表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

トイレットペーパーが消えた朝

作者: 山田 ソラ
掲載日:2026/05/26

 棚が空だった。


 木村義雄、六十一歳、無職。正確には「早期退職後、自由業を模索中」という体裁だが、要するに毎朝スーパーに来るくらいしかやることがない男だ。


 トイレットペーパーの棚の前で、義雄は三秒ほど固まった。


 十二ロール入りのパッケージが、いつもなら壁のように積み上がっている場所。そこに今、何もない。棚の板だけがある。蛍光灯の光を反射して、白々しく光っている。


「……は?」


 誰に言うでもなく、声が出た。

 原因はすぐわかった。


 レジに向かう客のカゴを見れば一目瞭然だった。二パック、三パック。中には四パック抱えている老婆もいた。義雄の二ヶ月分はある。


 昨夜のニュースは見ていない。義雄はテレビを持っていない。六年前に捨てた。


「どうせろくなことしか言わない」と思っていたが、今となっては単純に置く場所が面倒になっただけだ。スマホでニュースは見るが、アルゴリズムが釣り記事ばかり流してくるので、最近はほとんど見ていない。


 だから何が起きたのか、義雄には皆目わからなかった。


 近くにいた主婦らしき女性に聞いた。


「あの、トイレットペーパーって、何かあったんですか」


 女性は少し驚いた顔をした。


「ご存じないんですか? 昨日のニュースで、工場が止まるかもって」


「工場?」


「海外からの原材料が入ってこなくて、生産がどうとか。テレビでやってたんです、朝から」


 義雄は頷いた。「ありがとうございます」と言って、棚の前に戻った。


 そして、もう一度、空の棚を眺めた。


 帰り道、義雄は百円ショップに寄った。トイレットペーパーはなかった。コンビニにも寄った。なかった。三件目のドラッグストアでようやく、一ロール単品のものを二つだけ見つけた。割高だったが買った。


 家に帰って、麦茶を飲みながら考えた。

 おかしい、と思った。


 何がおかしいか。順番に整理してみる。

義雄は昔、物流会社の管理職をやっていたので、こういう時に頭の中で表を作る癖がある。


 まず、ニュースが流れた。「工場が止まるかもしれない」。


「かもしれない」だ。確定じゃない。


 それを聞いた人間が買いに走った。

 棚が空になった。


 棚が空になったのを見た人間が「本当に無くなる」と確信した。


 さらに買いに走った。

 完全に空になった。


 これは、ニュースが現実を作ったのか。それとも人間が現実を作ったのか。


 義雄にはよくわからなかった。ただ、ひとつだけわかることがあった。


 工場は、まだ止まっていない。


 夕方、近所に住む幼馴染の福田から電話がかかってきた。福田は今も会社員で、義雄とは小学校からの付き合いだ。


「よしお、トイレットペーパー買えたか」


「二ロールだけ。お前は」


「うちは昨日のうちに買ったよ。ニュース見て、嫁がすぐ動いた」


「そうか」


「お前テレビないもんな。情報弱者じゃないか」


 義雄は少し黙った。


「情報弱者な、俺が」


「違うのか」


「テレビを見た人間が全員買いに走って、棚を空にしたんだろ。テレビを見ていない俺はそれをしていない。どっちが弱者だ」


 電話の向こうで福田が笑った。


「屁理屈だな」


「屁理屈じゃない。考えてみろよ。ニュースで『かもしれない』って言っただけで、みんなが動いた。本当に不足してるんじゃなくて、みんなが動いたから不足した。これは情報のせいか、人間のせいか」


「両方じゃないのか」


「そうだよ、両方だ。でもテレビが煽って、人間が走る。その構造はおかしくないか」


 福田はしばらく黙った。


「まあ……気持ちはわかるけどな。不安になるだろ、普通」


「不安になる気持ちはわかる。でも全員が走り出す必要はないだろ」


 義雄が最初にテレビの嘘に気づいたのは、三十代の頃だった。


 ある食品が「健康にいい」とワイドショーで紹介された翌日、スーパーからその食品が消えた。次の週には「実は効果は限定的」という続報が流れた。棚には大量に余った在庫が積み上がっていた。


 その繰り返しを何度見たか。


 納豆、バナナ、寒天、ポリフェノール、炭水化物抜き、糖質制限、〇〇ダイエット。毎年何かが「効く」と言われ、スーパーから消え、数週間後に棚に戻ってくる。


 コロナの時のトイレットペーパー騒動も同じだった。「紙がなくなる」というデマがSNSで流れて、棚が空になった。実際には紙の製造に影響はなかった。でも棚は空になった。


 今回も同じ構造だと義雄は思った。

 

 翌日の朝、義雄はまたスーパーに行った。


 トイレットペーパーは戻っていた。


 昨日の半分以下の量だったが、棚には確かにあった。義雄は一パックだけ取った。隣に立っていた若い女性も一パックだけ取った。目が合った。


「昨日はなかったですよね」と女性が言った。


「ですね」と義雄は答えた。


「私、昨日来て、なくて。でも考えたら家にまだあるし、別に急がなくていいか、と思って」


「正しい判断ですよ」と義雄は言った。


「でも周りの人みんな、カゴいっぱいに入れてて、なんか焦りますよね。私だけ損してるみたいで」


 義雄は少し考えてから言った。


「損してないですよ。あなたはトイレットペーパーを一パック買った。あの人たちは五パック買った。でもトイレで使う量は変わらない。あの人たちは押し入れに紙の山を抱えて、数ヶ月間スーパーで買わないだけです」


 女性は笑った。「確かに」


「情報を見て走るのは自由です。でも全員が走ると棚が空になる。棚が空になると走らなかった人が困る。走った人は困らない。……なんか変ですよね、その構造」


 女性はしばらく考えていた。


「テレビって、見た方がいいんですかね」


「さあ」と義雄は言った。「俺は持ってないんで」


 家に帰って、義雄は日記を書いた。


 三年前から続けている習慣だ。誰かに見せるわけじゃない。一人暮らしで、話す相手もいないので、代わりに書く。


 今日の分にこう書いた。


〔テレビを持っていない。ニュースも最近ほとんど見ない。それで困ったことは、今のところトイレットペーパーが買えなかったことくらいだ。〕


〔情報は大事だと思う。でも情報を受け取った後で、自分の頭で一回考える、その手順を飛ばして走り出す人間が増えた気がする。いや、昔からそうだったのかもしれない。テレビがそれを加速させているのか、もともと人間がそういうものなのか。〕


〔一人が走るのはいい。その人の判断だ。でも全員が走ると社会が傾く。棚が空になる。物価が上がる。誰かが損をする。〕


〔マスメディアとSNSが悪いのか。視聴者とネット民が悪いのか。たぶん両方だ。でも誰かを悪者にしても棚は戻らない。〕


〔ただ思うのは、情報を受け取ることと、情報に動かされることは、別の話だということだ。〕


〔今日は二ロール手に入った。当分は大丈夫だ。〕


 夜、義雄は風呂に入った。


 シャンプーのボトルを見たら、底に少し残っているだけだった。


 明日、買いに行かなければならない。

 念のためスマホでニュースを検索した。


【シャンプー 不足】


 何も出てこなかった。

 義雄は少し安堵して、湯船に沈んだ。


 静かな夜だった。テレビのない部屋は、いつも静かだ。


 それが義雄には、今夜も心地よかった。


 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ