第三章 ・・・ 3
次の日、久保田さんは杏里を見張ると言いだした。
事件前のことはよく知らないが、事件後のことは杏里の方が情報を握っている。そんな気がしてならないのは、久保田さんだけではなくあたしもだった。だから止めようとは思わなかった。
しかし杏里の部屋の隣が空室になっている。そこで張ると聞いたときにはさすがに口を出した。
「ばれたら大変よ。あくまでもあなたはあたしが雇った使用人ってことになっているわ。使用人がひとりで客室にいるなんて、理由も聞かれずに咎められても仕方ないの。そういう暗黙のルールがこの家にはあるのよ」
「わかっているつもりだ」
あたしの注意をうるさそうに顔をしかめながらも、大人しく頷いてから出て行った。
また稔叔父様から内線が入ったのは、その午後だった。
こういうタイミングでこれると訝しがらずにはおれない。
『今日は人質はいないんだけどさ、こちらに来て話をしてくれると嬉しいな』
「それでノコノコ出ていく人がいると思っているのかしら。稔叔父様?」
『けっこうきてくれるよ、みんな』
「ずいぶん友好な人間付き合いをなさっているのね」
『まさか。女性だけだよ』
……ああそうですか、としか言えない。
あたしはついため息を吐いた。
ここに久保田さんの足取りはわかっている。
だから今日は、確かに稔叔父様に捕まっているということはないんだけど。
「でしたら稔叔父様がおいでくださいませんか?わたくしあまり出歩けませんの」
これ以上ないくらい愛想を振りまいてみた。
我ながら良い案だと思う。話をしたいとは思っていたのだ。久保田さんに止められ続けられてさえいなければ。
初めから呼べばよかったのだが、どうせ来てくれないと考えていたところだった。
あちらが話したいならば誘う理由ができる。
『いいよ。ただし邪魔者は遠ざけておいてくれるかな?』
「できかねます!」
もう!どうしてそういう言葉がスラスラ出てくるのかしら。ある意味才能ね。
二人きりでは会えないと遠まわしに言っているのを、わかったうえでの発言だ。
『ふうん。でもいいや。じゃあ今夜行くから待っててね』
「なぜ……夜……」
『夜の方がいいだろう?きみも』
意味深なことを言い残して叔父様は通話を切った。
まったく。自分本位な男が多いわね。少しぐらい返事を待ったらどうなの。
「玲華様。まさか……」
千石さんはちゃっかり聞いていたようだ。
「夜に来るってさ。千石さんいてね」
「私が居てよろしいのですか?」
律儀に確認してくる。いいわ、とあたしは答えた。
稔叔父様が何を話すつもりかはわからないけれど、間違いなく重要なことだと思う。あたし以外の人がいたら話さない可能性もある。
だけど一応断らなかったわけだし、一人で対応するのは物騒極まりない。ならば少人数で対応しようと思った。
久保田さんには遠慮してもらおう。敵対的な態度をとって終了なんてことになったら嫌だし。何も言わない千石さんが適任だと思った。
「久保田さんは喧嘩しちゃうから、千石さんだけにいてもらうわ」
あたしがそう言うと、千石さんが、初めて――笑った。
僅かだったけれど、確かに優しい笑みだった。
それから久保田さんが帰ってきて、黙っているのはやっぱり躊躇われたので、正直に打ち開けた。ぶーぶー文句を言っていたけど、とりあえずは引いてくれたみたいだ。変わりに千石さんに何か言っていたようだけど、あたしは聞いていない。コソコソ話していたから。
宣言どおり、夜に稔叔父様は来たけれど、すでに時計の針はてっぺんを超えていた。
しまったわ。
もっとちゃんと時間を打ち合わせしておけば良かった。
いくらなんでも遅すぎる。その前に何度催促の内線を掛けても出ないし。
「もう寝てしまうところでしたわ」
あたしはぎりぎりのところで皮肉を言った。遅いんじゃ、ボケと翻訳無しで言えないところが苦しいところだ。
「本当に?夜はこれからだよ」
夜だというのにイタリアンスーツに身を包み、さらにそれを着崩した姿で彼はやってきた。
おバカなのかしら?……と思ってしまう……。
稔叔父様にとっては我が家だろうに。
「それでお話とはなんでしょう?」
手振りでソファを勧めながら促す。
だけど稔叔父様は座らなかった。それどころか部屋中を見渡して、うろうろしだした。
「叔父様?」
「しっ」
唇だけしって形にして人差し指を立てた。
そういう仕種ひとつひとつが気障に見える。
何をするつもりかと見守っていたら、扉の近くまで戻り絨毯を大きく剥がした。
まさか……と、ここで気づく。
あたしは無意識に千石さんを見たけど、彼はじっと叔父様を凝視していて目は合わなかった。
「あった」
叔父様は軽く笑んでそれを見せてくれた。
薄型の盗聴器。
いままで見たことのない形。最新型なんだろう。
「また、ですか……」
嫌になる。今日も定期的に発見器で確認したのに。
「でもどうして?全て取り除いたはず……」
すんなり見つけた稔叔父様。発見器も使ってないし、なにより盗聴器の存在をなぜ……。
「そうなんだ。なら良かった、遠慮なく話せるね。これはね、おれが仕掛けたものだから。市販の発見器じゃ見つからないだろうね。周波数が違うから」
「なんですって?」
様々なケースを思い描いていたけれど、あっさり叔父様は白状した。
お陰で一瞬思考が止まった。
「おれの特注品だから他の人にはバレてないと思うよ」
だから心配しないで、と稔叔父様は続けた。充分ヤラレタ感が満載だというのに!
「どういうこと?一体いつそんなところに?」
「幸祐に取り付けさせたんだ。だから実はずっと聴いていたよ、きみたちの会話」
「悪趣味ね!他のもあなたが誰かに取り付けさせていたの!?」
許せない思いが浮上した。どれほど気味が悪かったか、ネチネチ言ってやりたい。
「違うよ。他のはおれじゃない。だから気を付けたほうがいい。ここは覗き趣味の巣窟だ。こういうのはどこに潜り込んでいるかわからないからね。普段の常識は捨てたほうがいいよ」
「その第一人者がよく言うわね!みんなやってるから自分に罪はないって?」
「そうじゃない。冷静になって、玲華。どうしておれがわざわざ白状したのか」
確かに……。そこも気になってはいた。
自首することで罪を軽くしよう、なんてことは考えていないはずだ。第一この人に罪の意識は感じられない。
「きみたちの会話は聴いていたと言ったよね。だから止めにきたんだ。きみの探偵は全然検討違いなことをしている」
「なんのこと?」
動悸が早くなるのを感じた。とんでもないことを耳にする予感。
そしてそれはきっと当たる。
「幸祐を殺したのはおれだ。彼女たちのどちらでもなければ、ましてや葉子ちゃんでもない」
「!」
千石さんが一気に警戒心を高めたのがわかった。
そして、いつでもあたしたちの間に入れるように僅かに近寄った。あたしは目の端で確認しながらも、稔叔父様からは逸らさない。
「うそよ」
「どうしてそう思うのかな?本人が言ってるんだから間違いないでしょ」
呆れたような、仕方ないなって笑い方をする。
そんな顔、できるの?本当に自分の舎弟みたいに思っていた人を殺した人が。
「だったらなぜいま言うの?久保田さんにわざわざ怪しい女性がいると示唆したのは他でもないあなたよ!誰かを庇ってんならさっさとそれも白状しなさいよ!」
怒るとあたしは早口になる。滑舌も良くなるから不思議だ。
本当に腹が立っていた。こんなこと簡単に言って欲しくない。
(だって……この人は)
あたしに切ない顔を見せた。あれが嘘だとは思えなかった。思いたくなかっただけなのかもしれないけれど。
「あの時は、逆に彼女たちに疑惑の目を向けさせようとしたんだ。まだおれも逃れようと思っていたからね。でもずっときみたちの話を聞いていたら、なんだかやる瀬なくなったってわけ。それでもういいかなって」
「そんなんじゃ説明つかないわ!だって……あなたの行動は……」
どこか一致しない。あたしの部屋にも、食事のときにも現れなくなって。いきなり起こした行動が殺人?しかも現場にも姿を見せなくて。
「言ったはずだよ。おれは女は殺せなくても男は殺せる。そういう意味だよ」
「だって……動機なんてないでしょう?」
「それも言ったよね。幸祐には一番幸せなタイミングだって。殺してあげたんだ、おれは」
「薬物で狂う前に?」
「そうだよ」
やはり稔叔父様は知っていた。幸祐が生きていた頃から、彼がドラッグに手を出していたことを。
でもそれだけだ。稔叔父様は嘘をついている。嘘と本当が入り乱れている。
だけどそれは直感でしかなかった。根拠のないもの。
「そんな……それじゃあ署名は出来なくなるわ。それでもそんなこと言えるの?」
「もうね、そんなことはどうでもいいんだ。どうでも良くなったんだよ」
「稔叔父様……」
笑みの状態から動かない表情。
真実のことなのだろうか。それとも心変わりさせた別の何かがあるのか。
「それに忘れてない?この盗聴器は幸祐がこの部屋に侵入したときからあった。これが何を意味するかわるよね?」
そうだ。久保田さんに今回の目的を話したとき。
あれは、幸祐が来た後だ。
あたしは思わず口元を両手で覆った。
聴かれていたんだ、あれも。決して知られてはいけない、そのありのままの事実を。
「ひどい。酷いわ」
よりによってこの人に。お祖父様の婚内子である稔叔父様に。
「どちらが酷いかな?きみのしていることが、どれだけおれたちにとって非道か、考えたことある?」
「当たり前だわ」
何度も迷ったわ。なにがなんでも断るつもりでいたわ、最初は。
それでもあたしは決めたんだ。一度決めたことだから、やり遂げなければいけないんだと思う。
はっとあたしはある考えが結びついた。
「もしかして加藤さんもあなたが動かしていたの?」
幸祐にそういうことを頼んでいる時点で、加藤さんの存在が自然と出てくる。
「ああ。彼ね。そうだよ。あれもおれだ。残念だったね兄じゃなくて」
「あなた、何が目的だったの?」
「幸祐にチャンスを与えてやりたくてね。兄の……父親からの縛りが解ければ、幸祐は自由になれる。彼の禁断症状を止めるには覚醒剤が必要だった。いきなり絶つとすごく暴れるんだ。あれでは周囲に教えているようなものだから、徐々に回数を減らしてやめさせようとしたんだよ。体裁のために、絶対に隠し通さなければいけなかった。だけどそれは間違ったやり方だったみたいだね。おれにまで隠れて使用するようになったんだ」
淡々と叔父様は説明する。そう、ただの説明だった。そこに感情の色がない。
幸祐の症状は予想以上に進んでいたようだ。そういえば、あたしが幸祐の足を殴ったとき、彼は痛がりもせずすんなり立っていた。骨折をさせようとまで思って、力を込めたのに。
ならばこの話は本当のことなんだろう。
「しかもその頃、おれが幸祐に金を渡していたのを兄が気づいてしまった。それでおれにまで妨害をしようとしてきたんだ。だから幸祐が玲華を負かせることができたら兄も認めるだろうって、おれが言ったんだ。早く手を切りたくなったんだよ。そう、失敗してもこれを期に幸祐を切れる。成功していたらそれを利用しておれが財産を手にする。どちらにしても損はない」
「なんてことを……」
「そう、こういう人間だよおれは。信じたら駄目だと言ったでしょ」
「違うわ!よくそこまでベラベラと淀みなく嘘が言えるわねって呆れていたのよ!」
辻褄は合う。それなのにこの違和感はなに?
彼の表情が動かないから?どこかでまだ、彼を信じたいのだろうか、あたしは。
「おれが呆れるよ、逆にどう言ったら本当だと信じてくれるのかな?」
本当に呆れ返ったようで、稔叔父様はため息を吐いた。
悪かったわね、頑固で!
「やっぱりおかしいわよ。切りたいと思ってそんな遠回りなやり方をしておいて、それでどうしてわざわざ後から殺すのよ。損はないんでしょう?」
「切りたいと思ったから、殺した。それでは駄目なの?もういい加減うんざりしてたんだ。あまりにも幸祐は子どもすぎる。フォローするのにも限界はあるよ。あの牢屋に入れられてまで、クスリを持ってきてなんておれに頼むからさ。咄嗟に殺気がうまれたのかもしれないね」
かもって何よ?
馬鹿にしてるのかしら、あたしを。
「それで、どうしたいの?叔父様は。あたしに牢屋にぶち込んでもらいたいの?」
あたしだっていい加減うんざりだった。上滑りするような感覚に陥るこの会話は。
どうしても結論が出ない。納得できないのは多分そこだ。この人の目的が見えない。
「きみはやっぱり放っておけないね」
すっと叔父様は目を細めた。ここへきて初めて笑みを取り去った。
あたしを責めているんだって思ったのに、その言葉は釣り合わない。その言葉と表情も一致してないような、そんな感じがした。
「きみによく似ている人がいたんだ。すごく強くて頑張り屋さんでそして明るかった」
“いた”っていうところに引っかかった。
――過去形。
「だけどあるとき頑張りすぎてね、壊れちゃったんだ。人が壊れるってこんな感じか、ってどこか冷静におれは見てたよ。それから彼女もクスリに手を出すようになった。それからはあまり会わなくなったけどね。なぜかきみを見てると思い出すよ」
「好きな人だったの?」
「たぶんね」
「いまも、好きなの?」
あまりに切ない顔をするから、つい訊いてしまっていた。
だけどこれには首を横に振ってはっきり言い切った。
「そんな純粋さはないよ。彼女が壊れたのはおれの所為だったのに、そのことさえも忘れていたぐらいだからね。幸祐の症状を見て思い出したんだ」
あたしの倍生きている彼には、きっとその分の重みがある。
ひどい、なんて軽くは言えない。あまりに無関係だから。でも。
「でもあたしはその人じゃない。壊れたりしないわ、あたしは」
あたしは以前、悠汰のことを壊させないと誓った。それと同時に悠汰がいれば壊れない。心の底からそう言える。
「彼女も、そんなことを言っていたよ」
「それなら叔父様、やっぱりあなたは……」
あなたは幸祐を殺してない。人を傷つける痛みを知っているあなたに人は殺せない。
その言葉を続けるつもりだった。
だけど、そこで突然激しくて重い音がした。遠くて小さかったけれどしっかり聞こえた。
そこにいる皆の顔色が変わった。
「ごめん。話はまた後で」
まず一番最初に稔叔父様が動いた。素早くここから出て行く。音のした方へ向かうんだと思った。
「ちょっと……」
待って、という言葉が途切れた。千石さんがそれより早く動いたからだ。
振り向きざまに言われる。
「見てきます。玲華様はここで待っていてください」
「嫌よ、冗談じゃないわ!あたしも行く!」
考えるまでもなかった。
だってあの音は……。
爆発。
どこかが爆破された音だ。なぜあたしの部屋じゃないのかが、わからない。ここ以外に狙う場所がこの家の中にあるとは思えなかった。
でもだからこそ、次はここなんじゃないかと思えて恐慌した。
行きたい理由はここが怖かったからじゃない。様子を少しでも知りたい気持ちからだ。
「わかりました。離れないでください」
千石さんは頷いて部屋から飛び出した。あたしもそれについていく。
言われなくても離れられないわ。
走りながら、久保田さんのことが気になった。あの音は恐らく使用人が寝泊りする界隈がある方向からではなかっただろうか?
彼を狙ってのことじゃなければいい、と祈った。
* * *
千石さんについてあたしは本気で走った。
思いのほか千石さんが速かったからだ。あたしに気を遣って遅めにしてくれているんだとは思う。それでもあたしにとっては本気だ。
待って、なんてあたしの性格上死んでも言えないし、かといってこれ以上速くされたら追いつけなくなるので、ただ黙って走っていた。
エレベーターを利用しなかったのは、すでに人が並んでいたから。非難するのかしら、と思いながらその横を通り過ぎた。
そして一階まで出ると、どこに行けばいいのか迷わなくて済んだ。
他の部屋からもほとんどの人が起きていて、わらわらと廊下から移動していたからだ。これに着いていけばいい。
やはり皆も何事か不安に駆られているのだろう。逃げるように慌てて……。
「なんだ?いまの音は」
「使用人の塔の方らしいぞ」
「全く迷惑ねえ。こんな時間に」
「そう言いつつ楽しそうじゃないか」
「あら、それを言うならあなたもでしょ」
「そうだな。こんなこと前代未聞だ。いったいどんなバカがやらかしたのか見に行かずしてどうする」
「後々の語り草になるかも知れんな」
「まったくだ」
いや、野次馬と化していた。
長生きするわ、あんたたち……。開いた口が塞がらないとはこのことか。
とりあえずあたしたちは、野次馬を追い越しながら、なるべく前の方に出るように走った。
出遅れるのは避けたい。
そうしたら、廊下の前方に白い煙が立ち込めているのが見え出した。使用人が何人か中にいるようで大声が聞こえる。
「そっちはどうだ?」
「被害有りません」
「こちらのようです。とにかく煙が凄くて見えませんが、壁が破壊されてます」
何事かすぐには把握できないが、やはり爆発音だったようだ。
手分けして勇敢な護衛や使用人たちが、確認しているということだけがわかった。
煙を避けるように野次馬たちは止まる。遠目から見守っていた。テロか?とかそれにしては規模が小さいだとか、ざわめきの中から会話が途切れ途切れに聞こえた。
前の方に久保田さんらしき背中を見つけた。いつものスーツだ。見間違えじゃない。
「久保田さん!」
後ろからかきわけるように近づくと、久保田さんが振り返った。
「またなんで来てるんだよ、おまえは。千石!わざわざ危険なところにつれて来るな!」
ああ、間違いなく久保田さんだわ。
かなり怒って千石さんを睨みつけていた。
「後事は託します。私も皆を手伝ってきますので」
しかし硬い表情のまま、有無を言わさず千石さんは更に中に行く。
めったに見ない顔だった。
久保田さんが怪訝そうな顔であたしに近づく。あたしは千石さんの背中を見送りながら言った。
「あの人は本来お祖父様に仕えている人なの。お祖父様のこの家を壊されたくないんだわ」
「だからってな……」
久保田さんが言葉を続けようとしたときだった。
再度爆発音がした。
今度は先ほどよりは小さいようだけど、近くにいたためか、かなり耳に衝撃が残る。それから照明が落ちた。
「きゃあ!」
野次馬から悲鳴が上がった。
それをきっかけに様々な場所から叫び声が聞こえ出した。
これだけの密度で、ここにいる皆がパニックに陥ったら恐ろしいことになることを、あたしは知識として知っていた。
「非常灯が点きます!大丈夫です。落ち着いてください!」
どこからか冷静な声がした。
(千石さん?)
彼の声に聞こえた。こんなときでも冷静そうでほっとする。
それでも周りは騒然となる。
「外だ!外に誰かいるぞ!」
「追え!」
そんな中で、わらわらと黒服たちが破壊された壁から出て行ったようだ。声が遠ざかることでそう判断した。
それを確認しすると、久保田さんはあたしの肩に右腕をまわして押した。
「ここから離れるぞ」
「ええ」
これ以上ここにいる必要はない。
振り返るとすでに、後方だけで五十人くらいの人が集まっている。
だけど同じように周囲も動いていた。野次馬が危機感をようやく持ったのだ。
爆弾よりある意味質が悪い。
非常灯がついてもまだ仄暗い。そんな中で、次々にぶつかられる。肩に腕に。そして後ろの方でも同じ状況のようで悲鳴がまた上がる。
まずい。人が邪魔だわ。
そう思ったときだった。久保田さんが少し離れた。逆流に乗って向かい側から強引に歩いてきた男がいた。その人にぶつかられたようだ。
その間にあたしにも後方からきた誰かにぶつかられて、更に久保田さんと離れた。
人の波にさらわれる。
「お嬢!走れ!部屋に戻っていろ!」
後方から久保田さんの声が聞こえる。
確かに彼が辿り着くのを待つより、先に進む方が安全だと判断した。
部屋に戻れば前田さんと山元さんがいるし、爆弾犯は外に逃げたようだから、三弾目はないはずだから。
この騒ぎに乗じて刺されたりでもしたら元も子もない。
――部屋に戻る。
久保田さんのことは心配だけれど、その言葉だけがあたしを動かした。
こういうことがあるかもしれない、という想定はあった。久保田さんとも話した。でもあたし目当てのものではないにしろ、実際に目の当たりにすると怖くなってしまう。
誰が何の為に謀ったのかわからない。外からの攻撃かもしれないし、そう見せかけた内部犯かもしれない。
得体の知れないということが、この世の中一番怖いかもしれないと思った。
様々な人に負の感情をぶつけられても、幸祐に襲われそうになっても、魂胆が明確だからまだ良かったのだ。不安が介在してない。
「……っ!」
太ったおば様があたしを押して強引に割り込んできた。衝撃が来て悲鳴を上げそうになったのを耐える。
なるべく存在感を消したかった。あたしに気づかないほどの恐慌状態ならまだいい。
ここであたしが一人きりだと誰かに認識させたら、どんな強硬手段に出られるかわからない。
(もう!誰よ!こんなこと仕出かしたバカは!)
迷惑極まりない。
入り組んだ廊下が終われば玄関先のホールに出る。そこまで行ければ走れるはずだ。
エレベーターはまたいっぱいだろう。だから階段で上りきる。そう思って近道を選んだ。
そして角を曲がったときだった。
誰かに腕を引かれた。目の前の光景がぶれてあたしの身体は左側に体重が傾いた。
まさか強行犯?
思わず体が硬くなる。
それとは逆に柔らかい衝撃であたしの動きが止まった。
「危ないよ、玲華」
左上から声が落ちてきた。見上げると稔叔父様だった。ここで稔叔父様があたしを引き込んだんだと気づく。
先に来たはずなのに、どうしてここにいるんだろう。
質問する隙もなく、そのまま奥へ進んでいく。この先は行き止まりに厨房の出入り口しかない。
それなのにあたしの腕を掴んだまま、構わず歩く。厨房には入らずにその隣の壁に触れた。
すると、視界が変わる。見たことのない石畳の廊下が目の前に広がっていた。
回転扉。
模様で巧妙に隠されていて、隙間などが見えなくされていたのだ。
「なによ、ここは?」
誰もいない。稔叔父様とあたしだけ。
そして一人が通るのにやっとという細い道。静謐な空間。
「隠し通路だよ。探偵が言っていたよね、それを聞いておれも探してみたんだ。びっくりしたよ。三十年以上ここに住んでいて、まったく知らなかった」
そうだった。久保田さんはあたしに話してくれた。見つけた隠し通路と天井裏の存在を。
盗聴器で稔叔父様は聴いていたんだ。
「叔父様も知らないって、それじゃあ……」
「うん、密かに父が作らせたんだろうね。この家はあの人が当主になってから建てられたものだから」
どこか寂しそうに叔父様は言った。
親に秘密を持たれて寂しい気持ちは、あたしにもわかってる。
知ってる。いまのあたしなら。
「部屋に、戻らなくちゃ……」
稔叔父様のことは恐くない。得体は知れないけれど、なぜだか怖くなかった。
それでもあそこに戻っていないと久保田さんが心配する。
「近道がある。こっちだ。案内するよ」
すっと離れて先に叔父様が進んだ。
躊躇う理由がなくて、あたしもついていく。
会話はなかった。先ほどまで部屋で言い合っていたのが嘘みたいに。
それでもひとつだけ確認したくて口を開いた。
「稔叔父様は、あたしがこのまま突き進むのは迷惑だと思うの?」
全てを知った上で突然語ったあの話。真実かどうかはさておき、あたしを止めるためだったのは確かだと思う。じゃないと、話す意味がないから。
でもどうしてほしいのか、肝心なところが不明だ。
「悔しさはあるよ。でももういい。好きなようにすればいいさ」
「嘘つき……」
そんな短時間で変化する気持ちなら初めから言いに来ない。そう思う。
「きみに愚痴りたかっただけかもしれないな」
だったらどうして助けてくれたの?
知っているでしょう。あたしが署名できないって。
稔叔父様の背中を見ながら、あたしは疑問に思っていた。
そのとき、ここにも電気が通っていたんだって知った。明かりが点いたのだ。
石の隙間から電球が見える。そんなところから拘りが感じられた。
「電気戻ったね。もう大丈夫だ」
そう言いながらも前だけを向いていた。一度も振り返らない。
いまはきっと、何を訊いてもはぐらかされるか嘘をつかれる。ならば何を言っても無駄だ。あたしは部屋に戻ることだけを考えた。
くねくねと直角に何度か曲がった後、階段が見えた。
「ここを登って真正面の扉を開けばいい。きみの部屋に最も近い廊下に繋がってるよ」
そう言って、叔父様はそのまま真っ直ぐに進もうとする。
「ありがとうございました」
助けてくれた事実に変わりはないから、あたしは頭を下げた。
それでも稔叔父様は振り返らず、片手だけ振った。気障な振る舞いだけど、嫌な感じはもうない。
あたしは気持ちを切り替えて、石の階段を駆け上がる。
ヒールのあるパンプスで何度も転びそうになったけど、止まらなかった。
止まれない。
気持ちが前に行く。
稔叔父様の言うとおり、登りきったら扉が五十メートルくらい先に見えた。
走り寄り、まずは外の音を確かめた。
出るところを見られるのはまずい。
だけど聞こえないのか人がいないのかは識別できなかった。
そっと、ゆっくり開けてみる。
誰も、いなかった。
(誰もいない?)
おかしい。
あたしの部屋が先に見えるのに、その扉の前にも誰もいないのだ。前田さんと山元さんがいるはずなのに。
待機命令をする暇がなかった。だから二人も騒ぎが気になって後から離れたのだろうか?
この部屋を無人にするわけにはいかないって、知っているのに?
少しだけ嫌な予感がした。自分の部屋の前で躊躇する。
(この先に、なにかあったら……)
動悸が止まらない。
でも意を決して金のハンドルを握り締めた。死角になるように身を隠しながら扉を開く。
とりあえず、開くと爆発する仕掛けにはなっていなかったようだ。
そのままゆっくり中を見た。
電気は点けたままだったから、復活していてここも元通りに明るい。
だからすぐに変化に気づいた。
「え?」
侵入者が視界に入った。
あたしはすぐに中に入り、扉を閉める。
中にいたその人は、応接スペースのソファの端にこちらに背を向けて、ひじ掛けに凭れ掛かるように座っていた。
「ゆ……た……」
その人物があたしの声に、振り返る。
悠汰、だった。




