《1》
「......っめだ、……っる、…………ッス」
「ぼっ……、……ろをひら………、ついてっ……」
「あの…………ちはっ……っる?」
「むり…………、すて…………せん」
「ばかっ…………、こー……………ッス!」
もやもやと薄靄がかかっているような景色が浮かび、怒鳴り声が反響する。
よく分からないけど、焚き火の側で何かに向かって人が暴れているようだ。
煩くって嫌な夢だ。
早く起きよう、そうしよう。
でも、起きられない。
変だなぁ、ふだんならディッシュのカツカツと踵を鳴らすブーツの音で目が醒めるのに。
わたしの身体、どうなっちゃったんだ。
……ありー、
めっ……、
メ……ア……リー……
わたしを呼ぶ声がした。
誰だろう、暖かくて、胸の奥がきゅっとするような、懐かしくて恋しいような声。
声の在処を探そうと目を凝らすと、眩い光がこちらに向かってくるのが分かった。
眩しいばかりで最初は分からなかったけど、段々と輪郭が見えてきた。
それはヒトの様な姿で、背中の左側には純白の翼があった。
どんどん近づいて来る、わたしの名を呼びながら。
ねえ、早くこっちへ来てよ。
もしかして、わたしの……
やがて目の前まで来たそれは、顔と思しき部分を此方に近づけてきた。
ああ、やっと会えたんだね、わたしの……
メアリーはそこで絶叫した。
彼女を覗き込んでいたのは、深淵を思わせるような空洞が二つ並んだ人型の化け物だったからだ。
メアリーは咄嗟に杖を引っ掴み、脚をもつれさせながら這い出すように逃げ出した。
「……ひっ!」
しかし、退路の先にも同じ姿をした化け物達がメアリーの行く手を阻んでいたのである。
何なの、こいつら……。
次第に覚醒し、夜目に慣れてきたところでよく観察したところ、それは泥で出来た等身大の人形のようだ。
丁度目の辺りに空洞が二つ並び、よく見れば泥が固まっていないのか、どれもこれも身体中からどろりと泥を流しながらゆっくりとメアリーに迫ってくる。
捕われたら殺されるかもしれない。
メアリーは直感で命の危機を認めると、杖を前に突き出して目の前の泥人形に向けて振り回し始めた。
人形自体の動きは緩慢で、程なくしてぐちゃり、と杖先の鉤が化け物の顔先に食い込んだ。
しかし、そこまでであった。
仮にヒトであれば致命傷か、少なくとも激痛を与えうる一撃も、この泥人形にとってはさほど意味をなさなかったらしい。
動きを止めたのは一瞬で、すぐに何事も無かったかのようにメアリーに向かって歩を進めてきたのである。
みるみる内に杖が飲み込まれてゆき、泥人形が確実にメアリーとの距離を縮めて来る。
メアリーは杖から手を離さざるを得なかった。
後からディッシュに折檻されるだろうが、それも命があっての話だ。
そう思ったのも束の間、肩にべちょりと重たい感触がのしかかって来た。
うそでしょ……。
メアリーが恐る恐る振り返ると、そこには先程の泥人形がメアリーの肩をがっしりと掴んでいた。
「は、はなしてよ!」
メアリーは必死に藻搔いたが、振り払うどころか更に抑え付ける力が増していくのが分かった。
「そ、そんな……」
やっとのことで肩越しに後ろの様子を伺うと、メアリーを押さえつけようとしている泥人形の上に、もう一体別の泥人形が被さって来ていた。
膝が震え出し、二体分の泥人形を歯を食いしばって支えていると、メアリーは次の瞬間、地面に組み伏せられてしまった。
別の泥人形がまた被さって来たのだ。
「嫌ああああああああ!」
今にも背骨を折られそうな重圧に耐え切れず、メアリーは絶叫した。
その叫びも泥人形の土に埋もれ、夜闇に虚しく溶けていくのみ。
メアリーは視界が泥で埋まっていく中、あまりにも突然に訪れた死を悲しみ、一筋の涙を流したら。
「いゃああああああああ!」
鬨の声が聴こえた瞬間、背中の泥がふっと軽くなるのを感じた。
メアリーはこの機に乗じて泥の塊から抜け出そうと身体を捩り、手を伸ばした。
しかし、泥から抜け出そうとしたメアリーの肩を再び別の泥人形が掴んだ。
ダメだ、もう助からない……。
ああ、神様……。
メアリーが死を受け入れようとしたその時、
「お嬢さん、顔を伏せてなさい」
聞き覚えのある声が降ってきたかと思うと、頭上を何かが掠めていくのが分かった。
泥に何か硬いものが当たる音がするやいなや、メアリーはやっと泥の中から引っ張り出されたのである。
「ご無事かな?」
まだ死の怯えから脱し切らないメアリーが身体を震わせながら見上げると、そこには先程の貴族崩れの老侍従がいた。
「あの、これって……」
「話は後、今は泥人形を片付けるのが先決です」
老人は鎚矛を持っていた。
兎を頬張っていた際はしがない家具商人という話であったが、嘘だった。
老人から放たれる雰囲気は武人のそれであり、メアリーは自分は何かとんでもないことに巻き込まれたのだ、と初めて気付いたのである。
「あの、あの……あのっ……!」
舌が絡れて言葉が出てこない。
聞きたいことは山程あるのに。
老人、コーネリアスは、もはやメアリーを見ることなく、短く、
「下がってなさい」
とだけ告げると、再び雄叫びを挙げて泥人形の群に突進していった。
見窄らしい見た目では想像出来ない鋭敏で勇猛な動きであった。
泥人形が近づこうとするとつかさず一槌をお見舞いし、腕を吹き飛ばす。
無力になったところで頭部を一撃、胴体をかっ飛ばしたところで人形は崩れ落ちてただの泥の塊と化す。
振り向きざま、手を伸ばしていた別の人形を肩ごと粉砕する。
メアリーはつい先程まで死に追いやられていたことなど忘れ、ただただ老人の武闘曲に魅入っていた。
肌がひりつくような血と汗の匂い。
メアリーはそれを受け止めた瞬間、身体が微かに戦慄くのを感じた。
先程までの蹂躙される怯えとは違う、身体の芯に響くような慄え。
……あたし、どうしちゃったの?
メアリーは初めて抱く感情に戸惑いを覚えながら、尚も老戦士の闘いから眼を逸らせずにいた。
「……お嬢さん!」
老人が泥人形を上から振り下ろした鎚矛で殴り潰しながらこちらを向いて叫んだ。
刹那、またしても背後を取られたのに気付いた頃にはもう泥人形がメアリーに手が届くまでの距離に迫っていた。
最初に襲ってきた、あいつだ。
胸部には羊飼いの杖が深々と飲み込まれているのが見えたからだ。
さっきは無我夢中できちんと見ていなかったが、泥人形は彫刻のような姿をしており、顔はよく見れば聖母様のよう。
しかしながら、前に突き出した腕からは固まり切らなかった泥がぽたぽた落ちているのをみると、やはり邪悪なものは隠しようがない。
メアリーは、老人の獅子奮迅の闘いに後押しされたか、きっと泥人形を睨み付けると、自ら覆い被さるように泥人形を押し倒した。
泥人形は虚をつかれたのか、抵抗もなくそのまま地面に叩きつけることが出来た。
メアリーはすぐさま杖を掴むと、老人の静止の怒号を聞き入れることなく、武器を取り戻すべく引っこ抜こうとする。
すると、何かが杖の先に引っ掛かる感触がした。
次の瞬間、泥人形はこの世のものと思えぬ悍ましい叫びを挙げた。
「莫迦者!早く離れぬか!」
コーネリアスが唾を飛ばしたときにはもう遅かった。
泥人形はメアリーの喉輪に手をかけ、締め上げてきたのだ。
あるいは、突き放そうとしたのかもしれない。
メアリーはしかし手を離さなかった。
呼吸を止められ、再び視界が涙で滲む中、何故そうするのか分からなかったが、メアリーは逆に掌に力を込めて杖を引き抜こうとした。
痛い、冷たい、苦しい。
直情的な想いで頭が一杯になり、今にも事切れそうな中、メアリーは全身の力を振り絞った。
あたしは、あたしは……、こんなところで、こんなところであたしはっ…………!
「あああああああああっ!!」
血が混じった唾を吐き、声にならない声を張り上げてメアリーはとうとう杖を引き抜いた。
泥人形の断末魔が響く中、杖の先にぶら下がっていたのは、血管らしき筋が浮いている赤黒い卵形の固まりであった。