長兄と末の妹
数時間後、ディルは慌ただしく帰ってきた。
まだ夕刻には少し早い。どう考えても忙しいであろう彼が、特別に早く帰ってきたのであろうことは想像に難くない。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
ウェンディはマントを受け取ると、エントランスホールの壁掛けフックに掛けた。
マントからは芽吹いたばかりのハーブのような香りが漂う。
ほんの少しだけ、その香りから離れがたく思った。
「ありがとう。ところで、ミッシェルは?」
「お昼寝をしています――あの」
「何か聞きたいことがあるようだな……執務室に行こうか」
「はい」
ディルの毎日はきっと想像以上に忙しい。
辺境伯騎士団は、国境付近にはびこる魔獣に対処している。
魔獣があふれかえってしまうと、国全体が危険にさらされる。
しかし、隣国とのいらぬ紛争を招かないのもまた、魔獣がいるために国境付近でのいざこざが起こりにくいからなのだ。辺境伯騎士団はその調整という重要な使命を持つ。
魔獣が発生することすら何か大いなる存在によるものなのかもしれない。実際神殿の中で多くの神官や聖女はそう考えていた。
ウェンディはどちらかと言えば現実寄りの考え方をしているのだが、ときどきそういった大いなる存在について考えなくもない。
そんなことを思いながら、ディルについて行く。
執務室の扉は重厚で、バルミール辺境伯の歴史を感じさせた。
扉にほどこされた彫刻は、聖女の象徴でもある白薔薇のようだ。
忘れ去られた歴史ではあるが、この辺境伯家の始祖と初代聖女の関係は深かったはず……。
曖昧な記憶をたどろうとしたウェンディは、扉をくぐった先で振り返ったディルと視線が合ったことで我に返る。
今さらながら、黒髪に青い瞳をしたディルは麗しい。
二十四歳になった彼は、若いながらも辺境伯領を良く治め、騎士としても名高い。
「さて……とりあえず、そこに座ってくれ」
「はい」
ウェンディが座ると、ディルも隣に腰掛けた。
急に近くなった距離に、ウェンディの心臓が高鳴る。
「ミッシェルのことなのですが……」
「やはり、気がついていたか――老師の仰るとおりだ」
「老師――神殿長ですか?」
老師は中央神殿の神殿長のことだ。彼の紹介で侍女――ではなく花嫁候補としてウェンディは今この屋敷にいる。
「ああ、老師は君のことを勉強熱心で幅広い知識を持つすばらしい聖女だと言っていた」
「神殿長が、私のことをそのように?」
白い髭と髪の毛の老齢の神殿長は、ウェンディのことを孫のように可愛がってくれもしたが、それと同時に聖女である彼女に対してはとても厳しい人だった。
規律、模範、精霊への信仰――聖女として求められる素養、自由奔放なウェンディはそういう意味では劣等生だった。
「君は聖女として一番大事なことを知っていると――それに関しては、俺も同意する」
「……そう、ですか」
ウェンディは涙をこらえながら俯いた。
天涯孤独だったウェンディにとって、神殿長は家族のような人でもあった。
そんな彼に認められていたことがこの上なく嬉しく思えた。
「それから、ミッシェルは『彼方の目』を持つ」
ディルがサラリと口にした単語はウェンディが予想していたものだった。
「……やはり、そうでしたか。神殿に報告は――されていませんでしたね」
ウェンディが先日まで聖女として務めていた中央神殿では、特別なギフトを持つ国民について厳重な管理の下情報を有していた。
高位神官や聖女は、その情報を閲覧する権利があった。
そんなものに興味を持たない聖女が多い中、ウェンディは全てに目を通していた。
もちろんそれは、知的好奇心によるものだったことは否定できない。
しかし、今代のギフトの中に未来を視ることが出来る『彼方の目』を持つ子どもの報告はなかった。
「――これから報告するのですか?」
ウェンディはそう口にしながら、恐らくディルはミッシェルのギフトを報告しないだろう、と思った。
しかし特別なギフトを報告しないのは、王家や神殿に背を向ける行為とされている。
「神殿長には報告済みだ」
「……でも資料に記載されていませんでした」
「そのように願い出た」
「神殿長は何を考えて……いいえ、とても神殿長らしいですね」
神殿長は情に厚く、それでいて冷静な判断ができる人だ。
そして、強いギフトを持つ者を精霊に選ばれた特別な存在とするほとんどの神官たちとは違う考え方をしていた。
自身とは違う考え方に表だって異を唱えることはなかったが、ウェンディのように聖女としての型から外れた者にも分け隔てなく接してくれた。彼は水面下でできることは全て実行し己の道を切り開いていくタイプだ。
「ディル様は、ミッシェルを手元で育てるおつもりなのですね」
幼い妹を手元で育てていく。当たり前のことのようでありながら、それはあまりにも困難な道のりに思えた。ウェンディが眉根を寄せて俯くと、ディルは彼女の頭を軽く撫でた。
「そんな顔をさせたかったわけではないのだが……」
ウェンディはそこでミッシェルの『いいこいいこ』という言葉と共にこの瞬間のことだったかと思う。
それと同時に、では赤いとは? とも……。
「そうだ――ルネッタだけにはミッシェルのことは伝えてある」
「ルネッタ様は、王太子殿下の婚約者候補でしたね」
「……妹を王族の妃にするつもりはない。もちろん、本人が相手を愛しく思い、その場所で生きていく決意をしたのなら応援するつもりだが」
「……」
ディルの家族に対する愛は深く、守るという強い決意がうかがえた。
しかし彼自身がまだ二十代なのだ。本来であれば、父や母に教えを請いながら前に進むことができるのだろうが……。
「わかりました、私も幼い子どもが家族から引き離され、厳重な管理下に置かれて生きていくなんて嫌です。このことに協力を求めるために私を妻にすることに決めたのですね?」
「……」
「ディル様」
ディルは軽く瞠目し、次いで口の端をつり上げた。
年相応のそれでいて少し意地悪げな笑みに、ウェンディの視線は釘付けになった。
「君は勘違いしているようだ」
「え?」
「確かに、俺たちの秘密を守ってくれるだろうと信じてはいる。しかし俺が君を選んだのは、今朝言ったとおり君に恋をしたからだ」
「――ディル様」
ウェンディの頬は真っ赤に染まったことだろう。
そして、もちろんこれがミッシェルが言っていた『あかい』に違いない。
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