《2》
アルバート・クライスは窮地に瀕していた。
既に長旅につぐ長旅で疲労は限界に達し、足は桃花心木の杖の様で、両腕も真鍮の秤がぶら下がっているように重く、身体を動かす度に節々がぎしぎし軋む音が聴こえてくるような有り様。
しかも、慣れない野宿が祟ったのか身体中に蕁麻疹が広がり、この頃は言い様のない悪寒や嫌悪感が彼の精神を支配していた。
いや、違うな。
アルバートは独りごちた。
この言い知れぬ慄えは何もベッドが樫の根元に変わっただけではない。
身体が迫り来る危機に共振しているのだ。
だとしたら情けない、それでも誉ある王国魔導師の嫡男、アルバート=クリストファー・クライスであろうか!
……否、この私の高貴なる精神が、臆病風に吹かれてがたがた震えている筈もない!
きっとこれは戦場で仇敵を待ち構える戦士の震えなのだ!
彼はそう定義して自らを奮い立たせたが、実際のところは唯々追われる身というだけであった。
勿論侍従には身体の不調など言うべくもない。
無用な心配をかけまいとする彼なりの気遣いであるのは勿論、半ば隠居同然の老人を引っ張ってきてしまったケジメとしても泣き言は憚られたのである。
そう、食糧の調達を命じたのもあくまで君臣の序列に従ったまでであり、彼の侍従が私に任せて坊ちゃんは少しでもお休み下さいませ、という諫言を受け入れたまでである。
私は決して野営如きに参ってしまうような軟弱者ではない。
ただ、臣下の厚意を無碍にするのもしのびないと思っただけなのだ。
今にも崩れ落ちてしまいそうな、しかし頭の片隅では常に慄えを抱きながら、彼は樫の木に身体を預けて思考を巡らせていたのである。
彼等が逃げ込んで来たのは鬱蒼と生い茂る森であった。
日を経るごとに追手が激しくなると同時に、彼等は王都より遥か北方の辺境にまで逃れる羽目になってしまったのである。
当然追手も近くには居るだろう、なにしろアルバート達が抱えているものは目立ち過ぎる。
だからこそ、この人気の無い森を潜伏先に選んだのであるが、なかなかどうしていい場所を選んだものだ。
背の高い広葉樹林が何英町にも広がり、身を隠すのは勿論、件の持ち物を暫し隠匿しておくのにもうってつけであった。
森の中には小川もあり、まだ霜も降りていない時期なので食糧に困ることもない。
木こりや狩人も時たま現れるものの、アルバート達の現在の格好を見れば浮浪者にでも見えるのか、あえて話しかけてくる物も居なかったし、こんな田舎の森にあんな代物があるなんて思いもよらないだろう。
勿論、アルバートは自身がどう見られているかまでは気付いていないが。
とにかく今は少しでも身体を休め、後の憂いに備えなければ。
アルバートの瞼がいよいよ落ち切ろうとした瞬間、ふと人の気配を感じた。
「コーネリアス、やけに早かったじゃない……」
最後まで言葉が紡がれることなく、アルバートは一気に覚醒した。
うとうとしていたのもあり、すっかり侍従だと勘違いしたが、目の前に現れたのは薄汚い麻のローブを纏った少女だったのだ。
向こうも驚いた様子を見せ、咄嗟に杖を目の前に差し出した。
平静を取り戻すべく彼女を観察すると、どうやら羊飼いらしい。
格好から見てもとても高貴な身分とは思えないし、何より鉤のついた長尺の杖と、側でバウバウ吠えている犬がその証左だろう。
訝しげにこちらを伺う瞳はこの地方では珍しい碧眼で、癖っ毛らしくウェーブがかかる金髪や鼻筋の雀斑も相まって素朴な美しさがあった。
北方は栗毛に灰褐色の瞳のロマンド人が多いとの話であればおそらくはセントレア人であろうが、ならば尚更警戒しなけばならない。
王都周辺の人種であり、羊飼いを偽装した追手かもしれないからだ。
「……ひゃうん!?」
彼女に注意を向けていたら、いつの間に犬がアルバートに付き纏い出していた。
間の抜けた声が漏れるのも無理はない、アルバートは犬が大の苦手であるのだ。
魔導師にあるまじき汚点であり、彼にとっては覆い隠しておきたい秘密であったのだが、いざこうなってしまったらもう恥もへったくれもない。
アルバートは弾かれたように立ち上がり、しっ、しっ、と手を翳して畜生を追い払おうとする。
だが、逃れようとすればするほど、畜犬は小さく鼻息を鳴らしながら囃立てるように追い立ててきた。
畜生、なんで僕がこんな目に!
思わず素に戻ってしまうほど追い詰められたアルバートは堪らず走り去ろうとすると、途端によろけて倒れてしまった。
この好機を逃すはずもなく、牧羊犬の面目躍如とばかりに犬が飛びかかってきたかと思えば彼のローブのフードに噛み付かれ、あれよあれよという間に引き摺られるようにしてご主人様の前に差し出されてしまった。
「ファンファン、離してあげな」
少女が嘆息し、犬の頭を撫でるとやっと獣臭い牙から解放された。
「おい、家畜の躾ぐらいちゃんとしておけよ!」
うええ、臭いが付いてしまった。
替えのローブがあるなら直ぐに脱ぎ捨てて放り投げるところなのだが、そうもいかない。
もう少し体力が戻れば、小川で水浴びするついでにローブも洗い清めよう。
先ずは無礼を働いたこの下賤の民に礼儀というものを教えてやらなければならんと気を取り直し、アルバートは小さく咳払いをした。
「貴様、誰に対して粗相をしたのか分かっているのか?
私は王国魔導師スナイダー=セラフィム・クライスが嫡子、アルバート=クリストファー・クライスであるぞ。
このような恥辱、万死に値する!」
多少大仰な言い回しになってしまったが、これも高貴なる者の務め。
たかが羊飼い如きにこれ以上舐められる訳にはいかないのである。
己の喝破に酔いしれながら羊飼いの少女を見遣ると、彼女はというと恐れ慄くどころか呆気に取られている様子。
やれやれ、所詮は田舎者。
魔導師を見るのも初めてなら高尚な身分の者への接し方すら分からんのだろう。
であるならば、民を導くのもまた魔導師の血統たる自分の定め。
まずは魔導師が如何に貴い身分であるかを教えてやらねばならんと口をを開きかけると、
「あんた、法螺を吹くならもうちょっと真面なやつにしなさいよ。
王国魔導師を騙ると刑吏が飛んできてしょっ引かれるらしいじゃない。
せめて没落貴族の末裔とか……」
「無礼な、当家は没落などしてはおらん!」
アルバートの癪に触り、思わず声を荒げてしまった。
「なにさ、向きになっちゃって。
大体、もしも魔導師様だっていうなら、その腐った藍苺みたいな色の格好は可笑しいんじゃない?
いいとこ貴族崩れでしょ、そんなの」
いちいちカンに触る女だ。
アルバートはいよいよこの田舎娘に自分が魔導師だと認めさせねば気が済まなくなった。
「私を愚弄するにも程があるぞ!
このローブは王立魔導院から下賜された、とても高価な代物なんだ、それこそ薄汚れた田舎犬が涎塗れにしていいものじゃない!」
「ふうん、その割には随分とまた煤んでいるようで。
それじゃあ、貴方様が仰る下賤な農奴と余り変わらないお召し物じゃありませんの?」
小馬鹿にしたような言い草に先刻までの疲れも吹き飛び、もうこの小娘をやり込めなければ気が済まなくなった。
「そこまで言うなら見せてやる、この星章は附属学舎の……」
アルバートはそこでハッとした。
そうか、もう喪ってしまっていたのか。
「ほら見なさい、やっぱり魔導師なんかじゃ無いじゃないの。
田舎者だからってあんまり馬鹿にするんじゃないよ。
こちとらこれでも領主様は魔導騎士様なんだから」
田舎娘が気炎を上げたが、もうアルバートの耳には入らなかった。
そうか、もう私は、魔導師である資格すら喪ってしまったのか。
尚も娘は何か捲し立てていたが、もはや気にもならず、彼は一時忘れかけていた絶望が漂う疲労がまた戻ってきたのを感じた。
「いやはや、えらく威勢のいい御嬢さんですな」
聞き覚えのある声が耳朶を打った。
振り返ると、そこには麻袋を担いだ半月眼鏡の老人が立っていた。
アルバートは縋るように、
「遅いぞ、コーネリアス!」
と、再び這い上がってきた慄えを隠して言い放ったのだった。