第二章 ・・・ 3
怒涛のような日々。
まさにそんな表現がぴったりだと思う。一癖も二癖もある人たちで様々なやり方で説得しに来たけれど、共通してるところもあった。
それはまったくあたしという人間を見てないことだ。
単なる金のなる木。
ここまで分かりやすいと、嫌悪を通り越し、更には呆れまでもを通り越して、清々しくあるのだから不思議だ。いや、ホントに、まったく。
お祖父様が皆を呼び出し声明を発表してから、一週間ほどの時間が経っていた。
その日もこれまでと同じように署名を否定し続けた。
人の説得をここまで断るという行為をしたことは当然ない。それも長期間に渡って。
(思った以上にくるわー)
一番落ち着けるのが夜だった。皆には二十三時で面会を打ち切るということは言ってある。
わざわざ宣言しないと深夜でも来そうだったから。これでも遅くさせられたのだ。
人の出入りがなくなる時間帯。
しかしだからこそ警戒が最も必要な時間だ。
護衛の人に二人ずつ入れ替わりで扉の前に立ってもらっている。中には誰もいない。
怨念のような負の感情。それを毎日のように浴びた。
それは穢れになる。
そのために、禊をする。
シャワーを浴びてから塩水を飲むのが日課になった。
形だけのものだけど、しないよりマシ。その程度のものだ。
本当なら塩水に浸かって体を洗い浄めたいところだけど、そんな時間はないし、長時間バスルームにこもるのは躊躇われた。
夜も深まってくると、あたしは自宅から持ってきたパソコンで情報収集している。なんでもない外の情報から、この家に関わることまで。
(悠汰からメールが……)
パソコンを起動させると、はじめてこの日悠汰発信でメールが来ていた。いつもはあたしが送って、それの返事ばかりなのに。
充電中で近くに置いてある携帯電話を手に取る。
着信履歴が残ってる。
(電話が、苦手だったのにね)
悠汰がここまでするということは、やはり不安にさせているんだろう。
留守電。
あたしは聞きたい気持ちを抑えて、そのまま机の上に置いた。
聞いたところで、どうなる?
まだ言うべきにはいかない。そんな状態で連絡をとっても、辛くなるだけだ。
(ちゃんと戻るから)
届くはずのない祈りを、想いを何度も胸の中で唱えた。
そのとき、遠くから音が聞こえた。些細な小さな音。
それは多分隣の部屋、ダイニングからだ。
さっと気持ちを切り替える。
警戒する。
あたしは立ち上がり、常備していた上着を羽織り、ベッドルームの扉をゆっくりと開いた。
仄暗い部屋を凝視する。
誰も、いない。
だけど広すぎて死角が多かった。部屋の明かりを点ける。
応接スペースを通り抜け、隣のリビングエリアに向かった。
「何を探してる?」
突然、後ろから声をかけられた。いるはずのない第三者。低い男の声。
あたしは距離をとりながら振り向いた。
だけどすぐさま腕を掴まれる。
「こんばんわ、玲華ちゃん」
その男は毅叔父様の息子、幸祐だった。十八歳。大学生だ。昔よく遊んだ幼馴染みの一人だけど、歳が離れてるせいかすぐに遊ばなくなった。
長めの前髪を右に流し、横は僅かにはねさせている。
遊び人の風体は、毅叔父様より稔叔父様の息子と言った方がぴったり納まるから不思議だ。そんなことは万に一つの可能性もないけど。
「訪問時間は終わってましてよ、幸祐兄様」
幸祐はあの発表の日からあたしを色情を含めて見ていた類のうちの一人だ。
最もうんざりするタイプ。
「夜に会いたくなるんだよ、君とは」
「無粋ですわね」
下品な笑い方をする男だった。
あたしはそれにはっきりと拒絶の意を現す。これが最善の策だ。
そして掴まれたままの腕を振りほどいた。あっさりと幸祐はそれを許して、変わりに尋ねてきた。
「どうやって入ってきたか訊かないんだ?」
確かに気にはなってる。
このあまり才のない男が、たった一人で警戒の目を切り抜け入ってきたとは思えない。
しかしいまは、どうやってこの招かれざる客を追い出すかということのほうが先決だった。
「それはその内に。それよりどういったご用件でしょうか?」
嫌なほど分かっているのに、わざと訊いた。
いつでも逃げれる態勢を作る。微かに震える脚に力を入れた。
「決まっているじゃないか。どちらが野暮かな。強情なおまえを陥れるなら、こちらも力ずくでということだ」
「毅叔父様にでも命令されたのかしら?」
「父は関係ないさ。俺をいつまでも認めないから俺にだって出来るってところを見せたいだけだ」
「分かりやすいですわね」
本当に、解りやすい。虫唾が走るほど。
あたしは上着の隠しポケットから武器を取り出した。
久保田さんにお願いした物だった。
収納可能なプラスチック製の黒い警棒を、さっと伸ばして前に突きつける。
「ならば話は簡単です。こちらは拒否するまで」
「本気?」
幸祐が呆れを含めた嘲笑をした。
まだ侮っているのだ。それがこちらには好機となる。
というより、あたしの勝ち目となるのはそれしか無かった。
「ええ。武術の心得ぐらいありますわ」
「体は成熟してるのにまだまだ子供だな。ノリが悪くて周りにシラけられるだろう」
いやらしい笑い方に、卑猥な発想。
「ノリが良いのと、ただ馬鹿騒ぎして軽薄な人になるのとでは大違いですわよ」
「そういうところ変わらないな。でもそういう意地張るの、やめたほうがいい。男にモテないから」
「一人の人に好かれればそれで結構です」
「ふうん。それって亨?あんな奴どこがいいのさ」
戯言を口にしながらも、幸祐はじりじりと寄ってくる。あたしはそれに対して横に移動した。
後ろにはキッチンスペースで行き止まりだ。なるべく広い方へ逃げ道を作る。
「無駄だ」
言うや否や幸祐は飛び掛ってきた。猪突猛進。
単純で隙だらけな動作にあたしは瞬時にしゃがみ足を狙って警棒で叩きつけた。
これまでの怒りを込めた。八つ当たりも含めて、遠慮は一切していない。
「うぁっ!」
バランスを崩して彼は倒れた。スタンドライトに突っ込んで、派手な音が響く。
これで、誰かが来てくれたら。
僅かな期待が脳を霞めた。
いや、そんなものは計算に入れないほうがいい。もっととんでもない輩を呼び寄せては絶望的だ。
あたしはすぐには二打目を打たずに距離をさらにとった。
「この野郎。人が優しくしてりゃあいい気になりやがって」
仮面が剥がれて激昂している。
女にかわされたことが余程ショックだったようだ。怒りからか痛みすら感じてない。
「わたくしに手を出すということが、どれ程の無礼か身を持って知りなさい!」
一喝し射るような視線を向ける。
「お嬢様ぶりやがって!本当はみんな知ってんだ!おまえが実は下品でがさつな女だってことはさあ!どんだけ繕ったって隠し通せるもんでもないぜ!そんなおまえをこの俺様が抱いてやるってんだ。有り難く受け取れ!」
耳を穢された。
言葉の陵辱だけですでに充分だった。これ以上は受け付けない。
その意思で警棒を握る手に力を込める。余計な言葉を挟まずに気迫を込めた。怒りの気を放つ。
それに相手が怯んだようだった。
一瞬怯んで、それこそがプライドを傷つけられたのだというように、睨みつけてきた。
「なあ、本気で逃げられると思ってんの?」
絶対的な種族の差。それを味方につけ、さらに男は武器を持つ。
どこに潜めていたのか、その手にはドイツ製の自動式拳銃が握られていた。
どこまでも卑劣な。
「それは毅叔父様の庇護かしら?」
この男が一人でこんなもの手に入れるほどの度量があるとは思えない。
「どうでもいいんだよ。本当はめんどくさいことは嫌いでね。最初からこうすれば良かったな」
「武器がないと、女の一人も捕まえられないのね」
あたしの挑発に幸祐は舌打ちをして、大股で近づいてきた。逃げ道は閉ざされている。拳銃という名のものによって。
すぐに距離が縮まる。
その武器をあたしの頭に押し付けた。
「いいから黙ってろよ。大人しくしてりゃ楽しめるんだ」
そしてあたしの手から警棒を取り上げて投げ捨てた。
絶体絶命、なんて思わない。
まだチャンスはあるはずだ。この男が油断するとき。決して心まで屈することなくあたしは男の目を見据える。
銃を持ってない左手で、あたしの顎を掴んだ。
「いいねえ、ぞくぞくする」
男の顔が近づいたとき、あたしはその奥を見ていた。
視界にはその部屋の空間だけが映っていたけど、耳には届いていた。確かにバサッという乾いた音がしたのだ。
刹那。
「はい、そこまで」
いままであたしが持っていた警棒を拾うと、そう言いながら久保田さんは幸祐の頚椎を後ろから叩いたのだった。
時間にして一瞬。幸祐に振り返る暇も与えなかった。
しばらくあたしは呆気に取られていた。
なんで?どこから?
出入り口の扉は閉まったままだ。
幸祐は一発で伸びていた。
久保田さんはすかさずその男を捕獲した。どこから持ってきたのか縄でグルグル巻きに縛り上げる。
「どこから入ってきたの?」
「天井裏」
仕方なくあたしから声をかけたら、久保田さんは素っ気なく答えた。
「天井裏あ?そんなモンあったの?」
「あったみたいだな。他にもいろいろ隠し通路があるみたいだぜ、この家」
一人で好きにしていいって言って、ほったらかしにしていたら物凄いものを見つけたようだ。
あたしは安心をしようとして、思いとどまった。
その前に確かめないといけないことがある。
「で?久保田さんはどうやって狙ったように来れたの?」
「…………」
久保田さんが寝泊りしている部屋は別の塔にあった。使用人と同じクラスのところだ。
さっきの音に反応してっていうことはまず考えられない。
「もしかして、天井裏からあたしのことずっと見張ってたの?」
「あのな、誤解のないように言っとくけど……」
「じゃあ盗聴器?」
「おまえらカップルは同じようなところにたどり着くな……」
どこか呆れたように久保田さんは呟く。
そういうやり取りが悠汰との間であったことをあたしは知らない。だからあっそう、とだけ返しておいた。
「こいつがお嬢を見る目が異常だったんでな。ちょっと気になってたんだよ」
人を見る目は確からしい。
「まさか、他にも盗み見みたいなことしてないでしょうね」
「するか!天井裏に来たのは今回が初めてだし、言っとくけどおまえのことも興味はないからな!」
「まあいいわ。今回はそれで信用するとして……。なんかしたら祥子さんに言いつけるから」
あたしが最大級の防衛策を打ち出したら、久保田さんはがっくりと肩を落としていた。
この反応を見ているうちは大丈夫だろうと思える。
念のため、ってものはどんなときでも必要なのよね。
ちょっと観察していたら、久保田さんはひとつ大きな息を吐き出すことで気持ちを切り替えていた。
「そんで本当にこんなもん見つけた」
そう言いながら久保田さんはポケットをまさぐって、黒いものを取り出す。
そしてあたしの手のひらにそれを乗せた。
「これってまさか……」
「そう盗聴器」
条件反射であたしは部屋の一帯を見渡す。それを読み取って、久保田さんが付け足した。
「もうここにはない。すべて取り除いておいた」
「え?」
「オレが一度戻ったのは発見器を持ってくる為だったんだ。ひとつキッチンで見つけてな、他にもあるかもしれないと思って。そしたら出るわ出るわ。いろんなタイプの周波数が選り取り見取り!」
軽い口調で恐ろしいことを口にする男だ。まったく。
あたしは頭が痛くなった。
「でも反応してるのにどうしても見つけられないものがあってな。それで探し回っていたら天井裏を見つけた、という流れだ」
「いったいいつそんなん探してたのよ」
「お嬢が夕食に行っている間だ。誰にも見つからずにやりたかったからな」
飄々と悪びれもなく!
あたしはなんだか悠汰の苦労が身にしみてわかるような気分になった。
『あいつは尊敬できるけどいい加減なところがあるんだよな。人の裏をかいてもまったく悪いことをしたって思ってないんだ。それどころか楽しんでるから質が悪い!』
そうぼやいていたことがあった。それがこれか。
まあ、期待以上の仕事をしてくれるし文句は言えないが。
「報告しなさいよね!今後からは」
「だからまだひとつ残ってたんだって」
「それでも筆談とかあるじゃないのよ!」
「めん……」
途中で久保田さんが言葉を途切らせた。
あきらかに、めんどくせーって言おうとしてたわね、この男はっ。
「でも大丈夫だから。もう無い。保障する」
なに胸を張ってんのよっ。もう。
仕方なくあたしは話を切り替えた。
「じゃあ、もしかしてコイツも天井裏から?」
幸祐を見下ろしながら呟いたら、久保田さんの雰囲気が切り変わった。
その目が、深刻だった。
「いや、こいつは扉からだ。普通にな」
「――――」
「これがどういう意味か、お嬢になら解るよな」
嫌なほど、解った。
扉には少なくても二人の護衛を置いていたのだ。手引きがないと入れない。とくにこの男ぐらいの手腕であれば。
「いまの時間警備してたのは誰?」
鋭くあたしは聞いた。
「連れてくる」
久保田さんはそういうと扉から出て、その男を中に放り投げた。
すでに気を失っていて、縛り上げられている。久保田さんがやったようだ。
その顔は加藤さんだった。一人だけだ。
「うまいこと言ってもう一人の山元は離れさせていた。こいつとあの男がこの扉の前で目配せしたのを見たんだ」
淡々とでも厳しい調子のまま久保田さんが言う。
「幸祐が入って行ったところでまずコイツを倒して、それから天井裏で見張ってた。悪かったな、遅くなって」
「…………」
久保田さんが加藤さんを倒しているところを見て、すでに気づいていた。
この人が一部始終を見ていたこと。
はあ、と大きなため息をついてあたしは言ってやった。
「いいわよ。充分よ、ありがとう。拳銃持ってたのもどうせ知ってたんでしょう?だから泳がせたってところかしら?」
「相変わらず鋭いな」
顔をしかめて久保田さんは呟いてから、下に転がっている二人を見た。
「なあ。どうする?こいつら」
指示を仰いでくる。決めるのはあたしの役割だった。
「そうね。全ての人にこのことを発表するわ。それでこの二人は地下に閉じ込めておいて」
「地下、ね」
全てを知っているふうで久保田さんが呟く。
この家の地下には牢屋がある。といっても暗くジメジメした昔ながらのものではない。普通の部屋に柵があるだけだ。
一族が罪を犯した場合に入らされる。国家に任せず、この家なりのしきたりのうえで罰する場合に。
「期限が過ぎるまでよ。後のことはそのとき考えるわ」
それはそのときの状況によって変わるだろう。
ずっと入るのか、無罪放免かは。とりあえずあたしには裁く権利はもっていない。
「はいはい」
ちょっと面倒くさそうに久保田さんがそう言って、二人の身柄を持っていってくれた。一気に二人の男を抱えられるとは、見た目にそぐわず本当に出来る男だと思う。
千石さんにはまだその凄さが分かっていないだけだ。
本当に出来る人は、その能力を普段は隠している人ではないだろうか。
久保田さんの背中を見送りながら、やっとあたしは本心から落ち着いた。
思い出したように、全身が震えたのはその直後だ。
* * *
それからさらに三日が経った。
いよいよ折り返し地点。あと十日で期限の二十日が終わる。
幸祐の仕出かしたことを知って、内部は揺れた。
毅叔父様は激怒し、一刀両断に切り捨て、あんな奴は息子じゃないとまで言い切った。それで逃げられるんだから、対した痛手を負わせられなかったということになる。
まとめて戦意喪失になればいいな、とは思ったけど、そう甘くはないようだ。
そしてあたしは。
そろそろ――いや、とっくに飽きてきていた。この流れに。
「玲華!おまえこれに署名しなければ一生後悔することになるぞ!それでもいいのか!」
「あなたに署名したら、一生後悔しそうですわね」
「どういう意味だ!」
「他の方を抑えあなたを選んだ。そう思われてはわたくしの一生が汚点に染まりますわ」
「貴様ー!!」
目の前の訪問客が、フルフルと怒りに震えて立ち上がったときだった。
護衛の山元さんと千石さんが、両脇から百キロ近くある巨漢な彼を――清志郎様を抑えにかかった。
この人はなかなか負けん気の強い、そして不機嫌に陥りやすいタイプだと、とうに分析している。だからこの人が来るときには護衛の人をひとり中に入れていた。
幸志郎伯父様はこの十日で一番あたしに会いに来ていた人だ。
五十三歳。一番最初に生まれた、お祖父様の子。
彼には上に二十五歳の幸菜と二十三歳の哲郎、十九歳の瑞穂という三人の子供がいる。初めの方は妻の早苗と共にここへ来ていたが、今では一人で対面してくるようになっていた。
彼のお母様とお祖父様が結婚していたら、嫡出の長男になっていたはずの人だ。だからこそ引けないのだろう。
無駄に豪華なロココ調の安楽椅子のアームレストに肘を置き、頬杖をついたまま彼の憎悪を身に浴びる。
「碌な死に方は出来ないと思え!!」
怨念と言っていい。
それぐらいのものを感じた。
あたしは感情を出すことなく、平常心を装いながらも立ち上がった。
「節度ある議論が出来ないのでしたら、もう用はないですね。わたくしも他に会わねばならない人が支えておりますので、どうぞお帰りください」
「なんだと!貴様におれの気持ちが解るものかっ!認められた血統に産まれながらあっさりと捨てることの出来る無神経な野郎の娘になっ!」
「ええ。わたくしたちは貴方のお気持ちは一生解らないでしょうね。しかしそれは貴方も同じこと。父の気持ちも貴方には生涯理解できないわ」
わざわざ、肯定することもなかった。
だけど言わずにはおれなかった。
いくら相手が傷ついているとはいえ、父のことまで蔑むようなことを言われたら止められなかった。ただの意趣返し。
そのまま二人の護衛の手によって、幸志郎伯父様はこの場から連れ出された。
「大丈夫ですか?玲華様」
千石さんが戻ってきて、そう声をかけてきた。
この人と交わす言葉が少しずつ増えている。
「大丈夫。次の人呼んで」
はい、と一礼し千石さんは出て行く。
あたしは椅子に座りなおし、テーブルの上に手をつけられずにいたぬるい紅茶を喉に流し込んだ。
しばしの静寂に、双子の一人が紅茶のおかわりを持ってきてくれる。
この光景ももう慣れたものだった。
「ありがとう。麻衣ちゃん」
すぐには手をつけず礼だけ言う。
麻衣ちゃんはふと顔を上げた。
「いいえ、亜衣です」
感情の色を含まない目。
「そう、悪かったわ」
さらりとそれだけを返した。
これもよくある展開だった。ぎりりと唇を噛む。
(冷静にならないと)
いくら装うことが出来ても、内側がドロドロでは意味がない。見落としてしまうものがある。
「お待たせいたしました」
千石さんが律儀にお辞儀をして帰ってきた。
そして連れてきた相手を見る。
あたしは誰がどの順番で来るか、知らずにいた。最初のうちは聞いていたけど、ここまできたら慣れもあってか、それを怠るようになっていた。
それが、失敗だった。
次に来た相手。
それは、こうなってから初めての相手だった。
「久しぶりね、玲華」
「京香」
その名を呼ぶとともに、あきらかに感情を表してしまっていた。戸惑いを。
京香は認知された子供の一人、和志伯父様と政代様の子供だ。同じ学園にいる、二つ年上の義理の従姉。
「どうして貴女が?」
「いいじゃない。たまには話がしたくなったのよ。こうでもしないと、今のあんたには会えないものねえ」
どこか嫌味を含みながら、京香はあたしの前に座った。今までの対面相手がするように。
この人に良い印象を持ったことはない。
天敵、という言葉が相応しかった。
「知らなかったわ。京香も狙っていたのね、財産を」
「冗談でしょ?そんなものに興味はないよ」
だけどあっさりと京香は否定する。
(それもそうか)
幼馴染みと遊ぶ仲間の中に京香も含まれていた。幼い頃から知っている。目の前の人物の想いぐらい。
それは逆に言うと、京香もあたしのことはよく知られていた。
やりにくい相手だ。
「あんた、まだ比絽に良いように使われてんの」
「ここへはわたしの判断で来たの!ヒロは関係ない!」
比絽の名前を出しただけで、彼女は揺らいだ。
じゃあ図星じゃない。
しかし、ということは比絽も狙っているということだ。あの油断ならない相手に。
京香は警戒に値しない、とあたしが判断したときだった。彼女はその眼光を鋭くさせた。
「神崎悠汰、に逢ったわ」
「……会ったって、あんた同じ学校じゃない」
悠汰の名前を出されるのは嫌だったけど、態度に出すわけにはいかない。
あたしは軽く睨む程度にとどめた。
わざと強調するようにフルネームで言ってきたのだ。なにかある、と即効で判断した。
「喋ったって言ってんのよ」
「……わかってるわよ、ちょっと突っ込んだだけよ」
「憎ったらしさは変わんないね!」
「お互い様」
動悸がばれないようにまた頬杖をつく。
「彼、なかなか面白い人だね。わたし好きになっちゃうかも」
「比絽を捨てて?」
「そう。わたし彼とつき合うかも」
「…………」
そういうことか、とあたしは見極める。
この手の脅迫めいた話が出るのも時間の問題だろうとは思っていたのだ。
なるべくなら、避けたかったけれど。
「彼もね、もうあんたなんか知らないって。愛想が尽きたんだって」
「見え見えの展開ね」
「嘘じゃないよ。いま学園ではあんたと亨くんの婚約の噂で持ちきりだからね」
「あんたがばらしたの?」
聞かなくても明白だった。
お祖父様が口外してはならないと言ったのは遺言のことだけだ。あたし発信の行動まで制限されていない。
ならば、京香があたしをこの機会を利用して陥れたいと思うなら、これは滑降の狙い目だったということだ。
失敗だった。
手を打っていなかったことは、あきらかにあたしの落ち度だ。
「さーね。でもそんな噂ぐらいで傾くようじゃ、最初から対したことない付き合いだったのよ」
「あんたには悠汰は無理よ」
「どこが?どこがそう思わせるの?」
ボロを出した――。
やはり、京香はそこまで深い話を悠汰としていない。あたしはそう直感で思った。
悠汰を信じることが出来る。それがあたしの強みになった。決して嬉しそうな顔などしないけれど。
「ダメねえ。分からないの?悠汰の良さ」
「わかるよ!彼は先入観で見ない人だよね!」
家柄のことを言っているのか、と気づいた。
西龍院という組織は巨大で、名前を出しただけで皆は怖気づく。少し遠巻きに扱われるのは昔からよくあったことだ。
ひどいときには仲が良くなった子と引き裂かれたことがあった。まだ幼稚舎の頃だ。その子の親が怖がったのだ。万が一にでも自分の子が、あたしになにかしてしまうことがあれば、この家の人間がどんな報復をするかわからないと。
そんなことはないのに、名前だけで懸念したのだ。
(変わらないわね)
そんなに経ってないのに、少し懐かしさを感じる。
悠汰は知らなかっただけだとしても、その分け隔てない態度に何度安心したか数え切れない。
知ったとしても変わらないでいてくれることを、ただ願っている。
お父様のところじゃない、この家のこと。
出来れば、ずっと知らせずにいたかったのだけれど。それはもう無理なのだと思い知った。すでに関わらせているのだと。
「それからわたしとあんたを、ちゃんと別で扱う人よね」
京香が憎しみの色をこめた。
ここ数日で見すぎている感情の色。嫉妬心。
「だからこそ、あんたじゃ無理なのよ、京香。悠汰はあんたには靡かない」
「相変わらず対した自信ね。すっごい楽しみにしてるから。いつまでそんな、悠然と構えていられるのか!」
そう捨て台詞を吐いて、彼女は部屋から出て行った。
ここへきて、まとまった疲労感があたしを襲う。どさりと背もたれに全身を預けた。
(悠汰)
ずっと昼間には思い出さないようにしていた名前。
それは逢いに行きたくなるから。切なくなる。弱くなる……。
どう思っているのだろうか、悠汰は。
噂を聞いて、動揺しているのではないだろうか。
あの留守電の内容は、やはりそういうことなんだろう。
京香の言葉はあたしの胸中を騒がせた。
態度に出さないことには成功したけれど、あたしを不安にさせることが彼女の狙いなら、まさにそれは的確に叶ったことだった。
ずっと蓋にしてきていたものが溢れ出す。
「ちょっと休憩を挟むわ」
そう千石さんに言い捨てて、あたしは奥の部屋に入った。
最もプライベートな空間。ベッドルーム。
ここには一度も、誰をも入れていない。
そこであたしは気持ちを切り替える。
だけど、いつものようにはいかなくて……。いつもより、時間が必要だった。
* * *
そろそろ、やり方を変えなくてはいけない。いつまでもこんな不毛な対面方式をとって受け身でいても始まらない。
そう思っていた矢先だった。
朝の五時。あたしは叩き起こされた。
というか、叩かれたのは寝室の扉だったけど。
「お嬢!起きろ!」
そして叩いていたのは久保田さんだった。この人も深夜から早朝までよく動いてるな、と思う。いったいいつ寝ているのだろうか。
その切羽詰った声に尋常ではない何かを感じて、あたしは急いで身支度をした。
そして顔を見てさらに嫌な予感が増す。
久保田さんは声に違わず険しい表情をしていた。
「どうしたのよ?」
「いいか。落ち着いて聞け。どうやら源蔵氏が死んだ」
「え?」
あたしは目を見開く。
(そんな――――)
そんなことあってはならない。
まだ早い。残された時間はまだあったはずだ。
「病気が急変したらしい。千石に連絡がいって分かった。あいつはもうあちらに向かってる」
どこか遠くから久保田さんの声が聞こえていた。
だけど考えを一気にまとめ、彼を見上げた。
「あたしも行くわ」
そのまま二人で部屋を飛び出した。お祖父様のところへ。