第7話 幼馴染、そろそろ本気出しますか……
最近の六月の教室は、蒸し暑い。
冷房はまだ「試運転です」みたいな顔をしているし、窓を開けても風はやる気がない。
黒板の文字はにじむし、椅子はじっとりするし、制服は容赦なく体温を奪っていく。
つまり──
思考が全部、恋愛方向に流れてしまうということ。
(ここからは、ラブコメ展開が動く季節……)
私は自席で頬杖をつきながら、斜め前のしずくを見ていた。
体育後で、いつもより前髪が少し乱れている。
ジャージの袖を無意識に引っ張って、ノートを取る手元がどこか落ち着かない。
(……かわいいな?)
いや、疑問形にする意味がない。
かわいいに決まってる。
前髪の隙間からちらっと見える目。
少し火照った頬。
集中しようとして、逆に集中できていない感じ。
(こんなの、クラスの誰かが気づいたら一発アウトだよ!)
私は慌てて視線を逸らした。
こういうのを長時間見つめると、脳が勝手に最悪な未来予想を始める。
──誰かが声をかける。
──優しくする。
──イベントが発生する。
(ダメだ。思考を止めろ)
最近、自分が一番信用ならない。
でも同時に私は分かっていた。
ダメなのは、考えすぎることじゃなく、何も動かないことなのではないか、と。
(いつまでも隣で見てるだけの幼馴染で終わって良いのか私……!)
ここ数日で、嫌というほど学んだ。
イベントは待つものじゃない。
起こすものでもない。
奪われる前に、踏み込むものだ。
星宮ゆら。
生徒会の人。
それ以外の、まだ顔も知らない新ヒロインども、
(待ってたら、全部そっちに行く)
私は椅子を引いて立ち上がった。
心臓がうるさい。
脈が速い。
でも、ここで座り直してるようじゃダメだ。
「し、しずく」
名前を呼んだ瞬間、しずくの肩がびくっと跳ねた。
「な、なに……?」
少しビクッと肩を振るわせた。
その反応だけで、ちょっと満足してしまう自分がいる。最低だと思うけど、こういうところがとにかくかわいい。
(ちゃんと、私の声で反応してくれてる……ヤバい、私マジでキモいかも)
「その、放課後さ」
言葉を出した瞬間、教室の空気がほんの少しだけ変わった気がした。
誰かがこちらを見たわけでもない。
音が消えたわけでもない。
でも、ラブコメ的な間は、確実に生まれた。
(この感じ!? 流れが、私に来た……!)
「……放課後?」
「うん、そのーーえっと……」
詰まる。
脳内では台詞が山ほどあるのに、口から出るのは単語だけ。
(なんでだよ! 昨日まで一緒に帰ってたじゃん!)
でも、それとこれとは違う。
これは『いつもの』じゃない。
私は今、ラブコメに踏み込もうとしている。
しずくは、私を急かさない。
ただ、静かに待っている。
その待ち方が、致命的に優しい。
(ああもう……)
「……その、アイス」
「……アイス?」
「食べに行かない?」
言った瞬間、全身の力が抜けた。
心臓が一拍遅れて跳ねる。
(言えた……)
季節感はまぁギリギリ合ってるし、理由も単純だし、デートって言葉を言えれば全部終わるんだけど……
でも、今の私にはこれが限界だった。
しずくは少し考えてから、こくりと頷いた。
「……うん、いいよ」
(よっしゃあああああああああああ!!)
脳内で万歳三唱スタンディングオベーション。
勝利のファンファーレ。
青春ラブコメアニメみたいな、OP曲が頭に流れる。
それでも私は、表情を必死で抑える。
ここで、ニヤけたりなんかしたら全部台無しだ。
「そ、そっか。じゃあ、放課後ね」
「うん」
しずくはまたノートに目を戻した。
でも、少し耳が赤い……ような気がする
(これは……)
(これは、来てるやつでは……?)
幼馴染。
放課後。
二人でアイス。
どう考えても、順調。
あまりにも、順調すぎる──
──だからこそ。
「朝霧さーん」
(はいストップーー!!)
反射的に奥歯を噛む。
この声量、このテンポ。
『来るな』という願いが、ここまで意味をなさないとは、幼馴染キャラはやっぱり上手くいかない。
「今日の放課後、ちょっといいですか?」
もう名前も呼びたくないビッチ女、星宮ゆらだ。
(お前はまず、タイミングという概念を学べ)
しずくは困ったように視線を彷徨わせる。
その仕草一つで、場の主導権があっちに移るのが分かった。
(これは、まずい)
「あーえっと、しずく、今日は用事あるんだよね」
口が勝手に動いた。
嘘をついてはない。
私という用事があるんだから。
星宮ゆらは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「へえぇ、そうなんですか?」
その笑顔が、やけに計算されて見える。
無邪気風・柔らか攻撃。
「じゃあ、明日はどうです?」
(この女、日にちをずらしてきやがった!?)
「……明日?」
「はい! 委員会の資料、手伝ってほしくて」
委員会。
正当性。
断りづらさ。
(これが本物の陽キャヒロイン、強い……)
しずくは、私に視線を送る。
私はそれを全力で返す。
(今日!! 私とだよね!!)
「……今日は、ひなたと──」
(よし、言った!!)
心の中でガッツポーズ。
勝った、と思ったその瞬間。
「おや、朝霧さん」
(どうしてだよおおおおおお!!)
この前話していた生徒会の女。
まるで台本のような完璧なタイミング。
やっぱりこいつも、星宮ゆらと同じ、しずくのヒロインだと確信できるには充分な材料だ。
「今日、提出物の確認があると聞いていませんか?」
(そんなの、聞いてないが!?)
三方向。
完全包囲。
生徒会ヒロインと陽キャヒロイン、蚊帳の外の幼馴染ヒロイン……
(まずい、キャラとして絶対に勝てない…!)
しずくはしばらく黙って、それから小さく息を吸った。
「……ごめん、ひなた」
その一言で、全部分かった。
アイスともに放課後イベントは、溶けた。
──でも。
「……また、行こうね」
その一言で、気持ちが少しだけ戻った。
(……ずるい)
(でも、ありがとう)
放課後。
私は一人で教室を出る。
(やっぱり、この世界理想の展開なんか起きない)
それでも。
(しずくは、ちゃんと私とって言ってくれた)
それだけで、今日は負けなんかじゃない。
次は、もう少し踏み込もう。
邪魔が入っても、それを想定して。
私は拳を握った。
(青髪幼馴染ヒロイン……そろそろ本気出します、か──)
そんな、キモい宣言を心の中で力強く叫ぶ。
その数歩後ろで、星宮ゆらが楽しそうにこちらを見ていることに、この時の私は、まだ気づいていなかった。




