人にやさしく
「ひとにやさしく」
向かいの男はかれこれ30分くらい、会社の愚痴をこぼしている。彼女はそれに相槌を打っては、時折、優しく微笑んでいる。俺は彼女が見つめているその男から視線を外して、彼女の手元を見る。俺の視界は、基本的に彼女の視線と同じなのだが、多少の自由は効くのだ。彼女が手に抱えているクッションには、熊のキャラクターがプリントされていて、その顔の横あたりに、ソースらしき染みがついている。彼女の指先がキュッと鋭角にクッションの角を掴んでいる。
最近分かったことだが、彼女はストレスを感じると、指先を折り曲げる癖がある。鷹のように。
聞きたくないなら、聞かなければいいのに、こんな話。俺は思うが、彼女は優しい上に、この年下の男に惚れているのだ。訪ねてきた彼女に、汚れたクッションを渡すような男に。
「だからさ、ほんと、センスがないわけ。で、仕方ないから全部、俺がフォローしてやってんのよ、分かる? 俺の苦労? まぁ、あかりには分からないか、派遣だし」
彼女、あかりは派遣で広告会社で働いている。学生時代からデザインに興味があったが、デザイナー枠は狭く、正社員で就職することはできなかった。今は、派遣で働きながら、デザインの専門学校へ通っている。向かいの男は、同僚のデザイナーだ。
彼女は、男の愚痴が一区切りついたところで、トイレに立った。
6畳ほどのリビングを出て、キッチンの後ろにあるトイレに入る。
モスグリーンのロンングスカートをはいたまま、便座に腰をおろすと、彼女は小さく息を吐いて、つぶやくように歌い出す。ブルーハーツの、いつものやつだ。
ワンフレーズ歌うと、彼女はふっと顔を上げ、今度は、しっかりした声で言った。
「ところで、君は誰?」
最初は、独り言だと思った。
「君だよ、君。時々、わたしの頭の中に来るじゃん?誰?」
「バカみたい、って思ってるでしょ、こんなしょうもない奴と付き合ってって」
どうやら俺に話しかけているのだと気づき、俺は、自分のことを彼女に話した。50歳の、しがないオヤジであること、時々、彼女の頭の中に入り込んでしまうこと。自分でも理由は分からないこと。でも、彼女の人生を邪魔する気はないこと。それと、ブルーハーツが自分も好きなこと。
俺の話に、彼女も最初は驚いていたが、やがて、小さく、吹き出すように笑った。
(そんなおじさんが、わたしの中にいるって変な感じ。でも、ブルハーツの武道館のライブ、生で見れたのか。羨ましいな。わたし、YouTubeでしか見たことないもん。ちょっと、元気出たかも)
声に出さず、彼女は俺に言うと、水を流し、勢い良く便座から立ち上がった。
「何?長かったじゃない?もしかして生理とか言わないでよ?今更」
部屋に戻った彼女に男が不審そうな顔を向ける。
「ただの下痢。でも大丈夫。今、ブリブリ出てスッキリしたから。今日は帰るね」
あっけに取られる男の顔が、視界から消える。
彼女は、颯爽とドアへ向かう。
ドンッという衝撃が背後から加わり、彼女がつんのめる。
ドアが、視界の中で、ゆっくりと傾いていく。