第5話 私の中の天使と悪魔
その違和感は、朝のホームルームが終わった瞬間から始まっていた。
星宮ゆらが、こちらを見ている。
いや、正確に言うと、こちらというか──
私の隣に座っている、朝霧しずくを見ている。
(見てる……)
いや、違う。
そんな生易しい見方じゃない。
(いやらしい、ビッチが……)
ニコニコとした笑顔。
誰にでも向けているようで、実際には向けていない視線。
距離感が近いくせに、決して踏み込みすぎない足の運び。
その全部が、計算され尽くしているように見えた。
(こいつ……私と同じ、百合ラブコメ履修済みだな?)
私はノートを取りながら、内心で唸る。
星宮ゆらは、明らかに慣れている。
人と仲良くなることに。
そして、誰かの懐に、違和感なく入り込むことに。
それは才能に近いものだ。
生まれ持った、対人関係ステータスの高さ。
そして──
幼馴染という立場でしか戦えない私にとっては、正面からぶつかるには、あまりにも分が悪い相手だった。
「朝霧先輩!」
噂をしてれば、来たな……
私は反射的に体を強張らせるが、当然そんなことは顔には出さない。
というより、出せない。
しずくの前で、出したら終わりだ。
「はい……?」
しずくが顔を上げる。
前髪が少し揺れて、目元がちらりと見える。
(あっ、ダメダメダメ!)
その角度、そのタイミング、その無防備さ。
ラブコメ世界では、好きになる人が出る瞬間のテンプレ!
漫画だと一ページ丸々使われるアレだ。
星宮ゆらは、少し首を傾げながら言った。
「次の体育、ペア決めどうします?」
「え……?」
「たしか〜先生、自由に決めていいって言ってましたよね?」
私は、割り込もうとした。
本当に、一瞬。
喉まで言葉が来た。
「しずくは、私と組むから」
「しずくは、もうペア決まってるから」
「しずくは、私の幼馴染だから」
どれも言える。
言えない理由なんて、本当はない。
──でも。
口を開く前に、しずくが困ったように微笑んだ。
「……私は、誰でも……」
(誰でもって言うなああああああ!!)
心の中で叫びながら、私は必死に表情を保つ。
ここで私が強く出たら、どうなる?
しずくは、どう思う?
「ひなた、なんでそんなに必死なの?」
「ただのペアなのに」
そんな顔をされるのが、怖かった。
幼馴染というものは、便利なようで不便だ。
踏み込みすぎると、一気にただの変な人になる。
星宮ゆらは、その返事を待ってましたとばかりに、一歩近づいた。
「じゃあ、私と組みませんか?」
おい、やめろ……
声は明るく、態度は礼儀正しく、でも距離は、いつもよりもさらに近い。
断りづらい。
断らせない。
そういう配置。
しずくは一瞬、私の方を見た。
その視線に、私は全力で念を送る。
(断って、お願いだから!)
(ここでイエスは、間違いなくイベントフラグ!)
(てか普通に、展開早すぎてラブコメ的に良くないんじゃないかなぁ……?)
でも、しずくは小さく頷いた。
「……うん、いいよ」
私はその場で、机の下で拳を握りしめた。
止められなかった。
邪魔できなかった。
違う。
邪魔したかったのに、できなかった。
昔からそうだ。これが、幼馴染の限界なんだ。
体育の時間。
私は別のペアになりながらも、視線だけはしずくたちから一切外せなかった。
傍から見たら、完全にヤバいやつだ。
でもヤバい自覚はあるから、セーフ。
仕方ないんだ。
これは戦争だ。
私が、まだ開戦すらできていないだけで……
星宮ゆらは、実に自然にしずくを気遣う。
「朝霧先輩、無理しないでくださいね」
「その靴紐、ほどけてますよ」
「水分、ちゃんと取ってます?」
(……ああ)
私は奥歯を噛みしめる。
こういうの。
こういうのの積み重ね。
一個一個は些細で、誰でもできる優しさ。
でも、それを継続して向けられる強さが、あいつら勝ちヒロインの特権だ。
しずくはそのたびに、少し驚いたように、でも嬉しそうに答える。
「……ありがとう」
「だ、大丈夫だよ……」
(やめてくれ……)
嬉しそうにされると、私も何も言えなくなる。
私は鉄棒の前で順番待ちをしながら、胸の奥がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。
──私は、ずっと一緒にいたのに
同じ帰り道。
同じ家の距離。
同じ時間。
でも、それはイベントじゃない。
日常は、ラブコメでは評価されない。
ゲームだって、好感度なんか上がらない。
体育館の壁に背中を預けて、天井を見上げる。
(負けヒロインって……)
(邪魔しなかったんじゃなくて、邪魔できなかったんだ……)
幼馴染に嫌われたくない。
変に思われたくない。
今の関係を壊す勇気がない。
それを全部ひっくるめて、
私は、ラノベの幼馴染は「幼馴染」という言葉で、関係で、誤魔化している。
やだ、いやだ。
私の前から、しずくがいなくなる。
あんな奴なんかに……絶対取られたく──
「──ひなた?」
その声で、我に返る。
しずくが、少し心配そうな顔でこちらを見ていた。
「……具合、悪い?」
「いや、元気元気。むしろ元気すぎて困っちゃう!」
「……?」
しずくは、何も分かっていない。
自分が、どれだけ人の心を掻き乱しているかも。
でもしずくが悪いんじゃない、私が、1人で抱えて何もできずに立ち尽くしているだけだから。
星宮ゆらは、少し離れたところで私たちを見て、にこっと笑った。
その笑顔が、
私にはどうしても、仲良くしましょう、なんて可愛いものには見えなかった。
(完全に、しずくを落としに来てる)
でも私は、まだ動けない。
しずくは、幼馴染だから。
私は、しずくの幼馴染でいたいから。
しずくの横顔を見ながら、胸の奥で小さく呟いた。
(まだだ……)
(邪魔できないだけで、諦めないわけじゃない)
(幼馴染は……)
(まだ、負けてない)
そう思い込まないと……
このラブコメ世界では、本当に、立っていられなくなりそうだった。




