トイレットペーパーが消えた朝
棚が空だった。
木村義雄、六十一歳、無職。正確には「早期退職後、自由業を模索中」という体裁だが、要するに毎朝スーパーに来るくらいしかやることがない男だ。
トイレットペーパーの棚の前で、義雄は三秒ほど固まった。
十二ロール入りのパッケージが、いつもなら壁のように積み上がっている場所。そこに今、何もない。棚の板だけがある。蛍光灯の光を反射して、白々しく光っている。
「……は?」
誰に言うでもなく、声が出た。
原因はすぐわかった。
レジに向かう客のカゴを見れば一目瞭然だった。二パック、三パック。中には四パック抱えている老婆もいた。義雄の二ヶ月分はある。
昨夜のニュースは見ていない。義雄はテレビを持っていない。六年前に捨てた。
「どうせろくなことしか言わない」と思っていたが、今となっては単純に置く場所が面倒になっただけだ。スマホでニュースは見るが、アルゴリズムが釣り記事ばかり流してくるので、最近はほとんど見ていない。
だから何が起きたのか、義雄には皆目わからなかった。
近くにいた主婦らしき女性に聞いた。
「あの、トイレットペーパーって、何かあったんですか」
女性は少し驚いた顔をした。
「ご存じないんですか? 昨日のニュースで、工場が止まるかもって」
「工場?」
「海外からの原材料が入ってこなくて、生産がどうとか。テレビでやってたんです、朝から」
義雄は頷いた。「ありがとうございます」と言って、棚の前に戻った。
そして、もう一度、空の棚を眺めた。
帰り道、義雄は百円ショップに寄った。トイレットペーパーはなかった。コンビニにも寄った。なかった。三件目のドラッグストアでようやく、一ロール単品のものを二つだけ見つけた。割高だったが買った。
家に帰って、麦茶を飲みながら考えた。
おかしい、と思った。
何がおかしいか。順番に整理してみる。
義雄は昔、物流会社の管理職をやっていたので、こういう時に頭の中で表を作る癖がある。
まず、ニュースが流れた。「工場が止まるかもしれない」。
「かもしれない」だ。確定じゃない。
それを聞いた人間が買いに走った。
棚が空になった。
棚が空になったのを見た人間が「本当に無くなる」と確信した。
さらに買いに走った。
完全に空になった。
これは、ニュースが現実を作ったのか。それとも人間が現実を作ったのか。
義雄にはよくわからなかった。ただ、ひとつだけわかることがあった。
工場は、まだ止まっていない。
夕方、近所に住む幼馴染の福田から電話がかかってきた。福田は今も会社員で、義雄とは小学校からの付き合いだ。
「よしお、トイレットペーパー買えたか」
「二ロールだけ。お前は」
「うちは昨日のうちに買ったよ。ニュース見て、嫁がすぐ動いた」
「そうか」
「お前テレビないもんな。情報弱者じゃないか」
義雄は少し黙った。
「情報弱者な、俺が」
「違うのか」
「テレビを見た人間が全員買いに走って、棚を空にしたんだろ。テレビを見ていない俺はそれをしていない。どっちが弱者だ」
電話の向こうで福田が笑った。
「屁理屈だな」
「屁理屈じゃない。考えてみろよ。ニュースで『かもしれない』って言っただけで、みんなが動いた。本当に不足してるんじゃなくて、みんなが動いたから不足した。これは情報のせいか、人間のせいか」
「両方じゃないのか」
「そうだよ、両方だ。でもテレビが煽って、人間が走る。その構造はおかしくないか」
福田はしばらく黙った。
「まあ……気持ちはわかるけどな。不安になるだろ、普通」
「不安になる気持ちはわかる。でも全員が走り出す必要はないだろ」
義雄が最初にテレビの嘘に気づいたのは、三十代の頃だった。
ある食品が「健康にいい」とワイドショーで紹介された翌日、スーパーからその食品が消えた。次の週には「実は効果は限定的」という続報が流れた。棚には大量に余った在庫が積み上がっていた。
その繰り返しを何度見たか。
納豆、バナナ、寒天、ポリフェノール、炭水化物抜き、糖質制限、〇〇ダイエット。毎年何かが「効く」と言われ、スーパーから消え、数週間後に棚に戻ってくる。
コロナの時のトイレットペーパー騒動も同じだった。「紙がなくなる」というデマがSNSで流れて、棚が空になった。実際には紙の製造に影響はなかった。でも棚は空になった。
今回も同じ構造だと義雄は思った。
翌日の朝、義雄はまたスーパーに行った。
トイレットペーパーは戻っていた。
昨日の半分以下の量だったが、棚には確かにあった。義雄は一パックだけ取った。隣に立っていた若い女性も一パックだけ取った。目が合った。
「昨日はなかったですよね」と女性が言った。
「ですね」と義雄は答えた。
「私、昨日来て、なくて。でも考えたら家にまだあるし、別に急がなくていいか、と思って」
「正しい判断ですよ」と義雄は言った。
「でも周りの人みんな、カゴいっぱいに入れてて、なんか焦りますよね。私だけ損してるみたいで」
義雄は少し考えてから言った。
「損してないですよ。あなたはトイレットペーパーを一パック買った。あの人たちは五パック買った。でもトイレで使う量は変わらない。あの人たちは押し入れに紙の山を抱えて、数ヶ月間スーパーで買わないだけです」
女性は笑った。「確かに」
「情報を見て走るのは自由です。でも全員が走ると棚が空になる。棚が空になると走らなかった人が困る。走った人は困らない。……なんか変ですよね、その構造」
女性はしばらく考えていた。
「テレビって、見た方がいいんですかね」
「さあ」と義雄は言った。「俺は持ってないんで」
家に帰って、義雄は日記を書いた。
三年前から続けている習慣だ。誰かに見せるわけじゃない。一人暮らしで、話す相手もいないので、代わりに書く。
今日の分にこう書いた。
〔テレビを持っていない。ニュースも最近ほとんど見ない。それで困ったことは、今のところトイレットペーパーが買えなかったことくらいだ。〕
〔情報は大事だと思う。でも情報を受け取った後で、自分の頭で一回考える、その手順を飛ばして走り出す人間が増えた気がする。いや、昔からそうだったのかもしれない。テレビがそれを加速させているのか、もともと人間がそういうものなのか。〕
〔一人が走るのはいい。その人の判断だ。でも全員が走ると社会が傾く。棚が空になる。物価が上がる。誰かが損をする。〕
〔マスメディアとSNSが悪いのか。視聴者とネット民が悪いのか。たぶん両方だ。でも誰かを悪者にしても棚は戻らない。〕
〔ただ思うのは、情報を受け取ることと、情報に動かされることは、別の話だということだ。〕
〔今日は二ロール手に入った。当分は大丈夫だ。〕
夜、義雄は風呂に入った。
シャンプーのボトルを見たら、底に少し残っているだけだった。
明日、買いに行かなければならない。
念のためスマホでニュースを検索した。
【シャンプー 不足】
何も出てこなかった。
義雄は少し安堵して、湯船に沈んだ。
静かな夜だった。テレビのない部屋は、いつも静かだ。
それが義雄には、今夜も心地よかった。
完




