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第三章 ・・・ 5

 太陽がすこしずつ自分の存在を皆に知らしめている頃。

 結局朝まで眠れなかった。ソファに座りながら、悠汰のことと比絽の話で、脳は安らぐことを拒否したみたいに休むことを許さない。

 数年分の悲しみと、切なさと、そして怒りがいっぺんにきて、疲労感が限界に達していた。

「お嬢……なにかいい案見つかったか?」

 久保田さんも千石さんも自分の部屋に帰らずに、ここにいる。

 千石さんはその場にいなかったことを詫びてきた。

 たとえいたとしても、避けられなかったと思う。

 あのとき、集団でここまでやってきた清志郎伯父様より、久保田さんは出遅れたと言った。それで天井裏で先回りしたのだと。

 悠汰のことはモニター室で見られていて、何人かに報告がいったそうだ。その反応を見て久保田さんは察したのだという。

 悠汰は予備電源のことを考えなかったのかしら。

 考えてなかったんだろう。なにせ悠汰だから……。

「おい、会話しようぜ。怒ってても構わないから」

 久保田さんが嘆いた。

 確かにあたしはまだ怒ってる。

 だけどそれで無視してたわけじゃない。考え事に集中していて聞いていなかっただけだ。

「怒られる理由、あるってわかってるのね」

「だから何回も言ってるだろ。お嬢が取り乱せばそれだけ悠汰にも不利になるって。あそこでごちゃごちゃするより改めて助け出す方が利口だ」

 いまならそう、そう思える。

 なのにあたしは駄目だった。すべてのことが考えられなくなって。

 あんなところに悠汰を入れさせること自体が、あり得ないと思ってしまった。許せないって。

 久保田さんにそう言ったら、「あれぐらい持ちこたえる」って力強く断言した。

 確かに今の悠汰なら、以前ほど縛られることに対して拘りを(いだ)いていないだろう。

 それでもっていう想いは捨てきれない。それでも、陥らなくて良かった状態だ。避けられるならば避けたかったと。

 あたしの方がいまは悠汰に対して過保護みたいだ。

「それに奥の手ならある」

 奥の手。

 久保田さんはあたしから鍵を預かってから、一度ここを離れたことがある。

 そのときに合鍵を作っていたんだそうだ。

 本来は加藤さんのために。

 仮にこのまま展開が悪くなって、そのときまだ加藤さんを解放するまでに至ってない場合、隙を見て助け出したいと考えていたようだ。

 悪い展開とはまさにいま進んでいる状態だ。毅叔父様にこの家の主導権が渡りきったとき。

 他の、地下一階に閉じ込めた人たちは、叔父様たちの手によって解放されるのは容易いだろう。でも加藤さんは下の立場だし、失態をおかした人だ。それも、毅叔父様には敵わない稔叔父様の指示で。

 そのまま処分、って考えが毅叔父様にないとも限らない。

「そもそも地下に入れないのにどうすんのよ!しかも鍵を変えられてたら終わりだわ」

「地下には入れるかもしれない」

「隠し通路?」

 あたしも通った。稔叔父様の手引きで。

 だけどあの道は上には続いていたけれど、下には続いていないと久保田さんはあたしに教えたところだった。

 ……稔叔父様はこんな騒ぎでも姿を現さなかった。

 あの後からはまた、見ていない。

「ああ。まだ見つけていないが、必ずどこかにあるはずだ。それがなくても天井裏という手もあるしな」

「なにがしたかったのかしら?お祖父様は。誰にも言わずに、そんな道……」

 千石さんに聞いてみたけれど、やっぱりというか千石さんも知らなかったと答えた。

 それはそうよね。千石さんが来る、ずっと前の出来事だから。

「さあな。ただ身の危険をいつも感じていたのかもしれない」

「どういうこと?」

「オレがこの家の中で見つけた通路は、天井裏の入れる場所も含めて三箇所。すべて源蔵氏の部屋に繋がっていた」

 あたしは息を呑みかけて、不意にやめた。辺りをつい見渡してしまう。

 盗聴器の存在が、いつどこでまたあるかわからない。

 そしたらまた、久保田さんがあたしの不安を読んだ。

「大丈夫だろう。稔氏はあれを取り除いた後、他にはないとお嬢が言ったら、なら話せると答えたんだろう?あれは自分のものが最も範囲の広い機器だと自負しているからだ。やつだって聞かれたくない内容を話しただろうしな」

 あたしが稔叔父様から聞いたことは、久保田さんには報告済みだった。

 報告するときに、この不安に駆られなかったのは、やっぱりまだその時は冷静になりきれてなかったんだ。

「そんなことで優越感に浸れるなんて、わかんないわね。男心って」

 ヘルツで争ってどうするのかしら?

 でも確かに、そのおかげで稔叔父様だけがひとつ事実を掴んでいる。

 正直、申し訳ないけれど幸祐のことは今ではもう二の次になっていた。稔叔父様の言葉が真実なのかどうか、突き詰めていかないといけないのに。

 諦める気はないけれど、第一は悠汰のことで。

「隠し通路が実際にあったと仮定して、それで本当に上手くいくのかしら」

 なにか。見落としてしまっていることがあるような気がする。

 簡単に考えすぎてしまっていないだろうか。

 なにか穴が……。

「とにかく今のお嬢がするべきことは、なるべく時間を延ばすことだ。署名捺印を引き延ばせ」

「そんな偉そうに言われなくてもわかってるわよ」

「なら、良かった」

 変わらない態度で、久保田さんは出て行く。

 久保田さんには久保田さんのするべきことがあるみたいだ。きっと探しに行くんだと思った。隠し通路を。

 あの人は、あたしが思っているよりずっと大人なのかもしれない。

 結局どこか壊れたふうになっても、本当に醜態を晒すようなことはしてないから。

 きっとあたしの知らないものを見てきたんだ。それだけ人の人生は重い。手抜きしては生きていけないものがある。

「不思議な人ですね」

 千石さんは、久保田さんが出て行った扉を見ながらポツリと言った。

「久保田さんのこと?」

「ええ。私には不可解でならない。まるで違う生命体であるものにさえ見えてくる。一見適当に生きていそうなのに、いかなることがあっても崩さない。いや、僅かに滑稽なときはありますが、それでも誤らないというのは……。私にはあんなふうには保てない」

「人それぞれだものね。向き不向きもあるし。自分らしく、自分を誤魔化さずに生きていればそれでいいわ。それでときにジェラシーとか劣等感を感じても、自分に嘘をついていなければ後悔だけはしないわ。人の真似をしても上手くいかない。所詮自分でしか生きられないのよ」

「玲華様、誤解をなさっては困ります。私はあの人のようになりたいなどとは一片たりとも思いません」

 なぜか千石さんは不満げに、でもきっぱりと断りをいれてきた。

「そうかしら?」

 少なくとも、千石さんがこんなことを言い出すということは、それは変化だ。認めないとわざわざあたしに言ってきた過程がある。

 それにあたしだけが影響しているとは思えない。

「あの少年がバランスを崩した瞬間に必然的に隙をつくったさまは、素直に驚嘆しました。振りかざしたときと、実際に殴ったときで勢いがあれほど抑えられたのも、技術があるからこそ可能なふり幅だと思えます。――自分にはできない。あの状態で体勢を変えることが、ではなく、変えようと思うほどの感情になることがです。私には、どれだけの想いがそこにあるのかは一生かかっても理解できないでしょう」

「一生と言い切っちゃうのはどうかと思うわ」

 千石さんにしては素直な気持ちなのだろうけど、どうしてそこで遠まわしな表現をするのかしら。

 ……この人は裏切らない。

 心の底からお祖父様に仕えていて、今はあたしに同様にそれを示してくれている。

 それは感じることができた。

 だからあたしは悲しんでばかりはいられない。

 一緒にここまで来てくれた千石さんと、それから久保田さんのためにも。たとえどんなに裏切られても、あたしは突き進むしかない。

 本来の目的も、悠汰のことも諦めたりしない。抜かりはない。

 あたしはようやくいつもの自分を取り戻せた気がした。


   * * *


 夜が明けて陽が上がり始め、まず最初にあたしの部屋を訪れたのは、なんと清志郎伯父様だった。

 時間にして午前八時。

 なにがなんでも稔叔父様より先に行動を起こしたかったようだ。

 もしかしたらこの人も、あの後あまり寝ていないのかもしれない。そう思わせるような興奮振りで、無遠慮にいきなり飛び込んできた。

(もう、護衛の人はいないんだわ)

 心の準備が全くの無しの状態で、誰かが訪問に来ることがなかったから、そう再考せずにいられない。

 本当に護ってもらっていたんだ。有り難味が改めてわかる。

「玲華!誰が管理しているのかなんて関係ない!俺はいくらでもあの男をなんとかすることができる!そうされたくなければ署名しろ!」

 興奮しててウダウダ言っていたけれど、要訳するとそのようなことを言ってきた。

 これは毅叔父様だけを相手と考えない方がいいようだ。この人を怒らせて自棄になられたら、本当に禄でもないことをやらかしそうだ。

「清志郎伯父様。どうか落ち着きください。わたくしといたしましても、そう言われましては頷かずにはいられません。しかしやはり署名はわたくしにとって最後の砦。完璧に彼が助かることを確認できなければ、叶うものでありません」

 なるべく丁重に引き延ばす。

 そのことだけに意識を集中した。

 もう猫を被っても仕方ないのに、その為だけにへりくだる。

「完璧に助かる?甘い考えだな。どういう道を辿ってもあの男は毅に痛めつけられる。ならば今すぐ俺に署名し全権をこちらに渡すことだ。そうすれば助けてやると言ってる」

「逆ですわ、伯父様。きっと同様なことを申し出てくる人が他にもいるでしょう。毅叔父様だけではなく……。そうなればわたくしは見極めなければなりません。本当に助けていただける方を」

 おそらく、もうこの二人以外は出てこないだろうと、あたしは踏んでいた。昨日のことをみると、皆すでに高見の見物人と化していたから。敢えてそう言うことで時間稼ぎを狙う。

 もちろんそれはフリで、突然空気も読めずに出てくる人もいるかもしれないけれど。

 そんなことよりも、注意するべきは比絽だ。

 彼からはとても深い禍々しさを感じた。柔らかな口調が、より不気味でそぐわなかった。本気であたしを憎んでいる。

 叔父様たちなら、まだ利用価値があるうちは無茶な扱いはしないだろう。でも比絽はひとり狙いが違う。

 いつ悠汰に手を出してもおかしくない。

 だから一刻も早く。悠汰をあの場から解放しなければならないのだ。

 なんとか伯父様を説得し、まだ毅叔父様にも署名はしないと約束して帰ってもらった。

 まだできない。

 違うわ。署名をしたら終わりなんだ。

 あとは毅叔父様を説得するんだ。

 清志郎伯父様が毅叔父様を抑えることができるとは思えないから。

 ここが最大の勝負となる。

 そして、毅叔父様がこの部屋に来たのは十時頃だった。一応常識ある範疇だ。

 しかしその内容は非常識極まりない。

「彼の将来はおまえによって決まる。最悪の結果になるか、最も最悪の結果になるかのどちらかだ」

 用紙をテーブルにこちら側に置き、淡々とそんな話をする。

(って、どっちも最悪なんじゃない!)

 五体満足で返すつもりはないようで、ぞっとした。

 突然激しくキレて、強行突破しそうな清志郎伯父様と、練りに練って最も最悪のところまで見ている毅叔父様。

 どちらがマシかしら?と一瞬考えたけれど、どちらも有ってはならないことに変わりはない。

「悠汰に手を出せば、貴方のお立場も悪くなりますわ」

「別に殺さなくてもいい。彼を存在しないようにすることは、いくらでもできるんだ。例えばそう、彼の身元の証明(ID)を抹消するのはどうだろうか?この先彼は就職もできず、なにか起こっても病院にも行けず、やがて自動的に本当に消える」

 やっぱり恐ろしい人だ。そんなことを考えていたとは……。

 そんなことになればきっと悠汰は耐えられない。死ぬより辛い目に遭うのは容易に想像できた。

 いくら家族やあたしの家がフォローをしても、悠汰の性格なら、自ら死ぬことも選んでしまう可能性がある……。

(そんなの駄目)

 可能性だけでも残してはいけないのだ。

 稔叔父様も言っていた。戸籍を弄るのは容易いと。こんなことに権力を使うのは許されない。殺人犯と何も変わらない。

「彼の自我を完全に崩壊させるという手もあるな。洗脳してこき使ったあと捨てればいい」

 それも駄目だ。提示だけでも恐ろしい。

 また取り乱しそうになる心を、キュッと整えた。

「叔父様。それは困りますわ。ですが、いまは署名はできません。他にも不安材料があります。それらを取り除いた後でないと」

「なんだ、それは」

「清志郎伯父様ですわ。あの方も同じことをおっしゃいました」

「なに?あんなやつはただの雑魚だ!気にすることはない」

 清志郎伯父様の名前にピクリと反応する。

 本当にこの人たちは仲が悪いのだと再認識できた。

(そこは利用できる)

 あたしはあくまでも殊勝な態度で挑んだ。

「そういうわけには参りませんわ。貴方にとっては格が下かもわかりませんが、わたくしみたいな小娘では敵いません。……わたくし、いまは本当に彼のことしか考えていませんの。ですので、僅かでも良い方向へ持っていきたいのです。そのためなら署名も惜しみませんわ」

「だからあいつを黙らせろ、と言うことか?」

「ええ。ご存知だとは思いますが、わたくしが署名できるのはお一人様のみとは限りません。僅かでも叔父様は他の方に渡るのは嫌なのではありませんか?」

 毅叔父様は眉を歪めた。図星といっているようなものだ

 お祖父様は一人に遺贈するとは言ってない。

(署名をゲットした者にはあげるよってだけ書かれているのよね)

「それだけではありません。笹宮比絽、彼も悠汰に対して危険な存在なのです」

「ああ。笹宮な……」

 敵同士で刃を交えさせ、その隙を狙おうという作戦だ。間違ってもこの三人が手を組むことはないから。

 しかし毅叔父様の言い方は、しっかりと納得しているようなものだった。

 なにかを、知っているのだろうか。

(どこまで……)

 この人は見えているんだろう。比路が独自に動いていたことを知っていたとしたら、前回悠汰が侵入したことも気づいていたのだろうか。

 だから、これまで表面上は大人しかった?

(考えすぎ?)

 わからない。だってそんなことが本当にあったとしたら……。

 あたしは再びゾクリとなった。

 間違いなくこの人は油断ならない人だ。

 毅叔父様は読めない表情のまま立ち上がった。

「なるほどな。意外におまえは豪胆だな。面白い。いいだろう、まだ期限はあるからな。こちらも動かされてやるとしよう。その代わり俺よりも前に誰かに署名をしたことが判明すれば、問答無用で彼を殺す」

「憶えておきますわ」

 あたしもお見送りするように立ち上がる。叔父様はそのまま部屋を出て行った。

 さしあたっての危機は去った。

 あたしはそう確信した。

 恐らくあたしの意図ぐらいは読まれているんだろう。

 時間が稼げるだけでも、ここでは申し分ないことだと言える。

 だけど。深影慎をここで持ち出さなかったことが、逆に怖かった。

 一種異様な空気を持つ男。

 あれから千石さんが仲間の使用人から聞いた情報があった。慎という男は、最近お祖父様のために仕事をするようになった、所謂(いわゆる)新人だという。やはり父親以上の働きをすでに見せているとか。

 ――彼が拷問をすれば、耐えれる人はいないでしょう。

 そんなことを聞けば誰だって(おのの)く。

 あたしだって署名させるために、そうされてもおかしくなかったんだ。

 もしかすると、期限がきてもまだあたしが誰にも署名してなければ、間違いなく……。

(でも、これからは反撃よ)

 毅叔父様が何をするつもりかは不明だけど、これ以上悪い方向へは行かせない。

 防御体勢という状態は、気持ち的にも状況的にも、もう充分だった。


   * * *


 昼食時間前になっても、麻衣ちゃんと亜衣ちゃんがこない。

 実は朝から来ていなかった。

 朝だけなら寝坊かもしれない、なんて暢気に考えられるけれど、こんな時間になっても来ないのは間違いなくなにかあったとしか思えない。

 実際には一度も寝坊なんてなかったし、いつも時間ぴったりにこの部屋に二人揃ってきていたのに。

(まさか……)

 ここまでくると、なにも驚かない。ただ悲しいだけだ。

 兆候は、あった。

 それがどういうことか、考えなかったわけではないけれど、判然とはしなかった。

 後回しにしていた。

「玲華様、私が昼食をつくります」

 考えに耽っていたら、なんと千石さんが意外なことを言ってきた。また新しい一面だ。

「あなた、お料理できたの?」

「…………知識ならあります」

 なんなのよ、今の間は。

 まったく。知識はあっても実際のところ作ったことはないというわけね。

「いいわ。あたしがやる」

「玲華様が?出来るのですか?」

「できるようになったのよ!」

 なんで意外そうに言うのよ。まあ、あたしも同じような反応を示したんだけどね。

 ただ。

(あたしの場合、できるものが限られてるのよね)

 以前ヒデに教わったものなら完璧につくれるようになった。

 しかしどういうわけか、そこから先に進まない。新しいものに一人で挑戦しようとしても、なぜか失敗するのだ。

「玲華さまは無茶苦茶すぎますよ。普通ビーフストロガノフにキュウリを混ぜようとは思いません」

 えっらそうにヒデにそう批判された。

 大好きなものに大好きな野菜を入れたのよ、それでなんでそんなこと言われなくちゃいけないのだろうか。

 だいたい苦手なのだ。料理だけじゃなくて、例えば芸術面とかでも。

 結局受け入れられるかどうかって好き嫌いの世界になる。人それぞれ評価が違うってやつだ。それでピアノもある一定以上は上達しなかったわけなんだけど。

 きっちりリズムとっても、ミスなく弾いても何かが足りないと言われる。

 正解がないのなら、あたしの好きなように弾かせてもらいたかったのだけど、あまりにそのときの先生が決めつけてくるんで、口論になってやめたのだ。あのときはあたしも子どもだった。

「しかし玲華様にそんなこと……」

「いーって、気にしないで」

 冷蔵庫を開けてみると、あまり食材は多くなかった。とくに野菜が少ない。

 こんなんでどうやって作っていたのかしら。

 というより、ご飯はあるのかしら。どこに?

 ぱったんぱったんとあらゆる扉を開き、中の物をテーブルに置きながら、右往左往していると千石さんが声をかけてくる。

「玲華様」

「なによ?別に困ってるわけじゃないのよ!いいからあなたは大人しく……え?」

 顔を上げると、千石さんはこちらを見ずにドアの方を見ていた。視線を追うと、そこに麻衣ちゃんがいた。ひとりで体を堅くして見ている。

「も、申し訳ございません。玲華様」

「いいのよ。寝坊?亜衣ちゃんは?」

 内心ホッとして、持っていた秋刀魚を手放した。

「実は亜衣が体調を崩してまして、午前中はずっと看病を……。ご連絡しなくて申し訳ありません」

「なんだ、そうだったの……。最近寒くなってきたものね。それなら無理しなくて良かったのに」

「いえ。そうはいきません。わたくしが作ります」

 麻衣ちゃんは、血相をかえてキッチンまで走り寄った。そしてあたしがテーブルの上に置いたものを見て一言。

「あの?なにをお作りになされようと?」

「考え中だったのよ!」

 丁寧に直球で困らないでほしいわ。あたしが手を洗う隣で、麻衣ちゃんは手際よく支度にとりかかる。

「そうですか。……なにかリクエストはありますか?」

「うーん。そうねえ、パスタかしら」

「和食ブームは終わったんですか?」

 ぎこちない笑顔を見せて麻衣ちゃんが訊く。

「うん。いまは麺ね。千石さんなに食べたい?」

「私はなんでも……」

「またそう言う」

 千石さんは一度もオーダーしてない。付き人という立場をわきまえてなのかもしれないけれど、あたしはただ単に食にこだわりがないんだと見た。

「かしこまりました。ではペスカトーレなんていかがでしょう?」

「いいわね」

 あたしが頷くと、麻衣ちゃんは早速とりかかる。

 その姿を、あたしは後ろからジッと見つめていた。

 あたしが出してしまった調味料や魚を冷蔵庫になおし、使用する貝類を取り出す。

 まずは海老を取り出し皮をむき始めた。ペスカトーレは野菜がなくてもできる。

「あの……玲華様?あちらでお待ちいただいてもいいんですよ?」

 居心地の悪そうに麻衣ちゃんは少し振り向く。

「いいのいいの。勉強のために見ているだけだから」

 秀和はあまりこういうの作らなかったから、確かに見ていたいと思うところはあった。

 それと、同時に気になっていた。

 麻衣ちゃんは何かを隠してる?

 理由が明確にあるわけではない。手際は変わらずいいし、笑顔も向けている。だけど、どこかいつもよりぎこちない。

 もう、周囲の変化を見落とすわけにはいかない。

 何か言いたげに、それでも諦めたような感じで麻衣ちゃんは料理を再開した。

「そういえばいつもこんなに食材ないの?」

「ええ。なるべく旬なものをと思いまして、毎朝配達されるものを取りに行くのです」

「そう……」

 毎日、配達されていた?

 ということは、毎日この家に配達に来る人がいるっていうことだ。

 全然気づかなかった。部外者が、ここに来ていた。

(これはつかえるかもね)

 どうして思いつかなかったのだろう。

 悠汰を助け出す相談はしていたけれど、助けてから外に出るまでが実は最大の問題だった。

 地下から出したところで外に出れなければ意味はない。

 きっと配達の人ということは裏口だ。正面の門は開かないだろう。それでも裏口のその時間は開いているというわけだ。

 もっとそのことを麻衣ちゃんに訊きたくなった。

 だけど。

「麻衣ちゃん」

 貝をすべて下ごしらえを終えて、フライパンを取り出したとき、あたしは声をかける。

 彼女は手元だけを震わせた。

 ――常識は捨てたほうがいい。

 稔叔父様の言った言葉が気になっていた。

 まだ()()はある。

 それはきっとどこかに取り付けられているものではなくて。

 あたしは麻衣ちゃんに近づく。

 彼女はすごく強ばった表情になった。初めてみせる表情(かお)

 それだけ、あたしから与える空気が緊迫しているのかもしれない。

 固まって動けないでいる彼女の、白いフリルのエプロンのポケットに手を伸ばす。

 彼女は抵抗しなかった。もう観念したのか、動けないのかはわからない。

 硬いものが指先に触れる。

 躊躇わずに引き抜くと、小型の盗聴器がそのまま、そこには入れられていた。

「あ……申しわ……」

 青ざめながら掠れた声で謝りかけ、そして彼女は途中でやめた。目をかたく塞ぐ。

 その態度であたしはひとつの可能性を感じ取った。

 あたしに見抜かれたと、この向こう側にいる人に知られると彼女に危険が及ぶのではないかと。

 おそらくそれは麻衣ちゃんだけでなく……。

 あたしはスイッチを切らずに千石さんに目配せをする。

 彼も自体を察したようだが、あたしがなにを言いたいのかまでは解らないようだ。

 役目をし続けている盗聴器を、強引に彼のスーツのポケットに入れる。そしてキッチンを指差した。

 ――あなたが麻衣ちゃんになりすまして、適当に料理しておいて。

 あたしが言いたいのはそれだ。

 なんとか身ぶり手振りで伝えると、あたしは麻衣ちゃんの手を引き寝室へ連れていく。

 同じ女性ということもあるし、寝室に入れることに抵抗はなかった。

 扉を閉めて腕を組みながら振り返る。

「さて、と。ここなら大丈夫かしら?」

「あの……どうして……」

 あたしに見破られたのが信じられないのか、この行動に違和感がしたのか、素直に驚いていた。

「消去法ね。これまで数々の盗聴器よ。最初に取り付けられていたのはわからないけれど、取り外しても付けられている第二陣目以降って、あなたたち以外にいないの。さすがに身につけているのはいま思いついたんだけど」

「申し訳ございません……」

 麻衣ちゃんは怯えた顔のままお辞儀をした。

 こういう態度に出るということは……やはり。

「誰かに脅されてるのね。もしかして、亜衣ちゃんが体調を崩したっていうのも嘘かしら?」

 あたしが思ったままに突きつけると、更に彼女は青ざめた。恐怖を感じているときの人の表情だ。血の気が失せている。

「わ、わたくし……わたくしが独断で行ったことです」

「嘘はもういいわ。ここなら誰にも聞かれてないんでしょう?それともまだどこかに隠し持ってるのかしら!」

 語尾を強めに尋ねる。そんなことで終わらせたりしない。前田さんたちのように、後々に延ばしてとんでもない事実が隠されていたっていうのは、もう懲りたから。

「……はい。もうございません」

「だったら言って。口止めされているのはわかるわ。その人にこれからも従うのか、あたしに言って協力してもらうか。あなたなら判断できるわよね」

「協力……ですか?」

 初めて陥った選択肢のように彼女は小さく呟く。

「そうよ。状況によっては助けられるかもしれないわ」

 ここで一人で行動しなくてはいけなくなった彼女。そして、これまでの双子の仲の良さを見ていると容易に思いつく。

 加藤さん同様、相手が誰なのかはあたしには読めないけれど、これが不本意な状況であるということは間違いない。

 かなり思い詰めた顔で、彼女は実は……と呟いた。

「実は、亜衣は人質にとられているのです。わたくしたちがあまりに何の行動も起こせなかったから……」

「行動?」

「玲華様を(あや)めることでございます。あの方は最初からあなたを亡き者になさろうとしておられました。それでわたくしたちに目をつけられたのですわ。いつも近くにいるわたくしたちに」

「なにで、脅されていたの?」

「違うのです」

 哀しげな表情のまま、なぜか彼女は首を横に振る。

「わたくしたちにもあなたをうらやむ気持ちはあったのですわ、玲華様。……だってそうでしょう?わたしと亜衣は生まれながらにして誰かの下に付くことを宿命づけられていた。それに反してあなたはその対極にいる。間違っても、たとえお父上がこの家を出ても揺らがないその身分。羨ましくないはずがない!」

「麻衣ちゃん……」

「親も周りもその為の能力ばかり押し付けようとして、わたしたちのことなんて見てなかった!だって両親とも、わたしと亜衣のことをいつも見分けられないでいたの!それで紛らわしいから変化をつけろだなんて。……それってまるでわたしたちが悪いみたいじゃない?そんなのおかしいっていつも二人で言い合っていたわ!」

 とうとう麻衣ちゃんは泣き出してしまった。泣きながらも抑えられないその感情。それは十五年間の想いがすべてぶつけられているように見えた。

 これが本来の彼女なんだ。

 なんの飾りも植えつけられたものがない、真実の姿。

「だからわたしたちにも、あなたをどうにかしてやりたいという気持ちはあったんです。最初は……。二人で話し合って、からかってやりたいって……そんな軽い気持ちで。だけど、玲華様は違った。初めて見抜かれました何度も。何度も、あなたは正しい名前を呼んだ」

「そうね」

 やっぱりあたしは間違っていなかった。

 最初は自分を疑った。知らないうちに、自分でも気づかないうちに、心理的に追い詰められているのかと。しかし何回も同じことが続けば、それは確信に変わる。

 演じていたことをあたしが見抜けたのは、あたし自身が猫を被ってしまう習癖があるからだろう。同じ事をしている人は敏感に感じてしまうところがある。

「あなたたちはわかり易いほど、極端すぎた。まるでアニメみたいに、キャラをわざとつくっているみたいに見えたわ」

「でもそれはここへきての姿じゃないんです。なのに他の誰も気づく人はいなかったんですよ、これまでは。両親でさえもそう。わたしたちはたまに入れ替わりを楽しむようになっていた。でもそのうちやり切れない想いが溢れ出てきて……。あたしたちってなんなのって。あたしたちは個々として認めてもらえないのって」

 疲れているのか、辛そうに掌を額に押し付けている。

 あたしは彼女を支えるようにベッドまでつれていき、一緒に座った。ちゃんと聞きたいと思ったから。彼女の、彼女たちの想いを。

 創られていない暗い表情を麻衣ちゃんはしている。いままでのほんわかとした笑顔とは違う。人間味があった。

「申し訳……」

「いいわ、それは」

 気遣われたのを謝ろうとしていた彼女を制止した。もう使用人のするような姿勢はいらない。彼女は普通の同世代の女の子だから。

「普通に喋って、麻衣ちゃん」

「ですが……」

「最初に言ったでしょ。堅苦しいのは嫌いなのよ、本当はね。家のしがらみなんて取っ払って話しましょう。ここにはあたしたちしかいないわ。それで、どうなって今に至っているの?」

 わかりました、と彼女は頷いた。幼少の頃から叩き込まれただろうその態度は、そうそう崩せないのかもしれない。

 あたしからしてみれば、そんな距離はいらないのにと思うんだけど。

「最も近い場所にいるわたしたちに目をつけたのは、清志郎様です」

「そう」

 ここでもでてくるのね、あの人は。

 あまり意外性はなかった。あの人だって、一応は人を使う立場の人だ。しかも下働きの人を見下しているから、彼女たちを利用するのになんの弊害もなかっただろう。

「それから光泉寺様もです」

「光泉寺?」

 二人目の名前が出てくるとは思わなかった。光泉寺は分家のひとつで、彼女が言っているのは葉子の父親にあたる。松倉様と仲が良かったと杏里は言っていた。

 これは、どういうことなんだろうか。

「最初は清志郎様とあなたを陥れる話しをしていました。脅されてなんていません。ただ清志郎様から正当な血筋の人間に一泡吹かせてやろうと、持ちかけられたのです。そうすれば自分が支配し若村の格を上げてやると言われました。そう、わたしたちは自発的に乗ったのです」

 噛み締めるように麻衣ちゃんは語る。

 その様から、後悔しているような感情が感じ取れた。

「そのことに気づかれたのが光泉寺様でした。光泉寺様は見抜かれて、清志郎様には支配する力がないからおまえたちの望みは叶わないと指摘されました。それならばこちらに情報を回せと。それだけで、変わりに自分から毅様に希望を伝えてやると。わたしたちは踊らされていたのです。それに気づかず、ただ言われるままにやることが、道が開けることだと……」

 光泉寺様は毅様の派閥にいた。

 あたしはドキドキするのを止められなかった。隠されていた、事実。

 ということは、松倉様もその一派ということになる。

「あ。それで悠汰のことが毅叔父様までばれていたのね……。でも、あなたちの前ではそんなに悠汰と比路のことは話していないはずよね」

「わたしにはわかりません。ただ、あなたに本当に大切な想う人がいるのかもしれない、とは感じました。綾小路様以外に、ひっそりと。それを幸泉寺様に伝えてしまいましたので、おそらくそこからあの方自身が調べたのではないでしょうか」

 女の勘で気づいたのだろうか。

 これにはやられた、というしかない。

 完全に女性を相手にしているという認識があれば、そこにも気をつけられたのかもしれない。けれど、常に身近にいる彼女たちには、隠し切れず漏れて伝わったようだ。

 あたしは思わずため息をついた。

 それにビクリと麻衣ちゃんが震える。

「申し……すみません。あの……ほんとに、謝ってすむことではありませんが、わたしも亜衣も後悔し始めていました。だからもうやめたいと、清志郎様に申し出たのです。光泉寺様からの命令は情報を回すことだけです。断りを入れる必要はまだないと判断してまだ言ってませんが、清志郎様からの命令はまだ、逐一ありましたので。そうしたら激しくお怒りになられて、亜衣を、人質に……」

「その命令ってなに?」

「ですので、玲華様を殺めることです。食べ物に毒を……」

 彼女は涙ぐみながら自分の胸元の赤いリボンをほどき、ボタンを二つほど外した。

 首から下げられた小さな袋。

「この中に、青酸カリが入ってます。はやく殺せと言われていました。それはさすがにできなくて、ずっと毒見役がいるから意味は無いと説得して時間稼ぎをしていたのですが、とうとう痺れをきらしたようでして……」

「そうだったの」

 覚悟していたとはいえ、かなりの衝撃だった。殺したいほどの悪意。

 実際に耳にすると身震いしてしまう。

(いつ殺されてもおかしくなかったんだわ)

 自分が頭で想定するよりも、現実は凍りつくものがある。

 でもそれでは署名には至らない。おそらくそれ以前のものなのだ、この殺意は。

「嫌になるわね。それで亜衣ちゃんを人質にさっさと行動に移して来いってことなのね」

「そうです。玲華様。わたしは、亜衣をとるかあなたをとるのか、選択を迫られました。こうなってしまいましたので、申し上げますが、わたしはそれには迷いなく亜衣を選びました」

「当たり前よね!」

 姉妹なんだから。

 ここでは血のつながりはあってないようなものだけど、そのなかでこの二人はちゃんと想い合っている。二人でここまで乗り越えてきたからこその絆。

 それを引き裂くなんて許せない。

 ひとり憤慨していると、麻衣ちゃんはやや気圧されたようにあたしを見ていた。

「なによ?」

「いえ、その……。もっと怒られるのかと思いましたので」

「怒っているわよ!こんなやり方しかできないこの家の人間に腹が立って仕方ないわよ!自分より弱いものを使うんじゃなくて直接自分から来なさいよ!バカじゃないの!」

 って、ここでいくら言ってもどうしようもない。

 しかも麻衣ちゃんしか聞いてないのに。

「あの、玲華様。そうではなくて……」

 怯えたまま遠慮がちに彼女は俯いた。

「あなたは気さくで、高慢に見えるけれど実際にはそうではなくて、いつもちゃんとわたしたちを別々に見てくれる。だから、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。これはわたしたちの罰です。わたしたちで解決しなければならないのです」

「麻衣ちゃん」

「やっぱりわたしには玲華様を殺すなんてできません。きっと亜衣もそう思っているはずです。ここまで来てしまって今更ですけれど、わたしはこのまま帰ります」

「ちょっと待って」

 簡単に結論を出さないで、と思った。それで帰るなんてそれこそ迷惑じゃない。あたしだって見て見ぬフリなんてできるはずがないのに。

 そう言おうとしたとき、寝室の外側から久保田さんの声が聞こえてきた。

 お嬢?うわっ、おまえ何してんだ千石っ!っていう驚きの声が……。

(ああ!もう!)

 台無しじゃないの!これからのことをもっと練ろうと思っていたのに!

 仕方なくあたしは、麻衣ちゃんを連れて寝室から出ることにした。 

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