第一章 ・・・ 1
灼熱の夏が終わりを告げていた。――――あくまで、暦の上では。
まだ暑さは尾を引き、とうてい秋とは体感できない気温が続いている。そんな九月中旬。このくらいになると、俺はここまで昨年も暑かっただろうか、と思ってしまう。しかしおそらく、これも例年通りの思考なんだろう。
それでも夜はまだいい。熱帯夜でないことはさすがに体感できる。
俺は寝る気なんてまだなくて、仕方なしに数学の教科書を広げていた。宿題というやつだ。進み具合は中の下といったところだが、速度をあげる気はさらさらない。
だいたい傍らでパソコンの電源が入っている状態で、すでにやる気がないことは表れている。
(これしか通信手段がないって問題だよな……)
俺は携帯を持っていないから、誰かから連絡があるとしたらこのパソコンのみだ。家の電話は元より誰にも番号を教えてないし、知っている者には「かけてくんな」と言ってある。
元々そこまでマメなほうではない。メールも電話も面倒くさいと思うところがある。
そんな俺がここ最近、部屋にいるときは常にパソコンをつけるようにしているなんて、数ヶ月前では誰が考えられただろうか。
それもこれも、やり取りの大部分を占めている彼女のためだったりする。
気にしてるだけでも変化だと俺自身は思うのだが、こちらから発信しないところに彼女は文句を言う。
ほぼ毎日会っていて、いまさらなにを書けというのだろう。
(あ、きた……)
メールが着信されると鳴るように設定してある音が報せてきた。
受信時間二十二時五十分。
予測どおり、西龍院玲華から。玲華の携帯電話のメールアドレスだった。
俺と同じく私立西龍学園高等学校一学年で、学級委員長をしている。父親は同学園の理事長という生まれも育ちも生粋のお嬢様。
俺の彼女に昇格したのは七月末だ。そんなに経ってないと思うべきか、もうそんなにという感覚か微妙なところに陥る。それはこの二ヶ月が密度が高く、あっという間に過ぎたからに他ならない。
昇格なんていうと俺からの目線なのだが、実際には彼女の方が何倍も引っ張っていく存在だ。男の俺としては情けないと思うけれど、勝てるところが少ないと認めてしまっているので、いまは格を上げることを水面下では頑張っている。
メールの内容はたった一文だった。
――今から出てこれる?
俺は眉をひそめてから、普段締め切っているカーテンを開けてみた。
そこにはいつもの高級車があった。
初めてのことだった。こんな夜に来たのは。
突然の展開で、理由を探してみたがはっきりと思い当たるところがない。曖昧に、だったら掠めたことがあった。
ほぼ毎日会ってる、というのは嘘ではない。学校に行けば会えるからだ。
しかし実は九月に入ってから玲華は休みがちだった。いや、休むというより遅刻や早退が増えたのだ。なんたることか授業にまるまる出なくても、部活時間にはやってきていたりする。その逆もあった。
だから平日は毎日会っている、で間違いではない。ないのだが、話す時間はあきらかに激減していた。
その変化は厳密に言うと夏休みの後半からだった。
半ばぐらいまではほとんど毎日一緒にいたのだ。この家にも来ていた。
ちょうどその頃、俺の家――神崎家には不在がちだった家族が全員揃うようになっていた。変化が有ったような、無いような何とも言えない状態が、ゆっくりと、だが確実に時を刻んでいく。
一時期はそのためだろうと思っていた。我が家の事情を知っているから気を遣っているのかなって。
数少ない会話の時間で、そうじゃないらしいことは本人が訂正していたけれど。
実際には毎日会えているわけだから、そんなに気にする必要はないと深くは訊いていない。尋ねたところで答えてくれない空気を読み取ったのだ。
そういうとき、玲華は頑として言わないだろう。そういう性格だってのも知ってるから、突っ込めないのだが。
(もしかしてそのことで?)
ようやく言うつもりになったのかもしれない。
皆は自室にこもっていたため、誰にも咎められずに家から出ることが出来た。
そっと足音を消すように出てしまう自分が悲しい。別に疚しいことなんてないんだから、もっと堂々としていればいいのだ。
バレて困ることといえば、近所の目を気にする母親が怒り出すことぐらいだろう。
(それが一番困るんだって)
母親はヒステリックな性質を持ち合わせていて、一度キレると厄介なのだ。
玄関を出ると、室内では分からなかったが風が強かった。
確実に夏は終わりに向かっている。
俺が出てくるのを察したようで、すでに玲華は車から降りて傍らに佇んでいた。片手でなびく長い髪を押さえ、口元にはいつものように笑みが浮かべられている。
俺の好きな、優しくて強い笑み。
「どうしたんだよ、いきなり」
「あんた他に言いようないの?悠汰」
照れ隠しもあってか、ぶっきら棒な言い方になった俺に玲華は苦笑する。
それに笑みで返しながら、足早に彼女に近づいた。
お抱え運転手の眞鍋さんは、玲華に言われているのか出てこない。いつものように我関せずという姿勢を完璧にこなしている。
「だって珍しいから」
「まあね、ずっと来られなかったからね」
「おまえ……来なかったんじゃなくて来られなかったのか?」
「ちょっと家のことでイロイロあったのよ」
「家って、理事長?」
俺としては玲華以外の西龍院家の人と言われれば、まず玲華の父親が出てくる。
だから事情を話さなかったのだろうか?あまり家の話をしても、俺には分からないとでも思ったのかもしれない。
「そうじゃないわ。あまり詳しいことは言えないの」
「ふうん」
突っ込んで聞けない何かが、そこにはあった。学校でも感じた空気。
嘘が嫌い、と彼女に話したことがある。その為かもしれない。玲華は嘘をつかない変わりに、言えないとはっきり意思表示した。
それならば俺は聞けるはずがない。
風を受けながら、玲華は黙っている。だから俺から促した。
「で?どうしたんだよ、何か急用?」
「うん……」
髪をかき上げ耳にかけると、玲華は頷いた。
いつもはさらりと言い切るのに、どこか言いにくそうな言葉運びだと思った。いきなりここへ来た本題を、なかなかあかさないから。
「うん、そうなの。悠汰、あたし暫く学校を本格的に休むことになったわ。ここにも来れない」
「え?」
それは予想していない内容だった。
すぐにはどう返していいかわからない。
「でも大丈夫よ。必ず戻ってくるわ」
「戻る?」
その言葉に違和感を覚えた。
どこかへ行くということだろうか。
何処へ?
「だから待っていて。悠汰」
「どれくらい?」
「そうねえ……一ヶ月くらいかしら」
「なんだ」
思ったより短くて拍子抜けした。
「なんだとはなによ」
「おまえ大袈裟だよ。わざわざ言いにくるから、半年とか一年とか言われるかと思っただろ」
「――ああ、そうね」
頷きながら玲華は俺の手をとった。僅かに玲華の体温の方が温かい。
彼女はその手元を見つめている。
「そうよね」
「どうした?なにが……なにか俺に……」
手伝えることはあるか、と聞きそうになった。玲華から決意をしている意志が感じられたのだ。
何かをやろうとしている?
なにを?
「ううん。これはあたしの……あたしがやるべきことなの」
そう言って彼女は微笑むと手を離そうとした。持ち上げられた手を降ろせずに、俺から力を加えて握り締める。
聞きたいことが山ほどあった。いくら答えてくれないと肌で感じていても、たった一ヶ月のことでも、このまま帰らせたくない想いが湧き上がる。
出来ることなら束縛したい。どこにも行かせたくない。
しかし先手を打たれてしまった。見栄もあって、自分だけ余裕が無いようには思われたくない。
玲華は俺の次の言葉を待っているようだった。
それでも、葛藤がすさまじくて何も発せない。
見つめあったまま、沈黙が流れる。
彼女の頬にかかった髪を、自由な右手でかき分けて首の後ろで止めた。
「ダメよ、悠汰。こんなところで」
上目遣いで玲華が釘を刺す。
「誰も見てない」
しばらく会えない、という事実だけははっきりしている。
そのことが俺を大胆にさせた。
何かを言いかけた玲華より一瞬早く、その唇を重ねる。
玲華は避ける素振りは全くせず、応えてくれた。だけど顔を離すと睨みつけてきた。
「あんた、だんだん臆面がなくなってくるわね」
お嬢様らしからぬ態度と口調。それも俺にとっては当たり前になっている。
「普通だろ!べつに!」
語調を荒げてしまって少し後悔する。当の玲華は、そのようなことにも動じず、悠然と笑った。
「そうね」
いつもより少し、儚い色が窺えてしまったけど、そのことも触れたりは出来なかった。
* * *
玲華が学校に来なくなって一週間が経った。
担任の杉村先生は、家の事情でしばらく休むことだけを生徒たちに告げると、後はいつも通りに進行していった。良家の子女が多い学校で、ざわついたり批判を上げるものは誰もいない。
いつも通り…………。
確かにいつも通りなんだけど、あきらかに俺には物足りないなにかを感じている。
これまでよりも強く。
いつの間にか玲華が隣にいて当たり前になっていたことに、自分自身が驚いていた。
居場所にまた迷うんだ。
理事長が玲華のために与えた部屋――名目は一応部室――に、一応顔を出してみるものの滞在時間は遥かに短かった。
あそこに居ると、より実感する。
玲華がいないこと。
ぽつんと在るだけの玲華の机だとか。
玲華がなんとか理事長から手に入れた冷蔵庫の中に、彼女が飲むためのオレンジジュースが全く減らずに残ったままな状態であるとか……そういう些細なことが、すごくくる。
(戻っただけなのに……)
入学した頃は一人でいた。
その状態に戻ったと思えば良いだけなのに。
どうして、あの頃より寂しさを感じてしまうんだろう。
(情けねえよな)
女がいないだけで、こんなに左右されるのはみっともない、とは思うんだ。
だからなんとか、表面上は何でもなさそうに振る舞ってはいる。
その日はいつも通りに高田秀和からコーヒーをいれてもらったり、あまり会話はないけれど、確実に以前より和やかな空気でいる浅霧世羅の様子を窺ってみたりしていた。
秀和は西龍院家の庭師の息子で、世羅は玲華の幼馴染みだ。そういう繋がりの三人の空間に、俺が入り込んだのはまだ玲華が彼女になる前からだった。
ここを居場所にしていいからね、と笑いながら言ってくれたけど、玲華がいないとどうも落ち着かない。
早々に俺は部室を出た。
すると目の前に、廊下の窓越しにもたれるように立っている人がいた。
というより待ち構えていたようだ。
「よお」
見たことある顔だ。
明るすぎない茶色い髪。いつも人を小馬鹿にしている目。この金持ちの多い学校にしてはガラの悪い生徒だ。
(名前、なんだっけ)
名前を覚えるのが激しく苦手な俺は、されたことは嫌なほど思いだせるのに、その名だけは出てこなかった。
憶えたい相手でもない。
なにせ俺をとことんバカにしてくれたのだ。
俺は無視することに決めた。絡むとロクなことがないのは分かっている。
「待てよ、生意気なくそガキ」
通り過ぎる瞬間、腕を掴まれた。
やっぱりやり過ごすのは無理だったか。
「どちら様でしたっけ」
本当に思い出せなくて聞いてしまった。
「おまえ、いい性格してるよな」
「いや、本当に分からないんですけど……」
「美山だよ、美山真人」
ああ思い出した。下の名前は初めて聞いた気もするが。
俺を生意気だと言って暴力を振るってきた二年生だ。あれ以来初めて話した。
「で?どうしたんですか?美山先輩」
「おまえ本当にいい性格してるな」
なぜか不機嫌そうに美山先輩は睨みつけてくる。
やばい、と思った。
あまり関わり合いになりたくない。なんとか逃げないと、と思って慎重に言葉を捜す。
「いいからちょっと来い」
だけどその前に、美山先輩は俺の腕を引いて強引に歩き出した。
このまま適当にあしらって、今後目をつけられても厄介だ。仕方なく俺は大人しくついていくことに決めた。
広すぎる校内で、しかも今は放課後だ。人気のないところはたくさんある。
その中のひとつでもある、移動教室が立ち並ぶ廊下を歩きながら美山先輩は言った。
「おまえ目つき変わったな」
「…………」
どういう意味で言われているのかが分からない。
だから無言で通した。
「ここでいいや」
運動に力を入れていて、文化部が異様に少ないこの学園は、このとき家庭科室には誰も居なかった。
俺を先に中に入れると、美山先輩は後ろ手でドアを閉める。
「また、この間の続きでもしようって言うんですか?」
それだけは避けなければならない。こんなところで昔の自分を出すわけにはいかなかった。
「はあ?なに勘違いしてんだてめえ」
だけど美山先輩は心の底から、意外そうな顔をした。
それに違和感を覚える。
また殴ってくるのかと思ったのに。
「だったらなんで……」
「なあおまえ、あの噂知ってるか?」
いきなり話を持ち出された。遅ればせながら反問する。
「……噂?」
「知らねえんだろうな、誰もおまえには言わないだろうし。ったくお上品過ぎるぜ、この学校。信じらんねえ」
「は?」
ぶつぶつ呟く美山先輩に訝しく思う。
この話運びはなんだろう。
だけどなぜか凄く嫌な予感がした。わざわざこの目の前の男が、自分に良い話を持ってくるとは思えない。
「みんな知ってることだ。西龍院玲華と亨が正式に婚約したってな」
どこか嬉しそうにニヤニヤ笑って美山先輩が告げた。
意外な話の方向に、一瞬眩暈を起こしそうになる。
亨とは綾小路亨と言って、美山先輩とクラスメートで共に俺を殴った奴だ。というより、仕掛けてきた張本人なのだ。玲華のことを好きで、俺が目障りだという理由だった。
「また、勝手に言ってんだろ?」
勘違いをよくする奴だ。それはわかっているのに、嫌な感じが収まらない。だから誤魔化すように目線を落とした。
「それがどうやら今回は本当っぽいんだよ。確かな筋からの情報だ」
「どういうことだよ」
余裕がなくなっていくのを感じる。
自然と敬語で喋れなくなるのが、その証拠だ。
それに気づいたのか、更に美山先輩の口元が上がる。
「西龍院家の中から流れている情報だ。亨側じゃなくてな。この意味が解るか?おまえ」
俺の頭に、西龍院家というキーワードでまた理事長が浮かぶ。
「おまえは捨てられたんだよ。あのお嬢さんは亨の方を選んだんだ」
そういうことか。
こいつは俺の痛いところを知っていて、そこを突いてきたんだ。
挑発の羅列。
やっぱりあのときの続きなのだ。
拳ではないけれど、そんなこと俺には関係なかった。
「だから?なにが言いたい!」
「戻ってきたな。その目を見たかったんだよ」
美山が嘲笑する。
俺はその言葉に必死に抑えようと思った。
どんな目をしているかなんて、自分では自覚なんてできない。だけど怒りに己を支配されてはならないことは解っていた。
「……本人に、聞いてみないとわからない」
「だったらおまえは知っているのか?今なぜ、あのお嬢さんが学校を休んでいるのかを、さ」
なぜ?
家のことで色々あった、とは言っていた。
だけどそれだけだ。
聞かなかった、俺も。
「綾小路は来ているのか」
「ああ。一日休んだが後は来ている」
その言葉を聞いて俺は駆け出そうとした。
しかし。
「だけど部活は休んでるぜ。今日ももう帰ってる」
足を止めざるを得なかった。
きつく唇を噛みしめる。
一刻も早く真実が知りたいのに。
綾小路に聞いたところで俺の望む言葉が得られるとは思えないが、今の自分にはそれどころではなかった。
なぜ美山の言葉を信じたのか、自分でも分からない。
それでも美山は俺より知っている気がした。嘘や口からの出任せには思えなかったんだ。
「その休んだ後から出た噂だからな。みんな言ってるぜ。信憑性が高いってさ」
「おまえは知っているのか?本当のことを」
「さあ?」
わざと肩を上げて両手を広げるポーズを作る。どこまでもバカにした態度だ。
「本人に聞くんだろ。連絡とればいいじゃないか」
それもそうだ、と思った。
玲華に聞けば一発だ。
あんたなに言ってんの?ってまたいつものように苦笑されて終わるんだ。
それとも、あれはねって、いつものように傲然と微笑みながら説明されるかだ。俺が脱力しながらも納得できる説明を。
「はあー。なに、おまえ。やっぱりつまんねえな、見所あるやつだと思ったのに」
美山が残念そうに呟く。
それに睨み返して俺は家庭科室を後にした。
* * *
あれから二日。
いくら玲華にメールをしても返信が無かった。
家から勇気を出して電話をしてみたのに、繋がらない。コールもしないで留守電に切り替わるのだ。
なにをしているんだ、あいつは。
いままで、なにも聞かないでいたことを後悔した。
だけど玲華は言ったんだ。
必ず戻ってくると。
戻るっていうのはどこかへ行くという前程の言葉だ。
(違う)
違うだろう?玲華は避けていただろう?綾小路のことは。
いくら俺のことが嫌いになったからって。
(違う)
嫌いになったのなら、わざわざ待っててなんて言わないだろう。わざわざ、そのことを告げに、あんな時間に家にまでは来ないだろ。
だけどその内容を伝えてこなかったのは真実だ。
(違う!)
どう思えばいいのかすら、わからない。
何を信じればいいのか見えなくなってくる。視界が暗い――。
「……くん、神崎くんってば!」
昼休みだった。
クラスの談笑中の中から俺を呼ぶ声が聞こえた。
ところ構わず思考の渦にはまっていたようだ、とこのとき気づく。
顔を上げると、席替えをして隣の席ではなくなった拓真が、わざわざ一番前から一番後ろまで来ていた。
「なに?」
「なにじゃないよ、何回呼ばせるつもり?」
「――――呼びたいかと思って……」
「嘘だね。玲華さまが休んでて寂しいんだろ」
こいつも知ってるんだ、噂を。
知ってて、言わなかった。俺を気にして?
「んなことねえよ」
「あるね!最近の君ときたらボーとし過ぎだよ」
「…………」
「素直に認めるのが一番だよ」
いつもの会話なのに少し苛立った。
突っかかっているように聞こえてしまう。
「関係ねえよ」
こんなふうに、冷たく切り捨ててしまえる自分が更に苛々する。
怒鳴らないように心がけているだけなのに、結果優しくできない。拓真が悪いんじゃないのに。
「――神崎くん。荒んできてない?」
「いいからなんだよ?用があるから呼んでたんだろ」
「ああそうだ。三年のセンパイが神崎くんに会いにきてるよ」
気にしてなさそうに、拓真は前の出入り口を振り返った。
そこには三年特有の濃い緑色のリボンを付けた女生徒が一人立っていた。
見ない顔だ。
といっても三年生に知り合いはいない。
「あんだって?」
「ボクは聞いてないよ。ほら、早く行ってあげなよ」
動こうとしない俺に拓真が急かす。
めんどくせえ。
ダルい体をなんとか立たせた。
すると途中に座って雑談していた二人組が俺を見ずに言った。
「また神崎くんか」
「モテるな」
人の気も知らないで、とまた不機嫌になる。
こいつらも噂を知っている。
知ってくるくせに。
なにも知らなかったのは俺だけだ。
ちっと抑えられずに舌打ちが出ると、二人がビビったのがわかった。それでも何も考えられない。フォローが出来ない。
そのまま俺はその女の前に立った。
「なんか用?」
その先輩は決して好意的ではない俺の態度にも怯まずに、なぜか愉しそうに笑っている。
きつい猫のような目が印象的だった。短めの髪は耳の三分の二までを隠していた。その下からシルバーのピアスが光っている。
薄く化粧もしているように見えた。
この学園は決して校則がゆるいわけではない。ただ、家柄をみて判断しているときがある。
きっとこの女生徒も良い家柄なんだろう。
「ここじゃなんだから、移動しない?」
確かに、教室内と廊下にいる奴らの視線が痛い。
俺はついて歩きながら、こういうの最近多いな、と思っていた。誰かについて行くという行為がだ。
そして、彼女が連れて来たのは屋上だった。
普段は入れないようになっているのに、今日はあっさりと開いた。
「ここのカギ、よく壊れてるんだ」
そう言って彼女は外に出る。
それに続くと、真夏より柔らかい陽の光を浴びた。
よく晴れていた。風が心地いい。
「まずは名乗らないとね。わたしは一条京香よ。京香って呼んでね」
どこかのご令嬢にしては軽いしゃべり方だ。
名前が韻を踏んだようなもので、玲華が思い出された。なんの因果だ、一体。
(なに比べてんだ…)
はた、と我に返った。
これでは無意識に意識しているみたいではないか。
「わたしね母の姓を名乗ってるんだ」
いきなり京香は聞いてもないのに語りだした。
柵にまで近づくことなく、扉の横の壁にもたれながら。俺は距離を保って聞いていた。
「それでね父の姓は西龍院って言うんだよ」
「えっ?」
やっとそこで反応できた。というより、思考が現実に戻ってきたからだった。
そこで彼女が俺を呼び出した理由が、別の意味を持ち始める。
「でも父と母は事実上他人になってるんだ。今はね。父の母が源蔵様の愛人ってやつだったの。父はそれでも西龍院を名乗らせてもらっていたんだけど」
「源蔵?」
「知らない?源蔵様って西龍院グループの会長している人よ」
ということは、玲華の祖父でもあるということだ。
一度だけ、確か玲華が言っていた。
お祖父様にはたくさんの愛人がいると。そしてその全ての子供を認知している、と……。
おそらくだが、彼女から出た名前がその祖父だろう。入学当初、拓真から財閥クラスの孫だとは聞いていた。
子供が多いということは、枝は広がり孫はさらに多くなる。
「だから?」
つまり何が言いたいのだろうか。
素っ気なく促すと、京香はどこか無邪気に声を出して笑った。
「やっぱり噂どおりだね。神崎悠汰くん」
――噂、ウワサ、うわさ。
いい加減ウンザリしてくる。
自分はいったい、どんな噂をされているというのだろうか。そこまで浮いた行動をしているつもりは全くないのに。
だいたい玲華のことといい、そこにいない他人のことを話して何が面白いんだ?
不思議でたまらない。
「睨まないで。でもそんなあなた嫌いじゃないわ」
「つまり、なんの用だよ」
「玲華の噂も聞いてるんでしょ?」
初めて玲華の名前をだした。
やっぱりそういうことか、と確信する。
しかし京香の狙いはまだ読めない。
「ねえ、玲華に会いたくない?」
小首を傾げ、俺の胸の内を揺さぶるようなこと言ってくる。
「おい、はっきり言えよ。だからなんだよ」
「だからね、会いたいならわたしが協力してあげるって言いたいの。わたし玲華と小さい頃からよく一緒にいたんだよ。従姉妹にあたるからね」
「玲華がいまどこにいて、なにをしているのか知ってるのか?」
「うん。知ってる。でも言えないんだ」
あの時の、玲華と同じようなことを言う。
「言えない理由は?」
「それが決まりだから、かな」
まったく、分からない。ますます苛々する。
何が起きているというのだ、玲華に。
(それとも西龍院家に――?)
なんなんだよ、西龍院家って。
「言えないで協力って、なにする気だよ?」
「あなた、あんまり鋭くないのね。玲華が選ぶ男にしてはちょっと意外ね」
「うるせえ、悪かったな」
いちいち相手をしてしまう。
この好意か悪意かもつかめない女に、踊らされている感じがした。
まともに反応しすぎている。
「わかった。分かり易く言ってあげる」
わざわざ前置きをして彼女は続けた。
「玲華はいま亨くんと婚約してるでしょ。だけど玲華はあなたのことがまだ好きだと思うんだ。だからね、会いたいならおびき出せばいいのよ」
綾小路の名前まで出してきた。やはり婚約の話も本当なのか。
従姉妹の彼女まで認めているのだから、これでは否定が出来ないではないか。
悔しい気持ちを隠して対話を続ける。
「おびき出す?」
「そうよ。変わりにわたしとつき合ってるってことにするの。そうしたら玲華はいてもたってもいられなくて、今いる場所から出てくると思う。学校にね」
なんだこの女は、と思った。
話を聞いてもつかめない。
つかめないのは、あまりに異質だからだ。考え方が。
「フリでいいの。そう、噂だけでいいのよ」
「それで?何の得になるんだ?おまえに」
「もちろん、わたしにも狙いはあるよ。だけどそれはまだ言えないんだ」
ふふっと含み笑いをしてそう告げる。
また、それか。
「そんなんで納得すると思うか?俺が」
「じゃあひとつ、とてもはっきりした事実を言おっか」
一度頷いて見せてから、京香は言う。
「あたしね、玲華のこと大っ嫌い!なの。だから玲華が望んでないことをしたいなあと思ってるのよ」
大嫌いと強調したときに感じた、はっきりとした強い意志。笑みの中に鋭くなった眼光。
だけど、なにか引っかかりを感じていた。
それは多分最初から。
「望んでないこと?」
またオウム返しに対応してしまって、少し後悔した。
鋭くない、と言われたばかりだったのに。
だけど京香はそれよりも、よく聞いてくれたという表情をする。
「玲華は神崎くんが関わることを望んでない。だから遠ざけたの。でも無理なのにね」
それからふっと目を伏せた。微笑んでいる口元はそのままで。
関わらせないように遠ざけた、という言葉が嫌なくらい耳に残った。
そういうやり方、嫌いだったはずなのに。
(嫌い、だったよな)
俺は玲華のなにを見ていたんだろう。
本当に嫌いだったのだろうか。本当にまだ、俺を好きでいてくれているんだろうか。
完全に、見えなくなった。
「で?どうする?この話を呑んでくれたら、もう少しなら詳しく話してもいいんだけど」
駆け引きをしてくる。
ギリギリの狭間で一瞬揺れた。
だけど。
「ナシだ。俺はそういうのが嫌いなんだよ」
それだけで、屋上から立ち去った。
それだけは確かだ。俺はしたくない。そういう小細工だけはしたくなかった。
だから心ももう誤魔化せない。
俺は残された休み時間を使って、秀和の教室に向かって走った。
あいつは、西龍院家に関節的にではあるが関わりがある。もしかしたら、なにか知っているのかもしれない。
本当はもっと前からそうしたかった。なりふり構わず問いただしたかった。
でも玲華が待っててと言ったから。
信じようと思ったんだ。
俺はぐちゃぐちゃな気持ちのまま、隣のクラスのドアを開けた。
それから視線を一巡させて秀和の姿を探す。
「神崎さま?」
だけど後ろから声をかけられた。
何度注意しても様呼ばわりを変えようとしない、意外と頑固な秀和が、ちょうどどこからか帰ってきたところだった。
「ヒデちょっと」
勝手に腕を掴んで少し教室の出入り口から離れた。
「どうしたんですか?珍しいですね、部室以外で話すの」
なぜか嬉しそうに秀和が言う。
いつも通りの笑顔。
それすらも苛立たせる要因になっている自分に、少し愕然とする。
さすがにまずい、と思う。
他人を軽視しすぎている。
「悪い。おまえさ、いま玲華がなにしてるか知ってるか?」
一言謝って、それでも直球に聞いた。
「玲華さま、ですか」
秀和は躊躇いがちに視線を外す。分かりやすい反応。
よく考えればこいつも噂を知っていて、言ってこなかった一人だ。
気を遣いすぎるところがあるから、さすがに言えなかったんだろうとは思う。だけどもう知っているんだ、俺は。だから秀和も全てを喋って欲しかった。
「噂なら聞いた。だからおまえが知ってること全部話してくれ。頼む」
かなり必死にまくしたてていた。みっともないとか、もう考えている余裕が無い。
少し迷ってから秀和は顔を上げた。
「ぼくが知っていることを全部話しても、神崎さまは納得なさらないと思います」
「え?」
いつもとは違う、おどおどしてない強い目を眼鏡の奥から覗かせて、きっぱりと秀和は続けた。
「ぼくも全部知っているわけではないんです。だから知りたいのでしたら、もっと別のところを攻めてください」
「なに言ってんだよ、おまえ……」
「だけど玲華さまは神崎さまが知ってしまわれること、望まれていません」
あの女と同じ。
まったく意味が分からない。
玲華の望みだと?
どうしてそれを、周りから聞かされなければならない。どうして俺は周りから聞かなければならない。出来ることなら本人から聞いてるんだ。
「知らねえよ!俺が知りたいって思うのがそんなに悪いのかよ!」
「落ち着いてください。神崎さま」
らしからぬ低い声で、秀和が諌める。
廊下を行き交う生徒の注目を集めてしまった。
いたたまれなくなって、そこから離れて角を曲がる。ついてきた秀和が後ろから口を開いた。
「ぼくは神崎さまは知るべきだと思います。でもそれはぼくからじゃない。きっと神崎さまが知るにはそれ相応の覚悟が必要になってくると思います」
「ヒデ……」
「本当に玲華さまを思われるのでしたら……お願いです。ぼくが言うべきことじゃないとは思いますけど、どうか玲華さまを助けてあげてくださいっ!」
「なにを言ってるんだ」
玲華を助ける?
なにか困っているということか。まさか危険な目に?
「すみません。ぼくが言えるのはここまでです」
本当に申し訳なさそうに秀和はそう言うと、ぺこりとお辞儀をして教室に帰っていってしまった。
俺は髪をかきむしる。
余計に、もやもやしたものが増えた気がした。
それでも何とか抑える。
そのまま自分の教室に入り、世羅の元へ向かった。考えられるべきところへは全て当たりたかったんだ。
「世羅」
世羅は自分の席に座って、静かに本を読んでいた。
俺が近づくと顔を上げる。
「どうした?険しい顔して」
「悪い」
世羅の前ではいつもより強く、平常心でいなければと思ってしまう。
なるべく感情的にならないように。
「玲華のことなにか、聞いているかと思って」
世羅なら、なにか知っていても教えてくれない可能性もあった。いくら穏やかになったといっても、数ヶ月前にぶつけられた嫌悪感からそう思う。
「意外だな。玲華はおまえにも言ってなかったのか」
だけど俺の表情を読み取ったのか、世羅は独白めいた言葉を吐いた。
「にもってことは、世羅にも?」
「そうだ。だから私に聞くな。こちらにもすべての情報が入ってきているわけではないんだ」
ここ最近見た中では一番きつい目で睨みつけてくる。
世羅にも言ってなかったのか、玲華は。
「すべてではないなら、知っていることもあるんだよな?それを教えてくれ」
「中途半端に知って満足するのか?」
秀和と同じようなことを言う。
「わかんねえよ。……なにも聞いてないんだから」
「情けない顔をするな」
少し柔らかい表情を見せてきた。意外なものを見て驚く。
「いいか?神崎がたとえ知ったとしても、今回は私の家では太刀打ちできない。だけどおまえは玲華を信じればいい」
また、家の話。
世羅の家だってとても大きくて金持ちだ。それなのにあっさりそんなふうに言うなんて。
「少しは自信を持てよ。おまえは玲華が選んだ男だ。私にがっかりさせるな」
なにがなんだかわからなくて、もう少し聞きたかった。だけどそこで昼休み終了のチャイムが鳴る。
仕方なく、席に戻るしかなくなった。