第8話 理
本日、最後の来訪者はボロボロの服を着た母親に手を引かれる痩せ細った子供だった。
懺悔室に案内された母親は子供を丸椅子に座らせて、自分は立ったままで四方を囲う壁に向かって訴えた。
「お願いします、聖女様! どうか、この子を救ってください!」
懺悔室の中は見えないが、セリーナは入室した瞬間から子供の方が具合が悪いことを見抜いていた。
「体のどこに、どのような不調がございますか?」
いつも通りの質問に対する答えは食い気味に返ってきた。
「全部です! 早く治してください! 早くしないとこの子は死んでしまう!」
壁を叩く音に負けないくらい母親の声は大きかった。
「具体的にお願いします。どこがどのように――」
「だから全てだと言っているでしょう!!」
雷が落ちたのではないかと錯覚してしまうほどの絶叫。
こういう人が一定数いるのはどこの国でも同じようだ。
セリーナが困った顔を向けるよりも早く、修道士たちが懺悔室の扉を開けた。
「セ、セリーナ様⁉︎ 一大事です! こちらに来てください!」
イレギュラーを許すと「私も直接、看て欲しい」と騒ぐ輩や、「あの人だけ特別扱いなのね」と嫌味を言ってくる輩が出てくる。
しかし、このまま、わざわざ頼ってくれた人を放置するのはセリーナの聖女としての矜持に反する上に、修道士の慌てた声を無視するのは心苦しい。
セリーナは重い腰を上げて、懺悔室へと向かった。
「セリーナ様、この子供はもう……」
セリーナが見下ろしたのは、丸椅子に座っているだけでも意識を手放しそうな幼い男の子だった。
四肢は痩せ細り、骨と皮しかない。
呼吸は荒く、見ているだけでこっちまで苦しくなってくる。
焦点の合わない虚ろな瞳は壁の一点を見つめ、微動だにしなかった。
「あんたが聖女様⁉︎ はやく、うちの子を治しなさいよ!」
「どこから王都まで?」
衰弱しきっている子供を前にしてもセリーナは顔色一つ変えなかった。
ただ、「黙りなさい」と言わんばかりに母親に手のひらを向けながら問いかけた。
初めて見るセリーナの怒っている姿にサンダルをはじめとする修道士たちは息を潜めた。
「そんなことはどうでもいいでしょ! 早く、治しなさいよ!」
「ここまで歩き続けた足。何かを振り続けて潰れた手のひらの豆。極度の栄養不足に水分不足」
「何を言っているの? この子は病気なのよ!」
「いいえ。ただの過労です。無理にここまで連れてくる必要はありませんでした」
「そ、そんなことない! この子が働かなくなって税を納められなくなったらどう責任を取るの⁉︎ 絶対に病気よ! すぐに治してちょうだい。聖女なら出来るでしょ⁉︎ できないなら誠意を見せなさいよ!」
セリーナは悟ってしまった。
この母親は日常的に我が子に過剰な労働を強いている。ろくな食事を与えずに働かせ、限界を迎えたから聖堂まで連れてきた。
その目的はただ一つ。今後の生活の保障だ。
「他の連中と同じようにすぐに治しなさい! こっちには生活がかかっているの!」
「今すぐには無理です。この子に必要なのは癒しではなく、水分と栄養のある食事と休養です。適切な処置が必要となるのでこの子は聖女教会で預かります」
「なんですって!?」
子供のためには親元へ帰すわけにはいかないと判断したが故の発言だった。
「この子がいなくなったら、私たちはどうやって生活すればいいの!」
――ギリッ。
セリーナはうつむき加減で奥歯を噛み、それでも足りないと拳も握り締めた。そうでもしないと今すぐに怒鳴ってしまいそうだった。
「わたしは神ではありませんので治せないものは治せません。生活のことはご自分たちでお考え下さい。事態は急を要するので失礼します」
サンダルによって抱えられた少年と一緒に聖堂の本館へ向かうセリーナの腕が掴まれた。
「うちの子が死んだら生活の保障をすると約束しなさい!」
そんな約束はできない。
セリーナは聖女だからという理由でサチュナ王国に買われただけの身であり、それ以上の権限は持っていない。
権力があるのなら王国民全員が望むそれぞれの幸せを提供してあげたいと思うが、そんな理想論はとっくの昔に捨てた。
どんなに泥臭くても自分にできる最善を尽くすだけだ。
「できません。邪魔なのでお引き取りを」
「邪魔ですって!? 屋敷に引き籠もって、言われたことだけをやっている聖女がよく言えたわね! 聖女なら堂々と大衆の前に出て、私たちを救ってみなさいよ!」
「……っ」
「そんなんだから、みんなこうしてあんたを見に来るのよ。本当に救ってくれるのか、信頼に足る女なのか確かめるためにね!」
セリーナを批難する声は聖堂の外にまで聞こえていた。
サンダルには子供を任せてしまったから助けを求めることはできない。他の修道士たちは母親に気圧され、慌てるばかりであてになるとは思えない。
そもそも、セリーナは最初から誰の力も借りるつもりはなかった。
「これは何の騒ぎだ?」
セリーナが自力で母親の手を振り払おうとしたその時、聖堂の扉が開かれた。
「ロイハルド王太子殿下!」
美丈夫の存在に気づき、勢いよくセリーナの手を離した母親が平伏する。
セリーナの手は真っ赤に腫れていた。
「そのお嬢さんは我らにとって大切な御仁だ。乱暴は止めてもらいたい」
「も、申し訳ございません!」
「ここは我に免じて下がってくれないか。聖女殿はきっとあなたを裏切らない」
「は、はい。も、申し訳ございませんでした。あ、あの、処罰だけはご勘弁を!」
さぁ、とロイハルドに促されたセリーナは掴まれていた腕をかばいながら会釈して、足早に聖堂の本館へと急いだ。
◇◆◇◆◇◆
「子供の様子はどうですか?」
「それが、よほど喉が渇いていたのかあっという間にコップの水を飲み干してしまいました」
「何か食べ物を与えないと」
「スープを作らせています。セリーナ様の癒しの力で持ちこたえられませんか?」
「無理です。サンダル様も知っていますよね。聖女は飢餓だけは癒やせない」
その事実は嫌というほど痛感させられている。
聖女は人々がどれだけ重症を負っていても、大病を患っていても癒すことができる。が、空腹だけは満たすことができない。
どれだけ研鑽を積んでも、空腹の人の前では店で買ってきたパンを差し出すことしかできない。
それが、この世界の理だ。
「ここでも、わたしは救えないの……っ」
初めて見るセリーナのやるせない表情にサンダルの胸も締め付けられた。
神に仕える身でありながら、子供一人も救えないのかと打ちひしがれるサンダルもまたセリーナと同じ気持ちだった。
怒りではなく、悔しさを表すように握り込んだ手のひらが開いた。
セリーナが自分の意思で開こうとしたのではない。自然と開いたのだ。
まるで、そこに"何か"が生み出されたように――
視界の端に映ったコウモリの翼から視線を外して、おそるおそる手のひらを見下ろす。
そこには甘い匂いを放つ、ふっくらとした焼き菓子があった。
セリーナは自分自身の力に驚く暇も与えず、小さくちぎった菓子を指の腹で潰して子供の口の中に押し込んだ。
「お願い、食べてっ!」
汗が額をじっとりと濡らす。
やがて、すり潰すような口の動きの後に、小さく、こくんっと飲み込む音が聞こえた。
「食べてくれた?」
薄く瞳を開けた男の子はセリーナの手にあるマフィンを見つけると弱々しく手を伸ばし、打って変わって力強く頬張り始めた。




