第二章 ・・・ 6
あたしはすぐに久保田さんを呼んだ。
事情を話すのに、千石さんを追い出したりはしなかった。
いままで悠汰の話題はなるべく久保田さんといるときにしかしていない。けれど悠汰を止めてもらっている隙にも、あたしを狙ってくる輩がいないとも限らない。そのための護衛は千石さんがするわけで、だからこそ話を聞いてもらわないといけないということもあった。
だけどそれだけではなく、あたしはすでに千石さんを信用しているのかもしれない。
「久保田さん」
右手に携帯電話を持ち、パソコンを眺めていたあたしは、ふと顔を上げた。
それに久保田さんが諦めたようなため息を吐く。
「行けばいいんだろ。行けば」
「そうよね。行けばいいのよ。それから」
それから、とあたしは続けようとしたけど、久保田さんはその言葉を待たなかった。
「わかってる」
苦虫を噛みつぶしたような顔で出て行った。
いつかこんなときが来るってことは、分かっていた。久保田さんも、あたしも。悠汰がこの辺りを歩いている姿を見てから。
あたしは、昼間に来たふたつの連絡内容から比絽の企みを見抜いた。
ここへ入るには、なんにしても監視システムをどうにかしないとすぐに嗅ぎつけられる。
正面から入っても使用人に追い出されるのがオチなのだ。
久保田さんの第一回目は、あたしが予め言っていたのと、千石さんという同行人がいたから問題なかったのだ。それでもジロジロと不審気に見られたってぼやいていたけど。
あたしは少しでもその監視システムに動きがないか見張っている。
監視システムをみていると、おのずと見えてくる。最も弱いところ。予測を立て、その間に久保田さんには移動してもらったのだ。
今日、という保証はない。
それでももし悠汰が来ることがあれば、絶対に未然に塞がなければならなかった。
久保田さんもそこは同感のようで、居座るつもりでいるようだ。
あたしが監視システムを注意深く見ていると、しばらくしてから小さな変化があった。読みどおり、比絽が介入しているのだ。
ひとつのセンサーが切り替わった。
すぐにあたしは久保田さんにメールした。
ちょうど向かった場所と相違はない。これで間違いなく久保田さんは悠汰に会っている。
「千石さん、あたしも行くわ。ついてきて」
久保田さんには言ってなかったけれど、あたしは部屋でおとなしく待っているつもりは最初からなかった。
(良かったわ、今夜で)
これが何日か先になったら、あたしたちにも隙が出てくる。そのまえに悠汰を止められることは好都合だ。
(好都合……)
何気なく思ったことに、ドキリとなった。
いつからあたしはこんな考え方をするようになったのだろう。
今回の目的を達成するために、いままでのやり方を変更したり意気込みが必要だった。けれど根本的な、自分が信じているものだとか、そういうものまでは心を売るつもりなんてなかった。
あたしは侵食されていっているのだろうか、この家の風習に。
雑念を振り切れられないうちに、その場に着いた。正面の三階ホールのバルコニー。こんな時間だから誰もいなくて、ひっそりとしていた。
広い窓を開けずにそこから下を見る。
悠汰が警棒を握り締めて久保田さんになにか訴えている姿が見えた。
(痩せてる……)
悠汰はまた、あまりご飯を食べてないのかもしれない。すぐに身体に表れるからすごく心配になる。
でもそれはあたしのせいだ。負担になっているんだ。
このまま悠汰の前に飛び出したくなった。
でもまだ、終われない。ならばこの気持ちは封じなければならない。
「あっ……」
下で、久保田さんが殴りかかっている。悠汰は逃げ場を失ったようだった。
動悸が速くなった。嫌な予感がしてハラハラする。
あたしからは、よく見えた。
久保田さんが悠汰の左腕を狙って、警棒を振りかざしたんだ。だけど、悠汰がバランスを崩したのが見えた。なにが要因となったのかは不明だったが、がくんと下がったのだ。そのせいで警棒がちょうど悠汰の頭と同じ位置になった。
だけど勢いがついていて、久保田さんは止まれない。
そのとき久保田さんは、かわりに左腕を必要以上に上げて、自分のわき腹にわざと隙をつくったようにみえた。
きっとそれしか出来なかったんだと思う。
なのに、そのまま悠汰からはなにもせず、警棒が頭を直撃していた。そのまま横に吹っ飛んで倒れる。
その距離でかなりの衝撃だったことを物語っていた。
(馬鹿!)
あたしから全身の血が引いた。
久保田さんが慌てながら悠汰に近づいていったけれど、こちらからは会話は聞こえない。
あたしはすぐに千石さんのほうを振り向いた。
「お願いっ!助けて、悠汰を!病院に連れて行ってほしいの!いますぐに!」
思わず叫んだあたしに、千石さんは複雑そうな顔をした。
「しかし玲華様。いまあなたと離れるわけには……」
「他にお願いできる人がいないのよ!先回りして車を玄関に着けて!」
頭を打ったのだ。一刻も早く悠汰を病院に連れて行かないといけない。そう、敷地の外だ。
しかし救急車なんて派手なものを、呼べるはずがなかった。
あの様子では久保田さんも冷静さを失ってるみたいだし、揺らさないように気をつけて運転してもらうなら千石さんが適任だ。
「――わかりました。源蔵様の車の一台をお借りします。私が運転することもありましたので、鍵の場所はわかってます」
「お願い。センサーはあたしがなんとかするわ。用意できたらメールして」
「はい」
乱されることなく千石さんは一礼して出て行った。
あたしも移動する。走りながら携帯で久保田さんにメールした。
千石さんが病院に連れて行ってくれる。
あたしはその間にセキュリティを何とかするから、その隙に悠汰を外に連れ出して。
車を正面につけるわ。その後に悠汰が来ていた痕跡を消して。
いつものように文章を選んでいられない。簡素な命令文になってしまった。
しかしそんなことを気にしている場合ではない。
あたしが目指す場所。それは地下牢がある塔とは別の、東側の一階。そこに分電盤があることは調査済みだった。
そう、すべての電力を落とすのだ。セキュリティに注ぎ込まれている電力も含めて。
不幸中の幸いで、深夜すぎということもあり人と出会うことがなかった。
* * *
この敷地内のブレーカーが落ちたのはほんの数十秒のことだった。
それで充分だとあたしはちゃんと分かっていた。メールのやりとりで、そこにはそつなく行動した。
きっちり予備発電機の大元から、すべて断ち切ることをあたしは忘れなかった。
そしてあたしはまた走っていた。
どうしても感情が抑えられなくて、じっとなんてしてられない。
千石さんの変わりに前田さんを護衛として選んだ。
あたしが一人きりで部屋に帰ってきたのと、いきなりの指示に前田さんは躊躇っていた。
一緒に部屋を守っていた山元さんに後のことをお願いして、有無を言わさずあたしは前田さんを引き連れて走った。
西の建物の三階にあるコンピュータールームへ。
だけどその途中に比路はいた。
二階と三階の間の階段の踊り場にいた。
エレベーターを使っていたらすれ違って、会えなかっただろう。直感が働いたというより、エレベーターを使用することでエレベーター内のカメラに映るのを避けたかったのだ。
客間が多い三階には空室が目立っている。恐らく比絽は、その部屋に潜り込んでその窓からちゃんと見ていたんだろうと推測した。
あたしの姿を見て、比路は笑った。心の底からの微笑み。だけど裏があることはもうわかっている。
「やあ玲華。珍しくきみから動いているね」
「どこかの馬鹿が馬鹿なことをしなければ、あたしにそんなことする必要もなかったんだけれどね」
あたしは比路を見据える。
どうしても聞きたいことがあった。どうしても言わなければいけないことがあったから。
「馬鹿?それってぼくのこと?」
「当たり前でしょう。悠汰に変なこと吹き込むの、やめてよね」
「珍しいね。玲華がそんなにダイレクトに言うの」
本当に面白そうに比路は笑う。
昔からそうだった。
どこか腹の底を別に持っていて、それを隠すように笑うのだ。それは完璧に幼少から創られているものだから、悠汰が見抜けなくても無理はない。
「ここには言っても解らないような人が多いみたいなのよ。だから直接的に言うように心がけているの」
「ああ。それはそうだよね。遺産とかさ、あんなのに群がる大人たちを見ていたら嫌になるよね。どうしちゃったんだろうみんな、って」
「あなたは遺産目的ではないのね?では誰かに頼まれてこんなことしてるの?」
「もちろん違うよ。そしてぼくはぼく自身の都合で動いてる」
どこか謎を潜ませるように比路は薄く笑う。
常にその声は柔らかく、だからこそ異様だった。
彼は何を企んでいるんだろう。どういう想いからこんなことをしているんだろう。
「悠汰くんは失敗したんだね」
窓の外の方を見ながら比路は言った。
その先には久保田さんが悠汰といた場所がある。
「あなたの望むとおりにはさせないわ」
語調を強めにあたしは言う。
どんな裏があろうと、この人だけは見逃してはならない。彼は最もしてはいけないことをしているのだ。
「悠汰くんを惑わせたことを怒っているの?でもぼくは本当のことしか言ってないよ。それでどんな結果になろうと、それはきみが間違っていたってことさ。きみが間違っているんだ」
先導するように彼は告げる。
「責任転嫁も甚だしいわね」
「そう?最も明確についていると思うけど?」
「同じ事実でも、言い方によっていくらでも相手に感じ方を違ったように話せるわ。わざと誤解させるように大袈裟に言ったりね。あなたはどのように言ったのかしら」
「気になる?」
ニヤリ、と比路は笑った。
その笑みこそが、彼がしてきたことへの証拠のように感じた。
彼は一方的なものの見方しかできないのだ。こちらの事情を知らないのだからそれは仕方の無いことだけれど、そんな状態でどこまで誤解のないように悠汰に伝わるのか。それは不可能に近い。
だからこそ比路は悠汰に真実は語っていない。そう確信した。
「でもやめとく。きみがショック受けるといけないから」
「比路!」
「ねえ、なんで彼を選んだの?ぼくはずっと不思議だったんだ。あんまり聡明じゃないよね、彼。ぼくにも簡単に信用しちゃってさ」
あたしの怒りの一声を無視して比路は窓から離れた。そして近づいてくる。
前田さんがあたしの前に来ようとしたけど、それをあたしは止めた。
こんな男に怯んだりしない。
「あの困った部分を補うほどの特技が別にあるのかな?それとも……」
すっとあたしにだけに聞こえるように声を潜めた。
「夜が凄いとか?」
「――――!」
瞬間、あたしの怒りが全身を駆け巡った。
殴りたくなるのを必死で抑えて、その分を眼に宿した。眼だけで人が殺せるならば、いまのあたしはそんな眼をしていたと思う。
こんな侮辱に負けてやらない。精神を侵されてはいけない。
この男を殴るのはあたしじゃない、と思った。
「そんな顔しないでよ。冗談だよ」
腹が立つほど朗らかに声を出して笑った。
「ああ。そうだこれ、プレゼント」
そしてポケットからなにやら取り出し、あたしに差し出す。
あまりに自然の流れで、自然に受け取ってしまった。
するとそれは一枚の写真だった。
場所は見覚えがある。一度しか行ったことはないけれど西龍学園の屋上だ。
一人の男子生徒が寝転がり、その上から女生徒が顔を近づけていた。遠目だし、女生徒の頭で顔がどちらもわからないけれど、なぜだかあたしは直感的に思ってしまった。
悠汰と、京香だ、と―――。
女生徒の方は間違いないと思えた。髪型と、比路から手渡されたという事実に。
悠汰は……。
(あたしにはわかる)
この寝転がり方。足の投げ出し方。手の置き方。すべてをよく見ていたから、わかってしまった。
「誰だかわかるよね?面白いものもらっちゃったから是非きみにあげなくちゃと思ってね」
あたしを動揺させる為の手段。
ただそれだけのために。
許せないという態度を抑える努力を、あたしはあえてやらなかった。
確認したいことがあったからだ。
「誰が撮ってるのよ」
「それは内緒。もちろんぼくじゃないよ」
「じゃあ誰にもらったの?」
「それも言えないな。でも撮った人と同一人物だよ」
平然とした態度で比路は言い切った。
こういう言い方するのなら、確かに嘘ではないだろう。
だけどそれでは、悠汰に絡むのは京香と比路だけじゃないという証明になっただけだった。
「ねえ。これって浮気?」
また。あたしの動揺をさそうような言い方をする。
もう必要ない、と思った。
この人から得られる有益なものはなにもない。ならばこちらもなにも与えてやらない。
だから隙も見せない。
それには答えないで、あたしは別のことを突きつけるように言った。
「あたしから見れば、遺産に群がる大人たちもあなたも同じ存在よ」
比路の眉が一瞬だけしかめられた。
それを確かめるとあたしは踵を返す。突っ立ってるしかなかった前田さんに、行くわよと目で合図した。
やはり比路の中では、自分は違うと思っているようだ。
そこにアイデンティティをおき、優越感を持って上の方から見下している。全ての人を。
だけど本当にあたしにとっては同一のものだった。それを突きつけられることが彼には自尊心に障るだろう。
(構ってられないのよ)
そういう人が多すぎる。ここには。
皆のプライドを守ってやれる余裕もなければ、もはやする気もなかった。
* * *
まだ、なんとかなる。
心の奥底でそういう想いがあることは否定できない。
――あたしと悠汰のこと。
出来ることなら今すぐにでもここから飛び出して、悠汰のもとへ駆けつけたい。今なら修復可能でも、時間が経てば日を追ってその亀裂は大きくなっていく……。
(誤解を、与えているのかもしれないわね)
これでは世羅のことを言えない。
それでも駆けつけるどころか電話で話すということさえ、あたしはまだ出来ないでいる。
すべてをやめて、放棄して、この場から立ち去っても、きっとお祖父様は許してくれるだろう。
だけど、一時の感情に流されてそれで本当に後悔しないのか、今のあたしにはみえない。いや、後悔はすると思うんだ。
(きっと、する)
このまま続けても、投げ出しても後悔するのなら、せめて出来るところまで頑張りたいと思うから。
だから、電話はできない。悠汰の声を聞くと迷いが生まれるから。
迷うことが、とんでもないことになりそうで、怖い。
自分が二の足を踏んでいるせいで犠牲が出ることが、最も悔恨の情に駆られる。
比路から強制的にプレゼントされた写真は、とりあえず机の奥底に入れておいた。棄ててしまえばいい、とは思うけれど。
これは罰だ。
悠汰へヒドイことをしたからその報復だ。悠汰を責める資格なんかない。これはあたしが持っておかなければならない気がした。
「ああー、ウォッカを一気飲みしたい気分」
早朝、寝ずにあたしの部屋のソファで一夜を過ごした久保田さんが、やはりソファに寝転がったままぼやいていた。
落ち込みが半端ない。それはそうだろう。不本意な結果になったのだから。
この時間帯になると千石さんも帰ってきていた。それも不愉快にさせているようだ。
「いい加減落ち込むの止めてよね!お通夜みたいだわ!」
「実際にやるべきお通夜を先伸ばしにしていることがあるのに、ここでそんな気分でいるのはおかしいよなー。そうだよなー」
あたしの言葉の揚げ足をとりながら、なおもぼやく。
「つっても、オレのせいで悠汰が死ぬなんてことになったら……」
「勝手に殺さないでよ!千石さんが大丈夫そうだったって言ったでしょ」
「ってあいつに何がわかんだよ。あの鉄面皮によー。だって普通しばらく様子見るだろ?本当に送り届けて終わりだぜ。せめて意識戻るまで待とうとか、そういう心意気はないわけか?」
「玲華様のほうが危うい。そう判断しました。それぐらにはあの少年は問題ないかと」
千石さんも寝てないのに、その態度には変わりがない。
そうなのだ。
全然眠れなかったので、朝方まで千石さんの連絡を二人で待っていたのに、彼はひとつの電話もよこさず、嫌な予感だけが増長して限界を感じ出した頃にその身一つで帰ってきたのだ。
なので少しは久保田さんの気持ちもわかる。
でもそれは千石さんの性格なので、仕方ないとあたしは思うようになっていた。
大丈夫だという彼の言葉を、信じたいだけなのかもしれないけれど。
「おまえ医者かよっ。そうかよっ。じゃあ治してこいよっ」
「あんた、だんだん性格壊れてきてない……?」
寝転がったまま悪態をつく久保田さんに、あたしは情けなさを感じた。
ここまで落ち込むなんて、想像以上だ。
「治せるのであれば、初めから病院に連れて行きはしません」
「……おまえらってオレを慰めたり励ましたりって絶対しないよな」
重いため息を吐いている。
やはりかなり責任を感じているようだ。
(なに言ってんのよ。そんなことされても怒るくせに……)
素直に人の言葉を聞くタイプなら最初からやっている。だけど天邪鬼なところがあるから、あえてあたしは発破をかけるほうに持っていっているというのに。
「こいつは人の気持ちがわかってない。医者が大丈夫って言ったのをそのまま信じて帰ってきただけだろ。せめて意識戻ってから帰ってこいよっ」
「いつになるかわかりませんでしたので」
「おい!それで安心できるか!」
(うーん……)
確かにかなり久保田さんに同意しそうになった。
ガバっと起き上がり睨みつける久保田さんに、少し考え込みながら千石さんは言った。
「あの少年は、怪我よりもなにか、もっと別のところで痛手を負っているのではないでしょうか」
その言葉に再び久保田さんはソファに寝転がる。
それはあたしの心にも刺さった。
悠汰に怪我以上の傷を負わせたのは、まぎれもないあたしたちだ。
(心の傷を……)
そして、それを行なった久保田さんだって例外ではない。どちらがより重症かなんてあたしには把握できないけれど、そこには確かに存在する。
「なんせそれを目的として、このオレが出て行ったんだから」
「そうではなく……」
「これ以上ウジウジすんなら、この部屋から出て行ってくれて構わないのよ。今すぐに!」
この話を断ち切りたい。それにそろそろ久保田さんに立ち直ってほしくて、あたしは最後の一言を投げた。
そこまで怒鳴られると、ようやく久保田さんにも気持ちの切り替えが出来たようだ。
ひとつ深呼吸して身体を起こしていた。
「はやく犯人見つけなさいよ。重要人物でもいいから」
あたしたちがするべきことは、この家のなかのことだ。ああいう危険な人物はさっさと白日の下に晒さないといけない。
正直誰が犯人でも今さら驚かないけれど。
久保田さんはなにも言わずに、とりあえず昼頃から調査を再開し出した。
立ち直らせることに成功したあたしは、窓の外を見る。
久保田さんには大口を叩いたけれど、やっぱり油断すると、頭の中は昨夜のことでいっぱいだった。怪我が気がかりでならない。
比絽はおそらく、すでに大学に行っている。普通に我が家としての役割しか見出だしてなく、夜以外はいない。
客室に限定的に住んでいる親戚筋もそれは同じだった。用事があればここから出て、ここに帰っている。あたしだけが、ここに引き込もって外出していないのだ。
「玲華様」
見るに見かねた様子で千石さんが声をかけてきた。
あたしは窓から離れて振り返る。
「これは言うべきか、迷ったのですが……。彼は車内でうわ言のように呟いてました」
本気で逡巡しているような顔をしながら、でも千石さんは真面目なまま続けた。
「あなたに、ごめん、と――」
思わず、涙が出そうになった。
悠汰が何に対して謝りたいのか、罪悪感を感じているのかは解らない。
これほど遠くなってしまった現状と、あんな状態になってまで謝罪の言葉を口にしたという、彼の立ち位置が……切なかった。
謝らなければならないのは、あたし。あたしなのに、と思う。
だけど、あたしは……。
「千石さん。悠汰の怪我が大丈夫だと思った根拠はなに?」
気持ちを切り替えて、先ほど聞きそびれたことを改めて尋ねた。
「視診のみですが、瞳孔も問題ありませんでしたし、早めに痙攣が治まっておりましたので。嘔吐も無く脳内出血は今のところないと判断しました。外傷によるショック状態もないようでしたし……。無論頭部のことですので、今後注意深く見守ることが必要ですが、しかしそれも病院にいれば見落とされることもないでしょう。医療ミスでも無い限りは」
淡々と説明される内容に安心しそうになったけど、最後の一言は恐ろしかった。
冷静にそういう悪い予見を付け足すのは止めてもらいたい。
「まー……あの病院なら医療ミスは大丈夫じゃないかしら」
「信頼は大事だと思いますが、しかし……」
「分かってるわよ!どんな事故が起こるかわからないってことぐらいは!」
医者と言えども人間だ。完璧は持続しない。
それでも、あたしが千石さんに連れて行ってとお願いした病院は、悠汰のお父様が勤務している病院なのだ。メールでそう指示させてもらった。
お父様は内科医だから、担当になることはないだろうけど、それでもまだ心強いものがある。
悠汰にどういう言葉を紡ごうとも、我が子に対する想いはちゃんとあると思えるから。
「それと、外傷の他に気になることがあります」
千石さんは続けた。
変わらない口調だったけど、少し聞くのに勇気を要した。
「もしかしたらあの少年は、もともと体調を崩していたのかもしれません」
「どういうこと?」
「殴られる直前、何もないところでバランスを崩していたのが気になりました。そうしましたらやはり、触診でかなり高い発熱を確認しました」
「熱?」
「はい。恐らく風邪を引いていたのを無理して悪化したか、インフルエンザ時ほどの体温じゃないかと」
「あんのっ……バカっ!」
なにをやっているのよ!
さっきとは違う意味で悠汰のもとに駆けつけたい気分に駆られた。
思い切り馬鹿と本人に言ってやりたい。
自己管理くらいちゃんとしてもらわないと、こっちはおちおち戦ってもいられないじゃないの!
突然怒りを露にしたあたしに、ちょっと千石さんが怯んだように見えた。
それで落ち着く努力をする。
「それより詳しいのね。医療の心得でもあるの?」
「いえ、護衛に必要な知識のみです」
どこまでも謙虚に千石さんは頷いた。
この人も出来た人だ。お祖父様が近くに置いていた意味がよくわかる。
「そう……でもありがとう。安心したわ」
もう少し。
あと少しだから待っていて悠汰。必ず最後には笑える結果にするから。その為にあたしは今奮闘しているのだから。
だから悠汰も頑張ってほしい。
あたしは窓の外、病院のある方角に向かって祈りを捧げた。
* * *
夕方になっても夜ご飯の時間が過ぎても久保田さんは帰ってこなかった。
こんなことはここへ来て初めてだ。
いつもどれだけ自由に彷徨っていても、一度顔を出してから自分の部屋に帰っていたのに。
何をしているのだろうか。あの人は。
……なんかどこかでこのフレーズを思った気もするんだけど。
(進歩ないったら)
誰にも何も言わずに姿をくらます、ということは実は初めてじゃない。
あまりそういうことを当たり前のように繰り返すと、心配してもらえなくなるから止めた方がいいわよ、と言いたくなる。というか言えばよかった……。こんなことになるなら。
とりあえず、まだ、今の段階ではあたしは心配していた。
なんと言っても本家内での失踪だ。
「そのうち帰ってきますよ。玲華様」
夜ご飯の片付けをしながら麻衣ちゃんが気を遣ってくれた。
「そうよねえ。また飄々と帰ってきそうではあるわね」
あの人は強いから、大丈夫。
前に通り魔の犯人から守ってくれたときも、あたしは見ていたけどすごく強かったし、ジムにも通って鍛えてるって言ってたし……。だから大丈夫。
それでも感じるこの胸騒ぎはなに?
このままもし帰ってこなければ千石さんを聞き込みに……。いえ、それでは駄目だわ。同じようなことが遭ったら困る。久保田さんだけでなく千石さんまでいなくなったらあたしに未来はない。
久保田さんが戻らなければ、切り捨てるという選択も入れておくことが必要だとそれは判る。知識として解る。
(こんな考え方じゃダメ。勝てないわ)
後手にまわる。どうしても。
それはあたしの立場上仕方がない。久保田さんに動いてもらってようやくあたしはじっと守りに専念できるのだ。そこは認めなければならない。
ここの連中と同じことなんてしない。人を駒のように考えたりしない。あたしは染まらない。
「玲華様!」
そのとき、部屋の電話と千石さんの呼びかけが同時に聞こえた。
ビクリとした。
ここの電話は一度も使ってない。盗聴の疑いがあったし、携帯電話があったから必要なかったものだ。
良くない予感が、本格的なものになる。
あたしは唇を噛み締めながら電話の前に立った。
すぐには手が出せない。
「玲華様。私が……」
千石さんが気遣って手を伸ばそうとした。あたしはそれを制する。
「大丈夫」
覚悟を決めて電話に出た。けれどすぐには声を出さずに相手を窺う。
すると。
『もしもし、玲華ちゃん?』
「稔、叔父様?」
フィルターを通して聞こえた声は、間違いなく稔叔父様のものだった。意外な相手だと思った。
ここ数日ぱったり会わなくなった人。
『ああ、やっぱり。良かった、内線に出てくれて』
「どうなさいまして?」
震える指先をなんとか抑えた。
ここへきて急に不安は確信へと変わる。体内の温度が冷えていく感じがした。
『ちょっとね、いまからおれの部屋に来てもらおうと思って。もちろん一人でね』
「もう遅い時間ですわ。明日では、いけませんの?」
『きみに断る選択はないと思うよ』
「どういう、意味でしょう……」
ぎゅっと受話器を握り締める。
『きみの護衛はおれが預かっている。きみが断れば命の保障はない、と言わせてもらうよ』
「稔叔父様!」
あたしの叫びも空しく、ガチャリと通話が途切れた。
やはり予感は的中していたのだ。前回の時には感じなかった嫌な予感。胸騒ぎ。それらが。
(それで、あたしはどうするの?)
すでに胸中では決定されているのに、わざと疑問符を挟み込む。
それは自分自身に対する確認だった。
そう、決まっている。
あたしに出来ることがあるなら、それをするのみだった。




