第三章 ・・・ 4
これは夢なのだろうか。
こんな場所に悠汰がいる。
あたしはとうとう、幻を見始めているのかもしれない。
瞬きをすると消える幻。
だからかもしれない。閉じられなかった。大きく眼を見開いたままだった。
悠汰は立ち上がって、ずっとこちらを見ている。彼の方もしばらく動かず、何も発しなかった。
どれだけその状態が続いたのかわからない。瞬く間だったのかもしれないし、何分も経過した後だったのかもしれない。
先に悠汰が動いた。俯いてから、部屋を見渡す。
「すげえ部屋にいるんだな、おまえ。しかも家の中広すぎ」
低い声だった。喜んでいるのか呆れているのか、それとも怒っているのか読めない。
だけどそれで幻じゃないことを確信した。
「なに……やってんのよ、あんた」
ようやくひとつの可能性にぶち当たった。
さっきの爆発。
あれは悠汰が潜り込むために?
「なんてことしてくれたのよ!」
どれだけ無茶なことをすれば気が済むのよ。どれだけ怖かったと思うのよ。
いろいろ言いたいことが多すぎて、どこから言えばいいのかわからない。
本当は、会えた喜びを最初に口にしたかったのに。まず悠汰に会ったら、笑顔を向けたいって思っていたのに。
それが出来ないほどの、不測の事態。
「第一声がそれかよ」
こちらも見ずに吐き捨てる。
怒っているんだ、と気づいた。悠汰はあたしに対して怒ってる。
「あたしだってこんなこと言いたくないけど。でも困るのよ、こんなやり方」
「うるせえよ。こうでもしねえと入れないだろ」
それが答えだった。
やはりあの爆発は悠汰が仕掛けたことだったんだ。でも彼が一人でそんなことが出来るはずがないことは知っている。
「比路と来たの?なにか言われたの?比路に」
「違う。自分で決めたことだ」
少し遠くて、悠汰の真意がわからない。
あたしはもっと中に踏み込んで、悠汰に近づいた。
「扉の前に護衛がいたはずだけど、誰かいなかった?」
「知らない」
じゃあ本当に前田さんたちは離れていたんだ。帰ってきたとき、安全を確認するためにこの中に入るかもしれない。
「とりあえず悠汰、ここはまずいわ」
どこに行けば安全かしら。
空室の客間は選べるほどたくさんある。だけど廊下に出れば監視カメラだってあって……。
そうか、だから停電させたんだ。
悠汰がここまで来る間だけでも、暗闇になればって。本当になんて軽率な。
「また、追い出すのかよ」
その言葉に、はっと胸をつかれた。
悠汰に酷いことをしたことを、忘れてなんていない。けれど、それどころではなかったというのが本音で。
でもやられた本人は決して見過ごすことはない。いつだって、加害者よりも被害者の方が克明に憶えているんだ。
「悠汰……あたしは、あなたに来て欲しくなかったの」
「なんでだよ」
真っ直ぐに見つめる瞳。
あたしは受け止められなくて僅かに逸らした。
「待っててって、言ったわよね。必ず戻るって約束したわよね?悠汰」
「……って、俺のせいかよ」
「違……」
「確かに!」
違うと最後まで悠汰は言わせてくれなかった。言い訳みたいに続く言葉を瞬時に遮られた。
「悪かったと、思ってる。信じることもできねえで、こんなところまで押しかけて。みっともないって解ってはいるんだ。それでも知りたい。玲華本人から、事情を聞いて納得したかった。それで何か力になれればって……」
亀裂が……。
修復可能だと思っていた亀裂が、確かに在る。
信じることができないと、彼は言った。
(やっぱり)
あの噂なのか、比路が話した何かなのか、どこで彼が引っ掛かっているのはわからないけれど。不信感を与えている。
そのことを考慮しても、彼に真実を語ることはできない。
「力になれることはないわ。できれば関わらないでいて欲しい。それだけよ」
「玲華……」
悠汰は驚いたように目を瞠った。
「比路から少しでも事情を聞いているのよね。どこまで真実を比路が語っているのかは知らないけれど、ここが危険だってことは聞いたんでしょう?こんな……侵入なんてして、必ずあんたは罰を受ける。その前にできれば逃がしたいと、あたしはいま考えてるわ」
嘘が嫌いな悠汰。
事実を言わずに嘘もつかずに彼を納得させることは難しいと思った。
それでもあたしだけは悠汰に嘘をつきたくない。
違う……。あたしが、悠汰にだけは嘘をつきたくないんだ。
「それが答えかよ」
「そうよ」
「比路はおまえが狂ってしまったと言った。見えない力を振りかざして人を裁いてるって……。そこだけは信じられなかった。でも……」
悠汰は言葉の途中で黙ってしまった。
そしてあたしは見た。彼が握り拳を震わせているのを。
――怒りを抑えている。
こんな状態になる前から、稀にそういう素振りをしていた。
無意識かどうかはわからないけれど、怒鳴るのを抑えたり、感情を押し殺したりするのにあたしは気づいていた。
その度に、やめて欲しいと思った。
(じぶんをころさないで)
そんなのらしくない。
そうすることで大人になれると思ってるんなら、それは果てしなく勘違いだ。
「なによ?言いたいことあるんなら最後まで言いなさいよ!せっかくあたしが目の前にいるのよ。全部言いなさいよ!」
「うるせえ、怒鳴んな」
悠汰は一言で切り捨てた。
(どうしたの?)
数十日会わなかった間に起こった変化。あたしの知らない時間がある。
「なにも話す気がないんなら、もういい。ここにいても無駄だ」
「待ってよ!好きに動かせないわ!お願いだからあたしの言う通りにして」
あたしの前を通り過ぎ、そのまま本当に帰ってしまいそうな悠汰を、なんとか引き止めたくて手を伸ばした。
悠汰の腕を掴もうとした。
「さわんな!」
一言、悠汰が怒鳴る。
ビクリとしてあたしの手は止まった。拒絶が伝わって、これ以上伸ばせない。
初めてだった。悠汰に拒まれたのは。
「触るな。いまの俺は何するか分からない」
また、感情を呑み込んだ。
こちらも見ずに、押し殺した。
「何ができるの?いまのあんたに。冷静さを失って、すぐ人の言うことに流されて」
悔しかった。あたしの知らない間に変わってしまった悠汰が。
それも全部あたしのせいだとしたら、こんな哀しいことはない。
「比路に操られないで」
「操ってるのはおまえだろ、玲華」
振り向いて悠汰は断言する。
「俺をコントロールするな」
「どうしたの?」
はっきりとあたしは眉をしかめる。先ほど思ったことを、ついに口に出した。
説明のつかない感情が確かにそこにあるみたいだ。なにに悠汰が拘っているのかわからない。
「俺が離れればおまえは満足なんだろ。足を引っ張る俺は、おまえの側にいる資格がないから。だから、なにも言わないんだろ」
もしかして。
(あたし間違っていた)
悠汰が怒っている理由が初めて見えた気がした。
あたしはずっと悠汰を追い返したことに怒ってるんだと思っていた。久保田さんにお願いまでして、あんなやり方をしたあたしに。
だけど……。そうじゃない。
悠汰はあたしが関わらないように遠ざけたこと自体を怒っている。もっと根本的な、最初の段階。
ならば比路は関係ない。比路に会う前のあたしの行動だから。誤魔化しようのない。
「世羅が、あたしに遠慮して遠ざかっていったんだって。そう思ったとき、あたしが怒ったのを悠汰は知っているのよね」
だからなのか。
(なんだ。そうか)
あれは別の理由があったと結果わかったけれど、そういう想定をしたときに、あたしは嫌な気分になった。変な気の遣われ方だと非難した。
そんなあたしが、同じ理由で悠汰を遠ざけたから、彼は信じられなくなったんだ。
あたしの言葉に反応して、悠汰はこちらに体を向けた。
「今でもそういうのは嫌いよ。でもここはそんなこと通用しないの。普段の常識が通用しないところなのよ。ここにいる人みんな、虎視眈々と獲物を狙う野生の狼みたいなものなの。だからお願い、悠汰はこれ以上関わらないで」
比路や京香を伝って、ここまで接点をもっただけでも、こんな状態になっている。侵されないで。純粋なままでいて欲しい。
悠汰は大股で歩いてきた。
素早くて、ハッと顔を上げたときにはすぐ近くに彼がいた。
そして左手があたしの肩に置かれ、右の拳が振り上げられる。
殴られる、と思った。全身が固まる。
だけど悠汰の拳はあたしの髪を掠め、空を切った。
彼は下を向いた。右腕はまだ、伸ばしたままあたしの後ろにあった。
「なんにもわかってねえ!」
そして怒鳴った。
あたしの脳と身体はまだ、固まったままだ。
ただ、悠汰は嘘がつけないから。演技なんてできないから。殴られる前の恐怖は本気だったことを教えた。寸前まで、本気で殴ろうとしていた。
それが、痛かった。その想いが。
やがて右手もあたしの右肩におかれて、彼は顔を上げた。
泣きそうな、顔だった。
「危ないから問題なんだろ!俺にも護らせろよ!おまえがなんか目的もってやってるってことぐらいは、わかるんだよ。だったら手伝わせろよ。おまえのためならなんでもやってやるから……」
「悠汰……」
まだ、想っていてくれていたってことを、心髄で感じた。
比路や京香の言うことに揺れたわけではないけれど、本人からぶつけてもらった方が、より感じられる。
(だから悠汰も、ここにいるのね)
確かめ合うために。
「おまえは強くて、どんどん先にいくから、俺は追いつけなくて焦るんだよ。負けらんないって頑張ろうと思うけど……。おまえがいないと意味がない」
「……そう思ってんなら、自己管理してよ」
だったら、あたしにだって言いたいことはある。
「また、痩せて。聞いたわよ、風邪でぶっ倒れたって」
「風邪じゃねえだろ、あれは」
「同じよ!元を正せば熱でバランスを崩したんでしょ!」
これは千石さんに聞いたことだけど。
萩原くんからの報告にもあったし、間違いないと思う。
「おまえっ……よく言えるよな」
「だったら!ちゃんと睡眠とってた?食事は!?」
上目遣いで睨みつけると、悠汰はたじろいだ。
すぐに頷けないってことは、それが答えじゃない!
「なにやってんのよ!あたしだって心配だったんだから!行けるんなら、すぐにでも帰りたかったわよ!人間の三大欲求の、二つも疎かにするってどういうことよ!生きるつもりないんじゃないの!?」
一度叫びだすと止まらなかった。今までの鬱憤が、自分でも気づかぬうちに溜まっていたみたいだ。
悠汰は黙って聞いていたけど、徐々に考え込むような顔をした。
なによ?言い訳あんなら聞くわよっ。
「じゃあ三つ目は?」
構えていたのに、悠汰の呟くような問いに一瞬出遅れた。
(なんていったの、いま……)
三つ目がなんたるかを思い出すのに少し時間がいった。
「そんなの他の二つをばっちりしてからの話よ!図々しいわね!」
ここでこんな返ししかできないから、あたしは可愛くないんだろうな。
って、ふと思った瞬間。
気づいたときには、あたしは背中に衝撃を感じていた。
視界がシャンデリアを含めた天井を映す。
悠汰が、あたしをソファに押し倒していたのだ。そのまま流れで、唇を塞がれた。
(え?)
あたしはすごく驚いた。
それは悠汰が仕出かしたことじゃない。あまりに自然な流れだったからだ。
確か、あたしはずっと警戒していて。こんな簡単に受け入れるようには、まだ精神がついていってなかったはずだったのに。
手で顔を固定されていて逃げられない。
本気で逃げるつもりがないからかもしれない。でも、動かせなかった。
「悠汰……」
「黙って」
離れたときに、吐息と共に呼びかけたのに、一言で悠汰はバッサリ切った。
悠汰の唇があたしの首筋に伝っていく。
腕を押して退けようとしたけど、びくともしない。抜け出そうと位置を変えようとしても無理だった。
力強くて強引な腕力とは対照的にどこか淡白に感じた。
ゆっくりというか、躊躇いがちな動き。
そのアンバランスさが気になって、あたしは悠汰の表情を見ようと首を曲げた。雰囲気を感じ取ったのか、悠汰が少し顔を上げる。
それは触るなと怒鳴った直後の顔のままだった。
確認するように、その顔を左手の指先で触れる。
「ちょっと、待って……」
「待てない」
あたしの髪を撫でながら、はっきりと意思を伝えてくる。
(また、抑えてる)
本当はもっと激しく求めてきているのを、我慢しているように感じた。
悠汰は以前、攻撃的な自分を出したくないと言った。ドメスティックバイオレンスやジェンダーバイオレンスに、今後自分が陥ってしまうんじゃないかと恐れている。
だからこそ、暴力でものごとを解決することを今後も考えないように、久保田さんも殴らなかったのだ。
いまも、あたしに対してどれだけ本気でぶつかっていいのか、迷っているみたいにみえた。
それでも欲望が止まらないくて。
(あたしはイヤじゃない)
それが伝わればいいのに。そうやって他人と距離を置いて接する生き方なんて認めないって、あたしは前に言った。それでもなかなか変われないみたいだ。
これが我を忘れての行動なら、あたしは意地でも抵抗する。だけどそういった乱暴的なものではない。
唇がまた重なる。そしてそれは下に移った。
徐々に、考えられなくなっていく。全身の血が、逆流して沸騰しそうになる。
このまま身を任せていたくなった。
――悠汰だからだ、と思う。再確認する。
満たされていくのを感じた。これまでの受け続けた負のエネルギーが全部清算されていくみたいだった。
こういう脆いところも含めて、悠汰が好きだと思った。
(だから……誰が、来るのか……わからない……って……)
はたっと、我に返らせる現実があたしを襲う。
一気に全身が冷静になって、あたしは悠汰の頬を平手打ちした。
「待てっつってんのよ!このバカ!」
悠汰の力が抜けて、どこか呆然とした顔でいた。
その隙にあたしは、いつの間にか開いている胸元を焦りながら整えて、ソファの端っこに座りなおす。
逃げるまではいかない。相手は悠汰だから、そんな必要はない。
だけど悠汰は、あたしのそんな振る舞いをじっと見つめて、俯きがちに横を向いた。
「いまのは……傷ついた……」
(あああ!もう!なんて顔してくれちゃってんのよ!そこでため息を吐くな)
デリケートすぎる。殴り殴られることに、拘りすぎなのだ。
人差し指をびしっと悠汰につきつけてあたしは言った。
「あんた話を聞きに来たの?それともやりに来たの?どっちよ!」
すると悠汰は。
しばらく考え込んで、首をかしげた。
「両方?」
(あーのーねー)
訊かないでよ、そんなこと。知らないわよ、わたしは。
でもその仕種は可愛いわ。ちっくしょう。
そう思っていると悠汰も完全に身体を起こして、座りなおした。左の膝をソファの上に曲げて置き、あたしの方を見る。神妙に。
「いろんな人にバカって言われた」
それは……。あたしも言ったし、何度も思ったことだった。
確か久保田さんも言っていたわね。
「それから、いろんな人に何で玲華が俺を選んだのか解らないって言われた」
「誰よ!そいつ!」
もう、余計なことを。
確か比路も言っていた。一人は間違いなくあいつだ。
「世羅と綾小路と、京香と、確か比路も……」
言いそうな人全員じゃない。ムカつく。
……悠汰から初めて京香の名前がでて、少し複雑だった。そんな自分にもムカつくわ。
あれは天罰だと思うことにしたのに。
「俺はそれに答えられなかった。俺にも、わからなかった」
ソファの背もたれをひじ掛けの代わりに置いて、左手の人差し指の第二関節を曲げて悠汰は唇に押し当てた。どこか悔しそうに。
バカってあたしはまた思った。
「前に言ったでしょう?」
「崇めないってやつか。でも、そんなの……。それだけじゃ」
「じゃなくて、理由なんてあってないようなものよ!」
きっぱり断言したのに、悠汰はまだ不満そうな眼を向けてくる。
人を好きになる理由なんて、言葉でいくら並べてもぴったりとは合わない。自分だって、本当のところの理屈なんてわからないんだから。
仕方ないわね、と思う。なぜか悠汰は気づいていないことがある。
あたしは悠汰の腕をかいくぐり、右手で彼の頬に触れた。先ほど、殴ってしまったところ。
悠汰は自然に、左手を持ち上げて退けた。
「それにね。気づいてないの?悠汰。選んだのは、あなたの方よ」
「嘘だろ」
「なんで嘘になるのよ」
そこでそんなに驚かないでほしい。
あたしは少し睨む。
「だって、おまえにはいっぱい好きだっていう奴がいるし」
「あのねえ、あのときは間違いなくあんたの方が想われていたわよ」
どうしてわざわざ、教えてあげなくちゃいけないんだろう。こんなこと、知らせなくていいのに。
悠汰は知らないんだ。
あやなちゃんとか美緒ちゃんのような、態度に現していた女性だけじゃない。
入学したての頃、あたしはすれ違いざまの廊下で女子生徒の会話を聞いた。悠汰のことが気になると打ち明けた同級生がいて、友達にマニアックですわね、と評価されていたことを。
その時はまだ、気になる程度だったけど、マニアックって単語がやけに耳に残っていたことを憶えている。
あたしもマニアックなの?って思ってしまったんだわ、あのとき……。
それから、あの学校の人からしてみれば、自由奔放に見える彼が、ちゃんと優しさを持っていることに気づく人が増えていった。
本人は認めないだろう。それは無意識のものだろうから。
それぐらいのささやかなものだけど、それでも女性はギャップに弱い。ときに周囲の人は、本人よりもちゃんと見てる。
(それに、顔もまあ整ってるし……)
だからどんどんライバルが増えていって、一時は困ったんだけど。
「あたしの方が先に好きになったのよ。だからね、選んだのは悠汰」
「ふうん……」
まだ納得してないわね、この“ふうん”は。
さり気なくモテてきたみたいな余裕は何とかしてもらいたい。あたしは悔しいからこれ以上教えてあげるのはやめておいた。
代わりに、右手を上に動かす。悠汰の髪をかきわけ、食い入るように見つめた。
あたしのせいでついた傷が、まだ残っている。久保田さんから聞いていた血の量のわりには、切れた部分はそんなにひどくなかったようだ。
「おまえはよく、俺の傷に触るよな」
「そうよ。早く治ってって、念じてるのよ」
「怪しい気功師かよ」
唇の端を持ち上げて、ハッと悠汰は笑った。
久しぶりに見た笑顔に泣きそうになる。
あたしが怪我した場所に触るのは、いま言った理由もあるけれど、それよりも憶えておくためだった。
誰かにつけられた傷も、あたしのせいでついた傷も全部。憶えておきたかった。
それは悠汰のなかに、確かに残っていくものだと思えるから。
「ごめんね……」
痛い想いを、残してごめんなさい。
謝罪が口から出るのと同時に、あたしの眼から涙があふれて、頬を伝った。
傷が消えても心には残る。
年月を重ねて薄れていったとしても、しこりとして必ず心のどこかには在る。それが哀しかった。
ここへきて初めて泣いたのが悠汰のことって、あたしにとっては当たり前だった。
本当はもっと早く、謝りたくて。
やっとそれができたっていう、想いもあったんだと思う。次から次へと水分があふれてきて、止まらない。
「ごめんなさい」
「もう痛くない」
悠汰はあたしの手をとって握った。それからあいている手で、あたしの涙を拭う。ぎこちなかったけど、嬉しかった。
それでも止められないでいると、彼の方が痛そうな顔になった。
「おまえが、わかんねえよ」
「…………」
「全部言ってくれ。思っていること全部」
「言葉がみつからないわ。いまのあたしの気持ちと、あなたの心理状態で、誤解なく伝えられる自信がないの。だから感じて」
あたしは悠汰の体を引き寄せて、抱き締めた。温かい体温が伝わってくる。
それでも悠汰は抱き返してくれることもせず、しばらくじっとしていた。
また迷っているのだろうか。
「俺は、おまえを好きでいていいのか?」
好きだと、普段悠汰は言葉にしてくれない。付き合うことになった日とあわせて、これで二回目だった。
久しぶりに聞けたものが、こんな流れってひどいと思う。
その代わり、あたしが好きだと伝えたら、必ず困った顔を一瞬する。どういう反応をするべきか迷うみたいに。
「訊かないでよ。自分で決めなさいよ、そんなこと。あたしが駄目って言ったらやめるの?」
悔しくて、腕を伸ばし、泣きながらも悠汰を睨みつけた。
「でもおあいにくさま。あたしはあんたが離れても追いかけるわよ!悠汰に嫌われたのが原因じゃなかったら、どこまででも追いかけるわ!ストーカーだってしちゃうんだから!」
「ストーカーって……」
「それくらいの想いってことよ!真に受けんな!」
本気で引いた悠汰の胸ぐらをつかんだ。そのままぶんぶん力任せに振る。
「やめろよ」
弱く発しながらも、あたしの腕を引き離そうとした。
困ったような悠汰の顔に、あたしは立ち上がる勢いで唇を押し付ける。
それはある意味暴力に近く、ぶつかった感じになった。ジンジンして痛いけれど、気にはならない。
「もっと自信持ちなさいよ!あたしをこんなに取り乱させることができるのは、あんただけなんだから。自分の意思で動いて、自分の想いで決定してくれないと、いつまでたっても自分なんて変われないのよ!」
いつもそうだ。本当に嫌なことは嫌だとはっきり言うくせに、それ以外はずるずると人に引き寄せられている。良くも悪くも、影響されるから不安になるのだ。
「俺のことで泣くなよ。おまえには笑っていてほしい」
しばらく考えて、出した彼の言葉はこれだった。
(もう……)
本当に響いてるのかしら。解ってくれているのかしら。
すぐに本筋とずれたことを言うんだから。これが計算されたものじゃないから、あたしには驚きだったりするのだけど。
「だったら悠汰も笑って」
じっと顔を見つめて、様子を窺う。
彼は笑うことが少ない。それでも最近は増えてきた。けれど、腹をかかえて笑うまではどれも至っていない。
笑えない状況が、小さい頃から絶え間なく続いてきたからだとは思う。
あたしは悠汰を笑わせたかった。無駄な心配事はなくして、肩の力を抜いた生活を一時でもいいからしてほしい。それがあたしの一番の望みだ。
「ごめんな」
だけど悠汰は謝った。
「ごめん、余計なことして。大変だったんだろ、本当は……。それなのに余計なところまで、気をまわせることしてるよな」
そして額を肩に押し付けてきた。
もしかしたらまた、自己嫌悪にでも陥ってるのかもしれない。
全然解ってない。
きっとこの部分が伝わるのには時間を要するんだろう。
あたしはすべての罪悪感を切り替えた。捨てることはできないけれど、それでも先に行くために。
少し離れ、悠汰の顔を真正面から見つめて微笑む。
「お互い謝ったから、この話はこれで終わりにしない?」
以前と同じ事を口にした。すると悠汰も微かに笑ってバカって言った。
きっと悠汰を笑わせるのには、あたしがまず笑わないといけないんだって思った。
「おまえ、切り替えんの速すぎ」
普通でしょ、って返そうとした。これまでの悠汰みたいに。
だけど。
ガタンっ、バサって音がして、それから。
「おい、そこのバカップル」
不機嫌そうな久保田さんが現れた。例によって、天井裏から。
どうしてこのタイミングで天井裏なのかしら。前回否定してたけど、本当は狙ってきているんじゃないの?
「久保田さん!」
天井裏なんてものを知らない悠汰は、慌てふためいてあたしから離れて立ち上がった。
(ちぇー)
付き合ってわかったことだけど、意外と悠汰は手が早い。でもそれは二人きりになったときのみだ。根本は照れ屋のようだった。
これまでの久保田さんの足取りを確認しようと、あたしは問いただそうとする。だけど久保田さんの方が速かった。険しい顔で先を続けた。
「まだイチャイチャしたい気持ちはわかるが、急いで逃げろ。人が来る」
「え?」
「いちゃいちゃって……」
あたしは一気に緊迫感が高まったけど、悠汰はどこか釈然としない表現だったようで、ぶつくさ呟く。
「ちょっと、どういうことよ」
「話してる暇はない。悠汰、おまえが居たらまずい。とりあえずお嬢の部屋にでも……」
部屋中を見渡して、あたしの寝室の扉に久保田さんが目を向けたときだった。
いきなり扉が開かれた。また防音が仇となった。
前田さんがまだ帰ってきてなかったのだ。こんな簡単にここが破られるなんて……。
あたしたちが動く間もなく、一斉に黒服の人たちがこの部屋を埋め尽くしたのは、本当に瞬く間だった。
* * *
どうしてこんなことになってるんだろう。
見たくなかった光景だって言ってるのに、どうしていま、あたしの瞳にそれが映ってるんだろう。
先ほど悠汰が現れたときとは対極で、あたしは目を見開いていた。
閉じたいのに、消し去ってしまいたいのに、それを許してくれない神経。
これこそが幻であったらどんなに良いかわからない。
なのに……。
黒服の護衛の人たちが、二人がかりで悠汰の腕を押さえつけ、別の二人が欧州風の長い槍、ランスを彼の前にクロスさせて向けている。
久保田さんが危ないからってあたしを下がらせた。
悠汰との距離が僅かに遠くなる。それでも視線が外せない。
「侵入者だ!捕まえろ!」
そう叫びながら乗り込まれて、この状態になるのに、そう時間はかからなかった。
本当にいきなりで、あたしはただ驚く。
護衛役の人は、主に清志郎伯父様の下にいる護衛だった。一緒にいたところを見かけたことがある。だからかもしれない、いまこの状態を指揮していたのは彼だった。
「こいつが爆弾犯かもしれん!気をつけろ」
あたしは動けなかった。
悠汰もただ驚愕していて、抵抗しない。乱暴に行動を封じられて、ボディチェックをされていた。
ひどい、と思った。
彼はこんな扱いを受けるような人じゃない。
「やめて!」
やっと声が出て、近づこうとしたけれど、久保田さんに止められた。いま出て行くのは得策じゃないって顔をする。
そんなの関係ない。
一瞬でも一秒でも早く、彼を解放したい。悠汰は関わらせてはならない人、なのに。
「汚い手で悠汰に触らないで!」
これまで感じたことのないほどの怒り。怒ることで体が震えるのを初めて体感した。
悠汰のまわりの男たちをひとりひとり取り除いていきたい。でも、まだ久保田さんが抑えているから動けない。
腹が立った。
久保田さんには、悠汰を助けたいって思っていてくれないといけないのに。久保田さんだって、彼を殴ったとき取り乱したくせに、どうしていまは冷静なのだろう。
「どうした?玲華。この男は不法侵入者だぞ」
清志郎伯父様がしたり顔で前に出てくる。あたしと悠汰の間に立っていた。
そこでようやく気づいた。
ここにいるのは護衛の人たちだけじゃない。先ほど下でも見た野次馬が混ざっている。見世物を見るような視線で、笑みを浮かべながら集っていた。
「よもやまさか、強引にとはいえ、現在第一後継者であらせられるご令嬢の部屋に侵入する輩がいようとはな」
皮肉たっぷりな物言いで清志郎伯父様はせせら笑う。そして拳銃を懐から取り出して悠汰に向けた。リボルバー。
幸祐や稔叔父様が持っているのだ。この人が持っていてもおかしくはない。
(おかしくはないけど、許されることじゃない!)
あれを向けられると何もできなくなる。逃げ道が塞がれる。
そんな人権を無視したもの、全部なくなってしまえばいいのに。
「やめてよ!悠汰を殺したらあたしがあんたを殺すわ!」
初めて、人に向かって殺すと言った。
嘘じゃない本心。
ここで彼が死んだら、あたしは理性なんて手放す。狂っていく。そうなる道が見える。
落ち着け、と久保田さんが制止をかけてきた。
そんなのは無理だ、と本能が叫ぶ。久保田さんの方が落ち着きすぎているように、いまのあたしには見えた。
「化けの皮がはがれたな、玲華。そんなことより、この男とはどういう関係だ?先日発表した綾小路の嫡男がおまえの相手だろう?あれは嘘で実はこの男が想い人か。それとも両方か」
動じることなく清志郎伯父様は問いを突きつける。
ここで綾小路だと言えば、悠汰はただの外敵ということになる。ならば処分しても構わないという結論に到達しそうな勢いだった。
悠汰と答えれば、あたしの弱みを得れて人質として使うだろう。相手が綾小路なら手を出せずとも、悠汰なら何の防壁もない一般市民だからだ。
(どう、答えれば……)
どちらにしても悠汰にとっては地獄を見る。
あたしのせいで、また傷が増える。
「どうした?なぜ答えない。ここでこの男を選べば解放してやってもいいぞ」
伯父様は優越感を含めて口をゆがめた笑い方をする。
そんなふうにあからさまにされなくても、嘘だとわかっていた。
初めてあたしが隙を見せたのだ。ここで手放すような人はここにはいない。
(それでも、命があるほうが……)
まだチャンスがあるのは、悠汰を選ぶ方だ。
震える手を握り締めて、あたしは覚悟を決めた。
「何を生ぬるいことを言っている」
そのとき、低い男の声がこの部屋に響いた。
扉付近にいた野次馬が一斉に両脇に避けて、彼の通り道を作った。その先にいたのは毅叔父様だった。
一番、出てきて欲しくなかった人が、ここで現れたのだ。
「そちらの少年はこちらに引き渡してもらおう」
「なに?」
義兄弟の間で因縁の火花が散る。
この二人が仲が良いはずはなかった。嫡出子と非嫡出子だ。逃れられないしがらみがある。
毅叔父様は悠然とこの緊迫した空気に足を踏み入れた。
「その少年が何者かは関係ない。曲者は曲者だ。皆、聞いたな?清志郎はいま、侵入者を擁護する発言をした。これは我が一族にはあってはならぬことだ。彼には任せられない。この不届き者は私に一任してもらえるか?」
周囲の人に話しかけるように見渡す。拒否する者はいなかった。
最も権力を握っている人だからだ。
「貴様あ!」
清志郎伯父様は切り札を取られて激昂する。
「詭弁も大概にしろ!これはおれの獲物だ!先におれが捕らえたのだ!貴様は引っ込んでいろ!」
「相変わらず物の見えん奴だ。四面楚歌なのは一体誰だ?よく周りを見ろ」
毅叔父様のその一言で、大半の護衛が毅叔父様側に立った。
主に悠汰を抑えている人たちは清志郎様伯父様側だ。しかしあとは烏合の衆だった。普段は別の主の下に付いている。ここにいる清志郎伯父様以外の血族が毅叔父様についたのなら、その護衛も毅叔父様につく。
だけどそれだけじゃなかった。
毅叔父様の後に入った人物。
(深影の!)
とうとうここで、深影慎が現れた。
毅叔父様だったんだ。彼に命令を出していたのは。
周りから、この事実にざわめきが起こる。
武力においても、知力においても、清志郎伯父様が敵うものはなかった。
どちらがマシかわからない。
いや、もっと酷い状況になったと言っても過言ではない。
「貴様。このままで勝ったと思うな」
清志郎伯父様は歯軋りして睨みつけ、そして観念して殺気だったまま出て行った。
悠汰を押さえつけていた護衛も、別の人に託して出て行く。
あまりにスムーズで隙がない。
でもそれよりも、一度も悠汰が抵抗してないのも気になった。いままでの彼なら、こういうとき暴れるのではないだろうか。
「そういうことだ、玲華。地下の鍵を渡してもらえるか?」
「いやよ。待ってお願い。彼は大事な人なの!連れて行かないで!」
冷静になれない。毅叔父様に駆け寄りながら、懇願することしか出来なかった。
だけど、毅叔父様のところまで、あたしは近寄ることができなかった。外から新たに入った護衛がいて、その人があたしの前に立つ。
「前田さん……」
いなくなっていた前田さんだった。彼だけじゃない、山元さんやその他のあたしのボディガードだった人が、いつの間にかそこに勢ぞろいしていた。皆が皆、無表情だった。
「彼らはもう玲華の護衛じゃない」
そして突きつけられた現実。
「どういう意味?」
頭が混乱する。何も考えられない。
「そのままの意味だ。前田、鍵を取り上げろ」
毅叔父様の命令で前田さんが動いた。
このタイミングでの裏切り。最大の痛手だ。
前田さんは真っ直ぐあたしの寝室へ向かった。
(――え?)
どうして迷うことなく、そこへ行くんだろう。
背筋が凍った。
あそこに鍵がある。それを扉の前にしかいなかった前田さんが知っているはずがないのだ。
知っているのは中にいた人。あたしと久保田さんの会話を聞いていた人だけのはず。
「待って!そこは……」
鍵がどうというより、あたしの唯一安らげる場所に入って欲しくなかった。こんな敵に寝返る人にはとくに、だ。
日常の、喧騒を離れた唯一の場所だから。
寝室の扉の前で、前田さんは一瞬立ち止まった。僅かに躊躇したように見えた。
「早くしろ」
毅叔父様にもそう見えたみたいで、促す言葉を厳しく言う。
「待て前田、鍵はそこにはない。オレが持っている」
いままで黙っていた久保田さんだった。
(どうして自ら言うの?)
確かにいまは久保田さんが持っている。悠汰が最初に侵入を試みたとき、久保田さんはオレが預かっておくと言った。
それは最悪の事態に陥らないためではなかっただろうか。こんなことになったときを想定して。
「久保田さん!契約不履行よ!」
「冷静になれ、お嬢。本来のオレとの契約はなにか思い出せ」
そう言って久保田さんは上着の内ポケットから鍵の束を取り出して、前田さんに投げた。
前田さんは難なくそれを受け取る。
本来の契約。それはあたしを護ることだ。
(違う)
そんなこと前面に出さないで、と思った。あたしはただ探偵だから呼んだんじゃない。久保田さんの人柄を見て、この人しかいないと思ったのに。
「連れて行け」
目的が達成されると、毅叔父様は護衛に向かって命令する。
護衛役が悠汰を立たせる。すると、彼は顔を上げた。目が合った。
「玲華!」
有無を言わさず強引に押されながらも、悠汰は力強い目でなんとか踏み止まろうとしている。
初めて表情が見えた。暴力行為にも負けてない目。
「玲華!俺は後悔なんてしてない!それに、おまえのせいだなんて思ってないからな!だからおまえも、こんなことで責任なんか感じるなよ!」
以前あたしが言ったこと……。
責任を一方的に感じられるのが嫌で、悠汰に言った言葉だった。おあいこだからやめようって。
あたしはまた、泣きそうになった。
でもここで泣いちゃいけない。心配をかけるし、一番辛いのは悠汰の方だ。
(笑わなきゃ……)
安心させるように笑って。いつものように、大丈夫よって言わないと。
「黙らせろ」
低く毅叔父様が言うと、即座に悠汰は一発殴られた。押さえつけてる人じゃない、それは山元さんだった。弾かれたように悠汰は山元さんを睨みつける。
もうやめて、と思った。
あまり自らが不利になる行動をとらないで。
(あたしは勝手だわ……)
彼が気持ちを抑えるのを見るとやめてほしいと願い、無謀なことをすると心配する。ぶれすぎている。悠汰のことになると、自分を見失う。
だからこそ遠ざけたということも、本音ではあって……。
問答無用で悠汰はこの部屋から連れ出された。
「今日はもう遅いから、また明日来ることにしよう。おまえに残された道はただひとつ。印判を用意して待っていれば良いんだ」
毅叔父様が言う。冷徹で、温かみの欠片もない言葉だった。
そこにいる皆を促すように毅叔父様が出て行くと、他の人も従って解散しだした。埋め尽くしていた人が次々と出て行く。笑っている人がほとんどだった。面白いものが見れた、とあからさまにバカにしている。
やっぱり、最後には毅叔父様に持っていかれるのか。お祖父様のすべてを。
あたしは目の前が真っ暗になるのを感じた。力が抜けてその場に座り込んだ。汚れるとか、全然気にする余裕がなくて……。
「お嬢……」
隣に、久保田さんが目線を合わせるようにしゃがむ。
「どうして久保田さん」
「なにがだ?」
解っているくせに、あたしが言いたいことなんて。解っていて全然優しくない、大人な聞き方。
あたしは、絨毯を見つめたまま言う。
「悠汰よ。絶対助けてくれると思ったのに……」
あたしよりもまず先に、久保田さんが行動に出てくれると思っていたのに。成功するかどうかは二の次でも。
それなのに鍵まで渡して。
「あのな、言ったろ?オレは、悠汰よりおまえを護るためにいるんだよ」
「嘘つき」
そんな理性的な人じゃないくせに。本当はあたしより激情型だって知ってるんだから。
でもその契約のせいでこの人が抑えたんだとしたら、それは辛い。
悠汰だって助けてもらいたかったはずだから。久保田さんの事情より、悠汰の気持ちの方が最優先なんだから、あたしには。
あたしの貫きたかった目的と、悠汰の危機は相反するもので、どうしたらいいのか全然わからない。
頭が、まったく働かなくなった。
「とうとう目的が達成できたんだ、悠汰くん」
人々が出て行くその隙間をぬって、ひとり入ってきた。
比絽だ。
扉は誰も閉めないでいたから遮るものがなにも無い。最悪のタイミングだった。あたしはまだ立ち上がれない。
「それなのに大変なことになっちゃったね、玲華。でも自業自得だよね。玲華も本当はそう思ってるんでしょう?」
「おい」
なにも言わないあたしの代わりに、久保田さんが立ち上がった。比絽が近づいてくるのを遮るように。
「悠汰くん、せっかくぼくの誘いを断って拓真くんと実行したのに。結局こういう結果になるなんて、笑っちゃうよ」
「…………」
萩原くんだったんだ、と思った。
本当に比絽と来たわけではないのだ。
「萩原くんのことを、なぜ比絽が知っているの?」
ようやく出たのは質問だった。どこまで関わっているの、悠汰に。
「おい、こいつの話を聞くな。おまえは出ていけ」
これまでより最も硬い久保田さんの声を聞いた。
「あなたには用はないんですよ。ああでも、聞いてもらったほうがいいのかも……。あなたも悠汰くんが心配なんですよね」
「だからなんだ。おまえの話を聞いて得があるとは思えない」
「恐い人を傍においてるね、玲華。悠汰くんの友達ぐらい誰でも調べられるよ。一度失敗した後にさ、ぼくの仕掛けた縛りがとれかかってね。それが拓真くんのせいだったって知ったんだ。でもそのお友達はキーパーソンになると思った。なるべく彼と引き離すか、逆に彼をも利用するか……。わくわくしながら考えていたんだ。でも必要なかったね、自滅したんだもの」
「比絽!あんたっ……!」
あたしは怒りが力となって立ち上がることができた。
悠汰への攻撃が一番あたしにダメージを与える。それを知っていてわざとしているのだ。
「これ以上、悠汰に負担をかけたら許さないわ!」
「お嬢!」
あたしは久保田さんを押し退け、比絽に突進した。予測を超えた行動だったらしい、あの久保田さんがついてきていない。構わず掴もうと伸ばした掌は、しかし比絽に届くまえにあっさり捕まってしまった。
「怒りで隙だらけだよ」
腰に右腕がまわされ、動きを封じられた。
「らしくないね。玲華がこれほど取り乱すとは思わなかったよ」
「やめて!離して!」
離れたいのに、比絽の力には敵わなかった。
本当にらしくない。
あたしは唇を噛みしめた。
こういう連中に、やめてなんて言っても無駄だ。元よりやめる気ならば最初からしない。それよりも、もっと増長させるだけだ。
それを心得ているからこそ、これまでこういう状況のときに、決して“やめて”なんて言わなかったのに。
「警戒しないで、玲華。ぼくはきみには何もしないよ」
案の定、さらに力強くなる。言ってることとやってることが違う。
「何もできないんだ。これが何を意味するかわかるかな?」
少し間を開ける。
久保田さんは様子を見ていた。あたしが人質のようにいるから手が出せないのだろう。
もしかすると比絽の性質を見抜こうとしているのかもしれない。二人は初めて対面するから。
比絽は極上の微笑みを浮かべて続けた。
「ぼくはきみの兄だからね」
「――えっ?」
あたしは目を瞠って、思いきり近くで比絽の顔を見る。
その反応に満足そうに目を細めた。
「なに、言ってるの?」
嘘か否か、誤ることなく追及しなければならない。
あまりのことにあたしの声は震えた。
「本当だよ。きみもぼくも産まれる以前の話だけどね。ぼくの母親は源蔵に好かれてしまった。それでこの家に招かれたんだ。母親の意志も通さず、強引にね」
遠くを見ながら、比絽は語っていた。
悦に入った表情。
あたしがダメージを食らっているときに話そうと決め、ようやく話すことができるという感じだった。
「だけどそのとき、源蔵のものになる前に、きみの父親が母親に惚れてしまったんだって。猛アピールをされたと聞いているよ。だけど母親は他に……この家の誰でもない人と恋に落ちていた。それをきみの父親は知っていたのに、脅迫まがいのことまでして関係を持った。そして産まれたのがぼくだ」
「そんなはずないわ!」
あたしは否定するのがやっとだった。
信じられない。比絽は視点を切り替えて、最も残酷な捉え方をさせるように話す人だ。
「まあ信用できないのもわかるよ。薫さんは軟弱でそんな度胸持ち合わせてないって、周囲にはそう思わせることに成功してるからね。だったら本人に連絡とって聞いてみるといい。きっと何も言えなくなるか、言い訳してくるかのどちらかだよ。あれはお互い同意があって事を為したんだって」
「…………」
「でもね、一般的にこういうケースでは女性の言い分の方が正しいよ。玲華だって、もし幸祐に穢されてさ、同じ事を言ったら、とんでもないって反論するだろう?そして最大の証拠は実際にぼくがいることだ。きみの母親と、もう出逢ってる頃だよね。小百合さんは知ってるのかな、このこと」
あたしは比絽の腕の中で頭を抱えた。
幸祐があたしにしたようなことを、お父様が比絽の母親に……。
駄目だ、いまは頭が整理できない。
(だからこそ、いまなんだ)
このタイミングを狙って比絽は言ってきたんだと悟った。
「でも……笹宮様は……」
「笹宮は義理の両親だよ。一人この家からなんとか逃げ出した母は、そのあと身籠っているのを知った。そして復讐を誓ったんだ。ぼくを少しでも関わりのある家に養子に出そうとね。笹宮の義母は子供が出来にくい身体だったらしくてさ、喜んだらしいよ。事情は知らせないで、母親はうまく義母と仲良しになったんだって。あの二人の知らない隙に母はぼくに幾度となく会いにきて、密かに復讐の念をぼくに埋め込んでいった」
「そんなの……間違ってるわ」
実の母親が自分の息子を復讐に使うなんて。
「間違ってる?それはきみだから言えることだよね。きみは正式に愛された両親の間に産まれ、護られながらここまで生きてきた。ぼくがそんなきみに嫉妬しなかったとでも思う?」
あたしは言葉に詰まってしまった。
比絽は人の弱みだとか痛いところをつくのが上手い。子供の頃から、ここにいる人たちをよく観察していたのだろう。
「でもきみは無邪気にさ、ぼくに笑いかけるんだ。子供のころからさ。残酷だよね……」
「……それで、どうしたいの?比絽は」
「ぼくの目的はひとつだ。この家をぐちゃぐちゃに掻きまわすことだよ。手始めがきみだったんだ」
「それで悠汰を巻き込んだのね」
「そうだね。でも誤解しないで。ぼくが手を入れた部分は実はそんなに多くはないんだよ。掻き乱すつもりでいたのに、あっさり彼から崩れるんだもの。可笑しくってしかたがないよ。精神だけの問題じゃなくて、身体に負担があれば気持ちも弱まるよね。それは仕方のないことだと思うけどね」
「気づいて、いたの?……悠汰が体調を崩していたこと、知っていてやらせたの?」
なんてひどい。
助けるどころか、侵入なんて無茶なことまでさせるなんて。
「彼は本当に分かりやすいね。あまりに簡単すぎて、実はすべて演技じゃないかと思えてくるほどだったよ。彼のささやかな反応は見ていてよく分かった。他の感情が乏しくなっていたからとくにね。でも玲華はぼくに八つ当たりできる立場じゃないよね?」
「…………」
「それでね。彼がここに来る間、庭でばったり会ったからさ。いまきみに話したこと、彼にも教えておいたよ」
「!」
あたしは血の引く思いがした。
知って、悠汰はどう思ったのだろう。なぜそのことを言わなかったんだろう。
複雑な感情が錯綜する。
「きみと一緒だね。すごく信じられないって顔をしていたよ。でも彼はすぐに信じた。本当に彼はぼくの言うことにいちいち揺らいじゃって面白いね。欲を言えば、悠汰くんには玲華を切り捨ててほしかったけどね。でも彼はまだ利用できる存在。そのことがわかっただけで充分だよ」
「比絽!」
もうやめて、と思った。
これ以上あたしを怒らせないで。
つい怒鳴ったあたしに、比絽は眼光を鋭くさせた。口元の笑みはそのままで。
「隠させたりしない。きみたち一家の汚点。完璧に見えるきみの一家は光輝いて見えるけれど、光があれば影ができるんだ。光が強ければ強いほど、影はより深く濃くなる。きみに怒る資格はない。間違ってもきみたちだけ幸せになんてさせないよ」
この家に来て、最も深い恨みを感じた。
「唯一残念だったのは源蔵が先に逝ったことだ。元はあの人がすべての元凶なのにね。仕方ないから、その分きみたちに罪を背負ってもらう。悪く思わないでね」
ようやく比絽はあたしの腰に回していた腕を離した。支えがなくなって、あたしは再び膝から崩れ落ちる。
目の前が真っ暗だった。
「楽しみにしてるよ。これからのきみの行動を。悠汰くんをどうやって助けるのか、誰に署名するのかもね」
そう言い残し彼は立ち去る。
あたしは全身が震えるのを止められなかった。いままでの大変さなんて、今夜のことに比べたら天と地ほどの差があるんじゃないかと思えるほど、絶望を感じた。
「大遅刻だね」
遠くで、そんな一言が聞こえる。
扉の方で千石さんが見ていた。きっといま到着したんだろう。
比絽がいなくなってから、千石さんが扉を閉じた。再度密閉された空間で、すぐに口を開く者はいなかった。