまえの存在というものをどこまで守れるかは玲華次第となる」
あっさりと、なんの弊害もなくそんな恐いことを平気で言う人だった。
理事長と似ても似つかない。顔のつくりは少し似てたけど、発しているものが対極だった。
俺の存在って表現がどういうものかは解らなかったけど、綾小路が止めてきた意味が、初めて解ったんだ。玲華に迷惑をかけるってこういうことかって、身を持って理解した。
(でも……)
その玲華も、殺すとか言うから、恐くなった。それだけは言わせたらいけないと思った。
俺なんかのために自分を見失うな。縛られないで欲しいと切実に願う。
結局なにも玲華から聞けていない。綾小路との噂のことも、こんなことしている目的も。
いきなり拒絶するし……。
(わからない……)
玲華がなにを考えているのかが、わからない。
拒絶をするつもりなら、最初からしてほしかった。そういう気分に完全になってしまってからだと、倍にダメージがくる。
(殴るし……)
その後の行動も理解不能だ。怒るポイントが読めなかった。
だけど。
……大事な人だと、言ってくれた。
それだけで充分すぎるくらい、満足を感じている俺がいた。
玲華は俺に対して変化がなかった。それがわかっただけで、俺はもういい。
いま冷静になると、そういう拒絶のされ方も玲華らしいといえる。
これ以上玲華の足を引っ張らないようにしたい。
(どうすれば、いいんだろう)
こんなところで、俺にできることはなんだろう。少しでも玲華のやりたいことを助けてやれることができれば、本当にもう、心残りはなくなるのに。
(とりあえず脱走だよな……)
ここにいることが最も玲華のためにならないことはわかった。
しかし造りも完璧だし壊すものもない。
(もっと痩せたらこの柵、出られねえかな……)
腕が一本通るくらいだ。骨がある段階でいくら痩せても無理だろうに、俺はそんなイメージを膨らませていた。
* * *
丸一日地下室にいると、さすがにしんどくなってきた。寒さが身に染みてくるし、さらにやることがない。
ただジッとしていることが、こんなに辛いとは思わなかった。
謹慎処分を受けて、家でジッとしていたことがあった。あの時も辛かったけど、まだ寝ていられたし、正直それどころじゃなくて“退屈さ”というものとは無縁だった。
もう夜も更けたわけだから寝ればいいんだろうけど。ただここは布団も薄いから、被ったところでそこまで暖かくならない。
というわけで、解決策といえば……。
腕立て伏せと腹筋くらいだ。
体を動かせば暖かくなるし一石二鳥。疲れれば睡魔も来るだろうし……。
実は体力づくりは普段からしていた。あの事件が終わってから。
最近はこんな状態で何もする気もおきなくて、サボりまくっていたのだけど。
(別に……マッチョに……なりたいわけじゃ……ないけどっ)
腹筋で起き上がる瞬間は思考すら途切れる。
筋肉つけたほうがいいわよって、以前玲華に言われた。彼女はもしかしてマッチョが好きなんだろうか。
そこは聞くのを忘れていた。
今度聞いてみよう。生きて帰れたら――。
(うわっ、いますんげえ弱気なこと思った)
生きて帰られたらとかシャレにならない。こんな状態では余計に。
だけどこの空間は、闘争心とか士気とが剥ぎ取られそうな気持ちになる。
ここは一番左端の牢屋みたいだ。ギリギリまで顔を出して周囲を見渡してみて、わかったことだ。他の人は見当たらない。
さらにこの連なった先、左側にはまだ奥があった。
あれは拷問の道具、ではないだろうか。はじめて見たけど。
石の壁に手枷がついてる。天井からはたぶんあれも枷にするためのロープだろう。それから鉄の架台とか棘だらけの椅子とかある。いつの時代か不明だけどかなり年季の入ったものばかりだ。
そしてひとつだけ名前がわかるものがあった。あれはギロチンだ。
……俺は別に秘密ごともないし、嘘もついてないから大丈夫だよな、とつい自問自答してしまった。
拷問は何かを白状させるためにするもんだし……。
しかしあんなの見せられて、誰が不安にならず平常心を保てるんだろうか。道具を見ただけで身震いする。
落ちそうになる心を阻止するためにも、俺はただ体を動かしたかったのかもしれない。
頭を外側に向けて腹筋していると、何度目かに視界に人影が現れた。
「あ……」
ちょうど起き上がりかけたそのときで、不意の出来事に、その一回はそのまま重力に負けてしまって起き上がりきれなかった。
あーあ……と少しへこみながらも、寝転びながらその人をみる。
京香だった。
何も言わずに俯いている。だけど俺の角度からはその表情が見えてしまった。
泣き腫らした眼と、変色した頬。
たぶんあれは殴られた痕だ、拳で。一発じゃない。
なぜかそういう痕にはよく遭遇してしまうから、すぐに分かった。
あ、と呟いてから数秒たって京香がこちらに近づいてきた。
やっぱり俺に用事があるんだよな、と思って俺も起き上がる。
「そういえば、京香はここに住んでるんだったよな」
なんとなく気まずい雰囲気で、俺から声をかけた。いままで見かけなかったけれど、拓真がそう言っていた。
京香は鉄格子の前に座り込んで、俯いたまま言う。
「謝ろうと、思って……。いままでひどいことしたから。騙すようなこといっぱいしたから」
「そのためだけにこんなとこへ?」
「……うん。話したいだけって言ったら通してくれた。ボディチェックされちゃったけど」
会話してるのに、京香の目は俺を見てなかった。ずっと空虚に見開かれて下を向いている。
「ごめんね悠汰くん。これまでのことごめんなさい」
「殴られたのか?」
誰かに。
誰に?
それはわからないけど、様子がおかしいのはそのせいか。
俺の言葉に京香がピクリと反応した。
「わたし、ヒロのことが好きだったの。でも悠汰くんの方がいい。ヒロが、わからなくなってきた」
そう言うと泣きそうな顔をした。
泣きすぎて、もう、涙は枯れてしまったのかもしれない。顔だけが歪んでいて、それが見ていてよりいたたまれなくなった。
「なにか、あった?」
「……わたしにもずっと秘密にしていたんだ。ヒロの出生の事実。今日、聞いた。わたしに教えるとわたしが誰かに喋っちゃうと思って内緒にしてたんだって。ひどいよねえ。全然信頼されてなかったんだ」
「京香……」
「だからヒロは初めからこういう形にもっていきたかっただけなんだ。玲華が最も窮地に陥るように。わたしもそれを解ってて……。ううん。むしろ同調して手を貸していた。嫌いなところは同じだって知っていたから」
「そうか」
二人の共通したところだから。一緒になるのも自然だったんだろう。
比絽が利用してたなんて全く気づかなかったけれど、あの話を聞いたいまならすんなり納得できた。
「怒らないの?わたし、利用するために悠汰くんに近づいたんだよ」
「俺には怒る権利がない。あの写真は俺にも隙があったから」
あのまま世羅が来なかったら、そのまましていたのかもしれない。だけどきっと何も感じなかった。
それで京香だけ悪いってことにはならないと思った。それだけ自分が中途半端で無神経だっただけだ。俺がしっかりしていれば済む問題だったのだから。
他の事だってそうだ。彼女は最初から利用したいと意思表示していたから、そこは怒る理由にはならない。
ただ、比絽も利用していただけっていうのが悲しかった。
「わたし、ヒロから聞いて知ってるんだ。悠汰くんちのこと。親に虐待されてたって、あとお兄さんのことも」
「え?」
いきなり変わった話よりも、なんで比路が知ってるんだろうって、そのことが不思議でならなかった。
兄貴のことなら少しだけニュースになったみたいだから、ばれていてもおかしくない。しかし両親のことまでは公になってないはずなのに。
そう、両親が俺に仕出かしたことは、本人たちが必死に隠したはずだ。
「悠汰くんはそれで、誰かを恨んだりしなかった?憎んだりしなかった?」
京香の問いは虚につかれた。かなり深いものに思えてすごく考えた。
恨むってどういうことを言うんだろう。
憎しみは、思い出せない。
「ムカつく奴とか許せない奴とか憤りを感じた奴とかは、当て嵌まらないんだよな」
そういう奴らはいくらでもいるんだけど。
逆にすぐ思ってしまうのだ。止めようとしても止められないぐらい。
「すぐに出てこないってことはいないんだと思う。……家族のことも、もう許しているんだね」
ふっと京香は切なげに笑う。
「わからない。そんな単純には思えねえよ、さすがに……。でも、憎んでても仕方ないとは、思った。俺が捨てきれないから。だったら俺から逃げてても仕方ないって」
「やっぱり強いね」
「強くはないんだ。多分いまは忘れてるだけで、恨んだ奴はいると思う」
「普通は忘れられないよ……。わたし悠汰くんは他人に対して無関心な人だと思ってた。学校の噂でも型破りな人だとか言われてるんだよ。それにわたしの家の事情も知らなかったでしょう?……でも話しているうちにわかった。他人に無関心ってことはある意味強さだよ。気にしないのは赦しているから。赦すということは、誰のことも憎まないということなんだって」
そんなことはない。ただ無神経なだけなんだ。
人間関係をうまく構築できないで、深く入っていけない臆病者だ。
「わたしは全部玲華のせいにした。親が離れたのも全部、玲華がいるせいだって」
「玲華は……」
「玲華がなにも悪くないことなんてわかってる!ただの僻みだってことも!だけどヒロだってそう。会話してても、いまはすべて復讐の方へ向かうんだ。その恨みは一時も離れることはないんだから、わたしよりも深いよ。わたしが好きな人みんなそうなるんだ!玲華を憎むには充分だ!」
やっぱり。
前にうらやましくないなんて言ってたけど、それは嘘だった。
「嫉妬と憎しみも同じじゃねえだろ。勘違いすんなよ。すり返るな。ちゃんとおまえの好きな奴と向き合えよ。そこに第三者をもってくるからややこしくなるんだろ?」
比路や両親よりも玲華のほうに目がいっているのは、京香も同じではないだろうか。
憎むことでバランスを取っているような感じがした。
「珍しく、随分大口を叩いてるね、悠汰くん」
そのとき、比路の声がした。
俺からはまだ見えない位置から。
だけど京香がそちらに首を曲げて、それからその横顔が凍りつく瞬間を見た。
京香は恐怖を感じている。比路に対して。
そこが痛烈にわかってしまった。
「どうして、ここにいるの?」
掠れた声で京香は訊く。
「ちょっと目を離した隙にいなくなっていたからね。君こそ、どうしてここにいるの?京香」
ゆっくり歩いてきた比路が、ようやく俺の視界に入ってきた。
いつもの細い目が笑っていない。それだけですごく冷たい眼に見える。
その眼が俺を捉えると、彼は笑みをつくった。
「やあ、悠汰くん。なかなか面白い光景だね。記念写真でも取る?」
そう言うと、カーキ色のジャケットのポケットから携帯を出し、俺に向けて構えた。
「やめてよ、ヒロ!」
止めたのは京香のほうが早かった。立ったままの比路の足元に縋りついてる。そのままつたって立ち上がろうとしたようだった。
そこへ躊躇いもなく比路の脚が上がる。
京香は悲鳴を上げないで、そのまま倒れた。
「比路!」
駄目だ。彼女はなにか傷ついていたのに。そんな扱いをしたら駄目だと思った。
「ちょっと邪魔だから退いててね」
それなのに比路の口調は変わらない。気づいていないのだろうか。京香の状態に。
さきほどまで京香がいたところに、比路は同じようにしゃがみこんで、携帯を持ってない方の手で別のものを取り出した。
「これね、催涙スプレー。こんなんでやられちゃうなんて、護衛として失格だよね。おかげでぼくはきみに会いに来れたんだけどね。ひどいんだ、毅さん。ぼくに言ったんだ。悠汰くんは最大の取引の材料だからぼくには手出しをさせないって。手出ししたらぼくの命もないんだって。だから護衛にもぼくのことは通すなって言ってたみたいだね」
「玲華を助けたいって言ったのは、嘘だったんだな!」
「違うよ。ぼくは助けたかったよ。きみと玲華を」
勢い付いた俺の気持ちが揺らいだ。
比絽はいつもの調子だった。
「みんな誤解してるだけなんだ。だってなんだかんだいってもぼくの義理の妹になるんだよ。情がわかないはずないじゃない?」
「え?でも京香は……」
「京香は嘘つきだよ。ぼくのせいにして自分の罪を半減させたいだけなんだ。もちろん嘘ついてる自覚はないだろうね。思い込みで捻じ曲げて伝えてしまうのって、女性特有のものだよ。女性ってね、嘘を思い込むことによって真実に変えてしまう人種なんだ」
比絽の言い方があまりに説得力があって、俺は頷きそうになってしまった。
(なんで……)
どうして比絽はこんなに人の心をつくことが出るんだろう。
「ねえ。悠汰くんはこのままここにいていいの?」
「いや……それは……」
「いいはずないよね。このままじゃあ玲華が自由に動けないよ」
「それは解る。俺も」
毅さんが言った言葉が、俺の中を駆け巡る。
俺の命が玲華次第って。つまり俺を盾に署名させることなんだって、それぐらいは解るから。
「でもぼくは鍵を持ってないんだ。ごめんね、きみをここから出せない。だったらひとつしか手はないよね」
「手が、ある?」
ひとつでも手があるなら、それは希望となる。
なにもないこの中で、それだけは考えていたのだ。玲華の負担にならないこと。
比絽は鉄格子を握り締めながら、近寄ってきて囁くように言った。
「それはね、きみが死ぬことだよ」
「え?」
「きみが死ねば玲華は脅されることがないんだ」
俺の胸にさらりと降りてきた。
そう言われれば、そうだと。
納得してしまった。
(俺がいなくなれば……玲華は、自由になる)
「世羅ちゃんとか亨くんとか使って、きみをいろいろ気遣っていたよね。あれもね、玲華には大変なことだったんだ。そういうことをしなければ、もっと玲華もこの家のことに集中できてたよね。そうすればさ、玲華に降りかかった様々な災難も起きなかったかもしれない。だって玲華は本来完璧な女性だからさ、抜かりなくできてたと思うんだ」
「俺の、せい?」
「そうだよ。幸祐くんに襲われたのも、実際の期限よりずっと拘束されてしまうことになったのも、結局は玲華が防衛の方にしか力を入れられなかったからなんだ。きみに目を向ける分をさ、攻撃にまわしていたら、今頃彼女の思うとおりになって彼女の望みが叶っていたよ」
俺は頭が混乱しだした。
玲華が襲われたのが、俺のせい……。
それだけがはっきりと頭の中に残る。
「騙されないで!ヒロは悠汰くんを殺したいだけなんだよ!」
鋭く切り込む叫び声。
見ると、京香がその身を起こして泣きながら怒鳴っていた。
「最初は悠汰くんがこの件で傷つけば傷つくほど、玲華に対しての攻撃になるって言った!でもいまは玲華から悠汰くんを失くすことが最良の策だって!……大人たちが署名に躍起になっているうちに、あっさりその重要人物を消し去ることが目的なんだよ。玲華だけじゃない。この家人間すべてに復讐ができるから……」
言葉の途中で、比絽が京香を殴った。
俺の中のなにかが壊れた。
おそらくそれは比絽のイメージだ。
こういう、人だったんだ。
知らなかった。気づけなかった、俺は。
「黙っててくれる?」
まったく心が痛んでないみたいだ。こういうことを平気でできる人だったんだ。
京香は半狂乱になってなおも叫ぶ。
「わたしに彼を殺せって言ったじゃない!」
「うるさいよ。結局殺すことを断っておいてしゃしゃり出てこないで」
比路が俺を……?
すぐにはその言葉の意味がつかめなかった。
(はっきり殺すと言った)
それも穏やかな声で。いつもどおりの声で、本人の口から。
「なんで、比路。京香は関係ないだろ。なんでそんなこと……」
「関係ない?違うよ。京香もここの人間だ。一応復讐のメンバーには入っているんだ。ただ利用できているうちは利用しておこうと思っただけ」
打って変わって、比絽の言うことが変化した。
これが彼の本性。
「俺も利用されてただけかよ」
自虐めいた独白をした。さっき聞いたばかりなのに、目にするまではまだ信じられなくて。
「京香に同情は必要ないよ。本当に女ってバカだね。きみを色仕掛けで落とすっていう作戦にも失敗しちゃって、おかげでぼくが出ていかなくちゃならなくなるし。殺すかぼくの性欲の捌け口になるか選べって言ったら後者をとるんだよ。それなのに最後に裏切るって無意味なことしてるよね」
京香が思いきり両耳を掌で塞ぎ、踞った。
ではやはり最初に殴ったのも比絽か。きっとこの変化もすべて比絽が原因。
「もうやめろよ、比絽」
「きみは面白かったよ。一緒にいて。全然ぼくのまわりにいないタイプだったからかな。きみほどガードの弱い人は初めてだ。ああ、だから玲華も好きになったんだ?物珍しい者って惹きつけられるよね。最初はさ」
「おまえ……」
「馬鹿にしてないから怒らないでね。きみ、馬鹿にされるのも嫌いでしょ?」
「どこから俺の情報なんて手に入れたんだよ。そういうことも、親のこともそうだ」
いまから思い返せば、比路は俺の弱い部分を如実に突いてきた。すべて俺という人間を知っていて、言葉を選んでいたような気さえしてくる。
「玲華に聞いたんだよ。玲華は嬉しそうにきみのことを言いふらしていたからね」
「それは、嘘だろ」
もうわかる。比路が言う玲華像は、まったく俺のそれと一致しない。
そこだけは元々信じられなかったんだから、確信に変わったと言った方が正しい。
俺が比路の目を見据えると、彼は鉄格子を握ったまま上を見上げた。
「あーあ。本当につまんないな。完全に取り戻しちゃったね、きみ。ぼくに操られてるときの方が面白かったのに」
「比路、答えろよ」
「べっつにい?身元を調べることぐらいわけないよ。きみの好きな探偵だって得意じゃない。いまごろ驚くことじゃないよね」
操っていたのは玲華ではなく比路だった。
なんだ、そういうことか。
それですべてがはっきりした。やっぱり、まだ玲華を信じられる。
久保田さんは仕事でしてるんだ。人を陥れるためには使わない。そう思える。久保田さんのことも信じられる。
(なんだ、大丈夫じゃないか)
だったらもう、なにも心配することなんてない。
「比路が言ってきたこと。どこまでが本当でどこからが嘘なんだ?」
「好きに解釈しなよ。教えたって、それもまた嘘かもしれないよ」
「比絽……」
「純粋すぎるのも哀れだね。この家に関わるならとくに、そんなもの付け込まれるだけだよ」
「付け込んだ張本人のくせに……」
俺はもう利用されてやらない。玲華にこれ以上の足枷になるつもりはなかった。
「このままでは終わらせないよ。毅さんの邪魔にも屈しない。あの人、子どもは寝ていろだって。よく言うよね。ここまでお膳立てしてあげたのは誰だと思ってるんだろう。利用しているのはぼくの方だ。勘違いされたら困る。玲華に署名させてすべてを終わりにさせたりしない」
独り言のように彼は入り込んでいった。不気味な笑みで、自分自身確認するように呟く。
俺は眉をひそめた。あまりに異様なその姿に。
比絽は目を細めてこちらを見ると、自分の膝を肘置きにして頬杖をついた。
「やっぱりきみに生きててもらうと困るな。もっと略奪戦みたいになって、きみがボロボロになるのを想像してたのに。結局あの人の一人勝ちみたいになってるからさ。玲華もちょっと持ちこたえてしまってるよね。こんなんじゃあ全然足りないのに」
「足りないってなんだよ!」
「きみも馬鹿で結局受け入れちゃったしね。ああ、そうか。悠汰くんにとっては、京香よりも他の大人たちよりも、ぼくに殺された方が苦しいよね。騙された男にさらに殺られるんじゃあさ。で、悠汰くんが苦しいことはきっと玲華も苦しいよね」
「そんなに、玲華が邪魔か?」
「きみにも言ったよね。彼女の存在は罪だと。あんな残酷な存在はいないよ」
それは片側でしか玲華のことを見れてないからだろう?
余計な感情が邪魔をして、本来の玲華を認めることができないんだ。それではなにも生まれないのに。
そのとき、京香が目の端で動いた。
起き上がって、それでも何も発せずにただ座り込んでいた。もう何も口を挟みたくないのかもしれない。
あんなふうに、気力をなくして、ただぼんやりと見ているだけになってしまう状態は知っていた。
よく、知っている。俺自身もそうなったことがあるから。
「比路。それでも俺は……」
彼の目的はすべてわかった。
玲華が比路を遠ざけようとした理由も、ようやく理解できた気がした。それでも。
「俺は比路を嫌いになれない。憎めないんだ、どうしても。ただこの家を眺めるしかなかった俺を、ここまで引っ張ってきてくれたのはやっぱり比路だから。このままこの家に来れなくてすべて終わっていたら。それで後からすべてを知ったら、俺はずっと後悔してたかもしれない。だから、たとえ利用されたんだとしても、俺は感謝してる。比路に」
最低な男なんだろうな、俺は。
こんなに玲華に迷惑かけてるって自覚してんのに、これが本心なんだから。
比路の右手が柵を越えたと思ったら、俺の襟元は鷲掴みにされていた。
状況を把握する前に、すごいスピードで引き寄せられて、俺は左側から鉄格子に容赦なくぶつかった。
すごく力強い。有無を言わせない感じがあった。
「なにそれ?自分だけキレイなままでいようっていうの?この家に来てそんなことは有り得ないよ。ここは腐ってる。関わった人間もみんな腐っていくんだ。だからぼくは根元から壊さないといけないと思ってる。きみもだよ。きみも腐る。だから殺さなくちゃいけない」
耳元にかかる低い声が、薄気味悪く響いた。
「おまえの、目的って……」
すべてを壊すこと?それだけのためにこれまで生きていた。
なんて長い、深い想い。
「先ほど、面白いことを言っていたね。嫉妬と憎しみは違う?笑っちゃった」
「なに?」
「嫉妬と憎しみは同じだよ、悠汰くん。嫉妬が深くなれば憎しみに変わるんだ。同類だよ。愛と憎しみも似てると思わない?どちらもその人のことをすごく深く想ってる」
いまさら、美山の言葉が浮かんだ。
――あいつは奥が深い。俺らじゃ辿り着けないところまで堕ちていて……歪んでる。
本当にそうだと、今なら感じられる。
「そうだ。こんな会話がしたかったんじゃないんだ、ぼくは。あまり長く時間をかけると問題も生じるしね」
比路は手に持っていた携帯をその場に置き、左手も柵の中に入れてきた。俺の髪を乱暴に掴み、そして右手で首を掴んできた。
本当に見た目にそぐわず力が強い。
俺は痛みに顔をゆがめた。
「前に言ったよね。玲華をレイプしようとした男、幸祐くんのことだ。彼はこの一階上の地下牢で殺されたんだ。こんなふうに首を絞められてね。あれはぼくがやったんだって言ったら、きみはどうする?」
「うそ、だろ……」
なんとか声が出せた。
これは虚言だと、本能が告げる。きっと、これまで同様、俺を最も恐怖に陥れようとするために選んだ嘘。
「本当だよ。あのときは紐があったんだけど、今はないからこうするしかないね。ぼくは人が殺せるんだ。だから覚悟してね」
徐々にきつくなる握力。
だけど。
俺は抵抗しなかった。
虚言だと告げたのは本能であって、根拠はない。でもその本能が働くのにはちゃんと理由があって。
「無理だ、比路。……おまえには殺せない」
「なに言ってるの?」
口調と違い厳しくなる声音。
俺は首を動かして、なんとか比路の目を見た。
「俺は本気で……殺意を持って、絞められたことがある。兄貴に。……だから知ってる。こんな絞めかたじゃ……人は、死なない」
少しだけ咽の上の方を締めていたんだ、比路は。まだどこかに迷いがある証拠だった。
あのときは本当に苦しくてすぐに喋れなくなった。そこからも違いがわかる。
目を瞠りながら、僅かに比路の力が緩んだ。
きっとこのことは知られていないんだと思った。
当たり前だ。俺は誰にも言わなかった。刑事の池田さんにも久保田さんにさえ言ってない。知っているのは本人と玲華と世羅。
でも誰も言わないだろうと思えた。玲華は軽々しく話すタイプじゃないし、世羅だって兄貴の不利になることは言わない。兄貴自身も少しでも刑を減らしたかっただろうし、たぶん言ってない。
だから、知られるはずがないのだ。
俺は比絽に思っていたことをそのまま口にした。
「なあ。こんなこと、俺に言われたくないだろうけど……。理事長のしたことで、玲華とか京香とかこの家の人全部恨むって、それは違うんじゃねえのか?当時の理事長がどんな人だったかなんて知らないけど、いまの理事長だったら絶対ちゃんと比路の話を聞いてくれると思う」
「なにそれ?ぼくを諭そうっていうの?」
ピクリと比路の眉がひそめられる。
「そうじゃない。ただ俺は兄貴のフォローがあって、玲華に勇気付けられて父親と話すことができたんだ。次元が違うって言われればそれまでだけど。そういうふうに、周りの影響で変わることはあるんだって知って。だから比路だって、ずっとそんな憎しみとか持ってんの、辛いだろ?」
俺は元に戻りたくない。
玲華の存在を知ってから、とくにそう思うようになった。
だから比路も、そういう人と出会えば変われるかもしれないって思ったんだ。
「意外と、傲慢だね、きみ。冗談じゃないよ。ぼくはここまでこれで生きてきたんだ。すべて壊れることこそがぼくの望みだ。いまさら理解なんていらない。ぼくがそんな話をしたくないんだ。あの人の言い訳なんて聞いてやらない」
比路は首を絞める代わりに爪を立ててきた。
ガリッと耳の下のほうに痛みが走る。思わず顔をしかめた。
「言い訳って……。なにか誤解があるのかもしれないだろ」
「それが余計だって言うんだ!」
らしくな荒ぶり方で、比路は俺を突き飛ばした。
ガンッと鉄格子を拳で叩く。
「誤解がなんだって?そんなのあったとしてもそれが何だって言うんだ!それでぼくの今までが無しになんてならない!同じほどの苦しみをあの男にも味わせてやる!……そうだ。そうだよ。……それには玲華が死ぬことが最大の復讐になるんだ。ぼくは目先のことにとらわれ過ぎていた。玲華よりあの男の方が最も罪深い。決めたよ、悠汰くん。きみより先に玲華を殺す!」
「比路!」
聞いてられなくて、俺は体勢を整える間もなく、手を付きながら比路に駆け寄る。
「そんなことさせられない!駄目だ!だったら俺を殺せ!」
「うるさいよ!きみのせいでぼくはターゲットを変えるんだ!だから玲華が死んだらきみのせいだからね!それでもまだ、誰のことも憎まないなんて大口が叩けるか見物だよ!」
比路は口元を歪めたような笑い方をした。眉はずっとつり上がっているのに、口だけ歪んでて恐ろしい形相だった。
(なんてこと……)
その言葉に俺は息を呑んだ。
考えなしの発言で、比路を怒らせたんだと気づいた。
比路は、置いていた携帯を拾い上げ、そのまますかさず立ち去る。俺の言葉をもう聞くつもりはないみたいで。京香のほうも一度も見向きもしなかった。
――なんでこうなるんだ。
どうしていつも、俺の言葉は間違ったふうにしか届かないんだ。
「京香!」
俺はここから出られないのがすごく悔しかった。
こんなことを、傷ついている女性に頼まなければならないのが、本当に辛かった。それでも、何もしないわけにはいかなくて。
「京香!頼む!比路を止めてくれ!」
まだ京香はぼんやりしている。
「止めなくてもいい!玲華か久保田さんに伝えて!京香!」
伝われば、きっとなんとかしてくれるから。久保田さんならちゃんと護ってくれるから。
俺じゃないのが悔しいけれど、そんなことは言ってられなくて。
京香が動き出すまで、俺は叫び続けた。
それからわりとすぐに、黒い服の男たちが何人もやってきた。
比路のかけた催涙スプレーから目覚めたのか、俺の叫びがうるさすぎて異変を感じたのかはわからない。多分両方だ。
強引に京香は連れて行かれてしまった。比路の仲間だと疑われているみたいだった。かなり手荒に扱われていた。
それも止めたくて違うって叫んだけど、聞いてもらえなかった。
俺の主張はなにも届かない。
ただ黙々と仕事をこなしてるように見える。その様が怖かった。本当に同じ人間なのか、と思った。
それから一人、男が俺の前に立つことになったみたいだった。何も言わずにこちらも見ずに、ただ立っている。
絶望的な気分になった。
いまでも着々と比路は玲華に近づいてるんじゃないかと思うと、息苦しくなって。目の前が真っ暗になった。
妄想が膨らんで。パンパンに膨れ上がって、押しつぶされるんじゃないかと思った。
そしたら、聞きたくないような、嫌な、渇いた破裂音が何発も聞こえ出してきて。
だけど。
「悠汰?」
本当に、幻聴がすると思ったんだ。
とうとうやられたんだって。
でも、振り向いたら玲華のような人がいて。幻覚まで見えたら終わりだなって思って……。
だけど幻覚にしたらいつもと雰囲気違うし、どこか汚れているし。どういう反応に出るべきか迷った。
声をかけて消えたらどうしよう。
そう思っていたら、その幻覚が近づいてきた。
離したらいけないと思った。そのとおりにした。そうしたら、すぐにわかった。
(本物だ)
温もりが、本物だった。
「待って。あたし汚れてる……」
そんな変なところ気にするなんて、本当に本物だ。
俺はすべてを話したかった。
でも上手く言えない。息苦しさが引きずっていて、伝えるのに苦労した。それでも玲華は言ってくれた。
「もう大丈夫だから。あたしは死なないわ。悠汰をおいて死なないから」
その言葉ですごく安心した。いままでの暗い闇を拭い去ってくれる呪文みたいだった。
俺はなんとか落ち着いて、これまでのことを一からちゃんと話した。絶対に比路の企みを知っておいてもらわないといけないって、一番強く思っていたから。
「じゃあ、比路は悠汰を狙ってきたってこと?」
「そう……でも、俺が身の程を知らずに余計なことを言ったから怒って……」
「それって躊躇ったんじゃないの?比路は悠汰を殺せなかったのよ。だったらそれは余計なことじゃないわ」
「でもそれでおまえに殺意が向かうんだったら、俺に向いていた方がマシだ!」
だから、後悔した。
失敗したんだと、後から気づいたんだ。
それでなくても俺は、いっぱい玲華の足を引っ張っているのに。助けたいと思って来たはずなのに、更に危険にしてどうするんだって。
「悪いけど、あたしも同じ気持ちよ」
玲華はきっぱりとそう言う。
同じって、つまり。俺のことより、自分の危険が増した方がマシだということか?
そんなん最悪だ。
どれだけ迷惑かければ終わるんだろう。俺の存在がわからなくなる。
「悠汰。あなたにはいま逃げ道がない。でもあたしは自由に動けるわ。その差がどれだけのものかわかる?……あたしだって絶対やられたりなんかしない。だって、あたしは帰るから。あの学校に戻らなくちゃいけないんだから、大人しくやられたりなんてしてあげないわ」
いつものように強気な発言。
玲華が言うと、本当にそうなる気がする。戻れる気に、なってくる。
「お願い、悠汰。だからもう無茶なことはしないで。死ぬことで解決しようなんて考えないで。あたし、久保田さんと作戦を立ててるの。そのことを伝えにきたのよ」
「俺に?」
「そうよ。時間がなくて全ては話せないけれど。悠汰にも協力してもらいたいことがあるのよ。だから、ここに来たの」
俺は玲華の顔を見たくなった。
まだ抱き締めたままだから、玲華の顔が見えない。だけど、この温もりも手放せなくて、どうしていいのかわからない。
とにかく、嬉しかった。俺にもできることがある。
それが、嬉しかった。
「なんでも言って。なんでもするから」
もしこれが、比路の言う玲華が操っているものだとしても、俺は一生操られてもいいと思った。
それぐらい……。
(ああ、そうか)
ようやく俺は実感した。愛しいってこういうことか。
「その台詞、忘れないでね」
「当たり前だろ」
だから、こんなにすんなり素直になれるんだ。
だけど……。
玲華が言った、次のその協力の内容は、俺の全身の血の気を失わせた。
百八十度変わる気持ち。いままで感じたなかで、最も両極端ではなかろうか。
「いやだ」
考えるまでもない。嫌だ。っていうか、無理だ。
しっかり意思表示をしたら、しばらく妙な間が空く。
数秒それが続いて……。
「ちょっと!一言で片付けたわね!後にどんなフォローが続くのか待っちゃったじゃないの!」
玲華は怒りまくって俺から離れて、そして睨みつけてきた。
それに俺はムッとなる。
「んなことできるか!知ってんだろ!そんなん向かないことぐらい!」
「知ってるけどしなさいよ!なんなのよ、その変わり身の速さは!なんでもするって言ったばかりじゃない!」
「いつも人には向き不向きがあるって言ってんの、おまえだろ!」
「向いてるじゃないの!ちゃんとあんたの人柄を見抜いた役割じゃないの!」
「どこがだ!これってあいつの作戦だろ!俺を馬鹿にしてるとしか思えねえ!」
「いいじゃないの!それでこの先上手くいくのよ!人命だって救えるし、あたしだって悠汰と一緒に外に出られるわ!」
「えっ……外に…………出る?」
誰が?ってか、一緒に?
しばらく心の中だけで今の台詞を反芻した。
「そうよ。もうここにいなくていいの。あたしたちがこれからすることは脱出よ」
ここから出るために?
戻れる?玲華と一緒に?
(………………)
そんなこと言われたら断れないじゃないか。
俺は仕方がないので決心することにした。
頷く変わりに、玲華の手を取って握り締める。
「じゃあ約束しろよ。俺にどんなことがあっても、復讐とか考えないって」
「…………」
玲華はすぐには答えなかった。変わりに彼女からも握り返された。
どう返すのか迷ってるみたいだった。どんなことが彼女のなかに渦巻いているのかまではわからない。
「じゃあ、悠汰も約束してくれる?逆のことが起こっても、復讐しない?」
卑怯な返され方をした。
(そんなの……)
俺がそのときどうなるのか、想像もつかない。
偉そうなことを比絽に言ったけれど、自分は本当に憎しみに支配されないで居られるんだろうか。
考えたくもなかった。
「なんか……俺らの間の取り決めって難しいこと多くない?」
責任を感じないとか。別にそんな大袈裟に決めたわけでもないのだけど。
「普通じゃないの?」
あっさり玲華は言い捨てる。
普通なのか、これが。そっか……。
やっぱり普通って厳しいと思う。
「でも、あんたは復讐に走るより……」
不意に玲華は言葉を止めた。不自然だった。
「なんだよ?」
「なんでもないわ」
玲華が止めた先を俺は知ってるような気がする。
恐らく俺はなにも考えられなくなる。魂が抜けたようになって、そのまま堕落するだろう。そして、どこかで壊れる。
どちらがマシかはわからない。
「やめましょ。最悪なことを話し合っても仕方ないわ」
「そうだな……」
「ごめんね。すぐに助けてあげられないうえに、こんなこと頼んで……」
「おかしいだろ、おまえが謝るのは」
悪いのは誰だ?ここに閉じ込めたやつか、こんなアホな案を出してとっとと死んだやつか……。
でも多分俺だ。
なにも考えずに乗り込んだ俺自身が最も悪い。
「それより、俺のせいで最初の計画が狂ったんじゃないのか?」
そのことのほうが重要で、気になった。
「そんなことないわ。ほんとはね……」
「おい、そこのバカップル」
玲華が何かを語ろうとしたときに人の近づく気配があった。ふざけた言葉とともに。
「その呼び方やめろよな!」
誰かを確認するまでもなく久保田さんだった。
なぜか不機嫌そうに右から歩いてきた。
「まだイチャイチャしたい気持ちもわかるが、時間切れだ」
「おまえ、俺の主張聞いてねえだろ……」
どこがイチャイチャしてんだよ。いまは手を繋いでるだけなのに。
そういえばさっきも久保田さんに邪魔されたんだよな、そういえば……。
せっかく玲華が話してくれそうだったのに。恨んでやろうかな。
「仕方ないわね。もう行くわ、悠汰。よろしくね」
玲華と繋いでいた手が離れた。温もりが遠ざかる。
「ああ……」
俺は無意識にその手に拳をつくっていた。いつまでも縋らないために。
「じゃあな、悠汰。頼んだ」
久保田さんはそう言ってそのまま左側に消える。玲華はその後についていきながらも、何度かこちらを振り返っていた。
結局、久保田さんとはあれからまともに喋れていない。
謝れてない。
でも。
――頼んだ。
去り際に言われた一言が嬉しくて。おまえは必要ないと、切り捨てられなかったのが誇らしくて……。
(あ……でも……)
自分のやるべきことを思い出して、すぐに気持ちは落ち込んでいった。