《3》
メアリーはディッシュの犬を引き連れて村外れの森に来ていた。
昨晩散々探し回った山ではなく、野犬や狼に追い立てられ、ひょっとしたら麓の森へ逃げ込んだのではなかろうかという淡い期待からである。
もし仮にそうだったとしても、広大な森の中を捜索するのもまた骨が折れるのだが。
ともあれ下男に他の仕事を免除されてまで厳命された以上何もしない訳にもいかず、昨日の昼から碌に食事も取っていなかったので森で木の実にでもありつきながら、ついでに羊でも探そうかと気を取り直したメアリーであった。
今朝の小屋から麓まで降り、そこから更に南へ向かった先に森はあった。
森へ入る頃には既に陽は高く登り切っており、幾ら日頃から羊を追いかけているとはいえ流石に疲れと喉の渇きを覚えて日頃からよく水飲み場として使っている小川を目指して歩いていた矢先、見覚えの無い開けた箇所を見つけた。
メアリー自身、村の森は勝手知ったるものであり、柴刈り狩猟の手伝いは勿論、時たま気紛れに貰える休みでも森に出掛けることが多かった。
そんな彼女だからこそ有るはずのない伐採地を見落とす訳もなく、生来の好奇心に導かれるままに躊躇なく分け入って行った。
そして、案の定、村で見かけたことのない奇妙な少年を見つけたのである。
木に倒れかかるように凭れていた少年はこの地方に多いロマンド人ではなく、鳥の巣の様な黒髪に彫が深い容貌。
まるでフレスコ画から飛び出てきたような人物にメアリーは釘付けになってしまった。
少年もメアリーに気づくと、明らかに顔が強張っていくのが分かり、メアリーを警戒する目付きを向けてきた。
怪しい。
メアリーは誰がどう見てもありふれた羊飼いでしかなく、普段森で見かける木こりや狩人なんかは一瞥をくれてやることはあっても気に留める様子もなく、正しく路傍の石と変わらぬように見えるはずである。
森の住人が村社会に馴染めなかったはぐれ者が多く、人嫌いの連中ばかりなことを差し引いても、少年の反応は明らかに異質であった。
しかも、歳はメアリーと然程変わらないのであろう少年の格好は農奴や狩人とは明らかに異なっていたが、かなりやつれており、薄汚れた青藍のローブはよれよれで汗で黒ズミが酷く、ところどころ擦り切れている。
紛れようもなく森から浮いた存在にメアリーも次第に羊飼いの杖を握る強さが増していくのを感じた。
「ひゃうん!?」
少年の方に気を取られる内に、メアリーは傍の畜犬のことをすっかり忘れていた。
気がつけば、犬は少年の元へすっ飛んで行ってしまっていた。
ファンファンはディッシュの牧羊犬ではあるが、主に面倒はメアリーが見ていたので、生来の飼い主の気質が彼の畜生にも移ったのかもしれない。
主人を守る為というよりは新しい玩具を見つけたような素振りで少年に纏わり付くと、少年は先程までの仄暗い雰囲気とは打って変わって犬に追い立てられて思わず木の幹にしがみ付いておろおろしてしまっていた。
その様子があまりに可笑しかったので、メアリーは暫く犬と少年の攻防を見守ることにした。
犬という生き物は賢いもので、自らを怖がる人間に対しては却って囃立てるような意地の悪さがある。
やがて耐え切れず逃げ出そうとして足を縺れさせた少年をがっちり咥え、牧羊犬はメアリーの元まで戻ってきた。
「ファンファン、離してやりな」
咥えた獲物を得意げな顔で見せる犬を嗜めるように撫でてやると、元来素直な性格の彼はあっさりとその牙を緩めた。
「おい、家畜の躾ぐらいちゃんとしておけよ!」
少年は青ざめた顔をで初めて口を訊いてきた。
よっぽど犬が苦手なのか、ローブのフードについた涎を恨めしそうに見遣り、顔を顰めていた。
「貴様、誰に対して粗相をしたのか分かっているのか?
私は王国魔導師スナイダー=セラフィム・クライスが嫡子、アルバート=クリストファー・クライスであるぞ。
このような恥辱、万死に値する!」
流石にメアリーも気の毒に思い、詫びと気遣いの言葉をかけようと口を開こうとした瞬間、少年が居住いを正し、大仰に言い放ったのである。
その表情には見下すような尊大さが臆面もなくメアリーに向けられ、彼女は、まるで少年が貴族か騎士であるかのような物言いに面食らってしまった。
北の都には、最近虚言を触れ回って小銭を騙し取る輩が出没しているとの噂を聞いたことがあるが、彼もまたそうなのだろうか。
メアリーは自分がカモだと思われたと認識すると、馬鹿にするなとばかりに口を開いた。
「あんた、法螺を吹くならもうちょっと真面なやつにしなさいよ。
王国魔導師を騙ると刑吏が飛んできてしょっ引かれるらしいじゃない。
せめて没落貴族の末裔とか……」
「いやはや、えらく威勢のいい御嬢さんですな」
尊大で鼻につく言い方ばかりする貴族気取りの見すぼらしい少年をなんとか言い負かそうと躍起になっていたところで、背後から白髪の老人が現れた。
穏やかな物言いとは裏腹に眼の奥は猛禽を思わせる鋭さを孕んでおり、メアリーは思わず杖の先を老人の方に向けた。
「これはこれは、驚かせてしまいましたなぁ。
私はコーネリアス。貴女が先程からお相手頂いている坊ちゃんの侍従で御座います」
胸に手を当て、仰々しく一礼する老人にメアリーはまたもや面食らってしまった。
所詮は農奴である彼女にそのような態度を示す者など今迄一人としていなかったからである。
「聞いてくれ、コーネリアス!このガサツな羊飼いの女が、私の神聖なローブを辱めたのだ!」
少年が地の利を得たとばかりにきゃんきゃんと吠え立てた。
メアリーはその情け無さに呆れ返り、いっそまたファンファンをけしかけてやろうかと思うほど。
しかし、老人はというと小さく嘆息し、嗜めるように口を開いた。
「坊ちゃん、高貴なる者は寛容な精神を持って下々に接しなければなりませんぞ。
神の教えにもあります通り、隣人は尊ばねば」
少年は尚も恨めしげな視線をメアリー達に向けていたが、観念したのか、先程座っていた木の根元にどっかりと座り直したきり、ぷいと顔を背けてしまった。
「御嬢さん、私めの主人がご迷惑をおかけしました。
何もお詫び出来るものはありませんが、もしよろしければ兎肉などはいかがですかな」
老人が親しげにメアリーに語りかける。
兎肉。
メアリーの喉がごくりと鳴った。
羊飼いといえど、普段は羊肉は勿論、兎や牛牛、鹿肉でさえありつくのが中々叶わないメアリーにとって、これは僥倖といえた。
しかし、老人は物腰こそ柔らかいが、ボサボサに無造作に伸びるに任せた白髪、野生の山羊の様な汚らしい無精髭と、見た目は浮浪者然としており、メアリーは杖を握りしめて欲求を抑えこもうとしていた。
「はっは、そう構えなくともよいですぞ。
我々は南から来た商人崩れ。
まあ、坊ちゃんは何を言ったか存じ上げませんが」
老人は尚も気軽に言い繕うと、別の木の陰から焚き木を持って来ては傍に焼べ始めた。
「本当は夕餉に取っておこうかとも思ったのですが、兎は新鮮なうちに限りますからな」
手際よく焚き木を組み上げ、老人が火打ち石を取り出した。
「坊ちゃんがお世話になった御礼です。
是非とも御馳走させて下さい」
口調とは裏腹に、その眼には狙った獲物を逃さない獣染みた迫力があり、番犬も異変に気付きバウバウ吼え立て始めたが老人から放たれる威圧には牧羊犬も次第にこれは敵わないと悟ったのか、しまいには弱々しく鼻を鳴らして俯いてしまった。
結局、メアリーは気圧されるまま胡散臭い貴族気取りに御馳走になることになってしまった。