冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
大理石が冷たく光る寝室。
シャンデリアのきらめきとは裏腹に、空気は凍てつくほど冷え切っていた。
初夜の儀を前に、私――リーリア・ミラベルの夫となった帝国最強の騎士、ヴォルフラム・ツヴァルト公爵は、氷のような声で言い放った。
「勘違いするな、リーリア。この結婚は単なる政略結婚、ただの契約だ。君を愛するつもりは毛頭ないし、寝室も当然分ける。君はただ、ここで大人しく『公爵夫人』という肩書を演じていればいい。それ以上の感情的な関わりは一切不要だ」
その言葉は、実家で「出来損ない」「代わりの生贄」として扱われてきた私にとって、むしろ安堵に近いものだった。
愛を期待されないということは、失望させる心配もないということだ。
姉が婚約を破棄した穴埋めとして、急きょ差し出された私のような人間に、感情を求められる方が恐ろしい。
「はい、承知いたしました、ヴォルフラム様。私のような価値のない人間に、居場所をくださるだけで十分です。御恩は忘れません。……あの、最後に一点だけ失礼してもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
彼の金色の瞳が、面倒くさそうに私を一瞥する。
その視線すら、私には過ぎた光だと思えた。
「軍服、左胸のボタンが緩んでいます。明日、陛下への謁見があると伺いました。その際に困るでしょうから、今すぐ直させていただきますね」
私は絶望に慣れすぎていた。
だから、愛されないと宣言されて傷つく暇もなく、ただ「役に立たなければ捨てられる」という恐怖から、反射的に彼の袖をつかんでしまった。
実家でも、使えない人間は放逐され忘却される。
ここでも同じことになるくらいなら、せめて何か一つでも役に立ちたかった。
裁縫道具など、当たり前のように嫁入り道具の中に入っていない。
実家の使用人たちは、私が「すぐに離縁される」と思っていたのだろう。
それでも私には、ひとつだけ方法があった。
自分の長い銀髪を一本抜き、そこに魔法の力を注ぎ込んだ。
実家ではゴミ扱いされていた微弱な強化魔法。
もちろん、戦闘などには使えないが、物を少しだけ丈夫にすることはできる。
髪に魔力を通し、針のように尖らせて、緩んだボタンを丁寧に固定していく。
指先が震えていた。
実家では、この魔法を使うたびに「こんな使えない魔法、恥ずかしくないのか」と罵られた。
でも、今は、これしか私にできることがない。
「これで大丈夫です。しばらくは取れないと思います。……ヴォルフラム様?」
顔を上げると、一分前まで氷のようだった彼の金色の瞳が、見たこともないような熱を帯びて私を射抜いていた。
瞳孔が開き、片手で自分の口元を覆っている。
まるで、何か信じられないものを見たような表情だった。
「……君は、今、何をした?」
声は低く、震えている。
私は、とんでもない失態を犯してしまったのだ。
「えっ、あ、すみません! 勝手に触れてしまって……! 私の汚い魔力が付いた服なんて気持ち悪いですよね、すぐに廃棄の手配をいたしますから……! 本当に申し訳ございません!」
怯えて身をすくめる私。
昨日まで、私が触れたものは汚れたと言われて捨てられた。
きっと今日からも同じだ。
また、私は邪魔者になってしまった。
しかし、次の瞬間。
私の体は、彼の強靱な腕の中に閉じ込められていた。
逃げようとしても、鋼のような力で抱きしめられ、耳元で低く、震える声が響く。
「……君、自分が何をしたかわかっていないのか。その献身、その無防備な指先。自分の髪を使ってまで、私のために……。……そして、その『自分には価値がない』と言わんばかりの、壊れそうな瞳」
彼の手が、私の頬を包む。その手は、驚くほど優しかった。
「君は、自分がどれほど稀有なのか、理解していないんだな」
結婚初日。
契約相手の情緒に深刻なエラーが発生。
冷酷騎士という設定値が消失し、代わりに『激重な独占欲』という未知の不具合が発現した模様。
心拍数が高すぎて、私の背中に彼の鼓動が突き刺さる。
これは、契約違反ではないのだろうか。
それからのヴォルフラム様は、人が変わったどころではなかった。
翌朝、目を覚ますと、彼が私のベッドの横に座っていた。
「おはよう、リーリア。よく眠れたか? いや、待て、その顔色はまだ疲れているな。もう一時間寝ていろ。私が見ていてやる」
「あ、あの、ヴォルフラム様……私、ただの契約妻ですよね? 別々の部屋で、と……」
「あれは撤回だ。私の言葉など、すべて無効だ」
彼は私の手を取り、その甲に唇を寄せた。
「リーリア、今日はどこへ行く? ああ、庭園か。……一人は危ない、私が付き添おう。いや、歩かなくていい、私が抱いていく。君の足が汚れるのも、疲れるのも、私は許せない」
「いえ、あの、歩けます……」
「黙れ。昨日までの私は死んだ。今の私は、君を愛さない人生など一秒も耐えられない男だ」
彼は本当に、私を抱き上げて庭園まで運んだ。
使用人たちが驚愕の表情で見ていたが、彼は気にも留めない。
それから数日。
彼は私の指先一つ、髪の毛一本にまで執着するようになった。
「リーリア、その髪留め、少し緩んでいるな。私が直そう。……ああ、美しい。君の銀髪は月光のようだ。毎日、私が梳いてやりたい」
「リーリア、今日も可愛い。いや、昨日より可愛い。いや、一秒ごとに可愛さが増している。これは重大な事態だ」
「リーリア、私の宝物。私の心臓。私の命。君がいなければ、私は呼吸すらできない」
毎日、毎時間、毎分、彼は私に愛を囁き続けた。
逃げようとすれば――逃げようとしたわけではないが、少し一人になりたくて別棟に向かおうとしただけなのだが――彼は爽やかな笑顔で恐ろしいことを言った。
「どこへ行くつもりだ、リーリア? 私たち夫婦の為の新たな館なら、もう建設を命じてある。三ヶ月後には完成するそうだ。それまでは、私の部屋から一歩も出るな。……いや、私の腕の中から出るな。そうだ、それがいい」
旦那様の性癖が『自己評価の低い女を愛で壊すこと』だったと判明。
私の無自覚な自虐発言が、彼にとって最高のスパイスになってしまっている。
先ほども「私なんかが公爵夫人で申し訳ございません」と言ったら、彼は目を潤ませて「その謙虚さ、その健気さ、愛しすぎて狂いそうだ」と言いながら三時間抱きしめてきた。
これ以上甘やかされると、私は私でなくなってしまう。
ある日、私を捨てた実家から手紙が届いた。
「やはりリーリアを戻してほしい。姉の婚約者が別の女性を選んだため、リーリアを別の貴族に嫁がせたい。公爵との結婚は取り消しを」
その手紙を読んだヴォルフラム様は、最初、静かに笑った。
それから、手紙を握りつぶし、暖炉に放り込んで灰にした。
「あいにくですが、リーリアは私の心の一番深い場所に居ます。返却は不可能です。……というより、君の実家には、こう返事を書こう。『リーリアに指一本触れたら、ミラベル家を灰にする』と。どうだ、リーリア? 私の愛が伝わるだろう?」
「あの、それは少し過激すぎるのでは……」
「では『近づいたら骨も残さない』にするか?」
「そういう問題では……!」
彼は私を抱き寄せ、額にキスを落とした。
「リーリア。君は、もう二度と、誰にも傷つけさせない。君を『出来損ない』と呼んだ者たちは、君の価値を見抜けなかった愚か者だ。君は私の光であり、私の世界のすべてだ」
逃げられないほどの独占欲に包まれて、私は今日も甘すぎる地獄で幸せを噛みしめている。
ああ、初夜の儀に残酷なまでに宣言された彼の言葉を、私は一生忘れないだろう。
「君を愛するつもりはない」
あの宣言は、一分も持たなかったのだ。




