第一話 ノア・ブラン
目を閉じる。
生命の奔流を見た。
十、二十、それ以上。枝葉の重なりを見上げている。そのわずかな、ちょうど光一本分の隙間から陽光が抜けて足元にさしている。幾百の浅緑に反射して、光線はさわやかな黄緑色を帯びていた。あふれ出る命の魔力が溶けだしているようだと思った。
曇天の激情を聞いた。
千、二千、それ以上。大粒のしずくが絶え間なく山肌を打っていた。一刻前まではあんなに晴れやかに笑っていた空が、今はぴしゃりと心を閉ざし、厚い雲で姿を隠している。十里先で走った閃光のうなり声が響いてきた。青空に浮かぶ雲の一つ一つが、実はそのうちに複雑な感情を宿していると知った。
夕日に触れた。
沈んでは上り、灯っては消えていく。昼間は温かく、にこやかに世界を照らしている太陽が、姿を消すその間際に一番苛烈に光を放つのを理不尽に感じた。どうせまたしばらくしたら優しい顔をして姿を見せるっていうのに。
父さんがよく言っていた。「世界は、誰の目にも美しい」って。僕もそう思う。父さんは物知りで、何を聞いても答えをくれた。僕には、しらないことが多すぎる。まだ知りたい、もっと知りたい。この美しい世界を知りたい。そして、皆にも知ってほしい。父さんと、母さんと、先生にもそして、この先出会う名前も知らない人たちにも。
先生が言うには、僕自身と、この一枚の紙には、それを叶える力があるらしい。
「うわぁ、これが、都会・・・!」
人通りの中、少年は立ち止まっていた。行き交う人、人、人の流れ。買い物袋を携えた婦人、仕立てのいい服に身を包んだ役人顔の男。手をつないで歩く若いカップル。瞬きするごとにその目は違う人の、違う表情を映している。石畳を踏み鳴らす靴の音が鳴りやむことなく耳を打っていた。
ノア・ブランは橋の上にいた。自然の中を旅しながら暮らす彼にとって、何十人もの人が横一列にわたることができる石橋も、急流のような人通りも初めて経験するものだった。そして当然のことながら、止むことのない人流の中で立ち止まるとどうなるかということも、知らないようだった。
ドンッ!と背中に衝撃が走る。大柄な男の体に押され、バランスを崩す。成長途中のその体では、筋肉の重さには勝てるはずもない。足がもつれて、体が横に流れる。ステップを踏むようにして半回転した足元に、小さな兄弟が現れた。兄弟が脚の両脇を抜けて走り去っていく。すんでのところで止まることができたと一息つこうとすると、子供を追いかけているのだろうか、怒り心頭と言う顔で迫りくる母親の肩に激突した。
押され返されぶつかって、やっとの思いで安全な端の方ににたどり着いたとき、はじめてまともに呼吸した気がした。分厚い欄干に上半身を預け、さっきの感動とは違った意味でつぶやく。
「これが、都会・・・!」
疲れた顔で水面を見つめていると、流れてきた水鳥と目が合った。そこは空いていていいね、と話しかけるが、返事は帰ってこない。水鳥を見送って、たすき掛けにしたカバンを担ぎなおす。気を取り直して歩き出す。今度は人の波にさからわないように。
―――――
アダン・アルベールが死んだ。この事実が魔法界に与えた衝撃はどれほどのものだったろうか。
集権時代に始まった古典的な研究方式を刷新し、現代社会の希求する形に魔法の基礎を再構築した。その影響は計り知れず、特に魔法教育の面において彼は歴史上のどんな偉大な魔法使いたちの功績をも上回るだろう。
―――光の閃光が一条、二条と走った。濃紺の瞳孔にきらりと反射する。
長命種との混血であった彼が息を引き取ったのは、つい半年ほど前だったらしい。彼の死が私たちにまで知れ広まったのは、葬儀が済まされた後だった。彼の意向で、身内と、古くから親交のあった知人だけを呼んだらしい。喧噪や派手さを好む人ではなかったし、参列希望者を募ったらそれこそ議事堂でも借りなければいけなくなるところだろうから、それが望ましかったのだろう。それでも我慢ができず、魔法界の要人たちのよびかけで送別会が開かれた。私も参加した。そうでもしないと、皆の気が済まなかったのだ。それほどまでに偉大で、敬愛された人物だった。
―――高さ数メートルに届くだろうかという火柱が上がった。しなやかな指が口元に添えられる。
彼が結婚したのは晩年になってからで、子供はいなかったらしい。彼の理念に感化されて彼の行く道を追従する魔法使いは山ほどいたが、彼が公式に弟子をとることはなかった。一つの時代が終わった、と誰かがつぶやいた。アダン以前、アルベール以後と。
―――小型の竜巻が3つらせんを描いた。風を受け艶やかな黒髪が暴れるが、表情は動かない。
誰もが待ち望んでいる。次なるアダン・アルベールを。この時代を牽引していく、新たな才能を。
・・・そう言って、彼に次ぐような才能が簡単に出てくるようなものであって欲しくないと思う気持ちもあるけど。
エリス・エルランジェはあくびを噛み殺しながら、頭の中でそうつぶやいた。
「ありがとうございました、試験はこれで終わりです。次の人を呼んできてくれる?」
薄く笑みを浮かべながら舞台に向けて声をかける。どこぞの制服に身を包んだ青年が、ぎこちなく会場を後にしていく。
今年の編入試験、今のところ合格者はナシ、かしら…。
アカデミア・グランヴィル。王国の都、グランヴィル。その中央部に位置する巨大な湖上島の一角に門を構えるこの国随一の教育機関。領主や貴族、豪商と言った富裕層の子息が高水準の教養を学ぶこの学園は、初等部、中等部、高等部、そしてこの学園の代名詞ともいえる高等魔道部の四つのパーツで構成されている。アカデミア・グランヴェル高等魔道部の栄光は世界でも指折りで、卒業することができれば魔法を仕事に生きていけることが約束されると言われている。
エリスは、その高等魔道部の教官であった。
ちょうど20人目になる受験生の履歴書に小さく印をつけながら、他の試験教官に気取られないように音を殺して背もたれに倒れ掛かった。
高等魔道部に入学するための道筋は二つ。一つは学園の中等部に所属する学徒が中等部三年間の間、年に一回受けることができる入部試験に合格すること。もう一つが、特別入学試験に合格すること。こちらは魔法の道を志すものならば”誰でも”受けることができる。誰でもといっても、無名の魔法使いは書類審査の時点ではじかれるのだが。だから、こうして書類試験を抜けてくるのは、大半が中等部の間試験に合格できず、進級した後も魔道部を諦められない高等部所属の生徒か、よその学校でいい成績を残し、挑戦の意味で受験しにくるような学生である。
今日はその特別試験の試験日だった。この審査を抜けた受験者は後日、内部生徒受験者と合同でもう一度審査を受けることになる。
脚を組み、右手にペンを弄びながら、つい考えてしまう。あぁ、まだ始まったばかりなんだなぁ、今年も始まってしまったんだなぁ…、と。
今日、この審査が始まったということ、それすなわちここからしばらく審査漬けの時間が続くということだ。一日に何十人といる受験者を見て評価していく作業が待っている。それを想うと、憂鬱な気持ちになるのは仕方ないことだろうと自分に言い聞かせる。何より退屈だと感じるのは、書類審査を抜けてここにきているような受験者は、ほぼ間違いなく次の試験に進むことが決まっているということ。この審査、いらないんじゃない?と何度思ったことか。次に進んだとしても、どうせ最終的には大半が落ちてしまうというのに。
初等部・中等部、さらには課外の時間の多くを費やして修練を積んだ優秀な内部生徒ですら合格するのは一握りなのだ。特別試験を最後まで突破するのは非常に難しい。
実際、エリスが特別試験の担当になってから、合格者は数えるほどしか生まれていなかった。非常に狭き門であることは、アカデミアに所属する者、そうでなくても多少この学校を知っているものならだれでも理解している。
それでも、わざわざ時間をかけて外部から才能ある若者を探すのは、この特別試験制度がほかならぬアダン・アルベールの鶴の一声によって始まったものだからだった。時折、どこぞの高名な魔法使いの箱入り弟子が現れて、合格、卒業してあれよあれよという間に偉業を成し遂げるなんて事例もこれまでなかった訳ではない。そういう歴史に惹かれて、一発逆転、足跡を残せれば儲けものと言った意気込みで申し込んでくる魔法使いの多いこと、多いこと。
(毎年のこととはいえ、本当に嫌になりそう。それでも、やるしかないわけだけど・・・)
ほかならぬ、あのアダン・アルバートのことだもの、編入制度を設けたのも意図あってのことでしょう。まあ、真意を確かめることは、もうできないわけだけど…。さて、今日の受験者もやっと残り僅かってところね。
吸い込んだ息がそのままため息になりそうなところをぐっと飲み込んで、鼻息として排出する。気持ちを持ち直すために椅子に深くに座りなおしながら、他の試験教官の顔色をのぞいてみる。きっとみんな、疲れた表情をしているに違いない。
と、右方を一瞥して、違和感を覚える。気のせいかと思い左方をちらりと見る。やっぱりおかしい。なぜだかみんな、ソワソワしている?楽しみにしているような、あるいは不安げなような、皆別々に落ち着かない様子をしている。
どうしたのだろう、いつもはこのくらいの時間になると全員疲れた顔をして、目から生気がなくなってくるのに、今はむしろ、一人目の審査の時よりも目の輝きが増しているようにすらみえる。この後飲みに行く約束でもしているのかしら。私聞いてないけど。
・・・そういえば・・・・・・。
そこで、思い出す。自分以外の試験教官が皆、試験が始まる前何かひそひそと話していたことを。
ははーん、何か、おもしろそうな受験者でもいるのか、と目を光らせこれまでろくに目を通していなかった受験者書類の束をめくり始める。一人、二人と手は動き、最後の一枚になった時そこで、時が凍った。
そんなまさか、本当に?。目線が一枚の紙の上を右へ左へ滑っていく。
何度も読み返して、目の錯覚でないことを確かめたのちも、脳が理解を阻んでいる、短文ふたつ。
『受験者指名:ノア・ブラン』
『師事:アダン・メトル・アルベール』
いつの間にか入ってきていた次の受験者の存在に気づき、はっと肩を揺らす。そのまま試験が始まった。
一人、また一人と現れる受験者をさばいていく。しかしその一方で、彼女の意識は、考えは、違うところと結びついて離れなかった。
彼の魔法がまた見れるのか。期待が胸を駆け巡っていた。あの整然と美しい魔法使い、アダン・アルベールの魔法。彼の教え子は、彼のように魔法を操るのだろうか。いや、彼ほどの魔法がこんな若い子供に仕えるとは考えづらい。しかし、あのアダンがとった弟子なのだ、相当の実力を持っているに違いない。…とてつもない才能に、違いない。いったいどんな?
エリスの頭の中を、ありとあらゆる天才の名前が通り過ぎていく。
エリスの顔がいつのまにか、左右に座る教官と同じようなものになっていることに、彼女自身は気づかない。