《3》
コーネリアス・ジャッジはじりじり身を焦がすような心持ちを抱えながら、鉄塊を振るっていた。
今は亡き主君の子、世間知らずのアルバート坊ちゃんの無事が何よりも知りたい。
その為ならこの身を悪魔に捧げようと、他の何を犠牲にしようとも厭わない。
主従を超えた愛情を注いできた次期当主に忠を尽くすコーネリアスは、宛ら鬼神の如き迫力であった。
「邪魔だぁ、泥団子ども!」
在りし日の口汚さがついつい戻ってきてしまう。
『剣聖』との仇名を付けられし時分を取り戻すかのように、そのまま己の湧き上がる暴力に身を委ねてゆく。
……あの小娘、儂に見惚れておったな。
少し目を離した隙に娘に取り付いた泥人形を、命からがら自力で退けた姿に、コーネリアスは戦士の血気を感じ取った。
「はん、戦乙女を気取るつもりかよ!」
倒れるように襲ってきた一体を薙ぎ払い、続け様
に反転してもう一体の頭部を粉々にする。
傀儡の原動力となる魔術核を圧し潰す感覚を捉えるや、直様次の獲物に飛び掛かる。
……やれやれ、気持ちは若くとも身体がついていかんわい。
コーネリアスは齢六十を超え、近年は隠居同然の身。
アルバート坊ちゃんの世話係も坊ちゃんが十二に成り附属学舎の入寮が許された際にお暇になり、それ以降クライス家との関係は希薄になってしまっていた。
かつて戦場で名を馳せた英雄も、年を重ねれば唯の人。
次第に世俗との関わりも薄れ、孤独な老騎士はこのまま静かに朽ち果ててゆくと思われたところに、アルバート坊ちゃんが変わり果てた姿で現れたことで老人の運命も変わったのである。
地位も名誉も、肉親まで奪い去られ、絶望に打ち拉がれる坊ちゃんを思い起こす度にコーネリアスの胸も締め付けられる。
おお、神よ、この枯れた愚物にもまだ果たすべき使命があると仰せたもうのか!
コーネリアスは魔術核から飛び散る返り血を浴びながら、修羅の如き様相で鎚矛を振るい続けると、一体の頭部を吹っ飛ばした瞬間、汗で滑ったのか、鎚矛がコーネリアスの掌から弾き出されてしまった。
己の不覚を恥じたときにはもう遅く、右方から手を伸ばしてくる泥人形に肩を掴まれてしまう。
「人形風情がこのコーネリアス・ジャッジを害そうなど、片腹痛いわ!」
コーネリアスは一喝し、怯むことなく泥人形の胸部に向かって拳を突き刺した。
しかし、幾ら泥とはいっても人形の核が収まる胸部は相応の硬さを誇っており、一回では表層を貫けない。
「東方帰りの騎士を舐めるなよ、泥団子おおお!」
二回、三回と殴打し、表面にヒビが入ったところで、つかさず手刀を差し出した。
無理矢理捻じ込んだ所為で爪が割れ、肉の間から血が滲むのが分かったが、今のコーネリアスは痛みすら凌駕する使命の焔に灼かれていた。
お構い無しにそのまま腕まで深々と差し込み、人形の魔導核を抉り出そうとする。
「危ない!」
突然発せられた声に我に帰ると、背後から頭部を捥がれた一体がコーネリアスに取り憑こうとしていた。
「小賢しい真似を!」
コーネリアスは左脚で背後の一体を蹴り出して引き離すと、目の前の一体のとうとう核をがっちり掴んだ。
泥人形は悲痛な叫びを上げ、両腕をコーネリアスの背に回して掻きむしったが、コーネリアスは今更背中の引っ掻き傷程度ではびくともせず、
そのまま核を握り潰した。
泥人形の断末魔が耳をつん裂く中、地面に伏せっておたおたしている最後の一体に馬乗りになり、更に殴打を浴びせる。
硬い表層にぶつかった皮膚が割れ、己の血で拳が滑るのも構わず拳を叩き込み続け、最早感覚が麻痺した血塗れの掌で魔術核を掘り当てると、雄叫びとともに引きちぎった。
泥人形も陸に打ち上げられた魚のようにじたばたと必死の抵抗を見せていたものの、とうとう力尽き、泥の塊へと還っていった。
「……あの、これっ!」
羊飼いの少女が鎚矛を引き摺ってこちらに来た。
なるほど、さっきの声はこの小娘のものか。
「忝い。
しかし、お転婆が過ぎると命が幾つあっても足りませんぞ」
先ほどまでの暴力的な熱が治まりつつあるのを感じながら、コーネリアスはお小言を放った。
「ごめんなさい。あの、あたし……」
昼間の威勢の良さは何処へやら、もじもじと気不味そうに話す少女が可笑しく、コーネリアスは思わず声を出して笑った。
「いや、そのおかげで助かりもしました。改めて、礼を云わせて頂こう。
……それに、お嬢さんには謝らなければならんこともある」
アルバート坊ちゃんの手前では敢えて口には出さなかったものの、コーネリアスとて無垢な羊飼いの少女を血に塗れた闘争に巻き込んでしまった咎は感じているし、何よりコーネリアス自身がその首謀者である自覚もある。
しかし、やむを得ない処置であったことも確か。
いつ何時敵が襲って来るかという状況では目の前に近づいて来た人物を疑うなということの方が無理な話。
少女には申し訳も立たないが、悪い夢だと思って諦めて貰う他ない。
せめて、死なせなくて良かった。
純朴であどけない少女の顔を見遣ってコーネリアスは小さく安堵の息を漏らしたのである。
「しかし、今は話している暇はないのです。坊ちゃんが危ない。
お嬢さんは犬と一緒に森を出るか、猟師小屋へ匿って貰いなさい。
そして、今日あったことは悪い夢を見たと思って忘れるのです」
「……なにそれ、こんなことになって、何も言ってくれずに、全部忘れろですって?」
コーネリアスが優しく諭すと、少女は俯いていた顔を挙げ、目を剥いて反論して来た。
「そんなの嫌だ、ちゃんと話してよ!
そりゃ、あたしは学がないから難しいことは分かんないけどさ……」
「お嬢さん、賢い貴方ならもう我々の正体も察しが付いているのでしょう?
私達に関わらない方が、お嬢さんの身の為です」
「それは分かるけど、お、お母さんが……!」
「何を言っているか、私の方こそ分かりませんな。
済みませんが、急ぎますので」
にべもなく言い放つと、コーネリアスは少女から鎚矛をひったくり、身を翻すと『イカロス』の隠し場所に向かって駆け出した。
尚も少女が何ごとか叫んでいたが、最早構っている猶予はない。
最低限の責は果たした。
血塗れの掌や背中の傷が今更になって疼き出し、コーネリアスは苦悶の表情を浮かべる。
しかしそれでも、唯々アルバート坊ちゃんの無事を願いながら老体に鞭打ち、一刻も早く主人の元へ馳せ参じようと足を緩めることはなかった。
少女が牧羊犬を叩き起こし、自らを追いかけようとしていることも知らずに。