EP16「エモい(1)」
路地の奥へ逃げていく信者たちの足音が、やがて聞こえなくなった。
ミーナはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
手の中には赤い杖。
さっきまで光っていた魔石は、もう静かになっている。
遠くから、祭りの音楽が聞こえてきた。
太鼓のリズム。
笑い声。
屋台の呼び込み。
ほんの数分前まで、あの通りの真ん中にいたはずなのに、まるで別の世界みたいだった。
シャルルが言う。
「ミーナ。
ここ、長居しないほうがいい。」
ミーナは顔を上げた。
「え?」
「さっきの騒ぎ、すぐ広がるよ。」
シャルルは路地の奥を見た。
「人が来る前に離れよう。」
ミーナはうなずいた。
「うん……。」
二人は路地を抜け、裏道へと歩き出した。
祭りの人の流れを避けながら、石畳の道を進む。
しばらく歩くと、空気が少し変わった。
潮の匂い。
建物の隙間から、海が見えた。
ロスペリアの街の端、小さな海辺だった。
「海だ…」
二人の足はそのまま海へと向かう。
街の建物が途切れると、空が一気に広がる。
波の音。
祭の日の海は誰もいない。
穏やかに揺れる波の上に、太陽が落ちようとしていた。
紅のグラデーションが、ゆっくりと水平線に広がっていく。
ミーナはふと足を止めた。
「……うわぁ…」
小さく呟く。
「……エモい。」
シャルルが隣で首をかしげる。
「えもい?何それ?」
夕日を見ながらミーナが言う。
「えーと……なんて言えばいいんだろ。
切ないような、嬉しいような……。」
胸の前で手をぎゅっと握る。
「心がぎゅーってなる感じ?」
シャルルはふむ、と体を崩して座り、毛づくろいをしはじめた。
「それを“エモい”の一言で済ませるとは、なかなか手抜きだと思うけど。」
ミーナがむっとする。
「手抜きじゃないもん!」
でも少し考える。
そしてシャルルの横に腰を降ろす。
シャルルがちらっとミーナを見る。
「その“ぎゅーってなる感じ”を、ミーナの言葉で聞いてみたいと思っただけさ。」
ミーナは夕日に目を向けた。
少し考える。
そしてゆっくり言った。
「とってもキレイで……
……キレイすぎて。
なんか胸がぎゅってして。」
波の音
「嬉しいんだけど……。
でも、今しかないって分かるから……。」
少し笑う。
「ちょっと寂しいっていうか……、
そんな感じ。」
ミーナは照れたように肩をすくめる。
シャルルは目を細めた。
「それが、ミーナの“魔法”だな。」
波音が、二人の間に静かに広がる。
ミーナはふふっと笑った。
「でもさ。」
シャルルが耳を動かす。
「今の子たちって、わたしも含めてだけど……。
よく“エモい”とか“尊い”とか、“一生推せる”とか…
そういう言葉で全部まとめちゃうんだよね。」
シャルルが首を傾ける。
「“一生推せる”?
それはどういう意味だ?」
ミーナは声を大きくして言った。
「大好き!!ずっと応援してるし、もう何もかも最高!!!って気持ち。
それが”一生推せる”かな。」
シャルルはミーナの大声に目を開いた後、少し考えて言った。
「確かに気持ちはたくさんあるのに……。
全部ひとまとめか。」
ミーナはうなずく。
「ね。楽なんだよね。
言った方も、聞いた方も、なんとなく伝わるし。」
シャルルは小さくため息をついた。
「確かに便利そうだ。
でも……なんだか惜しい。」
ミーナがシャルルを見る。
「惜しい?」
今度はシャルルが海を見る。
「ミーナが言う“エモい”の中には、嬉しさも、切なさも、儚さもあった。
でも“エモいね”の一言で言ったら……」
少し間を置く。
「ただ“ふんわりしたもの”になる気がする。
…まぁ、細かくないし、複雑でもないから、誰にでも伝わる分かりやすさはあるんだろうな。」
ミーナは黙る。
波が岸に当たる音が続く。
「……それ、ちょっと分かるかも。」
ミーナは小さく言った。
「ちゃんと伝えるのが怖いときとか、“ふんわり”に逃げちゃうのかもね。
誰にも否定されないし、なんとなく“分かる”って相手に同意できるし。」
シャルルが静かに言う。
「言葉で伝えることから逃げるのか…。
いや、逃げきれなくて“ふんわり”伝えるのか。」
ミーナは少し黙っていた。
そして笑った。
「…そう、だね。」
風で髪が揺れる。
「でもさっきね。
この“エモい”気持ちをシャルルに伝えられてよかった。」
シャルルがミーナを見る。
ミーナもシャルルを見る。
「シャルルが聞いてくれて、ちゃんとこの“エモい”を共有できたって感じた。
それが嬉しくて…さらにエモかった!」
シャルルが笑った。
「それは、エモいな!」
二人が見上げると、空の色がゆっくり夜に近づいていく。
ミーナはふと手元に置いてあった杖が目に入る。
さっきの戦いを思い出した。
「ねえ、シャルル…」
「ん?」
路地で聞いた言葉。
胸の奥がざわめく。
「テオ・オルダイス……って何?」
シャルルの耳がピクリと動く。
「建国の神だって…でも、教会にいなかった…」
シャルルが体を起こして座り直す。
ミーナは続けた。
「さっき…私、魔法で戦ったんだよね…?
夢中で何も分からなかった…。
なんとかなったけど……怖かった。」
杖を握る。
「魔法…ちゃんと使えるようになりたい。
この国のこと、ちゃんと知りたい。」
シャルルは静かにうなずいた。
「それなら。」
ミーナを見る。
「教会にもう一回行ってみる?」
ミーナは夕日を見て、それからゆっくり頷いた。
「うん。」
二人は立ち上がる。
遠くから祭りの音楽が聞こえてきた。
夜の祭りが始まろうとしていた。




