まるで夢にみる夢のように。
いつか、誰かが言っていた。
『生きるために生きるのである』と。
決して感銘を受けただとか、義理堅いからだとか、そんなことでは一切ない。もっと単純に、彼にはそれだけしか無かったから。
だから、彼は生きるために生きた。
ただ、生きてきた――――。
「おはよう」
朝、誰かの声がした。それに倣い、彼もまた同じ言葉を並べる。
「今朝は用があるから、朝食は適当に済ませておいてね」
そう言われたから、だから彼は声の主を見送ったあと、有り合わせのものをただ黙々と口へ運ぶ。
窓から差し込む朝日、どこか冷ややかなそれに照らされたテーブル。そこに在るのは穏やかとは少し違う静寂、わずかな咀嚼音。美味しいなとか、今日は何をしようかなだとか、そんなものの一つすら浮かばない頭をあまり揺らすこともなく、ただただ、取り込むことをする。
「ごちそうさまでした」
そう教えられてきたから、それが良いこと正しいことあたりまえのことだと、幾度となく刷り込まれてきたから。
だから、彼は挨拶を欠かさない。
隔週の検診。まるで機械のように身支度を済ませ、定刻通りの便を乗り継ぎ、よく見慣れた施設へと足を運ぶ。
「調子は良いようだね」
「はい」
「何か気になることはあるかい?」
「いいえ」
真っ白な天井、真っ白な壁。それと似たような色を纏うくたびれた老体を前に、彼はいつも通りの受け答えをする。
「些細なことでもいいんだが……何か、ないかね?」
「いいえ、ありません」
身体検査に異常はみられず、その表情や仕草、受け答えの言葉一つのどれをとっても“ いつも通り ”な彼に対し、老体の眼はいつにない色を漂わせていた。
「例えば――――そうだな、新しく教えてもらったことだとか、或いは身のまわりで感じた変化だとか……とにかく、何か無かったかね?」
じっと己を見つめる渇いたそれは明らかな意図を纏っている、ということを己に悟らせようとしている。彼はなんとなくそう感じた。だからこそ少しばかり考える仕草をし、ゆっくりと視線を“ 戻してみせた ”。
「先生が、少し違うように感じました」
「それは具体的に、何がどう違うと思うのかね?」
「いつもは僕に興味が無いような素振りをしているのに、今日はまるで新しいおもちゃを買ってもらった子供のような顔を僕に向けています」
「なるほど」
「“ それ ”が、どうかしましたか?」
先生と呼ばれたそれは前のめりだった身体をすうっと起こして腕を組み、少し寂しい顎髭を上から下にゆっくりと、幾度となくなぞってみせた。
「ふむ」
それから一つ大きなため息をつき、机の端にある書類を掴みとり、それをじいっと長く睨みつけた後、再び彼へと視線を戻した。
「君は、自分の仕事に疑問を感じたことはあるかね?」
「自分の仕事に対する疑問、ですか?」
「うむ」
それは、これまでに何度もここへ足を運び、何度も繰り返されてきた応答とは些か毛色の違うものだった。
「疑問とは、どういうことでしょうか?」
だから、彼には理解することができなかった。
「……君の仕事はどういった内容だったかな。それを一つづつ、順を追って細かく説明してくれないかな」
やはりいつもとは違う。彼は確かな違和感を微動だにしない頭の中の、その脳の片隅に抱いていた。
「はい。僕の仕事は、毎日決められた倉庫から等身大の人形を一体づつ担ぎ出し、決められた部屋へと運び込み、決められた位置に正しく設置することです」
「その仕事は、何のために行っているのかね?」
「お金を稼ぐためです」
「……なぜ、お金を稼ぐのかね?」
「食事をしたり、住む場所を確保するためです」
しかし控えめに開く彼の口から並べられた言葉は、どこか他人事のような冷静さで固められたものばかり。
ふう、とゆっくり大きく吐き出された空気は生温く、そしてわずかな落胆を携えていた。
「少し、質問を変えてみよう。君は毎日人形を運んでいると言ったが、それにどんな意味があると思うかね?」
「意味とは、どういうことでしょうか?」
「君は人形を運ぶことで雇い主から報酬を得ているわけだ。ではその雇い主は、なぜ人形を運んでほしがっているのだろう?」
「それはわかりません」
「その理由を今、君にじっくり考えてみてほしいんだ」
「はい」
やはりいつもとは異なる状況に戸惑っている。
それを色濃く物語る彼の眉に、老体は“ 期待しているぞ ”といわんばかりの顔を向けた。
「人形を運び込む理由、それは――――」
「駄目……でしたか」
あまり広くはなく、しかし清潔感のある部屋に、男の哀しい音が響いた。
「何度問うても、いくら角度を変えてみても彼の答えは同じ、『わかりません』。まるで壊れた“ 人形 ”のように、ただ言われたことだけを繰り返すばかり。彼はそこに、何の疑問も抱きはしないのだろう……」
「今回も、失敗なのかもしれませんね」
「ああ……」
窓越しの空には小さな雲が一つ、老いた体には濁った眼差しが一つ。どちらも互いを哀れむように、ふわふわとただ浮かんでいるばかり。
「一体なにが足りないのでしょうか……何度やっても結果は同じ。これでは、このままでは私たちの未来は……」
「……我々には、やはり“ 我々を超えること ”などできんのかもしれん」
淹れたての熱い紅茶に添えられたしわくちゃの手には、今にもそれを落としてしまうのではないかという侘しさがあった。
「また、次に期待しましょう――――」
だから男は、やさしい言葉をそっと投げかけた。
わからぬ故に、なにかを求め
求める故に、よりわからなくなる
という感じなのかもしれない