《5》
ばちばちと火が焚き木を焦がす音が耳朶を打ち、アルバートは煩わしそうに身を捩った。
「おや、坊ちゃん、お目覚めですかな」
気づけば、火の灯りに照らされた老人が鷹の目を細め、アルバートを見下ろしていた。
気付けば大分日も傾き、夜の帳が下りようとしていた。
アルバートはこの非常時に呑気に惰眠を貪っていたことを悔やみ、詫びの言葉を口にしていた。
「すまない、少し寝ていた」
気怠げに身体を起こすと、はらりと麻布がアルバートの身体から滑り落ちる。
「コーネリアス、気遣いは無用だ」
老侍従のお節介に気を悪くしたアルバートだが、老人は優しく微笑み、首を微かに振った。
「私ではありませんよ、あちらのお嬢さんからです」
傍を見遣ると、同じように麻布に包まった雀斑顔の田舎娘がすやすやと寝息を立てていた。
「近くの猟師小屋から持ってきてくれたようです。
坊ちゃんのお身体が優れないようでしたので、大変心配して下さったんですよ」
侍従は水筒を取り出し、木椀に注いでアルバートに差し出した。
アルバートは一息に飲み干して口元を拭うと、表情を険しくさせ、侍従を問い質した。
「余計な気遣いだ、私は何ともない。
それよりも、『イカロス』は安泰なのか?」
「坊ちゃん、その名前を気安く口に出してはなりません。
どこで誰が聴いているのか分かりませんぞ」
侍従の顔色が変わり、声に緊張が走るのが分かった。
アルバートはふん、と鼻を鳴らし、コーネリアスに抗弁した。
「こんな人里離れた森の中で、いったい誰が聴いていようか。心配性だな、爺よ。
羊飼いの娘は寝てるようだし、聞かせてくれなければそれこそ病になってしまう」
多少大袈裟に詰ってしまったが、彼の持ち物について気が気でなかったのも確かであった。
コーネリアスもまたすやすやと眠りこけている少女に気を遣り、熟睡しているのを確かめてからアルバートと焚火越しに向き合った。
「今のところは大丈夫です。
先刻見廻りましたが、付近を踏み荒らされた形跡も有りませんし、念の為に坊ちゃんに調合して頂いた獣避けの秘薬も撒いてきました。
しかし、油断は出来ませんぞ。
熱りが冷めるまでは気をつけ過ぎるということはありますまい」
「分かっている。それが聞ければ十分だ」
アルバートは取り敢えずはほっと胸を撫で下ろし、再び傍らで寝息を立てている少女に目を向けた。
「いいえ、坊ちゃんは分かっておりません」
侍従のきつい口調に、アルバートは視線を戻される。
「我々は今、相当に厄介な代物を抱えているのです。
それこそ周りは皆敵であると思わなければ。
率直に申し上げて、坊ちゃんは世を甘く見ております」
コーネリアスはいよいよ表情が険しくなり、その眼に唯ならぬものを感じてアルバートは息を飲んだ。
「あの羊飼いの娘にしてもそうです。
自ら正体を明かすなど愚の骨頂。
追手の間者で無かったから良かったものの、もしこれが敵なら坊ちゃんは今頃天に召されていたかもしれないのですぞ」
「……あれは、ついムキになっただけだ。
それに、私には確証があったのだ。こんな村娘なんかが間者であるものか。
私は、家の名誉の為、高貴なる者の務めとして田舎者に教えてやったまでだ。
それに、厄介な代物とは何だ。
お前ともあろうものが、我がクライス家の宿願を愚弄する気か!」
気圧されたのも一瞬、アルバートにとっては乳飲み子の時分から傅かせていた間柄であったので、何の衒いもなくすぐさま侍従の失言に噛み付いた。
「これは言葉が過ぎましたな、申し訳ありません、坊ちゃん。
ですが、くれぐれもご用心くださいますよう。
クライス家は、王国の意に背いたのですから」
「それは分かっている。
しかし、逆賊の謗りを受けようとも、あれだけは何処ぞの田舎貴族の慰みものにしたくは無いのだ」
アルバートは力強く言い放つと、ふと先刻追い回された牧羊犬が居ないのに気付いた。
「ところで、あの駄犬はどうしたんだ。
いや、居ないならそれにこしたことはないんだが」
「ああ、犬ならさっきからそこに居るではないですか」
ふと横を見ると毛むくじゃらの塊が鼾をかいていた。
アルバートは、うわっ、とまたもや情けない声を出してその場を飛び退いた。
「な、なぜ僕のそばにあんな畜生を置いたんだ、コーネリアス!!」
思わず素が出てしまっているのに構わず、侍従を糾弾する。
「おや、暖を取るのに丁度よいかと思いましてな。
それにしても気持ち良さそうに寄り添ってお眠りになっておりましたが」
「うるさい、僕が犬嫌いなのは分かってるだろう?
また臭いがついちゃったじゃないかあ!」
「坊ちゃん、クライス家の当主様とあろうものがそんなみっともない姿、羊飼いのお嬢さんに見られたらまた笑われますぞ?」
半ば呆れ返る侍従を尻目に、アルバートはローブを叩いて犬の毛を落とすのに必死であった。
「……ふん、こいつらはいいよな、何の悩みも無さそうで。農奴は気楽で結構だな」
寝息を立てている羊飼いの娘と犬を恨めしげに見つめてアルバートは吐き捨てた。
「そうでもありませんぞ。
色々と聞きましたが、あのお嬢さんも苦労しているようですな。
身寄りもなく、荘園差配人の使用人をやってなんとか暮しているようで。
全く、神の思し召しも残酷です」
爺にそんなことを喋っていたのか、あの娘が。
アルバートの印象では気の立った猫のようだったのだが。
「ふうん、現金なやつだな。
兎の肉に釣られて、そんなことまで喋ったのか」
今度はアルバートが呆れていると、侍従が乾いた笑いを漏らした。
「いえいえ、お嬢さんはどうして中々しっかりしていましてな。
兎肉程度ではこの爺にも気を許してくれなかったので、少し魔法を掛けましてな」
髭に覆われた口の端を歪めた老侍従にアルバートはある嫌な予感を感じ取り、思わずコーネリアスに詰め寄った。
「コーネリアス、まさかあれを使ったのか?」
「左様。さすが王都にその名を知れ渡らせただけありますな、坊ちゃんの自白剤は実によく出来ておりました」
悪びれもせずしれっと白状する侍従にアルバートは怒りを覚え、思わずローブの胸元に手を掛けた。
「私の断りもなく何故使った!?
あれは強力な薬で、下手をすれば精神を壊してしまうのだぞ?
何の罪もない領民を巻き込むのか、お前は!」
「坊ちゃん、お静かになさいませ。
いくら眠らせているとはいえ、これだけ騒げば起きないとも限りません」
アルバートの怒りとは裏腹に、冷ややかに老人は嗜め、アルバートの手をほぐしてゆっくりと自らを引き離した。
「いいですか、坊ちゃん。
何度も言いますが、今の我々には手段など選んでられないのです。
戦は寓話のようには参りません。
騎士や魔導師の誇りを捨てても護らなければならぬとこの老ぼれが思ってのことなのです。
綺麗事を並べるだけでは『イカロス』どころか坊ちゃんまで喪ってしまいます。
このコーネリアス、そのようなことになれば亡き旦那様に顔向けが出来ないのです。
どうか、どうかお分かり下さい。
宿願を果たすまではこの老ぼれをも切り捨てる覚悟をお持ち下さいませ」
コーネリアスが腰を折り曲げ、臣下の礼を取った。
アルバートが言葉を失っていると、背後から突然、何かの気配がした。
コーネリアスもすぐさま気取ったようで、
「坊ちゃん!」
と叫ぶと、アルバートを庇う様に前に出た。
火の灯りに照らされて現れたのは、どろりとした身体を引き摺る泥人形の群であった。