《1》
目映い光に瞼の裏を焦がされ、メアリーは不快な吐息とともに身を捩らせた。
尚も射し込む強烈な日の光がいい加減鬱陶しくなったところで寝惚け眼を擦って身体を起こすと、周囲の藁がぱらぱらと散乱する。
その音が耳に入ったところでふっと周囲を見渡すと、彼女はたちまち眠気がどこかに吹っ飛んでいった。
しまった、つい眠りこけてしまった---。
主人から馬の世話を頼まれ小屋に入ったのはまだ夜明け前。
前日は日も沈もうかという黄昏時に傷んだ柵の隙間から羊が脱走したのが発覚し、夜通し走り回って何とか大多数を柵まで戻してきたのである。
当然主人からは褒められるどころか柵の不手際を糾弾され、寝る間も与えられないままそのまま日課である朝の馬の世話に行かされたのであった。
「分かったから、もう起きるから」
生暖かい家畜の息が首筋にまとわりつくのを振り払い、メアリーは飛び起きた。
身体中に着いた藁を払い落として身を整えて立ち上がり、厩舎を出ると眼に鮮やかな群青の空が焼き付いて来た。
外は初夏の清々しい陽気に包まれており、辺り一面は新緑の牧草がひんやりとした風にたなびいている。
ここ一帯は傾斜地で所々ごつごつとした岩山が見え隠れするカルデラ台地であったので見渡す限り誰もおらず、彼女はつかの間の解放感を楽しんだ。
----きっと、私が貴族なら卓子被を引っ張り出させて優雅に茶話会でもやるんだろうな、と、飲んだこともない異国由来の茶なるものに想いを馳せていると、遥か彼方から怒号が聴こえてきた。
ディッシュの声だ。
皿ではない、人名である。
食えない人物といえばその名の通りなのだが。
メアリーはやれやれ、と大仰に首をすくめる動作を取った後、眼下に広がる牧草地の彼方に彼の姿を認めた。
やがてのしのしとこちらに近づいて来る茶褐色の塊からは苛立ちを抑えきれない様子が見て取れ、彼女は最悪、鞭打ちも覚悟せねばならなかった。
とはいえ、ディッシュの機嫌が良かったことなど彼女の覚えている限りでは、王国の東方遠征の祝勝祝いで領主から麦酒を振舞われたときと、流行病が村に蔓延った際、榛で作った呪い飾りが飛ぶように求められたときぐらいであった。
あのときの男の歓び用といったら、むしろ彼こそが厄災の権化ではないかと訝しくなるくらいの邪悪な笑みを浮かべていたもので、有難がって飾りを求める村人達に彼こそが悪魔であると、今にも喉から飛び出しそうになるのを必死に押し留めたものだった。
思い出して口元を歪めかけ、慌てて引っ込める頃には下男はもうはっきりとその表情が窺えるところまで迫っていた。
「それで?」
息を荒げながら下男が吐き捨てた。
「逸れた羊は見つかったか?」
禿げ上がった頭頂部に青筋を浮かべている彼は、今にも鞭を取り出さんばかりの勢いであった。
「いや、名主には言ったけど、全部は戻せなかった。五頭足りない」
メアリーはなるべく彼と目を合わせないように気を配りながら、鷹揚に答えた。
こういうときは下手に刺激するようなことはせず、只々この苦難の刻を淡々とやり過ごすしかないのが常であった。
下手に抗弁しようものなら鞭の強さがより苛烈になるし、かといってしおらしくしていても鞭が軽くなる訳でもない。
これは神が与えたもうた試練なのだ、と自分に言い聞かせながら黙して堪えるのが彼女の精一杯の抵抗だった。
「何故俺には言ってないんだ?」
唐突に顎を掴まれ、強引に下男の眼前に向き合わされる。
「いや、今言ったけど」
咄嗟に口が滑ってしまった。
こういうところが彼女の悪い癖であった。
けして配慮が出来ないわけではないのに、時たま減らず口を叩いてしまう。
案の定、ディッシュの痩せぎすの身体がわなわな震えだすのが分かり、メアリーはやってしまった、とギクリとしたときにはもう遅く、途端に頬を張り倒されてしまった。
「誰に向かって口を聞いているんだ、てめえ!
ここの主はこの俺様だぞ、てめえのような小便臭い雌ガキが意見しようなんざ、例え領主様が御許しになろうが、聖母様は赦さねえだろうさ!
この村の羊は俺のお陰で成り立ってるっていうのに、こんなガキを寄越しやがって、メロゥドの奴、この俺を虚仮にしていやがる。
所詮は次男坊の穀潰しだと嘯いてやがるのさ!」
骨に皮が張り付いているような男の掌底でも、やはり大の男に張り倒されては齢十四になる少女では歯向かうことは叶わない。
特に名主を引き合いに出すときは怒りが頂点に達しているときで、羊飼いは独身の貧農の次男坊と相場が決まっていることもあり、ことあるごとに八つ当たりされるのもまた御決まりであった。
鈍い痛みに顔を顰めながら、メアリーはよろよろと立ち上がると、流石に観念して「御許しを」と唱える他無かった。
ディッシュは忌々しそうに唾を吐き、今度は彼女のよれよれのローブの胸倉を引っ掴んだ。
「いいか?例えお前があの意地汚くてアコギな村名主の使用人でも、ここではこの俺様が主なんだ。
教会でも『主の教えに背くな』と司祭に言われるだろう、それが道理なんだ。
いくらお前が罪深い汚れた忌み子でも流石に神も憐んでこれ以上罪を重ねないよう御導きを下さるのに、てめえという奴は悉く教えに背きやがる。
いっそ悪魔の生まれ変わりだとして異端審問にかけたいぐれえだ」
眼前で鼻先が触れ合わんばかりに凄まれ、メアリーは下男の怒りで血走りぎょろぎょろと動く眼をなるべく見ないように心がけながら、
「ディッシュ様、御許しを」
と項垂れるしかなかった。
ディッシュもそれで気が済んだのか、胸元から手を離し、メアリーを突き飛ばした。
「いいか、もう一度よく探せ。
御預かりしている羊が五頭も居なくなったなったなんて話、領主様にとても言えるはずがねえ。
ましてや、この頃辺りの村で羊がやたらいなくなってるなんて御達しが出たばかりだ。
そんなところでおめおめと羊が逃げました、なんて俺様に言わせてみろ、羊の替わりにてめえの生えかけの下の毛まで剃ってやるさ。
名主には言っておいてやるから、今日は野郎の仕事は暇を貰ったことにして、必ず連れて帰ってこい」
一応メアリーは荘園管理人であるメロゥドの使用人ということになっているのだが、取り付く島も無く、それきり下男は踵を返して肩を怒らせながら立ち去ってしまった。
牧草地の中でメアリーはぽつんと一人取り残され、ああ、茶というものはどんな味がするんだろう、と秋風にたなびく牧草を見遣ってぼんやりと思うのだった。