地下墓地の陸亀による憐れみの歌
カラブリアの山野に掘られた
村の記録からも忘れ去られる程、
古く、小さな地下墓地に
一匹の陸亀が閉じ込められていた。
鳩小屋の様な三角屋根の小屋に
無数のシャレコウベを敷き詰めた
納骨堂の見せしめの死すら、
亀には意味を成さないものだったが、
それでも仄暗い人工の窪地に
閉じ込められる事は
荒野を彷徨う生物にとって
緩慢な死への曝露であった。
哀れな亀は、誤ってこの石牢に落下し、
元の生い茂る地上に戻る事を望んだが、
四方の石壁は遥か上方にまで伸び、
したたかな墓堀り人夫の為の出口は
遥か昔に崩壊していた。
こうして随分と古い時代を生きた死人の回廊に
一匹の亀が閉じ込められる事となったのだ。
しかし、頭上の穴から差し込む僅かな陽光・・
嵐の日に地上から落ちて来る黒土と、
そこに生えた莧科の惨めな枯草や、
あらゆる有機の死を弔う赤蘚達を食べ、
亀は迫り来る死から
辛うじて日々逃れていた。
とはいえ、辛うじて死から逃れる事が
地上で淘汰され損ねた有機達の証であるし、
かつて、それが出来なかった者達は
灰青色の蛆に啄まれ、退場していったのだから、
これは、この世界という牢の健全な日常なのだ。
陸亀に向かって、
頭上を滑空する鴉が言った。
「黄色い頭蓋骨は俗物の徒で、
白い頭蓋骨は聖人のそれだ。
土汚れた褐色の骨は罪人のものであり、
永年、地下水に浸かり、青く黒ずんだ骨は、
深夜に喋り出すという・・・」
ああ、地上では
照り続ける太陽が水を奪い、
苦しさの余り、土壌から彷徨い出る
糞蚯蚓達を殺している。
彼らは、
追い立てられ、受難するジャコバン派の党員達と似て、
救いが随分と先に予定されている者達だ。
人里離れた荒れ野にある
看取る者のない死体の様に遺棄された畑地・・
道が既に消失した荒ぶる幼虫達の森・・
不気味な感情の無い
頭状花序の肉が立ち並ぶ荒野・・
その境に
この地下墓地はあった。
それは、四角い石灰岩の石牢であり、
色の無い甲虫と死者の寝室だった。
陸亀は無機の回廊を日に何度も往復しては
餌となる草の破片や、
甲虫の死骸を見つけては食べた。
この辺には黒い
タイファエウス・フィオスティウスと呼ばれる
不気味な黄金虫が多く生息していて、
それらの虫が毎日の様に
地上から落下して来るのだった。
地下墓地に散乱している
黄金虫達は歌った
(中には既に死んだ個体も混ざっていた)
「共産主義者は数多く死ぬ。
それらは生きる為に死ぬのだ。
生存の出来ない高みから落下し、
叩きつけられ死ぬ。
臓物を脇腹より飛び出させ、
それはキリストの様に
現実主義者という名の鳥に啄まれる。」
陸亀はそれらの
ひっくり返った甲虫達の歌を聴きながら
歩き回った。
これだけ立派な構造の身体を
持って生まれて来ながら、
なぜ、これらの虫達は無様に無意味に死ぬのか?
まるで石の破片の様に死んでいくのなら、
そもそも最初から無機として生まれ、
この苦しみの世界に
形を成さなければ良いものを。
そう陸亀は考えた。
甲虫の死骸が散乱している石床には、
消えかかったラテン語で
ECCE MORS(死を見よ)
と書かれている。
虫達の寿命はあまりにも短すぎ、
この世界に不完全な機能を持った肉体で
湧いて出る意味を考えさせた。
虫共の乾いた死の回廊は
(中には黒彊病菌の発生により、
悪臭を放っている骸もあった)、
この長寿の納骨堂が長い年月の間、
受け容れ、飲み込んで来たものの一つだった。
それは横臥した死体に湧いた虫だったのだ。
今から百年程前に、
かの有名な田舎領主カヴァルカンティ卿が
人生の晩年に信仰の証を見つけ、
自身の墓として、
この横臥像無き寝室を作らせたが、
今では長い年月の果てに土に埋没し、
まさに、この窪地そのものが
哀れな死体像となってしまっていた。
だが、そんな事は
亀にも、石壁を覆う蔦にも
どうでもいい真理だった。
現世で行われる
食作用においては、
その循環の輪の外にある
別の連鎖を当事者達は把握する事をしないし、
それは、命の輪の外にいる者が
やり遂げればいい。
ああ、なぜなら
亀は[若きフランス]ではないのだ。
ただ、明白な事は、
灼熱の日差し、
乾いた土壌、
貧しさ・・
あらゆるものがここでは
冷徹である必要があった。
別の言い方をするなら、
誰の前でも演じる必要のない
裁かれぬ死が闊歩していたのだ。
陸亀は見た。
生命にとって、不健康であるこの場所を!!
日差しが足りず、水分が少なく、
雨水はすぐに溶存酸素量の不足した
汚水の水溜まりに変わった。
そのせいで
惨めな着莢不良のマメ科植物達が生い茂る。
そんな、この病んだ薄暗い地下で、
あるいは、魂が人生の終わりに、
己の寝室の顔を見つめ直す為の
孤独な肉の個室で、
亀はその臓器を循環させ、呼吸した。
マメ科植物の根に住む根粒菌も、
石の上に積もった、このわずかな土では、
その繁栄の営みを
満足に果たす事は出来なかった。
根粒菌達は不満げに歌った。
「如何に窒素固定を築き上げた所で、
そこにあるのは糞の混じった糞なので・・
長い年月の果てに、最早、
何の為に作られたかわからない
疎外の牢の中で、
何の為かわからない繁栄を夢見る・・」
巡回する死は頤を叩き、
森の蜚蠊達の声を借りて
サルダの拍で語りかける。
「おお、偉大なる命を生み出す者よ。
何の為に有ろうとし、何の為にそこにいる?
想像を絶する不幸を知れば、
どうせ笑いながら死ぬというのに。
お前達、命には抱えきれないのだ。
この世界の可能性は巨大過ぎて・・」
陸亀は毎日の様に
乾燥した墓の内部を闊歩し、
その心臓を維持した。
そう。
亀の心臓はひたすらに耐えていた。
あらゆる地上の有機達の様に・・。
ああ!!耐える事は!!
この、かつて山野の農夫達が
カラブリアのアメンドレアと呼んだ地では
ずっと蔓延してきた風土病だった。
炙られる臓物には
免疫という抵抗が必要だったのだ。
地下墓地の空虚さの中を飛び交う薮蚊達は
無垢である自然の
剥き出しの冷徹さを詩にして歌った。
「おお、冷徹な死よ!!
だが我々は無機の見る夢なので
むしろ無に帰る事・・
すなわち歪な存在という形質から逃れて、
影の無い死に戻る事が自然な事だよ。
我々の思考に使った心臓も、
膵臓も、
いずれその縁が切れ、
別の素材となって、
また別の思考を繰り返すだろう。
肉食獣は草食動物になり、
社会主義者は資本主義者になる。
そうして、永遠に意味のない思考を繰り返し、
罵り合うのだ。
だが、相手は己であり、他者とは自身だ。
なぜなら肉体は土壌であり、素材であり、
我々は宇宙という永遠の資材置き場の
見せる戯れに過ぎない。
思考とは、無機の宇宙の幻影に過ぎぬ。
感情とは、感情の無い所から生まれて来たのだ。」
藪蚊達は、
雨水で出来た水溜まりに卵を産み付け、
やがてそれは健気なボウフラになったが、
カラブリアの強力な日差しが水溜まりを焼けば、
それらの惨めな虫けら達は皆、焼き殺された。
そういった期待と希望と、
淡々とした喪失、損失が当たり前の様に
日常として繰り返されるのだった。
望みは幾度となく生き埋めにされ、
殺される運命にあった。
それでも藪蚊達が絶える事がないのは、
必然ではなく、ただの偶然であり、
この地上の肉達は、ただ偶然に
地平線に置かれているに過ぎないのだ。
シシリーの船乗り達が溺れ死ねば、
魚はその肉に狂喜するという事だ。
地下に降り注ぐ木漏れ日は、
湿度の中に住む、したたかな者達を殺し、
殺された者達の腐乱した肉は、
代わりにその領域でのさばる顔役達に場所を譲った。
中でも、強靭な
枯草菌達が石牢で歓喜して歌った。
「魂にも走根があり、
自我などは、むしろ偽花に過ぎない。
我々は共肉により他人と繋がり、
一つの巨大な姿を成し、
実を言うと偉大なものを、
ただ、ただ讃えるのだ。
しかし、かといって、
我らが主イエス・キリストは
魂を蔑ろになどせぬ。
語るそれぞれの言葉は
あらゆる卑猥で尊大な偽りを述べる霊を殺し、
個でいる孤独は、
常に気高さとキリストを讃える。
重要で無い者が崇高を救うのだ。
ところで、ところで、
対して、敵対するものは
顔の無い群体を成し、
個は、この自我の無い悪霊を恐れる。
顔の無い忌まわしさを恐れる。
深夜に扉を叩く、
風以外の不吉な音に怯えるのだ。
だが、案ずる事はない。
キリストは永劫の時の果てに、
最も忌まわしい[歪みの首魁]を
貫き、討つであろう。」
土壌の皇帝と呼ばれた肥沃な黒土は、
幾たびの嵐で積み上げられ、
そこにわずかばかりの
不機嫌な蚯蚓達が住み着いている。
彼らは盲目なので、出口の無い回廊に堕ちようと、
決して自分達が
閉じ込められた囚人だとは思わない。
それどころか、彼らは何処にいても、
天敵の馳走となるその瞬間まで、
人生を謳歌する歌を歌う。
「永遠に繁栄する生物などおりません。
長生きこそが幸福だと思うから、
あと一日、あと一日と
何処までも爪で運命を掻き毟る。
一日だろうと、二日であろうと、
所詮は共に過ぎた時間です。
何時迄生きれば免罪になるか?
何時迄生きれば正しいか?
いっそ、手放してごらんなさい。
いつか必ず手放すものを、今手放した所で、
その実は何も変わらない。
喪失を受け入れない者は、
生まれた時から形崩れ、
失い続けるこの世界で苦しむのです。
空高く飛ぶ虫が自由と言うが、
飛んだ所で何処に行くのか?
行きたい所も想わぬ者が翼ばかり欲しがって、
欲望に無諺という免罪を探す。
我らは、尿や糞便の
とびきりな濃度のスープが大好物。
老いた豚の死骸、病気で死んだ子牛、
みんな悪臭放つ腐肉となって、
蛆と閻魔虫達の馳走となり、
その溶け出た毒汁で穢れ、
キリストも住めなくなった土壌にこそ
我々は大勢いるのです。
誰の魂の内面にだって、
覗けば立派な御殿が立ってるというのに
探しに行くのだから滑稽ですなぁ。
その為に足があるって?
ああ、私達には
そもそも足なんて無いのですよ。」
かつて血気盛んな農夫達は
作物を喰い荒らす陸亀達を叩き割ったが、
振り下ろすその手もいつか老い、
人生に疲れ、諦観に憑かれていったのだろう。
ある日、老いた農夫が、
村の教会で息を引き取ったのを最後に
この地に訪れる者はいなくなった。
その村も、やがて無くなった。
全ては移り変わる。
あらゆるものが崩壊に向かい、
原初の意味を失い、
胡乱な疎外として輝き続けるのだ。
そして、その始めた者の名すら伝わらず、
やがて生きる者はその名を忘れていく。
把握できなくなった現実は、
ただ拡張し続ける。
こうして他人は生まれた。
我々は他人行儀で世界と接していく。
社会主義者でありながら、
社会主義を外部から眺め、
突き、喚き、詩を読み、
その本質は実は、
誰も世界の事など知らないのだ。
やがては長寿の亀も、
この窪地で命尽き、骨となり、
細菌達の馳走となるだろう。
残された肋骨も甲羅も
一時、この世における時間を形どり、
その輪郭を辛うじて示す。
だが、懲りずに・・
実に懲りずに、
その輪郭すら細菌達は解体してしまう。
やがて、有機は再び有ろうとする。
それは無に対する足掻きであり、
あるいは、繰り返す窒素固定に過ぎない。
本質を誰も記憶しないものだから、
記憶は引き継がれる事なく、ただ繰り返すのだ。
存在は無に焦がれ、無は歪を愛する。
ただし、その往時に楽園への道は存在しない。
楽園とは積み重ねる道の先ではなく、
常に我らの隣に存在している。
常に我らと共に存在している。