王子とツバメは地上で恋をする
祖父が亡くなったとの連絡が来て、隆一は両親と共に車で父の実家へと向かっていた。
朝、家人が起きたら亡くなっていたらしい。9月のまだ残暑の厳しい日のことだった。
厳格だが優しい面もある人だった。それが、祖父についてのイメージだった。よく悪戯をしては怒られていたが、たまに『お前の父さんには内緒だぞ』と言って、小遣いをくれたりした。だが、小学校を卒業してからは、受験して進学校へ進んだ所為で、帰郷する機会もなく、祖父とは疎遠になっていた。
「もっとじぃちゃん、長生きしてくれれば良かったのにな」
車の窓から、流れゆく景色をを見つめながら、ぽつりと隆一が呟く。
「でもなぁ隆一、親父、お前のおじいさんも100と2歳だったんだ。大往生も良いところだ」
「そうよ、朝起きたら亡くなっていたなんて、立派な大往生よ」
父母が口を揃えて、祖父が大往生であったことを強調する。
父は12人きょうだいの11人目の子で、祖父が40を過ぎた頃に生まれた子供だった。父は50代を過ぎようとしていたが、結婚が遅かった所為で、隆一はまだ先月14になったばかりだ。
「そろそろ着くな。隆一、暑いだろうけど、制服きちんとネクタイ締めておけよ」
父に言われて、着ていた制服の緩めていたネクタイを結び直す。
相変わらずでかい家だ。白壁に囲われた、大きな日本家屋が迫ってくるのを見て、小学生だった頃に抱いていた感想を、また頭の中で繰り返す。
門をくぐり、父は池の傍に車を止める。そう言えばこの池で、隆一はいとこと一緒に鯉を捕まえて、祖父に大目玉を食らったことを思い出した。あのいとこは元気だろうか?
「おう、理、それに友美さん。遠いところからご苦労さん。そこにいるのは隆一か、大きくなったな」
隆一達家族を迎えてくれたのは、祖父の10番目の子供に当たる叔父、太吉だった。会わなくなって久しいが、昔よりも髪の毛が後ろに後退しているようだ。
「お久しぶりです、太吉叔父さん」
隆一が、車から降りるなり開口一番挨拶をして、深々と頭を下げる。
「なんだなんだ、他人行儀だな。もっと肩の力抜かんと、大人になってからが大変だぞ」
笑いながら、ぽんぽんと隆一の頭を叩く。こうやって頭を叩かれるのも悪くはない、そう隆一は思って、微かに笑みを浮かべた。
「よう理、よく来たな。三年ぶりになるのか」
「ああ、弘兄さん。隆一が受験の為に帰省やめて、それから進学してから帰ってきてないから、それ位になるなぁ。思えば親父には、不義理なことしたなぁ」
7番目の兄、弘に向かって父、理が言葉を返す。
「隆一も大きくなったなぁ。そうそう、お前と一緒によく悪さしてた祐輔、親父が死んでから元気がないんだ。ちょっと様子見に行ってくれないか」
ああ、そうだ。いとこの名前は祐輔だと隆一は思い出した。確か自分より5つ年下だったはずだ。祐輔が3つの頃から、よく二人でつるんで悪さした。一番年が近いのが隆一だったため、子守を押しつけられる格好で、祐輔を連れ回すハメになったのだが、不思議と二人とも息が合い、色々なことをして遊んだものだ。
「祐輔、どこにいますか?」
叔父の弘に祐輔の居場所を聞く。
「ああ、親父、じいさんの処にいる。あいつ親父が育てていたようなものだからな。遺体は親父の部屋に安置してある」
よくは知らないが、きょうだいの末っ子である祐輔の父は、隆一の父と同じく晩婚で、祐輔が生まれて早々に亡くなり、母は仕事の都合でアメリカへ行っているとのことだった。その関係で、祖父が祐輔を育てていたらしい。
「父さん、祐輔の処行っていい?」
「ん、ああ、行ってこい」
父の許しを得て、隆一は祐輔の元へと急ぐ。途中、すれ違う人に適当に挨拶を交しながら、ようやく家の一番奥にある祖父の部屋へとたどり着いた。
周りには、泣きながら祖父の生前の様子を語る者、たばこを吸いながら思い出を語る者など、様々な大人やその子供達が居たが、皆隆一より年上だった。その中で、一人場違いなくらい小さな子供を見つけ出した。間違いない、祐輔だ。黒い髪は短く刈り込まれ、肌はよく陽に焼けて黒くなっていて、顔立ちは最後に見たときよりも、かなり大人びていた。父方である篠崎の人間よりも、恐らく母の方に似たであろう大きめの黒い瞳は、虚ろな表情を浮かべている。
「祐輔?」
近寄っていって、本人かどうか確かめるように、小さな声で問いかける。
「りゅう……いち?」
「うん、隆一だよ。大きくなったな、祐輔……」
言い終わるが早いか、いきなり祐輔が抱きついてきて、急に大声で泣き始めた。
「りゅ……ち……。じぃちゃ……ん、しん……だ。朝、起こしに行ったら……冷た……」
えぐえぐとしゃくりを上げながら、必死に言葉を紡ぎ出そうとする。
「悪いけど泣かせてやってくれない? お父さんの遺体最初に見つけたのは、祐輔なのよ」
そう答えながら、父の5番目の姉に当たる叔母、千奈美が隆一に告げる。
「それでも今まで涙一つ見せずに、ずっとお父さんの枕元にいたんだけど、仲良かった隆一君と会って気が抜けたみたいねぇ」
同じく、6番目の姉に当たる叔母、里美が言葉を続ける。千奈美と里美は双子だった。
「じいちゃ……。じ……いちゃん……」
「じいちゃん亡くなってから、ずっと泣くの我慢してたんだな。俺が居るから大丈夫。いくらでも祐輔が泣くのを受け止めてやるから」
そう慰めながら、しゃくりを上げる祐輔の背中をぽんぽんと叩き、祐輔が落ち着くまで待つ。
「池行こうか、祐輔」
祐輔が落ち着くと、そう隆一が声をかける。それにこくりと頷いて、祐輔は隆一の背中を摑みながら池へと向かう。
池の畔では、相変わらず父と叔父達が話をしていた。邪魔しないように、池の一番端へ行き、祐輔と一緒に池の鯉を眺める。
「昔、この池に飛び込んで鯉捕まえたっけ? 覚えてる?」
その隆一の問いに、うん、と短く祐輔が答えた。
「じいちゃん、凄く怒ってた。でも、次の日には許してくれた」
「そうだったな」
祐輔の言葉に隆一が短く相づちを打つ。
「明日、お母さんがアメリカから来るって」
「そか」
「俺、じいちゃん死んだから、お母さんのところへ行く」
池を泳ぐ、見事な錦鯉を眺めながら、ぽつりと祐輔が呟く。
「アメリカへ?」
その問いに、こくりと祐輔が頷く。
「怖くないか? 知らないところへ行くの?」
心配そうな表情を浮かべて、隆一が尋ねる。
「うん。じいちゃんが生きてるときに言ってた。俺が死んだら、お前はお母さんと一緒に暮らさなきゃダメだって。だから怖くない」
少し悲しそうな表情を浮かべながら、祐輔はそれでも気丈に、隆一の方を向いて答える。
「なあ祐輔。もしアメリカ行って、寂しくなったら俺の処へ手紙書きなよ。返事ならいくらでも出してあげる。本当は、祐輔は俺の弟みたいなものだから、一緒に暮らそうって言いたいところだけど、そうも行かないしな」
「手紙、書いていいの?」
おずおずと祐輔が聞く
「ああ、いくらでも書きなよ。それで祐輔の気が紛れるなら」
その答えに、ぱっと祐輔の顔に笑顔が浮かぶ。
「うん。俺、隆一にいっぱい手紙書く。それから、一つ約束して、隆一」
「なんだ、約束って?」
「いつか隆一と一緒に、日本で暮らしたい」
「ああ、祐輔が大きくなって、俺も大人になったらな」
「じゃあ指切りして、隆一」
そう返事をすると、すっと小指を差し出す。
「よし、指切りだ。大人になったら、祐輔と一緒に暮らす。約束な」
そう笑顔を浮かべながら、祐輔と指切りをする。
「約束だよ隆一。忘れないで」
遠くから、祐輔を呼ぶ声がする。その場を走り去ってゆく祐輔の小さな後ろ姿を見て、異国で殆ど記憶にない母と、二人で暮らす事になる、いとこの今後を思うと、きゅっと胸が痛くなる。
翌日、祖父の葬儀がしめやかに行われた。その場に現われた祐輔の母は、黒い髪を肩の辺りで揃えた、細いフレームのメガネが似合う美人だが、何処か冷たい感じがする。そんな印象を隆一は受けた。
「祐輔がお世話になりました」
葬儀が終わり、火葬も済んで家に戻った後、深々と祐輔の母、江利は一番年上である叔父、茂吉に頭を下げた。
「礼なんていいよ。実際育てていたのは親父なんだし。それよりも、本当に祐輔をアメリカへ連れて行くのか? 何なら、日本で俺たちが面倒見ても良いんだよ」
その申し出に、首を軽く横に振って否定の意を示す。
「最初から、お義父さんとはそう言う約束でしたし。私も、仕事が軌道に乗ってきて余裕が出来ましたから、親子でアメリカで暮らしたいんです。今までご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
そう告げて、もう一度深々と頭を下げる。
「祐輔はどうなんだ? お母さんと暮らすか? それとも、ここに残るか?」
茂吉が祐輔に聞く。
「じいちゃんと約束した。じいちゃん死んだら、お母さんの処行くって。だからお母さんと一緒に暮らす」
真っ直ぐ茂吉の目を見ながら、祐輔が小さく、それでも力強い声で言い切る。
「そうか……、なら何も言うことはない。江利さん、祐輔と二人、仲良くな」
小さく溜息を付いて、茂吉が江利にそう伝える。
「で、何時からアメリカへ行くんだね? 祐輔の転校の手続きとかもあるだろうし、海外へ行くんだったら、それなりにややこしいだろう」
「その辺りは、全て私が手続きします。必要な事柄は、あらかじめ向こうで調べてきましたので。お義父さんにお願いして、祐輔のパスポートも取得してありますし」
随分と手回しがいいな、心の中で隆一は呟いた。余命が短いと感じた祖父と江利の間で、あらかじめ何らかの根回しがあったと考えて、間違いはないだろう。
「一週間程したら、祐輔をアメリカに連れて帰ろうと思います」
「そうか、じゃあ荷物纏めないとな。隆一、悪いが祐輔の荷造り手伝ってやってくれないか?」
「分かりました。行こう祐輔、部屋何処だっけ?」
「こっち」
短くそう呟くと、祐輔は隆一の返事を聞かずに歩き出す。慌てて隆一は祐輔の後をついて行く。
迷路のように入り組んだ家の奥に、祐輔の部屋はあった。部屋の中にある物と言えば、古ぼけた学習机とランドセル、それに、大きな本棚にぎっしりと詰まった本だ。子供らしいおもちゃは見当たらない。
「おもちゃとかはないのか?」
隆一が尋ねる。
「うん。携帯ゲームはあるけど、あんまりやらない。友達と付き合いでやるくらい。俺は本読んでる方がいい」
本棚の中身も雑多で、恐竜図鑑や天体に関する本、果ては囲碁の本まであった。
「何かジャンルばらばらだな」
「うん、じいちゃんが一つのことにこだわらずに、いろんな本読めって言うから。俺は本なら何でも好きだし」
「そか。これ本全部持って行くのか?」
その問いに、祐輔は首を横に振った。
「じいちゃんに買って貰ったやつだけ持って行く。じいちゃんが、俺が居なくなったら、お母さんにいっぱい本買って貰え、て言ってたから。お母さんに買って貰う本の場所、空けないといけないだろうし」
そう返事をしながら、祐輔は器用にぎっしりと詰まった本棚から、本を選りすぐりながら抜いていく。
「お気に入りの本とかあるのか?」
その本を受け取って、サイズ別に分けていきながら、隆一が尋ねる。
「これ」
そう言いながら隆一に手渡したのは、ぼろぼろになった、明らかに数十年は通過しているであろう絵本だった。恐らくは誰かのお下がりを祖父が渡したのだろう。
タイトルには『幸せの王子』と書かれている。
「『幸せの王子』。確かツバメが王子の望み通りに、王子の体を飾っていた、宝石とか金箔とかを貧しい人たちに施していって、最後に王子とツバメが天国に行く話だったっけ」
「うん。ツバメは王子の言うとおりにして、最後死んじゃうんだけど、ツバメは王子のことが好きだったから後悔しなかった。俺も好きな人が出来たら、その人の為に命賭ける。人を好きになるのはそう言うことだって、じいちゃん言ってた」
幼い子供に随分ハードな話題を振る祖父だ。それに、祐輔もその教えをしっかり心に刻んでいるらしい。祖父の教育方針にいささか驚きつつも、隆一は改めて祐輔が早熟なことに舌を巻く。
僅か9歳で、祖父の死体を目の当たりにしても、自分に合うまでは涙一つ見せなかったというのだから、精神面では自分よりも余程大人なのだろう。
「でも、もう好きな人いるけど」
本を手渡しながら、祐輔が小声で呟く。
「好きな人? クラスの女の子か?」
「違うよ。年上だけど、恋愛とかにはちょっと鈍いみたい。誰かは秘密」
祖父が亡くなってから初めて、祐輔が笑った。先ほどの会話からは想像できない、年相応の屈託のない笑顔だ。
「そうか。アメリカ行ったら、その子と会えなくなるけどそれでも良いのか?」
「その程度で切れるような仲じゃないよ」
「大した自信だなぁ……」
呆れた口調で隆一が呟く。
「だって、俺にとってすっごい大事な人だもん。アメリカ行ったくらいで、忘れられないよ」
「その子とは、俺みたいに手紙のやりとりとかするのか?」
「それも秘密」
そう言ったきり、祐輔は笑顔を浮かべたままで本棚の整理をする。隆一もそれ以上は詮索するのはやめて、本の整理に専念する。
「これで最後」
そう言って、祐輔は隆一に持ってゆく本の最後の一冊を手渡す。
「大体半分か。結構じいちゃん本買ってくれたんだな。じゃぁ、本入れるダンボール箱貰ってくるな」
「うん」
その場に祐輔を残し、ダンボール箱を貰いに行く。
「ああ隆一、もう終わったのか」
皆のいる部屋に戻ってきた隆一に、茂吉と話をしていた父が声を掛ける。祐輔の母、江利の姿は見えない。
「取りあえず本の整理は。それで、本入れるダンボール箱貰いに来たんだけど。祐輔のお母さんは?」
「ああ、仕事の指示の電話をするとか言って、一旦席を外している。ダンボール箱なら離れにあったな。確かガムテープもあるはずだ、適当に持っていくといい」
茂吉がそう告げると、はい、と答えて隆一は離れへと向かう。
「あら隆一君どうしたの?」
離れに着くと、そこにはビールケースを持った千奈美が居た。他にも、何人かの叔父やその子供達がいて、酒を飲みながら、何やら祖父の思い出話をしているらしかった。
「ダンボール箱貰いに来たんです。祐輔の荷物纏める為の」
「そう。何か隆一君に、祐輔の世話任しちゃってるみたいで悪いわね。後、やかましくてごめんなさいね、母屋じゃ祐輔のお母さんが来ていて、兄さん達と祐輔の今後の身の振り方考えてる横で、お酒飲んで騒ぐ訳にもいかなくて」
「祐輔は俺の弟みたいなものだから、こんなとき位、何か力になってやりたいんです」
「やっぱりしっかりしてるわねぇ、隆一君は。理もしっかりした子だったから、良いところは父親譲りね。ああ、そうだ、ダンボール箱、そこの納戸の中に入っているから。ガムテープも新しいのが何個か入っているから、適当に持って行って」
「ありがとうございます」
「じゃあ、私は酔っぱらい達の世話してくるわ。はーい、今いきますって」
ビールはまだかという声に、千奈美はそう返事をすると、急いでその場を後にする。
その姿を見送った後、隆一は納戸を開けて、中からビニール紐で纏められたダンボール箱と、新品のガムテープを取り出して離れを後にする。
母屋に戻ると、祐輔の部屋へと急ぐ。あんまり長い間祐輔の傍を離れていると、心細がるだろうと思ったからだ。
「お待たせ。ダンボール持ってきた」
息を弾ませながら部屋へと戻ってくると、祐輔は今度は服の整理をしていた。
「うん、ありがとう」
「今度は服か」
「服もそんなに持って行かないよ。多分すぐ小さくなるから、必要最低限のものだけにしなさいって、お母さんが言ってた」
そう言いながら、新しい目の服を選んで床に並べている。
「本、詰めていくな」
紐をほどいて箱を組み立て、その中に本を詰めてゆく。持ってきたダンボール箱で足りるだろうかと隆一は危惧したが、何とか収まった。残りのダンボール箱も組み立て、次は服を入れ始める。
「隆一」
服を隆一と一緒に箱詰めしながら、祐輔がふと何かを思い出したように口を開く。
「ん?」
「住所教えて。俺、隆一の住所知らない」
そう言って、机からノートを取り出すと、それを破って鉛筆と一緒に隆一の前に差し出す。
「ああ、分かった」
そう答えて、差し出された紙と鉛筆を受け取り、住所を書き始める。
「電話番号はいいか? なんなら書くけど」
「いい。声聞くと寂しくなるから」
「そか。じゃぁその分、手紙いっぱい書けよな」
紙を渡しながら、隆一が励ますように言う。
「うん」
大事そうに、その紙を折ってポケットにしまいながら、祐輔が返事をする
その後は会話らしい会話もなく、服を詰め終わって箱をガムテープで蓋をする。
「隆一、次いつ会えるかな? お母さんは、じいちゃんの法事ぐらいしか、日本に帰れないって言ってたから。次の法事って何時?」
「次は一周忌で、その次は三回忌だけど、俺は多分両方受験だから行けないな。行けるとしたら七回忌だ」
「七回忌って、7年後?」
「確か6年だな。長いか?」
その隆一の問いに、大きく首を横に振って否定の意を示す。
「6年なんてあっという間だよ」
「ああ、そうだな」
そう言いながら、顔を見合わせて笑った。それが、六年前に祐輔と交わした最後の会話だった。
「ちゃん……、隆一兄ちゃん、起きて。着いたよ」
少し舌足らずな弟の隆介の声で、隆一は目が醒めた。慌てて窓の外に目をやると、六年前と変わらない風景が広がっていた。どうやら連日の大学のレポート三昧の所為で疲れていたらしい。
「ああ、ありがとな隆介、起こしてくれて」
今年で5歳になる弟の隆介にとって、父の実家に帰るのは初めてだ。年の離れたこの弟を、両親は溺愛していた。無論、隆一も弟を溺愛している。
「ねぇ隆一兄ちゃん。よくお手紙くれる、祐輔兄ちゃんって今日来るの?」
「ああ、来るって手紙に書いてたな」
6年前にアメリカに渡った祐輔とは、その後もまめに手紙のやりとりを続けていた。正直、向こうの生活に馴染めば音信不通になるだろうと思っていたので、今まで続いているのは意外だった。
門の近くに車を停めて、隆一は隆介を抱きかかえて降ろす。
「よう、よく来たな。その子が隆介か。隆一もすっかり一人前だな。何か国立のいい大学に入ったらしいじゃないか」
6年前と同じく、最初に隆一達家族を迎えてくれたのは、太吉叔父だった。
「ああ、まさか俺ももう一人授かるなんて思ってなかったよ。ほら隆介、叔父さんに挨拶しなさい」
そう理に促されて、隆介は慌ててこんにちわと言って頭を下げ、素早く隆一の背後へと身を隠す。
「すみません太吉叔父さん。隆介、結構人見知り激しくて」
「ああ、気にしてないよ。俺にも4年前に孫が生まれてなぁ。丁度人見知りする時期だから仕方ない。立ち話も何だから、家に入れ」
そう促されて、母屋へと入ってゆく。中で喪服に着替えて、法要の行われる広間へと赴く。
父母と一緒に、周りの親戚に挨拶をしたのち、適当な席へと着く。そろそろ法要が始まろうかと言う時、入り口の方から話し声が聞こえて、一人の少年が入ってきた。その少年を一目見て、隆一は祐輔だと確信した。送ってくるのは手紙だけで、自分の写真などは一度も送ってこなかったが、あの黒い大きな瞳の持ち主は間違いなく祐輔だ。
じっと見つめていると、向こうもこちらに気がついたのか、満面の笑みを浮かべて会釈をする。
すぐに法要を執り行う寺の住職が入ってきた関係で、それ以上の挨拶は出来なかったが、法要が終わると、真っ先に駆けつけてきた。
「隆一、久しぶり。髪、茶色に染めたんだ、似合ってるよ」
6年ぶりに聞く祐輔の声は、少年特有の高音ではなく、落ち着いた大人の声へと変わっていた。顔も、僅かに幼さが残るが、母親に似た綺麗な顔立ちをしている。
「ああ、久しぶり。大きくなったな祐輔」
短く刈り上げていた黒髪は、首の辺りで綺麗に切り揃えられて、大きな黒い瞳を一層引き立たせていた。身長も、178センチとそこそこ身長のある隆一の瞳の辺りまである。恐らくは自分と同じか、もっと高くなるだろう。そんな印象を隆一は受けた。
「隆一、今時間いいかな?」
そう聞かれて、父に祐輔と少し話をしてきても良いかと尋ねると、会食まで時間があるからいいと言われた
「俺の部屋行こうか、隆一。この辺りじゃ、人が多くてゆっくり話せない」
確かに落ち着いて話すには人が多すぎる。短く、ああ、と返事をして父にその旨を伝え、部屋へ向かって歩き出す。
6年ぶりに見る祐輔の部屋は、少しカビ臭い匂いがしたが、それ以外は変わっていなかった。
「たまに掃除してくれてるみたい」
窓を開けながら祐輔が言った。新鮮な空気と光が入ってきて、思わず隆一は眼を細める。
「そう言えば、隆一大学生だったっけ。いいとこに入ったんだよね。何もお祝いできなくてごめん」
「構わないよ。それよりお母さんはどうしたんだ?」
「母さんは仕事が忙しいから、俺一人で来た。でも学校始まってるから、今日中に帰るけど。じいちゃんに義理立てしに来たのと、隆一の顔見に来たようなもん」
「アメリカじゃ、新学期秋からだったか。しかし祐輔ももう高校生か。早いもんだな」
「高校生じゃないよ。隆一と同じ大学生。いわゆる飛び級って奴」
にっ、と白い歯をむき出して、悪戯っぽく祐輔は笑った。
「飛び級って……。頭がいいんだな、祐輔は」
驚きながら隆一が言う。昔から聡明な子供だとは思っていたが、飛び級で大学進学とは。
「隆一と一緒に暮らす為に頑張ったんだ。苦労したんだよ、M IT入るの」
「……、今なんて言った、祐輔?」
思わず隆一は大学名を聞き返した。自分の聞き違いでなければ、祐輔は飛び級でM IT、超難関校のマサチューセッツ工科大学に入ったと言った。
「だからMIITに入ったの。隆一理系じゃん、だったら一緒に暮らすときに、事業とか起こしやすいようにと思って、俺も理系の大学目指したんだ。どうせ入るなら、隆一の足引っ張らないようにいいとこ入ろうと思って。で、頑張ってM ITに入学したって訳」
「……、何処まで突き抜けて、俺との約束守ろうとしてるんだ」
思わず隆一は頭を抱える。確かに一緒に暮らそうと約束した。だが、正直アメリカに行って馴染めば忘れるだろうと思っていたのだ。だがこのいとこは、本気で6年前の約束を果たそうとしている。
「だって、隆一のことが好きだから」
「は?」
予想外の答えに、思わず隆一は聞き返す。
「6年前に言ったろ、好きな相手いるって。それが隆一」
「……、俺は男だ。それに、いとこの俺が言うのも何だが、お前顔いいから、いくらでも女が寄ってくるぞ」
「そんなの関係ないよ。俺はずっと隆一一筋だもん。それとも隆一、俺のこと嫌い?」
「いや……、嫌いなら6年も文通はしない」
言われてみると、自分も祐輔のことを憎からず思っていることは確かだ。だが恋愛感情かと言われると難しい。恋愛感情かも知れないし、単なる庇護欲かも知れないのだ。
「隆一、俺が好きな『幸せの王子』の最後、覚えてる?」
突然、祐輔が話題を変える。
「覚えているが……。それがどうかしたのか?」
訝しげに隆一は聞き返す。
「王子とツバメは、天国で幸せになりました、って終わりだけど、俺はこの世界で隆一と幸せになりたいんだ。俺がツバメで隆一が王子。俺は、何があっても隆一を支える」
そう言うと、祐輔が首に腕を回してきて、隆一の首が自然と祐輔の方に傾く。すると視界いっぱいに祐輔の黒い大きな瞳が入ってきて、その次に、唇に何か柔らかいものが押し当てられるのを感じた。それが祐輔の唇だと認識するのに、暫く時間が掛った。
「な、ななな……」
軽く触れるだけのキスだったが、祐輔の唇が離れても、混乱の余り上手く言葉が紡げない。
「ツバメは最後の力を振り絞って、王子にキスをして力尽きたけど、これは俺と隆一の最初のキス。俺は隆一の為なら、何だってする」
「ちょ……、落ち着け祐輔、お前と俺は小さい頃から一緒に行動していた。今も文通してその関係が続いている。だから疑似恋愛に陥っているだけだと思うぞ」
「それはないよ。最初に会った時から好きだった」
「最初って、3歳の時からか?」
その発言に驚きながら、隆一が聞き返す。
「うん。その時にじいちゃんから、『幸せの王子』の絵本貰って読んだところだったから、ああ、この人が俺の王子になるんだって、一目見て思った。カッコ良くて本当に王子様みたいだったもん、隆一」
そう言いながら、癖のある隆一の髪を撫でる。隆一は昔から背も高く、目も切れ長で鼻筋も整っており、どちらかと言えば女顔の祐輔に比べると、大人びた印象を当時から周りに与えていた。しかしこうも大っぴらに、一目惚れだと言われてしまうと、どう返事をすればいいのか分からない。
「すぐに返事してくれとは言わないよ。次に大きい法事は十三回忌だったっけ。それまで隆一に考える時間をあげる」
そう言い終わると、おもむろに机の引き出しを開けて、ノートと鉛筆を取り出して何やら書き始める。書き終わるとノートをちぎって、それを隆一の前に差し出す。
「これ、俺のメールアドレス。ネットでやりとりする方が便利だろ? 隆一のアドレスも教えてよ」
「あ、ああ」
唐突に告白され、キスまでされて動揺していた隆一だったが、祐輔のその一言で何とか平静さを取り戻して、机に置いてあったノートに、アドレスを書いて祐輔に渡す。
そのすぐ後に、軽い足音が聞こえたかと思うと、隆介がひょっこりと現われた。
「あ、隆一兄ちゃん。お父さんがご飯の用意できたから、来なさいって。そっちが祐輔兄ちゃん?」
「そうだよ。君が隆介? 小さい頃の隆一によく似てる。それよりよくここが分かったね」
そばに寄ってきた隆介の頭を撫でながら、祐輔が尋ねる。
「お父さんに地図書いて貰ったから」
頭を撫でて貰いながら、得意そうに隆介は胸を張る。
「そか。じゃぁ行くか」
そう答えながら、弟の出現によって流れが変わったことに、隆一はほっと胸をなで下ろす。
「悪いけど俺、もう帰らないと。おじさんとおばさんによろしく伝えて置いて。隆介も、今度会う時は一緒に遊んであげる」
「もう帰るのか? 飯くらい喰っていけよ」
「今日は本当に、じいちゃんへの義理立てと、隆一の顔見に来ただけだから。じゃぁ今度会えるのは、6年後の十三回忌だね。あ、それから隆一。何年経っても、俺の気持ちは変わらない。それだけは忘れないで」
部屋の入り口でふと立ち止まり、振り向きざまに隆一の目をじっと見つめてそう言うと、祐輔は部屋を後にした。
「? 隆一兄ちゃん、何のこと?」
「あ、ああ。ちょっと約束をしていてな。その返事を今度してくれって言ってたんだ」
不思議そうに聞く弟にそう告げると、手を引いて広間へと向かう。
「隆一兄ちゃんは、どう返事をするの?」
「……、難しい問題だからなぁ。今度会うまでに、答えが出るかどうか分からない」
「隆一兄ちゃんでも、分からないことはあるの?」
「まぁ、心の問題だからな。まだ隆介には難しいと思う」
「ふぅん」
「取りあえずご飯食べよう。その後で池の鯉見に行こうか。綺麗だぞ」
「うん」
兄に構って貰えるのが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべて隆介が答える。
『6年か……。それまでに、俺の中の祐輔に対する想いと向き合わないとなぁ……』
はしゃぐ弟とは裏腹に、隆一の心は暗く沈んでいた。恐らく祐輔は、本気で自分のことが好きなのだろう。だが祐輔はいとこで、しかも同性同士だ。しかし自分の中にも、祐輔のことを庇護の対象ではなく、恋愛対象として見ている部分があるのかも知れない。
6年で果たして結果が出るのだろうか? 長いようで短いこの期間のうちに、隆一は答えを見つけなくてはいけない。
そして、月日は流れ、祖父の十三回忌が数日後に迫ったある日、祐輔から一通のメールが届いた。そのメールには、現在一人暮らしをしている隆一の部屋に泊めて欲しい、と言った旨が書かれていた。 内容はそれだけで、六年前の約束については一切触れられていなかった。もっとも、今までもあの一件に触れる内容のメールは送ってこなかったが。恐らくは、メールではなく隆一の口から直接聞きたいのだろうと、薄々隆一は感づいていた。
今の隆一は、ネットのサーバー構築のベンチャーを起業していた。とりあえず、生活費くらいは捻出できる程度には稼いでいる。起業した際、その旨を祐輔にメールで伝えると、将来は自分も一緒に働かせてくれと返事が来た。祐輔は、今はM ITのコンピュータ科学・人工知能研究所で、人工知能の研究をしていると言う。『サーバーの監視に人工知能が使えれば、隆一の負担も楽になるかも知れないから』そう祐輔は、研究の理由を教えてくれた。そのメールを受け取ったとき、相変わらず何処まで自分のことが好きなんだと、密かに隆一は頭を抱えた。だがその一方で、このいとこを憎からず思っている、自分の気持ちにも気づいて愕然とした。
仕事が一段落して、コーヒーを淹れてメールチェックをしていると、祐輔からのメールが届いていた。内容はもう既に近くの駅まで来ていて、タクシーで隆一の住むマンションまで向かっていると言うものだった。メールの送信時間から逆算すると、もうすぐ着く頃合いだろう。
そう思っていると、インターホンが鳴り、慌てて出る。モニターには旅行用のスーツケースを持った、祐輔の姿が映し出されていた。
「隆一、悪いけど開けてくれない?」
「ああ、分かった」
そう返事をして、マンション入口のオートロックを解錠し、祐輔の到着を待つ。程なく部屋のチャイムが鳴り、部屋の扉を開けると、そこには祐輔の姿があった。
「久しぶり、隆一」
目の前には、少年から青年へと成長した祐輔の姿があった。黒い大きな瞳は相変わらずだが、6年前と比べると精悍な顔つきになっていて、黒い髪は肩胛骨の辺りまで伸びていた。そして、隆一が予想した通り、身長は隆一を追い越していた。
「6年ぶりだな。俺より背、高くなったな」
そう短く返事をして、中へ入るように促す。
「うん、188センチある。隆一は変わらないね、相変わらず茶髪で癖っ毛だ。あ、これお土産。駅前のケーキ屋で買って来たケーキだけど。後、向こうで買って来た缶詰のクラムチャウダーもあるけど、スーツケースの中だ。あっちのクラムチャウダーは美味しいよ」
手にした紙袋を隆一に手渡しながら、祐輔は部屋の中へと入る。
「綺麗な部屋だね。俺の部屋とは大違い。もっとも俺は、研究室で暮らしてるみたいなもんだけど」
荷物を置いて、手近にあったソファに腰掛け、周りを見渡しながら祐輔が言う。
「研究、大変なのか?」 「まぁ大変て言えば大変だけど、面白いよ。隆一の役に立てる段階にするには、まだ時間掛かるけど」
「ああ……、そうか……。その、突然だがアレだ。六年前の返事なんだが……」
皿に移したケーキと、予めドリップしておいたコーヒーを、祐輔の前のテーブルに置きながら、隆一が口籠もる。
「あー。先に行っておくけど、俺は6年前と変わらず、隆一のことが好きだから」
ケーキにかぶりつきながら、当然だと言わんばかりに祐輔は返事をする。やはり、祐輔の気持ちは変わっていないようだ。ならば自分も、素直に思っていることを言おう。
「正直、祐輔のことは好きか嫌いかと聞かれると、好きの部類に入る。まぁぶっちゃけるが、俺はそこそこの数の女と付き合って遊んだ。だが、どうしても祐輔のことが頭をちらついて長続きしなかった」
祐輔の横に腰掛けながら、隆一が告げる。
「それってつまり、隆一も俺のこと好きだ、ってことで良いんだよね?」
ケーキを飲み込んだ後で、祐輔が尋ねる。その黒い大きな瞳は、期待で更に大きく見える。
「3歳で一目惚れさせたんだ。その、なんて言ったらいいんだ……。責任、取らないとな……」
「りゅういちー!」
顔を真っ赤にしながら、なんとかその台詞を紡ぎ出した隆一目掛けて、祐輔が抱きつく。
「うぉ! 祐輔、重いぞ! 急に抱きつくな!」
抱きついてきた祐輔を引きはがしながら、隆一が怒鳴る。
「ごめんごめん。つい嬉しくて。その返事聞いたら、18年間想ってた甲斐があったよ。てかさ隆一」
不意に声のトーンを低くして、隆一をソファに押し倒しながら耳元で囁く。
「早速なんだけど、想い遂げさせてもらっていいかな?」
「お、想いって、つまり……」
一連の流れから、大体の想像は付くが、確認の意味を込めて聞き返す。
「そ、セックス。今から隆一を抱くの」
「……、はっきり単語を言うな単語を……」
こちらも腹を括ってはいるものの、そのものずばり言われると、やはり羞恥心がこみ上げてくる。
「取りあえず、セックスは俺初めてだけど、必ず隆一を満足させてみせるから」
「お前、誰とも付き合わなかったのか?」
意外だといった口調で、隆一が聞く
「うん、隆一以外眼中に無いもん。結構言い寄られたけど、好きな相手いるからって全部断った」
隆一の服を脱がせながら、祐輔が答えた。初めて、と言う割には手際よく脱がしてゆき、やたらと手慣れたキスを仕掛けてくる。
「初めての割には、慣れてるな……」
上半身裸にされてから、隆一が言う。
「そう? イメージトレーニングは欠かさなかったからかな? 経験はないけど、ゲイの連れからどうすればいいかは聞いてるし。あ、キスはチェリーの茎で練習した。あれ舌で結べたら、キス上手いって言われるらしいから」
「そんなもので練習してたのか……」
正直、遊んでいた自分よりも、未経験の祐輔の方がキスが上手いことに、少なからずショックを受けていた。頭のいいやつは何処か突き抜けている、そう隆一は思った。
「結構苦労したんだよ、上手く結べるようになるまで。そんな事よりも続きしよう」
そう言い終わるが早いか、祐輔はショックを受けている隆一のジーンズを、下着ごと脱がして全裸にする。少し強めに入れている、エアコンの冷房が直に体に感じられて、少し体の火照りが引いてゆく気がしたが、すぐに祐輔によって新たな熱がもたらされる。そして二人は一線を越えた。
しかし半ば勢いで事に及んでしまったものの、不思議と後悔の念はなかった。だが世間体の問題がある。隆一の場合、仕事に没頭したいから一生独身でいると宣言して、家は隆介に継いで貰えばいいが、問題は祐輔の方だ。一人息子が同性愛者だと知ったら、母親は卒倒するのではないだろうか?
そんな事を悶々と考えていたら、祐輔がシャワーを浴びて戻ってきた。
「? どうしたの隆一、深刻そうな顔して」
ドライヤーで乾かしたらしい髪を、手櫛で整えながら祐輔が尋ねる。
「いや、今後の関係について考えていたんだが、俺の方はいいとして、問題は祐輔、お前の方だ。同性愛者だと知ったら、お母さん卒倒するんじゃないか?」
「ああ、母さんはとっくに知ってるよ。俺、じいちゃんの七回忌行く前に、母さんに隆一のことが好きだから、隆一以外との恋愛は考えられないって言ったんだ。そしたら母さんは『祐輔には祐輔なりの生き方があるから、好きに生きなさい』って俺の生き方認めてくれた。ただ同性愛者への風当たりは強いだろうから、それだけは覚悟しておきなさいとも言ってた」
「そうか。随分理解のあるお母さんだな」
「まぁね。偏見は持ってないよ。たとえ恋愛対象が同性でも、父さんといられた時間が短かった分、息子には好きな人と末永く一緒にいて貰いたいみたい。それよりシャワー浴びてきたら? 体冷やすよ」
「ああ、そうする」
さっきまで体を支配していた熱が引いて、服を着ても少し肌寒く感じていた。仕事上、何台かパソコンの電源を入れっぱなしにしている為、冷房を弱めることが出来ないので、大人しくシャワーを浴びて体を温めることにする。
いつもより念入りに体を洗って、バスルームから出てくると、何やらテーブルの上に小さなラッピングされた箱が置いてある。
「祐輔、なんだこれ?」
頭をタオルで拭きながら、隆一が尋ねる。
「開けてみたら分かるよ」
言われるがままに開けてみると、中には銀製の飾り気のないシンプルな指輪が入っていた。だが普通の指輪に比べると随分と小さい。
「指輪? にしては小さくないかこれ」
「ああ、ピンキーリングだよ。前にメールで、隆一の右小指のサイズ聞いただろ? それはこの為」
確かに以前メールで、右小指の指輪のサイズを聞いてきたことがあった。サイズが分からないというと、サイズの測り方を後日メールしてきたのを思い出した。
「右手を出して隆一」
怪訝そうに右手を差し出すと、祐輔はその小指に指輪を嵌める。その指輪はシンプルなデザインの所為か、隆一の比較的華奢な指をさらに際立たせていた。
「なぁ祐輔、左薬指なら分からないでもないが、何故右の小指なんだ?」
嵌められた指輪を眺めながら、隆一が尋ねる。
「右手の小指の指輪はね、変わらぬ想いを貫く、って意味があるんだよ。俺も嵌めなくちゃ。隆一嵌めてくれる?」
そう言って、ポケットから自分用のピンキーリングを取り出す。デザインは隆一のものと同じだ。
「ああ、分かった」
祐輔からピンキーリングを受け取ると、多少ぎこちない手つきでそれを嵌めてやる。
「しかし、変わらぬ想いを貫く、って言うのなら祐輔だけでも良かったんじゃないのか? 俺がお前のこと、好きだって自覚したの最近だしな」
「これにはもう一つ意味があるんだよ。秘密を大切にしたいって意味がね。王子とツバメの関係は二人だけの秘密だった、俺と隆一の関係も、一緒に暮らせるようになるまで、二人だけの秘密だよ」
そう言い終わると、すっ、と祐輔が右の小指を差し出す。
「指切りして約束しよう、隆一。離れていてもお互い好きだよって」
「そうだな」
少し照れながら、祐輔の小指に己の小指を絡める。
「離れていても、心はずっとずっと一緒だよ、隆一」
二人は天国ではなく、互いの最後の鼓動の一つが途絶えるまで、現世で一緒に居ることを誓った。
王子とツバメは現世で幸せになるのだ。