第一章 ・・・ 2
昔の自分……。
それはあまりにも感情むき出しで、すぐまわりに攻撃的な態度を示していた。幼いころ両親に虐待されて、連鎖を自分で止めるために常に温厚な人間になろうと思ったんだ。
努力して気をつけてきたけれど、いまの俺はそれとも違っている。
くり返し、なんだ。
新しい自分が、たまたま昔の自分に似てただけで。どれだけ心を誤魔化していても、軸となる部分は変わらない。どれだけ、周りのものが変化したとしても、それでは意味がない。
怒鳴らないように、キレないようにしたって、根っこは維持されている。揺るがなく。
――普通だろ、別に!
そう玲華に言った自分。
だけど普通が何かなんて、わかっていなかった。
――普通なんてわかってないんだから、どこかの基準を真似する必要なんてない。
そう言ったのも俺だ。兄貴に。
しかしそれは玲華が最初に言った言葉だった。
俺は稀に、他人の台詞で影響を受けたものをそのまま口にしているときがある。それでは説得力が無い。他人の心は揺れない。
自分の言葉で言わないと駄目なのだ。
(こういうとき、どう想うのが普通かなんて)
普通をちゃんと理解できなければ、嫌いな自分のみが残る気がする。自分の常識を貫けば、周りを――玲華を傷つけてしまう恐れがどうしても払拭できない。
(普通)
(……の、愛し方……なんて…………)
自分と普通がマッチしていれば、こんなに苦しくないんだろうか。
世間一般が言う優しさ。それは道徳的なものであって、自己犠牲とは違うはずだ。
玲華が俺を関わらせないように遠ざけたことが、京香の言うとおり本当であるのなら、それは優しさじゃない。しかしそう言い切るのにも躊躇われる何かがあって。
(だって玲華は優しいから)
優しくて強い、と思っていたから。
「珍しいですね。あんな神崎さま」
「櫻井さま。いまはそっとしておいてあげてください」
微かに聞こえる会話は、でも俺の頭にまでは届いてこなかった。
(櫻井?いつ来たんだ?)
部室の、いつもの座り心地の良い真っ赤なソファに寝そべりながら、俺はぼんやりと考え事をしていた。
秀和に用事があって訪問してきた同じクラスの女生徒を、遅ればせながら認識する。
「そうか、君は初めてみるんだな。あれが奴の本来の姿だ」
世羅がなにか言ってる。
これはもしかしなくても俺の話しか。
あんなってどんな……。あれってなに…………。
おもむろに立ち上がったら、三人の視線を一挙に集めた。おかしいな……。そんなに前触れなかったんだろうか。
「帰る」
一言断ってその場を後にした。
体に力があまり入らない。立ち上がるときにクラクラした。
でも倒れている場合ではなかった。
俺は迷いに迷って、玲華の家に行くことに決めたのだ。
様子を知りたい。
たとえ本人がいなくても、理事長や玲華の母親、小百合さんに聞けば分かることだろう。
迷った原因は、やはり玲華の言い残した言葉が俺を止めていた。
待っていてと言われて行くということは、裏を返せば玲華を信用していないということを態度で示しているような気がして。
それでもはっきりさせたい。京香の話を聞いたら止められなかった。これでも二日葛藤したのだけれど。
綾小路にはまだ話が聞けていない。
教室まで行っても不在ばかりだ。今日も放課後、すぐにやつの教室まで向かったのにすでに帰ったと聞かされた。綾小路は弓道部に在籍しているが、部活は今月に入ってから全滅だという。
こうなると、玲華絡みの用事でいないと考えるのが妥当だろう。
しかしそれと同時に、避けられてるのかもしれない、とも思うようになっていた。
来ているときでも会えないというのがまず怪しいし、昼休みに見かけたことがあったのだけれど、顔を見るなり全力疾走で回れ右をされたのだ。
これが避けられていると言わずして何と言う?
なぜあいつが避けるのか分からない。しかし避けるということは疚しいことがあるからだ。
(疚しいこと?)
綾小路にとって、もし本当に玲華が婚約を望んでいるのなら、避ける必要はない。それどころか優越感たっぷりの顔で自慢してくるに違いない。
あいつなら、間違いなく。
だからといって、なにか裏があるんだとしても、俺をかわすぐらい造作ないはずなのに。
「あ、大丈夫?神崎くん」
やっぱりおかしいのかもしれない。
拓真の幻聴が聞こえる。いるはずのない廊下に。
……っていうか何度見直しても、そこには拓真本人がいた。
「なにやってんだ?部活は」
拓真は吹奏楽部だ。数少ない文化部のひとつ。
「神崎くん、これからどこか遊びに行かない?映画とか……カラオケでもいいし、ご飯食べに行ってもいいしさ」
俺の質問をぶっ飛ばして、なにやらぶっ飛んだ流れで、そんなことを言ってきた。
やはり本物じゃないかもしれない。
一応寄り道は校則違反で普段のこいつを見ていたら、そういうの破りそうにないから。
「行かない」
素通りしそうな俺を拓真は止めた。
「なんか元気ないから心配なんだよ」
しつこく食い下がってくる。
「心配ってなに?同情の別名?」
またなに言ってんだ?俺は。
「神崎くん!」
どこか叱りの含まれた声を聞いた。
こいつも俺が優しいと思った人だ。この優しさは自己犠牲?
わからない。解らないけど、拓真の誠実さがいまは俺には苦痛でしかない。
「なあ、おまえさ。知ってたんだよな、噂。なんで俺に隠した?」
ハッとなって拓真は息を呑んだ。
他の表情は見落としていたのに、それだけは鮮明に残って不思議な感じがした。
その隙をついて歩き出す。その返しも待たずに。
「噂だろ、ただの。神崎くんは信じてるの?」
後ろから声を投げかけられたけれど、追ってまではこなかった。
その答えを俺は持っていない。
一度は信じる方に傾いた。美山から京香に立て続けに襲撃に来られた感じがあって……。
(立て続け?)
あの二人は別々ではないのか?なぜ俺はいま、一纏めに考えようとした?
漠然としていて解らないことだらけだけど、どこか遠くで事が動いているのは確かだと思えた。
「悠汰くん」
昇降口を出て、帰る道のり。
校門のところでまた京香が俺の前に現れた。考えてた直後で妙なタイミングだと思う。
あれから、時間が合えば付き纏われるようになっていた。休み時間になると教室までやってくるし、俺が綾小路を探しに二年の階に行ったときも会った。
まるで見張られているみたいな気分に陥る。
おそらくそれは、噂になるようにだろう。俺が避けていたとしても、たとえ一方的でも、学校内では面白おかしく語ってくれる人がごまんといる。
「……」
些細な苛立ちを感じて、わざと無視して素通りしようとした。
だけど構わず京香は俺の隣に並んだ。
「つれないなあ。昨日ね、玲華に会ってきたんだよ」
なにを企んでいるのか、わざとそういう話を持ち出してくる。
「聞きたくない?玲華の様子」
「別にどうでもいい」
「ああ、やっぱりそれが本音かあ。伝えておいたよ。あなたが愛想をつかしてるって。そしたらね、玲華ももう、あなたのことはどうでもいいですって。ヒドイよねえ。なんか亨くんにしか、いまは目が向いてないみたい」
ベラベラと聞いてもないのによく喋る女だ。紛れもなく誰も喜ばないような内容を。
俺の中ではすでに、これからのことで頭がいっぱいだっただけだ。あの家に行けば全てあきらかになる。
それに京香から聞いてはいけない予感がした。
「わたしね、玲華とよく比べられてたんだ。親にね。歳が近いせいかなー。あの子には負けるなですって。あと、正式な妻から産まれた子の子でしょう?うちは周りにいくら騒がれたって所詮は妾の子。僻みとかも手伝ってさー」
この話で京香に感じていた引っ掛かりが、すっとほどけていった。
同じようなものを感じていたんだ。
比べられた者という共通点。
俺も比べられていたから。兄貴と。
「苦労したんだな」
本音がするっと出てきた。
「うん。でもあの家では珍しくないことなんだよ。なにせそういう話ばかりだからさ」
京香はさっぱりと言い切ったが、どこか寂しそうに見えた。きっと俺のそれより根は深い。たった一組だけの兄弟の話ではないのだ。
俺は何となくわかってしまった。
この間見た、玲華が大嫌いと言った彼女の意思。あれが本音でもあり、そして……。
(憧れ)
そう、憧れがなければ嫉妬はしない。
「だからさ、手伝ってよ。悠汰くん」
「どうやったら繋がるんだ?前の話と」
「わたしは気にしてないんだけど、親が気にしてるんだってば。いまの玲華を」
「で、その内容をいまは言えないって?」
「うん、そう」
「おまえな……」
俺は呆れ返るしかなかった。
京香は妙な感覚に陥らせる人柄だと思う。
初めは拒絶から入っているのに、気づいたら会話が続いていたのだから。雰囲気で話しやすく持っていってくれているのかもしれない。
「だってあたし本当は教えたいのよねー。秘密事って苦手でさ」
「じゃあ教えろよ」
「ダメ、駄目よ。悠汰くんが協力するって言ってから!そう言われてるの!」
「誰に?」
「それは言えないの!」
「あのな……」
堂々巡りをしたいわけではないのに、結局こうなるのか。
力が抜けるのを感じた。
「……ったく、しょうがねえな」
「えっ?受けてくれる?」
俺のぼやきに京香が声の調子を変えて、一度跳ねた。現金なやつだ。
「しないって。俺は嘘が苦手なんだ」
「えー。わたしと似たようなもんじゃん」
嘘と秘密は似てるのか?
そうだとしたら、なぜ出口がこうも違うのだろうか。不思議でならない。
「じゃあ本当につき合おうよ」
「だから……どうやったらそういう極論に……」
「わたし好きだもん。最初から素直に言えば良かったね。本当はつき合いたかっただけなの、わたし」
人懐っこい笑顔を向けてくる彼女に僅かな違和感を感じた。
……感じてしまった。
悪気はまったくなさそうではあるが。
「嘘だろ」
「本気だよ。わたし今まで玲華の物を羨んだことがないんだ。そのわたしが言うんだよ。玲華に遠慮できないくらい好きって」
彼女は嘘を重ねてくる。
本気なのは真実かもしれない。それくらいの気迫があるから。
でもそれだけだ。
「俺はモノじゃねえ」
玲華付随の俺に価値を求めているんだ。俺じゃない。
それが分かってしまうのだ。
「失礼な言い方になったのは謝る。ごめん。でもわたしも必死なの」
「なにが、そこまで……」
訊きかけて、無駄だと悟る。言えない内容に繋がっているだろう。
それにそろそろ、この話には飽きてきていた。
「じゃあキスして。それでもう、つきまとうのやめるから」
また笑みを浮かべて、京香はとんでもないことを言い出した。
そこまで言われると真意がまったく見えなくなる。迷宮に入り込んだみたいだ。
「…………」
探るように見つめる。俺より背の低い彼女を。
まったく怯まない、どこか挑発的な笑顔。上目遣いで見上げてくるその眼には、少なくとも俺には奥底の揺らぎが見えなかった。
本気か。
本気だけが真実。
「そういうのやめろ」
「意外と堅いんだね。そういうギャップも素敵だよ。でも女性としてはガッカリね」
「つーか、俺が楽しくないだけだ」
「なんでよ。玲華とはしてるんでしょ」
「おまえは玲華じゃない。当たり前だろ。当たり前すぎて呆れる」
ふと、京香の歩みが遅くなって下がったのに気づいた。
それに合わせて顔を向ける。
「そう、あなたは比べないのよね。……悔しい。どうして玲華にはいつもそういう人ばかり集まるの?悔しいわ」
俯きながら、少し震えていた。涙ぐんでいたのかもしれない。
そのまま踵を返して元来た道を歩いて行ったから、真相は判然しなかった。
しばらくその背中を見つめて、俺も帰る。
すぐにどうでもよくなっている自分に、気づいていた。
* * *
少し前までの自分からは想像ができない。あのころはすぐに立ち止まっていたから。周りに醜く縋ってばかりで。
といっても、やるべきことがわからなかったというのも事実ではあるのだが。
でもいまはまだ打つべき手がある。
それだけで感謝したかった。
動いている分には、悩むために使う脳が減少するはずだ。
玲華の家には毎回眞鍋さんの運転手つき高級車で来ていた。一人で来るのは初めてのことだ。
そのまま真っ直ぐ来て、やや緊張しながらチャイムを鳴らす。
すでに空が朱く染まっている。まだ気温は高い。
何気に空を一瞥して数十秒後。
いつものように大きくて立派な扉を開けたのは、執事の葛城さんだった。
「玲華お嬢様はおりません、神崎様」
そして真っ先に告げられたのがこの言葉だった。俺が何も言わないうちに。
「どこにいるんですか?」
「そのことについて、ですが。どうしてもお知りになりたいのでしたら、旦那様がお話しを伺うと申しております」
姿勢を崩さないいつもの態度のなかに、どこか厳しさが介在していた。
なぜ俺がここに来たのか、聞くまでもないようだった。
知りたいなら覚悟しろ、そう言った秀和の言葉が浮かぶ。
それでも。
「知りたいです。どうしても」
なにがなんだかわからない、いまの状況よりはマシなはずだ。
葛城さんはようやくその表情に柔らかさを含ませた。どこか悲しげな笑みで。
「ではこちらへ」
短く告げ案内をしてくれる。
お馴染みの濃いグレーのソファ。最近知ったことだけど、部室のソファと同じメーカーらしい。
どうりで、と納得してしまう座り心地の良さだ。
中に通してもらうと、すでに理事長はそこに座っていた。
あのパーティの日以来、初めてちゃんと対面する。学園では見かけることがほとんどない。
「お久しぶりです」
まだ緊張は続いていた。
理事長が沈痛な面持ちでいたからだ。
「やあ、やっぱり来てしまったんだね」
その表情は硬いままで、それでもなんとか笑みを作っている感じがした。
「わたくしもご一緒させてくださいな」
葛城さんが伝えたようだ。小百合さんがダイニングに入ってきた。
小百合さんは愛猫のシルバーをその身に収めている。これもいつもの光景だった。
「そうだね。それがいい」
理事長は隅により、小百合さんが座るスペースを空けた。そんなことをしなくても充分に余裕がある広さなのだが、そういう気遣いが癖になっているのだろう。
俺はその前に促されて腰を下ろした。
これからだ。
張り詰めた空気のなかで、それでも俺の心は逸る。
「君がここに来たということは、玲華のことを聞きにきたんだね」
組んだ指を膝に置き、やや前屈みで理事長が口を開く。
「そうです。玲……彼女は、どうして学校を休んでるんですか?なんでここにいないんですか?なにを……」
「神崎君」
抑えが利かなくなって、立て続けに質問を浴びせようとする俺に、理事長が制止をかけてきた。動かない姿勢のままで。
「そのことを答える前に確認しておきたいことがあるんだ」
低くて真剣な声。
以前会った時とはまったく違う。
「なんですか?」
「どれだけ君は西龍院家のことを知っている?」
また出た。そのキーワード。
西龍院家だ。
まさか玲華の父親自身から出るとはさすがに思わなかったけれど。
「ここではない、玲華の祖父。つまり私の父のことだが」
「俺は……。その、たくさん愛人がいてその子供も認知しているから相続争いが元々あって。それで……」
それで。
(確か理事長は自分から実家を離れたって)
理事長は自分から離れたと言っていたはずだ。
確か、そう、相続争いに巻き込まれないようにって……。
(相続?)
「まさにそれだよ。本家ではいま、その争いの真っ只中だ」
「え?」
本家?
玲華は家のことで色々あった、とは言っていたけど本家って……。
理事長が離れたことで、もう関わりがないんだと勝手に思い込んでいた。
「何も知らないみたいだな」
言葉に詰まった俺を見て、理事長が大きなため息を吐いた。
隣では小百合さんが何も言わずに見守っている。いつもの優しい笑みで、だけど持ち前の明るい声は全く発せずに。
シルバーはその膝でじっとしていた。あまりアクティブではないあの猫は、いまも眠っているのだろう。
そのとき葛城さんが紅茶を出してきてくれた。ここに来ると紅茶の確率が高い。
「もしかして、玲華もそのなかに?」
俺は、玲華の言葉を思い出していた。
必ず戻ってくるから、と。
(戻るって本家からってことだったのか?)
だったら、綾小路との噂はいったい……。
「神崎君。ここからはそう軽々しく話せることではないんだ。だから君が本家に……私の父にどこまでたて突く覚悟があるのか、私は見極めたい。実際にやるかどうかは置いておくとしてもだ」
「え?」
覚悟の二文字が出て、やっと秀和の言っていた言葉に繋がるような気がした。
「君が玲華に対してどのように想っているかだ。君たちがつき合い出したことは聞いたよ。玲華がいなくなってから、小百合からね」
「あっ……」
そういえばまだ報告というか、挨拶というか……そういうのをちゃんとしてなかった。
俺は恐縮しそうになる。
だけどいまはそれどころではなかった。理事長もそこを求めているわけではないのだ。いまは。
「俺は、家のことはよく分かりません。だけど、それでもあいつ……彼女がもしいま困っているなら助けたいって思います。何回も彼女は助けてくれたから。今度は俺の番だと思うから」
自分で言いながら、どこか当て嵌らない感じがしていた。
嘘ではない。本心からそう思う。
でも僅かに感じる不一致。的確ではない、何か。
「っていうか、護るって約束して。……じゃなくて、えっとそれも嘘ではなくて。だからつまり……ああ、そうか――。好きだから。会いに行きたい。逢いたい。その為なら何でもする」
ふと思いついた言葉は、歯車がピタリと合い俺の胸を震わせた。
単純な話だった。
噂が気になるとか、玲華が心配とかそれも確かにあるけれど、それを抜きにしても逢いたいんだ。
「そう。――どうかな?彼は」
一言頷いて、理事長は小百合さんに顔を向けていた。
「充分だと思うわ。だって若いもの。そういうパワーは信じていいと思うの」
小百合さんはいつもどおり、ゆったりとした口調でそう言ってくれた。
ちゃんと思いを伝えられない俺を嗤ったりせずに、理事長も頷く。仕方ない、というふうではあったけれど。
「わかった。教えよう。だけど聞いたからって変に気負うことはないよ。あくまで君自身の判断をして欲しい」
そう前置きをして、理事長は語りだした。
「事の始まりは、君が初めてこの家に来た日なんだ。そう、奇しくも浅霧さん宅のパーティが行なわれた日だ」
「え?」
そんなに前から?
確かにそんな日があった。あのとき、俺は玲華について出席したんだ。そのためにこの家に来た。
「同じ日にたまたま父から玲華宛に呼び出し状がきてね。父はそういうのに厳しくて、背くことを許さないんだ。しかし私は強引にあの一族から離れている。今更公式な呼び出し方に警戒したんだよ。それで玲華抜きで会いに行った。しかしそのことですごく怒らせてしまった。今思えば失敗だったよ、ただひとつの腹案だったものを決定事項にさせてしまったんだ」
そこで理事長は一口紅茶を飲んだ。それだけの短い時間も惜しく感じてしまう。
「父はなにを思ったのか、後継者に玲華を選んだんだ。もちろん彼女は最初は断り続けていた。しかし最終的には決意をしたんだ、候補の一人になることに」
「候補?」
「父が親戚や企業の関係者を招集して開かれた会で宣言したらしい。『西龍院玲華に全権を継がせ、全財産を遺贈する』とね。私は全ての権利を放擲している。だからその会に呼ばれることさえ許されない立場だ。その孫を選んだということで、周囲の反感は凄まじいものだろうと予想できるよ。資産だけでも正確には不明だが何百兆とあるだろう。それを狙うものも何百人もいるんだよ」
「…………」
その内容は俺の予測の範疇を超えていた。あらゆる数が大きすぎて、まったく実感がわかない。
俯きがちだった俺の顔を、覗き込むように身を乗り出して理事長は続けた。
「問題なのはここからだよ、神崎君。先ほど言ったよね、候補だと。そう、まだ決定してないんだ。父はそれから皆に条件を出した。納得いかない者は一度玲華が譲り受けた全権から好きなだけ奪い取れとね。それとこのことは口外しないように命令を出した。口外したものにはいくら署名があっても遺贈させないと」
「奪う……」
背筋が凍った。
それは決して生易しいことじゃない。奪うとは暴力的な言葉だ。
ならば玲華は危険な立場ということになる。
「無論、現金つかみ取りみたいなことはさすがにしないよ」
俺の考えを読んだのか、理事長はそう言って笑った。
「誓約書みたいなので一筆書かせるんだそうだ。ここのポストは誰々に引き渡しますとか、財産の一部を誰々に譲り渡しますっていう内容でね。それでも玲華が傷つけられないという保証はない。筆跡と印鑑証明の印さえあればいいんだ。どういう手をつかっても――そう、たとえ意志を薄弱にさせてでも作り上げる連中は出てくるだろう」
よくよく聞いても、結局恐ろしいことに変わりはなかった。
そんななかに玲華がたった一人で置き去りになってるなんて。
「どうして彼女はそんなこと引き受けたんですか?」
「…………なにか、想いがあってのことだっていうことは確かだよ。玲華はそんなもの望んでいなかったからね。しかし真相は……いや、玲華にしかわからないかな」
切なそうに理事長の目が伏せられた。
「父は建前上ではあるが玲華が選択する猶予期間を渡した。それまでに父を説得できなかった、というのも大きく影響しているだろう。玲華はもう無理だという判断をして、条件を出す代わりに引き受けたと本人から聞いてるよ」
「条件?」
「そう、開始時間の延長だ。最初は加奈という子供の美雪ちゃんの結婚式の日にそのことを発表する予定だったそうだ。それが九月までに延ばされた。……元を鑑みれば、私が玲華を残してパーティの日に行ってしまったことで、その期間が遥かに短くなってしまったということだ。そこは後悔してもし足りない」
結婚式。
あの日は神崎家にとっても大きな事件があった日だ。
玲華はそんなときに、自分のことより他人を選んだ。世羅と俺を。
そんな事実が裏に隠されていたなんてまったく知らなかった。その後も何も彼女は言わなかったから。
(なんで!?)
そのことには憤りを覚えた。なぜ、言ってくれなかったのか。なぜそんな選択をしたのか。
(俺はまた、玲華に迷惑をかけていた)
知らないうちに。
その後もずっと。ただ彼女の優しさに甘えて。
「俺のせいだ。俺が情けないから、放っておけなかったんだ!いつもそうだ!あいつは!」
拳が震える。
うちのことが解決するまで一緒にいてくれたんだ。
まさかそんな前から続いていた結果が現在だなんて。一人のうのうと甘えていただけだったんだ、俺は。
「そこで神崎くんが罪悪感を感じることなんてないのよ」
小百合さんが静かに口を開いた。
「あの子がそうしたくてしたの。それでいま、あの子に大変なことが起こっているとしたって、それはあの子の問題なのよ」
まったく変わらない小百合さんの口調と優しい笑み。
それはまるで聖母のようだった。子供を産むという行為をしたものだけが許される強さ。
「今更何を言ったって始まらないわ。それよりこれから何が出来るかを考えるのが先決よ。そうは思わない?あなたも神崎くんも」
そして女性特有の強さと正しさ。
間違いなく玲華が引き継いでいる部分だと思った。
「ああ。そうだね。まだ現在も玲華は頑張っている途中だからね」
それに肯定する理事長。
本当に理想の夫婦だと思う。親の愛を目の当たりにして、焦がれる気持ちが呼び戻される。
「神崎君」
そして理事長は俺に向き直った。
「申し訳ないけれど、私に分かることまではここまでなんだ。玲華が私に報告してくれたことまで、なんだよ。玲華が本格的に本家に入り込んでからは全く状況がつかめていない。私にも許されてないんだ」
「え?」
「私でも……いや、この件に関する者以外は本家に入ることすら赦されていない。なんとか入り込めないかと、ずっと手をまわしてはいるんだが、それでも一度も入れていないんだ。この意味がわかるかい?」
ここへきて、最も沈痛な表情を理事長は見せた。
親バカと周りにまで評価されている理事長だ。きっと俺なんかよりずっと辛い立場にいる。
「私は公的にあの家と断裂したからね、余計に難しいよ。君にたて突く覚悟があるかと聞いたけれど、出来れば余計なことはして欲しくない。君が勝手に動くことで玲華の邪魔になってしまう可能性がある」
「…………」
だったら、諦めろというのだろうか。
ここまで来て、冗談じゃない。
「邪魔にならないようにします。それで、その本家ってどこにあるんですか?」
俺が尋ねると、理事長はぐっと見据えてきた。射るような目に、それでも複雑な色が含まれている。
負けるわけにはいかない、と俺も見つめ返す。
しばらく視線のみの交信が続いた。
やがて理事長は大きく息を吐き出した。ため息というより、クッションを間に挟んだような仕草。
「君が本気なのはわかった。それと今の君にこれ以上を望んではいけないこともね」
「どういう意味、ですか?」
なにかを諦められた。
それだけが敏感に察知できたことだった。幻滅されることに恐れ続けていた俺は手の平を握り締める。
「それは自分で考えてくれ。解るまで、合格点はあげられないな」
自分で考えて?
ずっとひっきりなしに考えているのに。
俺が鋭くないからだろうか。でもそんなの初めから個人差があるんじゃないのか。
「理事長。だったらひとつだけ教えてください。玲華はどうして学校にこないんですか?……入り込んだっていうことは、外出もしてないんですか?」
一つだけと言いながら、気づいたら二つ質問していた。
「私は反対したけど、それは彼女自身の作戦だよ。外にいて狙われる手段と範囲が拡大することを阻止しようとしているんだ。今月はもうずっと本家から学校に行ってたんだけどね、いよいよ本格化したっていうことかもしれない」
「京……一条が言った、関わらないように遠ざけたって、本当だったんだ」
力なく俺は呟く。
それに反応したように、理事長が顔を上げた。
「一条?京香ちゃんだね。彼女とも面識があるのかい?」
「あ、いえ……まあ……」
どこまで話して良いか躊躇われて、俺は言葉を濁した。
「彼女が君に接触したのはこの件で?」
さらに理事長は突っ込んで聞いてくる。それは素直に肯定した。
「そうか。ならば君もすでに目をつけられていることになるね。気をつけて、としか言えないけれども……」
「ちょっと待ってください。目をつけるって……俺に、なにか……」
利用しようとしてたのはわかっていた。だけどその真意は、つまり彼女も玲華の署名が欲しくて?
そんな裏があったとは。
そうか。だから“言えない”なんだ。
口外したら財産がもらえないから。
「本家のこと。もっと話すべきかもしれないな。君には。すでに関わってしまっているのなら」
「他にもなにかあるんですか?」
「……いや、ただあそこの人たちはほぼ欲深い連中だということだよ。その為には何でもする。本当に気をつけてくれ。君一人の人間なんか抹消できてしまう人たちばかりだから」
「抹消って……」
「いろんな意味で、だよ。ただ死に至らしめるということだけじゃない。死よりも苦しめるやり方もこの世にはあるんだ。その実行力も出来てしまう心も彼らは持ち合わせている」
そう言い切った理事長の顔はここへきて、一番険しくなった。
だから……だから理事長はそれらを捨てたのか。
関わって家族がそんな目に遭わないように。遭う可能性を少しでも減らしたくて……。
「なら玲華も危ない」
ようやく俺は玲華の危機に対面できた気がした。
それでもまだほんの序章に過ぎなくて。
「そうだよ。だから玲華は綿密な計算のうえで動いているはずだ。君というイレギュラーが本家に手を出せば、玲華にとってもより危うい状況になる」
だから生半可な気持ちで本家に近づこうとは思わないでくれ、と理事長は念を押してきた。
そして俺は返す言葉を完璧に失うこととなった。
* * *
知る前より頭が混乱している気がする。
玲華の家に行けばすっきりすると思っていたのに。
結局俺は雰囲気にのまれて綾小路のことも訊けなかった。俺に報告に来た次の日から本家に閉じこもってるって言っていたから、理事長も詳細を知らないのかもしれない。
そして次の日。土曜日の昼だ。
俺はそれでも本家に来てしまっていた。
もちろんあれだけ言われたのだから入る気は起きないけれど、少しでもどんなところか知りたかったのだ。
場所は兄貴が教えてくれた。なぜか、兄貴は知っていた。
「巷では有名だ。やはり大富豪だからな。噂にはなるさ」
そんなことを自分一人で調べられない俺の能力では、確かに太刀打ちなんてできるはずがないんだろう。
だから理事長は諦めたのかもしれない。
その前に久保田さんに連絡をしてみた。
久保田さんは、久保田修次といって数ヶ月前に知り合った探偵をしている人だ。二十八歳で凄く偉そうな態度をしていて、何度もムカついているうちに、助けてくれたりもして頼もしく思うようになった。だから今回もなにか良い案を出してくれるんじゃないかと期待したのだ。
けれど、出てくれた助手の祥子さんにいないと言われた。なにか大きな依頼が来て不在がちだという。今回はちゃんと祥子さんに言ってるから大丈夫だろうと思えた。
(つーかもう十五分……。どこまで続くんだ?)
木々が鬱蒼と生い茂っていく中に、その敷地はあった。市街地からはそこまで離れてはいないが、それでも徐々に増える人工的に植えられたような木で本邸が隠されていく。
俺は塀伝いに歩いていた。
間違いなく世羅の家より大きい。一周するのだけでも一苦労だった。
しかもレンガ塀が高すぎてよく中が見えない。上部分三分の一くらいがなんとか見えているくらいだ。
洋館、と呼ぶのだろうか。窓の数だけでも半端ないほどある。
正面入り口にあった門もゴールドで光っていた。
(これじゃあ確かに受け入れ体制でいてくれないと、さすがに無理だな)
いや、なんとか上からなら……。
ふと思い立ったけれど、どうせ世羅の家のようにセンサーなどあったりするのだ。無駄な足掻きだ。
「なにかご用ですか?」
ぼうと考え事をしながら歩いていたら、後方から声をかけられた。
ギクリとして振り向く。
「あ、スミマセン。別に用ってわけじゃ……」
なにを怖じ気ついてるんだ?俺は。用ならあるじゃないか。
声の主は二十代前半くらいの若い男だった。
切れ長の細い目で、でも冷たいとは思わせるものではなくて、逆に優しそうな雰囲気を醸し出していた。
少しホッとしてしまった。悪いことなんかしてないのに。
「ああ、見学かな?たまにいるんだ。物珍しそうに観察していく人が」
まったく嫌な顔を見せずに彼は近づいてきた。
まずい。関わってはいけない人かもしれないのに。
「あ……ここの家の人ですか?」
逃げるタイミングを計りながら訊いた。
違うと言ってくれと祈る。単なるご近所さんだと……。近所ってどれくらい先が近所だろうか。まったくお隣の家という存在が見えないけれど。
「まあね。さっきも見かけた人が、まだいるなと思ってね」
「あ……」
見られていたんだ。この家の中の人に。
どう対応していいか、一瞬にして闇の中に入る。不審者だと思われていそうで焦った。
とりあえず謝ろう、と直感的に思う。
「あの、すみません」
「ああ。もしかして玲華のお友達?」
さらりと続けられた言葉に俺は目を瞠った。
まさに的中していて。
だけどその反応こそが肯定を表してしまっていた。
「大丈夫だよ。誰にも言わないから」
知っているのか否か、彼はそう言って変わらない優しい笑みのままでいた。




