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聖女様、お仕事の時間です~怠惰な聖女と完璧女装執事~

作者: 寧子さくら

ほのぼのしたお話が書きたくて、だいぶ前に長編用に書いてそのままになっていた作品なのでちょっと長めです。


 森の奥にひっそりと佇む、古い神殿。

 四方は小川に囲まれ、周辺には鮮やかな緑や控えめな野花が咲いている。

 川が流れる音、揺れる木々のざわめき、小鳥のさえずり――自然が奏でる音が微かに聞こえる広間で、今日もまた日課の点呼が始まっていた。


「アメリー・キャルロッテ」

「はい!」

「ヴィクトリア・ダーシー」

「おりますわ」

「返事ははいで結構」


 ティファナ王国北部に位置する、エルシダ神殿。別名、聖女の学び舎。

 ここでは聖女の素質である『治癒力』を持つ少女たちが聖女見習いとして集められ、一人前の聖女になるため日々努力を重ねている。

 この後の『お勤め』を控え、やや緊張した空気の中、神官の太い声が響き渡った。


「――セレーナ・フローレンス」

「…………」

「セレーナ・フローレンス」

「…………」


 二度、名前を呼ばれても、その主は一向に返事をしない。

 あまりにも長い沈黙に、他の見習生たちもひそひそと話を始めた。


「ねえ、またなの? これで何回目?」

「セレーナってあの落ちこぼれの?」

「そうそう、どうせ逃げ出したんでしょ」

「やる気のない人間は必要ないわ。いないほうがマシよ」

 ある少女の不在に、誰一人驚くようなことはしない。それどころか、本人がいないことをいいことに、悪口で溢れる始末だ。


「セレーナ・フローレンス!」


 神官の怒りが混じった野太い声に、無駄話をしていた見習生たちも一気に静まり返る。

 セレーナ・フローレンスが返事をすることは一向になく、代わりに控えめな足音とともに神殿に相応しい美しい声が響き渡った。


「――申し訳ございません、主人は体調が優れないようでして」


 丁寧に深くお辞儀をする『女性』。漆黒の長い髪を後ろでまとめ上げ、浮いた白い肌は陶器のように滑らか。まるで彫刻のような彼女に、その場の全員が釘付けになった。


「……またか。主人の管理は侍女の仕事でもあるとわかっているのか?」

「重々承知しております。明日には必ず体調を整えてまいりますので」

「まあよい。これ以上続くようならば、ここを出て行ってもらうまで。下がれ」

「失礼いたします」


 女性――侍女はもう一度深く頭を下げて、その場を去って行く。

 そして広間を出たところで、深いため息をこぼした。


「さて……お嬢様を探しに行きましょうか」




 時を同じくして――

 体調が優れないはずのセレーナ・フローレンスは、神殿の塀をよじ登っていた。


「よっと!」


 軽々と塀の上までのぼり切ると、すぐ傍の木の枝に乗り移る。

 そのまま枝にぶら下がると、慣れた様子で地面へと着地を成功させた。


「ふふん、脱出成功♪ お勤めなんて、やってられないわよ」


 セレーナはべっ、と神殿に向かって舌を見せた後で、上機嫌で森の奥へと駆け出した。

 フローレンス伯爵家――それが、セレーナの実家であり、彼女はフローレンス家の二女としてこの世に生を受けた。

 ティファナ王国では爵位を与えられている家――つまるところ貴族は人口の十パーセントにも満たなく、伯爵家ともなれば上位の一握りである。

 フローレンス家は広い領地を所有しているのはもちろん、貿易事業でも富を得ており、悪事でも起こさない限りはその地位から引きずり落されることはない。

 しかし、セレーナは女だ。その恩恵を受けられるのはせいぜい大人になるまで。それまでにどこかの貴族へと嫁ぐか、それが嫌なのであれば自分で稼ぐ方法を見つけるしかない。

 もとより結婚願望などこれっぽちもなかったセレーナは後者を選び、生まれながらにして持っていた治癒力を使って生きていこうと考えた。

 この国では聖女とは神に一番近い存在であり、その希少な能力を持ってすれば、一生金には困らない生活を送れるのだから。けれども――


(見習い聖女の仕事が、こんなに辛いだなんて思わなかったわ……)


 セレーナの心は神殿へとやって来て、三日でバキッと音を立てて折れた。それはもう、あっさりと。

 見習いといえど、毎日神殿にやって来る患者たちを次から次へと治療させられるという重労働に耐えられなくなったのだ。


「あーお勤めなんてしたくなーい! 今日は一日遊んでやるんだから!」


 神殿に勤めてまだ三月。任期は三年。セレーナは既に、堕落聖女と化していた。



 神殿のある森から程遠くない場所に、小さな田舎町がある。生活に必要な最低限の店や施設だけが揃えられた町。セレーナはよくここへ足を運んでいた。

 もう少し足を伸ばせば大きな町もあるけれど、如何せん移動手段は徒歩だ。セレーナは極度の面倒くさがり屋であるため、滅多なことがない限りあまり遠くへはいかない。

 そもそも町に出る目的は、ただの暇つぶしだ。お勤めはしたくないけれど、サボって神殿にいたところで、つまらなくて死んでしまいそうになる。

 学び舎である以上、必要以上の娯楽を持ち込むことは禁止されているし、自由に歩き回ることもできない。それならば、無理にでも外出をして時間をつぶすほうが有意義だった。


(お金はあまりないけど、夕食くらいは買えそうね)


 セレーナはお勤めで手に入れた、数少ないお金を握りしめて、町中を練り歩く。と言っても何度も来ているし、めぼしいものは何もないのだけれど。


「う、うぅ……」

「ん……?」


 今日の夕食を考えながら歩いていたセレーナが、どこかから聞こえてきた呻き声に足を止める。

 声の主を確かめようとすぐ傍の角を曲がると、腰の曲がった老婆がうずくまっていた。その傍には、老婆が落としたであろうリンゴがいくつか転がっている。


(これは、もしかしてもしかしてだけど、体調が悪かったりするのかしら……?)


「うううっ!」

「っ、大丈夫!?」


 一瞬、見て見ぬふりをしようとしたセレーナだったが、目の前で苦しみだした老婆に、何も考えずに駆け寄る。

 そっとその身体に触れると、身体はしっとりと濡れていた。


「すごい汗だわ……どうしたの? どこが苦しいの?」

「ちょっと、お腹が、ね……痛くて……くっ……」

 よく見ると老婆の顔は真っ青で、大量の冷や汗をかいている。ちょっとお腹が痛いなんてものではなさそうだ。


「医者へ行きましょう」

「お医者様なんて、行くお金はないよ……っ」

「そんな……」


 ティファナ王国には、医者という職業が存在する。聖女は治癒力であらゆる病気や怪我を治してしまうけれど、その分治療費がかさむ。そのため、聖女を頼るのはほとんどが貴族であり、金を払えない平民は皆医者を頼るのだ。


 その医者に行く金すらないとなれば、老婆はこのままなすすべもなく、苦しみ続けるしかない。それどころか、命に関わる可能性だってある。

 セレーナはしばし考え込んだ後、覚悟を決めて老婆の腹部に触れた。


「大丈夫、私に任せて」

「え……」

「今、治してあげるから」


 そっと目を閉じたセレーナの手のひらに、光が集まっていく。


(これは……ひどい、腸の動きが止まってしまっている……)


 聖女の能力は、治癒力に加えて、触れたものの病や怪我を見抜くことができる。これには個人差があって、見習いの聖女だと未熟なことも多いが、セレーナの素質は抜群だった。


(わりと重症だけど、私の力でもなんとか大丈夫そうね……)


「大丈夫、すぐに、治るわ……」


 セレーナが眉間にしわを寄せると、その額にじんわりと汗が滲む。集まった光は強く発光した後で、次第に収まっていった。

 先ほどまで苦しんでいた老婆が、驚いたように声をあげる。


「ああ……これは驚いた。痛みがなくなったよ……」

「そう、よかった……」

「まさか聖女様だったなんて……でも、どうしましょう、わしには払えるお金も……」

「いいのよ、私が勝手に治しただけだから」

「そんな……せめて何かお礼を……」

「じゃあ代わりに、このリンゴ貰えるかしら? 少し、疲れてしまって……」

「こんなもので良ければいくらでも持って行ってくださいな」

「ありが、とう……」


 セレーナがにっこりと笑みを作る。けれどすぐに意識が薄れ、ふらっと身体が傾いた。


(あ、まずいわ……急に、力を使ったから……)


 セレーナの意識が完全になくなる寸前、駆けつけた女性――セレーナを探し待っていた侍女がその身体をすぐさま支える。


「……見つけましたよ、お嬢様」


 聞き覚えのある声、そして力強い腕に支えられて、セレーナは目を閉じた。


 

 セレーナが目を覚ますと、神殿内にある自室の寝台に寝かされていた。


(あれ、私なんで……)


「……っ、お婆さんは!?」


 先ほどのことを思い出し、セレーナが勢いよく起き上がる。すると、怖いくらい綺麗な笑みを浮かべた侍女と目が合った。


「お目覚めですか」

「ノア……」

「お嬢様がお助けになられた方はご無事です」

「そう……」

「見返りを求めず、万人を治療するお姿、さすが聖女様になるべくお方ですね」


 ノア・リーヴァは、セレーナが幼いころから傍にいる『執事』であり、見習いのセレーナについて神殿にまでついてきた『侍女』。

 怠惰なセレーナとは比べ物にならないほど几帳面で、しっかり者で、そして――


「……と、言うとでも思いましたか? どこをほっつき歩いていたんですか? この私に何も言わずまた神殿を抜け出して」

「ひっ」

「体調不良で誤魔化しておきましたが、もう限界がございます。今後は勝手なことはなさらないよう」

「…………」

「……お嬢様?」

「へ、へい……」


 サボるくせに嘘は苦手なセレーナが、意地でも返事はしないと言わんばかりに視線を逸らす。

 ノアはやれやれと肩を竦めると、怖いくらいの笑顔を浮かべ、セレーナへと迫った。


「まったく、私の主人は困った方ですね」

「ノア……?」

「これ以上逃げるというならば……その足切り落として差し上げましょうか」

「ひぃっ! なんてむごいことを言うのよ、こんの鬼畜執事……!!」

「返事をすればよろしいだけですよ?」

「うぅ……わ、わかったよ」


 主人に対しても遠慮なく、笑顔で強い圧力をかける。セレーナですら、この状態のノアには頭が上がらなかった。


「それに、まだ見習いの身でむやみに力を使うのはおやめください。もし私がいなければ、どうなっていたことか……」


 ノアが心配する理由、それはセレーナの能力が不完全であることにあった。

 治癒力は、使用する本人の体力と気力と引き換えによって発動される。

 つまり、怪我を治すたびに聖女たちは物凄い体力を消費しているのだ。それは病気や怪我の程度によって異なり、最悪の場合死に至ることもある。

 ちなみにこのことは、一人前の聖女にもいえることであり、見習いとなればもっと慎重にならなければならない。

 お勤めをすると見習い聖女たちは、疲労で何もする気が起きなくなってしまう。そうなった彼女らの世話をするために、ノアのような侍女が一人付けられているのだ。


「ごめんね、ノア。心配かけて」

「もう過ぎたことはいいですよ。つい怒ってしまいましたが、人助けをしたこと自体は悪いことではありません」

「え……」

「危険を冒してでも誰かを助けようとするなんて、誰にでもできることではないですから。よく頑張りましたね」


 ノアが柔らかくセレーナの頭を撫でる。

 使用人が主人の頭を撫でるなどあるまじき行為だが、セレーナは昔から、こうしてノアに撫でられるのが大好きだった。


(へへ、嬉しい……ノアっていつもは厳しいけど、本当は優しいから――)


「……ですが、残念ながら今日の夕食はなしです」

「何で!?」

「今日はお勤めしておりません。働かざるもの食うべからずですよ、お嬢様」

「そんなぁ……」


 神殿での食事は、お勤めが終わった後に僅かな賃金とともに配給されることになっている。お勤めをサボり、町に出ていたセレーナがもらえるわけがなかった。


(だから夕食を買って来ようと思ったのに……!)


 外は真っ暗で、この時間から町へ買いに行くわけにもいかない。何よりも、セレーナは昼間治癒力を使ったせいで、ヘトヘトだった。 


「ノアの分、分けてくれたりとか……」


 侍女の食事は、聖女たちを寝かしつけた後に振るわれているため、セレーナの労働とは一切関係がない。セレーナは捨てられた子猫のようにノアを見上げたけれど、ノアはぴしゃりと言ってのけた。


「なりません。規則で禁止されておりますから」

「ケチ! 馬鹿真面目か!」

「汚い言葉を使うのはおやめください。旦那様に言いつけますよ」

「うっ……だって、明日の朝まで何も食べるものがないだなんて…………あっ!」


 セレーナは絶望しかけたところで、意識を失う直前のことを思い出す。老婆を治療した対価として、りんごを貰っていたのだ。


「りんご! りんごがあるじゃない!」

「それでしたらこちらに」


 ノアがすぐさま小さなカゴいっぱいに詰められたりんごを差し出す。てっきり一個かと思っていたのに、りんごは六個も乗っけられていた。


「えっ、うそこんなに?」

「ご老人はとても感謝されていたようでして、ぜひにと。私が受け取りました」

「そっかぁ、嬉しいなぁ……」


(ありがとう、おばあちゃん……私の夕食!)


 セレーナは真っ赤なりんごを手に取り、迷わずかぶりつく。そして――


「あ、甘くないよぉ……なにこれ? 果物なの?」


 あまりにも味がなく、スカスカのりんごに顔を歪める。甘さも酸味もなくて、まったく美味しくない、というか不味い。しかしながら、他に食べ物もないので、セレーナは仕方なくりんごを口にした。


「美味しい……美味しい……とっても甘いわ……」


 むしゃむしゃと音を立てながら無理やり食べ進めるうちに、セレーナの目に涙が溢れる。ノアはそんな主人の様子を見て、仕方なく息をついた。


「……仕方ありませんね。少しお待ちいただけますか?」



 ノアがりんごを持って部屋を去ってしばらく。セレーナがそわそわしながら待っていると、ノアが何かを手にして部屋へと戻って来た。

 ドアが開いた瞬間、ふんわりとりんごと香辛料の匂いが香る。目を見開いたセレーナの前に差し出されたのは、焼かれたりんごだった。


「これ……」

「りんごは焼くと甘さが増します。舌触りも生で食べるよりはずっといいでしょう。焼くだけだと味気ないので、お嬢様が好きなシナモンを少々かけさせていただきました」

「た、食べてもいいの?」

「はい、お嬢様のために用意したものですから」


 セレーナは見るからに美味しそうな焼きりんごに、垂れかけたよだれをごくりと飲み込む。薄くスライスされた一切れをおそるおそる運ぶと、パクッと口に頬り込んだ。


「……!! お、美味しい!! 美味しいわよ、ノア!」

「それはよかったです」


(温かくてほんのり甘くて、スパイスが程よくきいて……甘味を食べているような気分だわ)


 ひとくち含むたびに、頬っぺたが落ちそうになりながら食べ進めていく。

 ノアは昔から厳しくて厳しくて、だけど優しい。そしてセレーナが喜ぶことをよくわかっている。飴と鞭を使い分ける、素晴らしい執事だった。


(わざわざ私なんかのために神殿についてくるなんて……本当にもったいないことをさせているわよね)


 ノアの能力ならば、もっと良い家に仕えることもできるはずなのに。セレーナは以前から常々そう思っていた。くれと言われて誰かに譲る気はさらさらないけれど。


「あーあ、本当私ってノアがいないと駄目になっちゃいそう」

「……それは本望ですね」

「ん?」

「いえ。早く食べないと冷めますよ」

「そうね!」


 セレーナは余計なことを考えず、焼きりんごを食べ進めていく。

 そうして、お皿いっぱいにあったりんごは、あっという間にのこり一切れになった。


(もうなくなっちゃった……やっぱり最後のひとくちは……)


 セレーナは迷った上に、ノアに小さく手招きをする。


「どうかしましたか――っ」


 セレーナが油断しきったノアの口に、のこりのりんごを押し込む。そして、無邪気な笑みを浮かべた。


「こんなに美味しいのだもの、独り占めするのは良くないでしょう?」

「まったく……」


 ノアはりんごを咀嚼し、こくりと飲み込むと、そっとセレーナのほうへと手を伸ばす。

 そして長い指先で、無防備な唇をなぞった。


「ここ、付いてますよ」

「っ……」


 ノアが艶めいた笑みを浮かべて、ふき取った指先を自らの唇へと持ってくる。そして、ぺろと赤い舌で指先を舐めとった。


「お嬢様はいつまで経ってもお子様ですね?」

「なっ、なっ……」


 至近距離で視線が絡み、セレーナの頬が赤く染まる。そして、やっとのことで言葉を絞りだした。


「こ、この変態執事……! レディになんてことするのよ!」

「心外ですね。女同士ならば、問題ないでしょう?」

「何が女同士よ……あなた、男でしょう!?」

「おやおや、そんな大声を出したら誤解されてしまいますよ? この神聖な場所に、神官以外の男性が紛れ込んでいるとなれば大問題ですからね。私も……お嬢様も」


 ノアが悪い笑みで返す。

 ノア・リーヴァは絶世の美女であり、完璧な侍女である、男性だった。



「アメリー・キャルロッテ」

「はい!」

「ヴィクトリア・ダーシー」

「おりますわ」

「返事ははいで結構」


 神殿では今日もいつも通り点呼が行われていた。

 神官を中心に聖女たちが整列し、端では彼女らの侍女たちが控えている。


「――セレーナ・フローレンス」

「…………」

「セレーナ・フローレンス」


 聞き慣れた名前と沈黙。皆が「またか」と呆れている中、慌ただしい足音が聞こえて来た。


「はいい! 遅くなりましてすみません!」


 反省の色を感じられない、明るい声が神殿に響き渡る。

 神官はもの言いたげに「はいはひとつで結構」と、セレーナの点呼を終わらせた。


(どうやら間に合いましたね)


 セレーナに続いてやって来たノアがほっと胸を撫でおろす。

 昨日の今日で、さすがにサボることはないだろうと踏んでいたが、セレーナの準備に時間がかかり時間がぎりぎりになってしまった。

 布団を剥いでも、くすぐってみても、セレーナは起きないほど朝にめっぽう弱い。

 最終手段として「起きないとキスしますよ」と耳元でこぼし、やっと起きてくれたのだ。

 セレーナはノアを男だと意識すると、狼狽える傾向にある。ノアはこの方法は使えるだろうと、明日からの目覚まし方法のひとつに追加させた。


(それにしても……)


 ノアがセレーナへと視線を向ける。誰もが羨む銀色の髪は、ノアが見てもわかるほどにぴょこんと跳ねていた。

 そしてなぜか、誰かが名を呼ばれる度に身体が動くものだから、それにあわせてぴょこぴょこと髪も跳ねる。


(まったくお嬢様は今日も髪の一束までも愛らしい……何なんですか? あの生き物は)


 あまりの可愛さについ声に出したくなるほど。

 鬼畜執事の裏の顔は、ただただ主人が好きなだけだった。そしてこの事実を知っているのは、限られた人物のみ。セレーナに関してはもってのほかだ。


(ああ、いけませんね……せっかくお嬢様がお勤めにいらっしゃったのですから。主人を観察するのは夜にゆっくりと……といきましょうか)


 ノアはいつまでも主を見つめていたい欲望を抑えると、小さく咳ばらいをし気持ちを切り替えた。


(とにかく今日を無事に終えらればよいのですが……)


 ノアが心配している間に、すべての点呼が終了する。見習い聖女たちが各々の場所に散り始める中、セレーナは仲の良いアメリー・キャルロッテに声をかけた。


「おっはよ、アメリー」

「おはよう、今日はちゃんと来られたんだね。もう体調は大丈夫?」


 セレーナの体調不良を本気で信じ込んでいるアメリーは、見習い生の中では珍しい平民の出である。

 この国での聖女の位置づけは、上位貴族と同等以上である故に、その聖女から産まれてくる子供たちも貴族であることが多い。それでも聖女の持つ力は、神の力とも言われており、家系に聖女がいない者でもその力を授かることがある。アメリーはそんな希少な存在だった。


「ふふ、アメリーは素直でいい子ね。もう大丈夫よ、ノアが面倒見てくれたから」

「うーん? そっか、ノアさんが付いていれば安心だね」


 アメリーは純粋で、心がとても綺麗な子。セレーナは彼女のことが大好きだった。

 二人が小声で会話をする横から、嘲笑うような声が聞こえてくる。


「よく言うわよ、サボりのくせに。また抜け出していたのでしょう? 」


 あからさまに悪意を向けられ、セレーナが声の主を睨みつける。

 セレーナの視線の先にはヴィクトリア・ダーシー。帝国屈指の公爵家の出で、富も地位も、見習い生の中では一番の存在。性格や人柄についてだけで見れば最下位といっても過言ではない。


「やる気がないなら辞めてみてはどう? 士気が下がってたまったものじゃないわ」


 ヴィクトリアはセレーナを「落ちこぼれ」と揶揄し、嫌がらせを仕掛けてくる。神殿内で秩序を乱すような行為を禁止されてはいるものの、セレーナの怠惰さを知って彼女を庇う人間はおらず、見て見ぬ振りをされていることも現実だった。


(……ここは私が出て行くしかないですね。お嬢様を傷つけるものは何人も許すわけにはいきませんから)


 ノアは内心やれやれと肩を竦めて三人へ近づいていくと、丁寧に頭を下げる。


「セレーナ様、お話し中失礼いたします」

「ノア? どうしたの?」

「ご無礼をお許しください」

「えっ……!?」


 ノアがセレーナの前髪を掻き上げ、そっと自らの額と合わせる。

 まるで口づけしそうな距離の二人に、その様子を見ていた皆がぽっと頬を染めた。

 ……傍から見れば女性同士の絡みなのだが。


「ノア!? 何を……」

「今朝も気分が優れないようでしたので、心配で……熱はないようで安心いたしました」

「あ、う、うん……?」


(顔は真っ赤、ですけどね。ふふ、このまま口づけてあげたいほど愛らしい)


 セレーナが戸惑う中、ノアは涼しい顔でヴィクトリアに向き合う。


「ヴィクトリア様も、ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません。ですが、お嬢様に心配してくださる優しいご友人がいて安心いたしました」


 そうして丁寧に腰を折ると、誰もが見惚れるような綺麗な笑みを浮かべた。

 誰がどう聞いても嫌味にしか聞こえないのに、その笑みにヴィクトリアはすっかり見惚れている。

 ノアは女性が見惚れて、惚れてしまうほどの美しさを持っており、こうしてセレーナを取り巻く見習い聖女たちを日々虜にしているのだ。……ノアは男性なのだが。


「それでは失礼いたします」


 ノアはもう一度一礼して、その場を去って行く。

 主人が過ごしやすい環境を作るのも侍女――執事の役目。ノアは昔から、こうやってセレーナを守ってきた。特にここへ来てからは顕著だった。


(お嬢様にはなんとしてでも三年間やり遂げていただき、聖女様になってもらわないと)


 ノアがふっと口元を緩める。その瞬間だけでまた、他の見習い聖女を虜にしていた。




「よーしっ、終わり!」


 最後の患者を見送った後、セレーナが大きく伸びをする。

 聖女がお勤めを終えるのは、日が傾き、神殿に茜色の夕陽が差し込む頃。

 ここから報告書を作成したのち、その日の報酬を受け取り、夕食へと向かう。

 お勤め後にもかかわらず元気いっぱいなセレーナに、今にも倒れそうなアメリーが近づいてきた。


「お疲れ様~どうしてそんなに元気なの? 私なんてもうヘトヘトだよ」


 一日中、お勤めを行っていた見習い聖女たちは、大抵がメアリーのように力尽きている。それはセレーナも一緒だった。

 いつもなら夕食前になると「もう歩けない~」「ノア、助けて~」なんてだらしない声を漏らしているほど。

 しかし今日に限っては、セレーナの疲れを上回る楽しみがあった。


「ふっふっふー! 今日の夕食はなんでしょう?」

「夕食……あっそっか、お肉の日だ!」

「正解! お肉お肉~♪ にっくにく♪」


 セレーナが謎の肉の歌を歌いながら小振りする。

 聖女たちの夕食はほとんどが野菜を中心とした質素なものであるが、週に一度だけ肉が振舞われる日があるのだ。

 どんなにサボり癖がついているセレーナでも、その日だけは張り切ってお勤めに参加する。逆に言えば、それくらいのご褒美がなければ、お勤めを頑張る気にはなれなかった。


「今日はお肉のためにお勤めしたといっても過言ではない……!」

「はは、そんなに大きな声で言ったら神官様に怒られちゃうよ?」

「もう帰ったから大丈夫よ。にっくにく♪」


 ご機嫌なセレーナにつられて、アメリーもくつくつと笑う。

 食堂までやってくると、そこら中に腹の虫を鳴かせるような匂いが充満していた。


(この香ばしいお肉の香りと、野菜を煮込んだ甘い香りは……)


「シチューね!」


 配膳の列までやってきて、鍋を覗き込んだセレーナが目を輝かせる。唇の端からは既に涎が垂れかけていた。


「こっちから並ぼうよ」


 逸る気持ちをアメリーに抑え込まれ、盆を持ち、列の最後尾に並ぶ。

 食事はパンとシチューのみだが、とても豪華に見える。主食はよく出される硬いパンは、シチューに浸して食べれば問題ない。


(今日も頑張ってよかったわ)


 すっかり毎日頑張っている気になったセレーナは、メインのシチューを受け取りご機嫌で席へと向かう。

 あともう少しで食事にありつける、そう思った瞬間――


「へっ!?」


 セレーナの間抜けな音とともに、食器類が宙を舞う。そして、諸共床へと落ちた。


「ああっ私のシチューが……!」


 無残に床へ散ったシチューに、セレーナが膝をついて愕然とする。

 周りがしんと静まり返る中、響いたのは意地悪い声だった。


「あら……せっかくのお夕食が残念ですわ」

「ヴィクトリア……」

「シチューはちょうど私で最後だったようなのに」


 ヴィクトリアがわざとらしく同情し、セレーナを見下ろす。その後ろでは、取り巻きの友人らがセレーナをあざ笑うかのように控えていた。


(あなたがやったのでしょう……?)


 セレーナが盆を落とす寸前、確かに誰かの足に引っかかった感覚があった。

 周りにいるのはアメリーとヴィクトリア、そしてヴィクトリアのこの挑発的な表情……犯人はあきらかだった。


(だけど、証拠がない以上責めることはできないわ)


 ヴィクトリアの存在を無視して、セレーナが足元のパンを拾い上げる。

 その隙に雑巾をもらってきたアメリーが、セレーナの傍へと腰を下ろした。


「これを使って。シチューは私のを分けてあげるから一緒に食べよう」

「アメリー……でも、そしたらあなたの夕食が――」

「いいのいいの。困ったときはお互い様でしょ?」


 アメリーが天使の笑みを浮かべて、床に飛び散ったシチューを片づける。

 彼女の姿に、セレーナは何だか泣きたい気分になった。


「ありがとう……」


 どんなに周りから嫌がらせを受けようとも、たった一人でも味方がいてくれることが、どれほど嬉しいことか。

 そのことを、セレーナはこの神殿に来てから実感していた。

 そんな二人の友情を嘲笑うかのように、ヴィクトリアが再び声をかける。


「あらあら二人で雑巾がけだなんて……素晴らしい友情ね。お優しいご友人がいて羨ましいわ」

「…………」

「それにしても、やけに雑巾が似合いね?」


(……駄目。相手にしたら負け)


「どうしてかしら……」


(ここは何とかやり過ごして――)


「ああ、そうか卑しい平民だからだわ」

「は……?」

「いい子ぶって貴族に取り入ろうとするのも、いやらしいわ。これだから平民は――」

「黙りなさい、ヴィクトリア・ダーシー」


 今度はすくっと立ち上がったセレーナの野太い声が食堂に響き渡る。

 突然反論の姿勢を見せたセレーナに、ヴィクトリアがぐっと息を呑んだ。


「アメリーが卑しいですって? いやらしい? もう一度言ってみなさいよ」

「なっ……私はただ事実を述べたまで――」

「だからもう一度言えと言っているのよ。その事実とやらを」

「っ……」


 セレーナがヴィクトリアにじりじりと詰め寄る。

 反論できなくなったヴィクトリアはそのまま、後ろの長卓へとぶつかった。


「何も言わないなら私から言わせてもらうわ」


 セレーナが後ろの長卓に手を強くつき、ヴィクトリアを囲い込む。


「本当に卑しいのはアメリーじゃないわ。そうやって身分で人を判断し、偏見で罵倒しようとするあなたよヴィクトリア・ダーシー。公爵令嬢様はそんな教育も受けていないのかしら?」

「っ……」

「私への小言はいくらでもどうぞ。その代わり、アメリーを侮辱することは絶対に許さない」


 ギロリと迫力のある視線を向けられて、ヴィクトリアの腰が抜ける。

 セレーナは言いたいことを言い終えると、片付けを終えたアメリーへ手を差し出した。


「ごめんアメリー、ほとんどやらせちゃったわね」

「ううん……こちらこそありがとう」

「何のこと? それよりも早く席に着かないと」


 事情を話せばパンくらいはもらえるだろうと、アメリーを促しその場を後にする。

 二人の背中に再び、長卓へと押しやられた上に、存在を空気のように扱われたヴィクトリアの怒りの声がかけられた。


「ちょっと待ちなさいよ」

「……まだ何か?」

「伯爵令嬢ごときが偉そうに。私が誰だかわかっているのかしら?」

「はいはい、ヴィクトリア・ダーシー公爵令嬢様。ですが、それが何か? 私、先ほども名前を呼びましたけど……まさか記憶喪失?」


 見習いの聖女になった時点で身分は関係ない。それは神殿に来た時から言われていることであり、ここにいる誰もが認知していることだった。

 もちろん、ほとんどがヴィクトリアのように身分ばかりを気にしているのだけれど。


「ふん、まあそうね……ここでは身分は関係ない。すべては聖女としての力量が物を言う、そうでしょう?」

「何が言いたいの?」

「セレーナ・フローレンス。私と勝負なさい」

「勝負……?」

「明日のお勤めで治療した患者の人数で勝敗を決める。私に勝ったらあなたの言うことを何でも聞いてあげるわ」

「何でも、ね……それじゃあアメリーに謝罪もしてくれるの?」

「当たり前ですわ。跪いて頭を垂れてもいいわ」

「セレーナ、そんな挑発乗らなくても――」


 アメリーがセレーナの腕を引く。

 けれども何を思ったのか、セレーナはふっと口角を上げた。


「いいわその勝負……乗ってあげる」


 セレーナが不敵な笑みを浮かべる。

 しばらくの間、食堂からはざわめきが消えることはなかった。



「どどどどうしよう!!!!」

「……自業自得ですよ、お嬢様」


 夕食後、セレーナの部屋ではベッドの上で狼狽えるセレーナと、呆れてため息しかこぼれないノアの姿があった。


「だって、まさかあんなことになるなんて……」

「勝負なんですから、対価があって当然でしょう。お嬢様の脳がそこまで足りていないとは思いませんでした」

「私、仮にもあなたの主人よ……?」


 ヴィクトリアがメアリーに謝るという条件に飛びついた結果、ヴィクトリアからはもしヴィクトリアが勝てば「残り三年間、私の下僕となりなさい」と言われてしまった。

 あまりに過酷な条件にセレーナは口をあんぐりとさせたが、いまさら「やっぱりなしで」なんて言える雰囲気でもなく。「望むところよ」と啖呵を切ってしまった。

 そしてすぐ後に、とてつもない後悔が押し寄せて来たのだ。


「ああ見えてもヴィクトリアって優秀なのよ?」

「ええ、存じ上げております」


 ヴィクトリアは極度の負けず嫌いで、見習い聖女たちの中でもいつも自分が一番でないと気が済まない。

 特別順位が決められることはないけれど、お勤めで成果を上げた聖女は定期的に皆の前で神官に褒められ、報酬が弾むことも多い。ヴィクトリアは性格を除いて優秀で、たびたび名前を呼ばれていた。


「それに比べて私なんて、へっぽこよ? 自他ともに認める落ちこぼれ聖女よ?」

「ええ、存じ上げております」

「ちょっとは否定しなさいよ! 忠誠心のかけらもないのね!?」


 セレーナが投げつけた枕をノアが何食わぬ顔で受け止める。

 そして軽く手で払って形を直すと、ベッドの上に置いた。


「客観的事実を伝えるのも、傍にいる侍女の役目かと思いまして」

「それは……」

「しかし、私は落ちこぼれなどとは思っておりませんよ。お嬢様は誰にも負けないものをお持ちではないですか」

「え……」


(私が誰にも負けないもの……?)


 急にそんなことを言われても、自分ではわからない。

 セレーナのこれまでの人生は、何でもそこそこだった。正しくは何をやっても中途半端なので、これが秀でているというものを見つけずここまで来てしまったのだ。

 治癒力に関しては、選ばれし者しか持っていないという点では優れているものの、見習い聖女の中での出来は下から数えたほうが早い。むろん、真面目にやらないだけという可能性も否めないが。 

 だからこそ、ノアの言葉に期待してしまう。

 幼いころからずっと傍で見てくれていた執事が言う、セレーナの誰にも負けないもの――

 その言葉を今か今かと待っていると、ノアは至極真面目な表情で口を開いた。


「逃げ足の速さです」

「はい……?」

「昔から……いえ、今だって隙あらば逃げ出す。この私でも参ってしまうほどですから、相当ですよ」

「ええと、ノア? それは結局逃げろってこと?」

「如何にも。ヴィクトリア様の下僕になりたくないのであれば」


(この執事はなんてことを言い出すのよ……!)


 せっかく有力な助言が聞けると思ったのに、あまりにも下衆な発言にがっくりと肩を落とす。

 たしかに、何だかんだのらりくらりかわすことはできる。それで土壇場で逃げる卑怯な奴と呼ばれても、さほど気にしない。しかし――


「それは駄目よノア。だって、アメリーへの謝罪がかかっているんだもの」


 傍から見ればたかが他人への謝罪と言われるだろう。そもそもアメリー自身が、望んでいないのだから。

 それでも、セレーナは友人のために一度口に出したことを取り消すことなんてできなかった。


「……今回ばかりは正々堂々と勝負するわ。逃げたりなんかしない」


(それでもし負けてヴィクトリアの下僕になったら……それはすっごく嫌だけど! それこそ適当にかわせばいいんだし……)


 セレーナが心の中でぶつぶつと正当化している姿を見て、ノアがふっと柔らかい表情を浮かべる。


「……他人思いなところも、ですね」

「何?」

「いえ。では私から微力ながら勝利のおまじないをさせていただきますね」

「ノアから!?」


 ノアは言わずもがな優秀な執事で、治癒力はないものの、きっとできないことは何もない。

 そんな彼からの勝利のまじないと聞けば期待が膨らんで、セレーナは大きく身を乗り出した。


「大それたものでもないですよ」


 ノアがセレーナの手を取り、そっと自らの口元へと引き寄せる。

 そして、手の甲へ触れるだけの口づけを落とした。


「なっ、な、にして……!?」

「これでお嬢様は大丈夫です。自信、持ってくださいね」


 最後に妖艶な笑みを向けられて、セレーナの顔が真っ赤に染まる。


(今、私の手に、ノアの……)

「へ、変態執事……!」

「おや、気が紛れるかと思ったのですが、逆効果でしたでしょうか? 脈が速いですね」

「っ……」


 今度はセレーナの手首に細い指先を押し付けられて、心臓が跳ねる。

 ノアは執事とはいえ、いちいち所作が美しくて色気がある。それはセレーナに物心ついた時からなんとなく感じていたことだが、思春期を過ぎてからはより一層だった。

 さらに動揺するセレーナに対して、ノアは一切の余裕を崩さないところも、悔しくて仕方がない。


「……本当に主人に何するのよ」

「これは失礼いたしました」


 あくまで主従関係のはずなのに、ノアの距離感はやたらと近い。きっと幼いころから一緒だったからだろうけれど。


「まあでも、主従関係っていうのもあと少しだものね」

「……どういう意味でしょう?」

「私はいずれ家を出るでしょう? あなたはフローレンス家に仕える執事……私が家を出れば、もう会うこともなくなるわ」


 セレーナが一人前の聖女になって家を出る。これが一番理想の形ではあるが、万が一なれなかった場合は、どこかしらの貴族に嫁がされて家を出ることになる。

 どちらにしろセレーナには、フローレンス家に残る未来はありえない。つまるところそれは、ノアとの別れも意味するのだ。


「寂しいけど……残り三年間、よろしくね? ノア」

「気が早いですね……恐れながらお嬢様次第では、もっと早く伯爵邸に帰されてしまう可能性もございますが」

「ぐ……」


(否定できないわ……)


 何も言えなくなってしまったセレーナに、ノアがくつくつと笑みをこぼす。


「ご安心ください。私はずっとお嬢様のお傍におりますから。貴女様が必要としてくださる限り」

「う、うん?」


 やはりノアの笑みは、中性的で彫刻でも見ているのではないかと錯覚するほど美しい。

 セレーナはこの顔をいつまで拝めるのだろうと考えながら、ヴィクトリアとの勝負に対して現実逃避を始めていた。



(熱い……熱いわ……全身が燃えるように熱い……)


「もしかして熱でもあるんじゃないかしら……?」


 か細い声で、セレーナが呟く。そんなセレーナの声を消し去るように、透き通った低音が響いた。


「ええ、それだけ着込んでいたら熱があるように感じてもおかしくないでしょうね。見ているこちらまで暑苦しいです」

「ああっ!?」


 ノアがじとっとした視線とともにため息をつく。次の瞬間、セレーナはぐるっとベッドの上で半回転した。


「ちょっと、何するのよノア! せっかく――」

「仮病を使おうとしていたのに……ですか?」

「っ、人聞きの悪いことを言わないで」

「ではこれは何ですか?」


 先ほどまでセレーナに巻き付いていた何枚もの布団。これらを巻きつけて、体温を上げようというセレーナの魂胆は誰が見ても明らかだった。


「だ、だって……ノア、ずっと見張ってるし……」

「逃げられてしまえば大変ですからね」

「体調悪いって言っても信じてもらえないだろうし……」

「毎度のことですから」


 諦めてセレーナが言い訳をする。

 セレーナがここまで愚かなことをする理由――それは今日のお勤めを休みたかったからだ。もちろん、ヴィクトリアとの勝負を避けるために。

 いつものように逃げ出そうとしても、いつも以上にノアの監視が厳しく逃げる隙がなかった。そうなれば体調不良と考えたのだが、口で言っても信じてもらえないので、なんとかして事実にしようと試みたのだけれど、何一つ上手く行かなかった。

 万が一の時のために部屋に常備している、大量に食べると腹を壊す薬草は、覚悟を決めて全部口にした。ついでに風邪を引くように、深夜に冷たい水をかぶり外で過ごした後、薄着で就寝もした。――にもかかわらずだ。今朝の体調はすこぶる良好。何なら昨日よりもいい気がする。

 そのため、最終手段として物理的に体温を上げる方法を取り入れたのだが……一瞬でノアには見破られてしまった。


(どうして私の身体ってこんなに強いの……?)


「未来の聖女様ですからね。お嬢様が持っている治癒力も人並み以上であることをお忘れですか?」


 セレーナの心を呼んで、ノアが回答する。聖女の素質を持った人間が、自身も高い治癒力を有していることは常識だが、まさかここまでとは思わなかった。


「たとえ体調不良になったとて、ここは神殿。その程度の体調不良であれば、他の見習い聖女様たちが治してくださるのでは?」

「う……たしかに……」

「まったく、そんなことも考えられないとは。お嬢様、いつの間にそこまで馬鹿……いえ、頭がおかしくなってしまったのですか」

「言い換えても悪口よ? 主人に言う言葉じゃないわよ?」

「でははっきり申し上げます。これ以上馬鹿なことは考えないようお願いいたします」

「どうして開き直った……!?」


 口をあんぐりとさせるセレーナに、ノアは淡々と続ける。


「本日どうにかお勤めを逃れたとしても、ヴィクトリア様との勝負は明日に延びるだけ……その繰り返しです。つまり、いずれはどこかで向き合わなくてはならないのです。お嬢様が勝負を受けてしまった以上は」


 少しでも考えればわかることなのに、ただ目の前の嫌なことから逃げて、考えもなしに先延ばしにするセレーナは、やはり考えが足りていないのだ。

 誰だって逃げたくなることはある。もちろん逃げ続けることはできるが、どうしても逃げられないことだってある。今のセレーナのように。


(どうすればいいの……? どうやったって、私はヴィクトリアには勝てないのに……)


 日頃から性格以外は優秀だと称されているヴィクトリアと、頻繁に神殿を抜け出しては怒られている落ちこぼれ聖女のセレーナ。勝負は火を見るよりも明らかだ。その場の勢いで、勝負を受けてしまったセレーナの自己責任である、というのは置いておいて。


「それでももしお嬢様がこの勝負をしたくないと仰るなら……」

「なら……?」

「負けを認めヴィクトリア様に謝罪。一生、彼女の下僕として生活すればいいだけかと」

「はいっ!?」

「一生といっても、少なくとも神殿を出るまでの三年……もはやそちらのほうがよろしいのでは? 長い人生での三年など、たかが数年です。あっという間ですよ」


 ノアが「大丈夫ですよ」と言うように、にっこりと微笑む。

 三年後、神殿で見習いを終えた聖女たちは、それぞれの成績に応じて勤め先が決まる。

 王宮仕えになる者から、田舎の小さな神殿仕えになる者まで様々で、ほとんどの仲間たちとは離れ離れになる。セレーナとヴィクトリアの成績を考えれば、ここを出れば一生交わることもないかもしれない。


(ノアの言うことはわかる……私が我慢すればいいだけってことよね)


 ヴィクトリアの嫌がらせに、適当に笑ってやり過ごすことはきっとできる。これまでだってそうしてきたのだから。下僕となれば多少の屈辱は触れるかもしれないが。それでも――


(たかが三年、されど三年……やっぱり嫌)


 勝負は決まっている。だけど勝負もせずに負けを認めることだけはしたくなかった。セレーナは完全に負け犬体質にはなりきれていなかった。


「……起きる」

「おや、体調はもうよろしいのですか?」

「嫌みったらしいわね。こんなにぴんぴんしてるんだから。すぐに準備するわ」


 セレーナが鼻息を慣らしながら、ベッドから起き上がる。ノアはくすりと笑みをこぼすと、すかさずセレーナの手を取った。


「承知いたしました。では、まずその髪から整えましょうか」


 セレーナの銀髪は、乾かさないで寝た上に、布団にぐるぐる巻きにしていたせいで、ぼさぼさで艶がない。

 ノアはその髪を一束掬い上げると、軽く口づけを落とした。


「――お嬢様ならきっと大丈夫ですよ」



 ノアの早い支度のおかげで、セレーナが朝の点呼に余裕を持って現れる。

 高い位置で結び上げられた髪は、艶を取り戻しふわりと揺れる度に、他の見習い聖女たちの視線を集めた。

 余裕綽々と列に並んだセレーナに、斜め後ろから揶揄する声がかけられた。


「あらあら、お早いこと。てっきり逃げ出すかと思いましたのに」

「……聞き捨てならないわね。勝負を受けた以上、逃げ出すわけないでしょう?」


 ――どうにか逃げ出そうとしていたのだが、そのことはノアと神以外知る由がない。

 セレーナはヴィクトリアを一瞥すると、点呼に現れた神官を見つめる。


(ああ不安しかないわ……でもできることはやらないと。頑張るわよ……!)


 憂鬱な気分に胸が押し潰されそうになりながらも、セレーナは気合いを入れた。


 点呼の後は、それぞれの班に分かれて行動をする。

 基本的に見習い聖女は三人一組で、そこに一人ずつ指導係として聖女が付けられる。

 この組み合わせは成績によって分けられており、セレーナは神殿の中でも最下位の組に分けられていた。

「はいはい、それじゃあ今日は全員揃って……え? 揃ってる? 本当に? 何か怖いことが起きなければいいけれど……」

 指導係の聖女――フレイヤが、ふると身震いをする。聖女にしては珍しい褐色の肌は、微かに鳥肌が立っていた。 


「そ、そんな怖いことを仰らないでくださいよ……フレイヤ様……」


 びくびくと過剰に恐れているのは鮮やかな緑色の髪のゾーイ。顔の大きさより明らかに大きな丸メガネが特徴的で、真面目で優しい性格だが、とにかく臆病で人の血を見ることができない。故にたびたび治療中に気を失うという、聖女にとって致命的な欠点の持ち主だ。


「あたしはほとんど参加してるけど。そこのサボリ魔と一緒にしないでくれる?」


 セレーナのことを顎で指し、聖女ディアナに対しても態度を変えないのはミア。赤毛が特徴的で、オオカミのような鋭い切れ長の目は、睨まれると誰でも固まってしまうほど。

 アメリーと同じ平民出身の彼女は、高い治癒力を持ち合わせてはいるが、慈悲の心がまるでない。「何であたしが他人の怪我を治してやらなきゃならないの?」と、こちらも聖女として致命的な性格をしている。

 そして落ちこぼれ聖女として名高いセレーナ――フレイヤ班は問題児しかいないと神殿の中でも有名だ。


「とにかく今日の目標は皆最後までお勤めすること。以上」


 目標が低すぎるように見えて、フレイヤはこの目標がいかに難しいことかを知っていた。

 ゾーイが患者の怪我に失神するか、ミアが疲れて勤めを放棄するか、はたまたセレーナが途中で抜け出すか……大抵この班はそんな感じだ。

 けれども今日はどこか雰囲気が違っていて、セレーナが真剣な眼差しで口を開いた。


「私今日は調子が良いので、治療は遠慮なく回してください」

「はあ……本当に何か起きそうね。セレーナ、どうしてそんなにやる気なのか理由を聞いてもいい?」

「はい、私も心を入れ替えて――」

「あのクソ貴族様と治療した数で勝負するってだけだろ」

「ちょっ、それを言わないでよ……!」

「言うも何も、あんな大声で食堂で話してたら知らない人のほうがいないっしょ」


 しれっと口を挟むミアに、セレーナは慌てて人差し指を立てるが、ゾーイも同じことを思っていたのか小さく頷く。

 セレーナとヴィクトリアの勝負は、既に勝負がついているといえども、見習い聖女たちの注目の的になっていた。


「よくやるなとは思ったけど。ご愁傷様」

「待って、まだ勝負は――」

「治療をした人数で勝負を……ねえ」

「ひっ」


 背後から聞こえてきた声にセレーナの背筋が凍る。次の瞬間、脳天に鈍い拳が振り下ろされた。


「いっ、た……! フレイヤ様、暴力反対です! 聖女様がなんてことを……!」

「それはこちらの台詞よ、セレーナ・フローレンス。神聖なる治癒力を個人のくだらない勝負に使うだなんて、恥を知りなさい」

「う……申し訳ございません……」


 セレーナとしても後ろめたい気持ちはあった。治癒力を使った勝負をすることにも、こんな不純な動機でないとやる気が出ないことについても。それでも、今フレイヤに止められるわけにはいかなかった。


「ですがフレイヤ様――」

「まあ何でもいいわ、それでうちの班の成績が上がるなら」

「へ……」


 フレイヤも問題児を任されるだけの聖女だ。見習い時に聖女たちを正しく導く反面、時にずる賢く要領がいい。そして、聖女らしからぬ暴力的だった。


「やるからには絶対勝ちなさい。いつも迷惑かけている自覚があるならなおさら。あなたたちの出来が私の成果にも関わってくるのだから」


 今度は「勝たなきゃ殺す」と言わんばかりの視線を向けられて、セレーナは返事をするほかなかった。



「ありがとう、聖女様! 痛いの飛んでったよ!」


 無邪気な笑顔を向けられて、セレーナも笑顔を返す。その額にはじっとりと汗が滲んでいたけれど、それ以上の達成感を感じていた。


(やっぱり感謝されるのは嬉しいのよね……)


 治癒力は想像以上に体力と気力を持っていかれる。セレーナはいつも疲れたくなくて逃げているけれど、お勤めをしてこうしてお礼を言われること自体は、嬉しかった。


「明日から真面目にお勤めしようかな……」


 と柄にもないことを思ってしまうくらいには。どうせ夜になれば「もう働きたくない」と嘆くのだけれど。


(今ので四人か……ヴィクトリアは……)


 額の汗を拭いながら、セレーナはヴィクトリアの姿を確認する。彼女の前には既に数名の患者の列ができており、物凄い速さで手当てをするのが確認できた。

 しかも、セレーナと違ってヴィクトリアは終始涼しい顔をしており、疲れなど微塵も感じられない。


「嘘でしょ……」

「想定の範囲内だな。もう諦めれば?」


 絶望するセレーナに、ミアが横から声をかける。

 体力でも治療の速さでも、セレーナは何ひとつヴィクトリアに勝てない。わかっていたことなのに、その差を見せつけられて、セレーナはがっくりと肩を落とした。


「諦めない……最後までやらないと」

「サボり魔のくせに変なとこ真面目なんだな、あんた」

「あなたに言われたくないわよ!」

「あたしはサボり魔じゃないし。一応面倒でも毎日参加はしてるから」

「参加してもサボってたら意味ないでしょ!? 私たちにばっかり押し付けて!」

「ふ、ふたりともちゃんとやりましょうよ……フレイヤ様に怒られちゃいますよ……」


 言い合いをはじめた二人の間に入り、ゾーイが宥める。セレーナでいえば、今は誰かと言い争っている暇などないのに。

 幸い、今ここにフレイヤがいないことだけが奇跡だった。もしいたら特大の拳を頭にくらっていただろう。何度も言うが、彼女は大聖女様である。


「はぁ、とにかく私はお勤めに集中するから。邪魔しないでよね」


 セレーナがぱちんと頬を叩いて気合いを入れ直す。

 次の患者を笑顔で向かい入れようとした瞬間、神殿の入り口から慌てた女性の声が聞こえてきた。


「だ、誰か助けてください……!」


 息を切らして声を絞り出している女性は、その身なりからどこかの貴族であることが窺える。そして強く押さえつけた左腕には真っ赤な血が滲んでおり、その場にいた皆が目を見合わせた。


「ま、魔獣に襲われて……私以外動ける者が、いなくて……」


(魔獣ですって……?)


 ティファナ王国の北部には二つの大きな森がある。ひとつがこのエルシダ神殿のある、緑あふれる豊かな森。王都からは離れているものの、この土地を好み別邸を建てる貴族も多くいるほど、平和で豊かな森だ。

 そしてもうひとつが魔獣の森。昼夜問わず暗く、うっそうとした森には、人間を襲う危険な魔獣が多く棲み付き、一度入れば抜け出すことができないと言われている。

 その昔、この危険な魔獣から人間を守るために王国の魔法使いたちが集結し、魔獣の森の周辺に結界を張った。

 だから魔獣の森が近くにあるといえど、こうして安心して暮らせているのだけれど、稀にその結界を抜け出してしまう魔獣がいるのだ。


「状況は」

「え、ええ……神殿近くの橋に怪我人が数名。何人かは魔獣の餌となりました……」


 貴族の女性が神官に涙ながらに語る。

 エルシダ神殿には騎士団がいるが、今日はあいにく大半が出払ってしまっており、待機しているのは常駐の騎士団少数のみ。さらに騎士団専属の聖女たちが不在となり、見習い聖女たちの中から何班かが現場へと向かうこととなった。

 しかし――


「……嫌だわ、魔獣だなんて」

「騎士様もほとんどいらっしゃらないのでしょう?」

「そもそも見習いの私たちには無理よ」


 緊急事態だというのに、消極的な声ばかりが聞こえてくる。

 十分な護衛もつかない上に、戦場へも出たことのない見習い聖女ばかりなのだから、無理もないだろう。

 皆が尻込みをし、神官が指名をしようと息を吸った瞬間、我先にと手を上げたのはセレーナだった。


「――私が行きます」


 落ちこぼれ聖女の発言に、周囲がざわつく。最も声を荒げたのは、同じ班のミアだった。


「おいおい、何でこんな時に限ってやる気出すんだよ!」

「こんな時だからでしょ? 急を要するんだから」

「あんたが行くとあたしらも道連れなんだから勘弁して……メガネも何か言ってやりなよ」

「えっ、あっ、皆さんが心配です……怖いけど、早く助けてあげないと」


 震えながらもやる気を見せたゾーイにミアが「血も見れないくせに」と盛大にため息をつく。そんな三人のやり取りを見て、フレイヤがやれやれと立ち上がった。


「本当にこの班はよくわからないわね……でも勇気は認めるわ。行きましょうか」

「あたしはまだ行くとは……」

「無事にお勤めを終えたら今日の報酬倍にしてもらえるよう神官様に頼んでみるわ」

「よし行くか」


 あっという間に全員がやる気になり立ち上がる。セレーナが神殿の外へ駆け出そうとした瞬間、その身体はふわりと宙に浮いていた。


「っ、ノア!?」

「体力を消耗しないよう橋までは私がお連れします」

「いいわよ! というか何よこの持ち方!」


 ノアは片手で軽々とセリスを抱き上げると、落ちないようにしっかりと支える。

 姫様抱っこなどという見栄えのいいものではない。肩の上にしっかりと担がれて、セリスは視界が逆さまになった。


「この体勢であればお嬢様も簡単には抵抗できないでしょうから。では参りますよ」

「えっ、ちょっとー!?」

 神殿にセレーナの声が響き渡る。その様子を皆が呆然として見つめていた。


 目的の橋に到着すると、既に魔獣の姿はなく、十数名の怪我人が互いに声を掛け合い励まし合っていた。

 襲われたのは、王都から近くの町を繋ぐ乗り合いの馬車三台。連なって走行しているところを、飛行魔獣に襲われたのだ。

 橋の傍には生々しい血の血痕。怪我人たちは足や腕を怪我している者から、出血多量で地べたに伏せている者までいて、見るに絶えない光景だった。

 すっかり言葉を失っているセレーナたちに、フレイヤが落ち着いた様子で口を開く。


「皆は軽傷者を、重傷者は私が見るわ。魔獣は消えたようだけど、用心しなさい」

「は、はい」


(いつも通りにやるのよ……そういえば、ゾーイは?)


 セレーナは冷静になりながら、ふと仲間の心配をする。血痕とはいえ、ここまで鮮明な血を見ることは滅多になく、セレーナですらも足が竦んでしまうほどだ。血が苦手なゾーイは耐えられるわけがない。

 そう思い、セレーナは振り返るけれど……


「ゾーイ……?」


 大きな丸眼鏡はいつの間にか真っ黒に塗り替えられて、ゾーイの顔がまるで見えない。セレーナは真っ黒なレンズに映る自分と目を合わせながら首を傾げた。


「こっ、これは色つき眼鏡ですよ。これで血を直接見ずに済みますから……!」


 相変わらず声は震えているものの、ゾーイはしっかりと負傷者たちの方を見据えている。

 確かにこれならば血の生々しさは緩和されるだろうが、不審者感が溢れ出ていて、聖女には見えない。だから普段のお勤めの時は着用を許されていないのだろうと、セレーナとミアは呆れ顔で目を見合わせた。


(一体どんなふうに見えているの……?)


 セレーナは好奇心を抱きつつも、思考を切り替え急ぎ治療にあたった。



 日が傾き始めた頃、すべての治療を終えてセリーナがひと息つく。

 幸い魔獣が再び現れることはなく、残っていた負傷者はすべて助かった。


「はぁ、疲れた……」


 治癒力を使いくたくたになっているセレーナを見て、ミアがジトっとした視線を向ける。


「疲れたって、あんた二人しか治療してないだろ」

「えっ?」

「しかも一人なんてかすり傷だったじゃん」

「そ、そうだったかなぁ」


 啖呵を切ったわりにあまり活躍していないセレーナの倍の人数を治療したミアにとっては、許せない状況なのだろう。

 そんな二人を宥めるように、重傷者の手当てを終えたフレイヤが間に入った。


「セレーナはね、体力がないだけで治癒力が高いのよ。もう一人は出血も多かったし、治療が遅れていたらきっと重症化していたわ」

「ふーん……意外だな。こんなぽんこつなのに」

「ぽんこつって酷いわね!」

「ぽんこつだろ。治癒力が高いのに体力がない聖女なんて聞いたことないわ」

「まあ確かにね。普通、治癒力が高ければそれを扱えるだけの相応な力があるはずだから」

「え……そうなんですか?」


 座学で聞いたであろうことを、まるで初耳かのようにセレーナが目を丸くする。

 治癒力が高いということは、その力を体内で温存し制御する必要がある。それなのに、治癒力を使う度に異常に疲れてしまうセレーナはやはり普通ではないのだ。


「そもそも聖女は治癒力を体内に留めておく力があるから、病や怪我にも強いと言われている。でもセレーナにはその力がない。生まれつき欠けていたか、誰かに分け与えたか……」

「ぽんこつかってことだな」

「だーかーら、あなたって本当に失礼ね!」


 セレーナはムキになってミアに反論するが、勢いよく身を乗り出したせいで視界が暗くなる。ふらりと身体が傾いた瞬間、すぐさまノアがその身体を支えていた。


「無理は禁物ですよ、お嬢様。今日はどう見ても働きすぎです」

「ノアまで……」

「そうそう。有能執事に運んでもらいな。結果は聞いといてやるから」

「結果……?」

「あのクソ貴族様と勝負してたの、忘れたのか?」

「勝負……あーっ!」


 ふらふらになりながらも、セレーナはヴィクトリアのことを思い出して声を上げる。そのせいで、今度は頭がズキンと痛んだ。


(そうだったわ……治療した人数で勝負するって言ったのに……)


 神殿を抜けてからセレーナが手当をしたのはたった二人。結果など聞かなくても、ヴィクトリアに負けたことは事実だった。


「そんな……奴隷なんて……嘘よ……」


 セレーナはこの世の終わりのように嘆くことしかできず、ノアに支えられながら神殿まで戻るのだった。


 

「はあ~気持ち良い~」


 気の抜けた声が、花の匂いが充満したセレーナの狭い部屋に響き渡る。

 足元の大きな桶には香油とバラを浮かべた湯が張っており、セレーナは疲れ切った足を休めていた。


「お湯加減はいかがですか、お嬢様」


 湯を継ぎ足しながらノアが微笑む。この即席の足湯は、今日一日頑張った主人のためにノアが特別に用意したものだった。


「んーもっと良い感じになったわ……これに按摩なんかが付けば最高なんだけど」

「按摩、ですか」


(フローレンス家にいた時は、専属の子がいたからなぁ。さすがにノアにやらせるわけにはいかないものね)


 いくら見た目は女性とはいえ、易々と肌を触られるわけにはいかない。それは貴族令嬢として教えられたひとつだった。とはいっても、こうして肌は見られているのだけれど。


(こうしてゆっくり足湯に浸かれるだけ十分……)


「――では失礼いたします」

「ひゃっ!?」


 ノアが突然足に触れた感触に、セレーナの間抜けな声が漏れる。

 珍しく手袋を外したノアは、長い指先でセレーナの白く柔らかな足を刺激していった。


「ノア、何して……」

「按摩を望まれていたようでしたので」

「いや、だからってノアにそんな――」

「今は女ですから、問題ないですよね」


 唇を結び上げる表情は、どこからどう見ても女性で、何よりも美しい。この表情を見るたびに、セレーナはノアが男性であることを忘れかけていた。

 そして何よりも――


「き、気持ち良いわ……」


 心地良い痛みを伴う絶妙な力加減と、巧みな指使いは、フローレンス家専属の按摩師に劣らない技術だ。ノアは本当に何でも出来てしまうのだと、少し悔しくも主人として誇らしい気持ちにもなった。


「本当にノアって勿体ないわよね」

「勿体ないとは?」

「何でもできるんだから、うちの執事じゃなくても……しかも私についてこんな所まで来なくてもよかったのに」


 しかも女装をし周りを欺いてまで。バレてしまえば、どんな咎めを受けるかもわからないのに。


「……私が望んだことですから」

「そう……でも――っ」


 いつの間にか足裏の按摩を終えたノアの手のひらが、足首に触れる。そのままゆっくりと、膝に向かって揉みしだいていった。


「ちょっとノア……!」

「この辺りをほぐすと血流が良くなりますから」

「待って……っ」


(気持ち良いんだけど……! さすがにこんな……)


 ただ按摩されているだけなのに、普段誰にも触れられない箇所をノアの指先が伝い、はしたないことをしている気分に襲われる。心臓がやけにバクバクと音を立てて、恥ずかしいような不思議な気分だ。

 顔を赤らめながらもどうすることもできないセレーナを見て、ノアが薄く微笑む。


「いつもの女性の按摩師だと思ってください」

「そんなの無理に決まってるでしょ……っ」

「今日は主人を労わってあげたいのです。あのヴィクトリア様との勝負を引き分けにするほど頑張られたのですから」


 ヴィクトリアとの勝負は、もちろん治療した人数の数で言えば負けてしまった。しかし、魔獣に襲われた者たちへの手当てに自ら名乗り出たセレーナの勇敢さと、重傷者を手当てした活躍が認められ、全員の前で称えられたのだ。貰った報酬もヴィクトリアの報酬を上回り、今日の功績者は誰もがセレーナだと認めた。

 その状況でヴィクトリア側も気が引けたらしく、「引き分けにしてあげますわ」と悔しそうに鼻息をならして去って行ったのだ。

 この先ヴィクトリアの奴隷になることを覚悟していたセレーナとしては拍子抜けの結末であったが、深く安堵した。そしてもう二度と、ヴィクトリアの挑発には乗るまいと心に決めた。


「ですからお嬢様は大丈夫だと申し上げたのですよ」


 ノアの言葉に、セレーナは昨晩言われたことを思い出す。

 根拠もないのに、ノアに言われるとその通りなってしまうことが、昔からよくあった。


(ノアって預言者か何かなのかしら……)


 ついそんな突飛な発想が浮かんでしまうほどには、ノアの能力値は高い。


「私としては運が良かったってだけなんだけどね……」

「運も実力の内ですよ、お嬢様。それに……何より勇気ある行動に心打たれました。あの状況で、我先にと手を上げることは誰にもできることではありません」


 見習いの、しかも落ちこぼれ聖女と言われるセレーナが手を挙げるなど、あの場の誰もが予想できなかっただろう。

 実際にセレーナ自身もあの時は、自分にできるかどうかなど深く考えずに動いていた。ただ、自分の中にある感情に突き動かされて。


「ただ、傍観してるなんて嫌だったの。もう無力な私じゃないから」


 能力は多少劣っていても、セレーナには治癒力が使える。あの時と違って――


「……奥様のことですね」


 セレーナな微かに頷いてみせる。セレーナがまだ五つの時、母親と一緒に乗っていた馬車が魔獣に襲われた。護衛の騎士のおかげで魔獣は辛うじて撃退できたものの、セレーナを庇った母親は出血多量で助からなかったのだ。

 目の前で血を流し、苦しくて痛いはずなのに「あなたが無事でよかった」と笑った母親。セレーナはあの瞬間を鮮明に覚えていた。なぜか母親が息絶えた後から数日の記憶は抜け落ちてしまったのだけれど。


(皆には寝込んでいただけって教えてもらったけれど……その後からなのよね、私の治癒力が覚醒したのは)


 母親が死んでしばらくした頃、突然セレーナの治癒力が覚醒した。

 きっと親をなくしたショックからだろうと言われたが、当時のセレーナはどうしてもっと早く覚醒しなかったのだろうと自分を恨んだ。そうすれば、母親を助けられたのかもしれないのに、と。

 当時の経験はセレーナの心にトラウマとして深く残っており、聖女になると決めたきっかけでもあった。

 結局、神殿に来てからは堕落してしまい、母親に顔向けなどできないのだけれど。


「……きっと奥様もセレーナ様のご活躍を見られていたはずですよ」

「はは、活躍ってほどでもないけどね。結局へばって、ノアに担がれて帰って来たわけだし」

「十分ご立派でした。成長されましたね、お嬢様」


(確かノアもあの時一緒に付き添っていたんだっけ……)


 記憶はないため、ノアから聞いた情報でしか知らないものの、当時と比べて彼が「成長した」と言ってくれることは、セレーナにとって救いだった。


「……ありがとう」


 セレーナがはにかみながら礼を告げる。ノアは口角を緩め――


「その調子で明日からも頑張りましょうね、お嬢様」


 持ち上げたセレーナの足の甲にそっと口づけを落とした。


(な、な、今……)


「何ですぐそういうことするのよっ!」

「これもご褒美のひとつですから」

「全然ご褒美じゃないわよ! 変態執事……!」


 隙あらば使用人らしくない行動をとるノアに、セレーナの怒りがこみ上げる。

 真っ赤になった頬は、怒りか羞恥か。どちらにしても、嫌な感情が芽生えなかったことを、セレーナは断固として認めなかった。


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