大切なものとは何か カレン・シルバラード・ルージュの場合
私が彼に初めて会ったのは今から8年前のことでした。
ニューカレドニアから東南東へおよそ1000キロ。地図にない孤島へ私達は向かっていた。
「回答は?」
「依然としてありません」
ルージュ家に代々伝わる神剣。四神剣、朱雀。出自は現在の中国、時代は始皇帝の頃。その伝説の剣を継承する儀式のため試練を受ける。その道中で私達は所属不明の艦隊に襲われて足止めを食らった。俗にヒーローと呼ばれる私達仮面の戦姫、ロイヤルセブンは味方も多いが敵も多い。ルージュ家のような正体を包み隠さず明かしている場合は特に。仮面もして情報統制もして謎の騎士を演じるよりも、民衆に寄り添い民衆と親しくするべしという初代ルージュの家訓。今ではそれが仇となることが多い。
「艦隊にしても多過ぎるわね…。所属も気になるところだけど、どこの製造か外見から見当出来る?」
「ライブラリーに照合を掛けましたがダメです、世界中のどこの国の軍艦とも合いません」
「そう…」
ルージュ家は正体を包み隠さず、どころか今日の日程すら公表している。お陰で国を出るときの周囲から受けた応援というプレッシャーは大変迷惑だった。私はこの後死ぬ確率の方が高いというのに、所詮他人事の周囲は軽々しく頑張れなどと言ってきた。頑張れ、大丈夫、君ならきっと出来る、国のためだ。
ふざけるな。自ら死へと赴かなければならない10歳の気持ちを考えろ。少しでも考え理解したなら二度と口を開くな。継承の儀式は継承出来なければその場で蒸発して死ぬ。生きたまま。ほんの数秒間でも地獄の沙汰だろうに、不幸なことに私は母の次、ルージュ家では三番目の強さを持ってしまっている。そんな能力者が継承に失敗して焼かれる時どれほど永い時間苦しまなければならないのだろう。恐怖と激しい鍛錬による苦痛を覚えていた私は周囲のおかげで今は怒りに燃えている。軽々しく言うくらいなら貴様が燃えてみろ。いっそのこと私が燃やしてやろうか。少し思い出しただけではらわたが煮え繰り返る。
さらに不幸は重なり、現在のロイヤルセブンは次世代である私達の育成を名目に引退している。もちろんヒーローとしては戦いを続けているが表舞台にはあまり姿を見せず、それぞれの息子や娘の英才教育に日々を費やしている。というのも現在のロイヤルセブンはある事件のためにその半数以上を失い、また補充するに足る実力者もいない事態に陥っているからだ。そのため私の継承の儀式は8年も早く行われることになった。あと8年、世界は待ってくれない。それまでにどんな脅威が襲い来るか分からない。しかし現ロイヤルセブンは半数以上を失った上、残されたメンバーは既に最盛期を迎えている。残されたメンバーの最盛期が終わってから継承するのでは次世代に実力を着けさせ経験を積ませる時間が足らない。
「所属不明の艦隊、進撃を開始します!」
「ま、ここにいる時点で味方じゃないわよね。ここ一応国家機密なんだもの」
「ミサイル多数接近!」
「迎撃開始! 数で劣っている以上、私達が海上での戦闘は不利と判断し、中央突破します!」
相変わらず母のやることは大胆にして無茶が過ぎる。それに付き合わされる人達の苦労や心労は推して測るべし。
「ええっ?! 無理ですよ奥様!」
「帰るか180度回頭して迂回ですね」
「無理って言わない! 中央突破後、島に上陸! 艦船の武装は全部ここで使い切って! 何がなんでもカレンを陸に揚げるのよ!! 島に上陸後、物資で試練の入り口を封鎖! 持久戦に持っていけばこっちは火力で勝てるわよ!」
「そりゃこの艦の船員は皆高火力揃いですが、戦略としては駄目駄目ですね」
「ダメって言わない! やるったらやるの! 主砲発射準備!」
果たして戦略と言えるのだろうか。そもそも戦略と呼んでいいのだろうか。敵艦隊のど真ん中を突っ切って残存勢力を艦長である母を含む船員全員で焼き飛ばすつもりだ。言ってしまえば突っ込むだけだ。戦略も何もない。何も考えていないのだ。母らしいといえば母らしい。
「主砲発射準備ヨシ!」
「照準、敵主力戦艦! 撃てえぇー!」
「敵、増援多数!」
「なんですって?!」
主砲命中の報告を聞く前にさらに敵が増えた。おかしい。まだ戦闘が始まったばかりだというのにもう増援? 敵艦隊の損害も軽微。とても増援が必要な状況ではない。おそらく初めから私達への嫌がらせではなく、ここで潰すことが目的だったんだろう。次々に飛んでくるミサイル、戦闘機、敵主砲。しだいに戦艦ニ隻、航空母艦一隻では捌き切れなくなってくる。いつまで私はここで座っているだけのお人形さんでいればいいんだろう。
「魚雷音多数接近! 回避間に合いません!!」
「副砲を海中に発射! 誘爆させて!」
「一発逃れます!」
「下手くそ!」
「だから無理だって言ったじゃないですか! あ、ちょっと! 艦長どこへ?!」
ついに母が本性を現した。母は常に常に前に出る戦いをする人。とても艦橋に引きこもってられる性格ではない。きっと外に出て直接自分で魚雷を落とす気だ。
「ああもう、こんなときに執事さんいてくれたらなあ」
「あの人ももう引退なんだからそれこそ無理だって」
「奥様が出るぞ! あの人は絶対前から出るぞ! 弾幕の射線に被ってようがお構いなしに前から出るぞ! 主砲発射準備!!」
「副艦長?!」
「ついに溜まり溜まったストレスを戦いに乗じて発散しようと…」
「違わい! 主砲で正面を開けろ! 弾幕そのまま! 奥様のことだから魚雷を落としたら帰ってくるなんて事はない!! 奥様のことだからそのまま突っ込むに決まってるだろ!!! 支援戦闘機発艦準備急げ!」
「「確かに」」
副艦長さんはルージュ家に仕えて長い。母の性格もよく知る人だ。母はそうでなくとも分かりやすい性格をしている。母のやることなど皆お見通しなのだ。そして皆いい人達だ。無理や無茶、無謀を繰り返す母に呆れながら最後まで付き合ってくれる。母にはもったいない人格者の人達なのだ。今までどれだけ母に振り回されていたことか。今回にしてもそう。8年も前倒しで強行される継承の儀式にルージュ家当代当主である父や、ルージュ家の分家、ルージュ家と親しい貴族は皆反対した。でもこの三隻に乗艦している船員は皆ただ一つの文句も言わず、疑問も口にせず、私の継承を疑うことなくここにいる。それでいてクソッタレな周囲とは違って軽々しく頑張れなどとは言ってこない。そしてある晩に、喉が渇いて厨房へ忍び込む際通りかかった部屋から漏れてきた会話。
『なんでお嬢様があの歳で…』
『ああ…、いくら状況が許さないにしてもな…』
『俺は命を賭してこの家に仕えている。いや、本当に仕えているのは奥様やお嬢様だけにかもしれない。異能力者としても、使用人としても』
『俺もそうさ。なのに俺達は何をしている? ヤケ酒だ』
『守ってやることも代わってやることもできない。試練の場には当事者のみが許される。試練を支えてあげることもできない…』
『肝心な時にいない使用人、か。今日この時ほど己の無力さを呪わない日はないな』
『あの方々の盾になるくらいしか出来ないかもしれない。しかしそれも許されない…。俺は一体今まで何をしてきたんだ…? 何が出来たんだ…? なんのために俺はここに…』
『やめろよ、泣きたくなる』
『すまん…』
焼き殺され蒸発させられるかもしれないのに私のために身代わりになりたい? この会話を盗み聞きしたとき、私は正気かと二人を疑ってしまった。そんな馬鹿な。自殺と変わらないではないか。自分から地獄に突っ込みたがるなんてどうかしてる。翌朝私は母にこの会話を話して問うた。母は涙を流して泣いた。
『そう、あの二人がね…。あの二人、まだこの家に来て短いし、若いのに。もうそこまで思い詰めていたのね…』
『あの二人はお人好しなんだよ』
『そうね、でもカレンにもそのうち分かる日が来るわ。きっとね。自分の命と引き換えにしても守りたい、生きていて欲しい、そんな大切な人が出来たときにね』
私にはまだ自分の命を賭けたいと思う人はいない。それどころか同級生の男なんか馬鹿ばっかり。とてもじゃないが間違っても口も聞かないで欲しい。そんな奴ばかり。親の七光のボンボンが何を勘違いしているのか私と同じように強く賢くあると思っている。私が鍛錬も勉強もどれだけしごかれているのか知らないで。出来れば半径10キロ以内に入らないで欲しい。確かに私には才能も資質もある。がしかしお前らには無いだろ。金とコネとそれに纏わりつくコバンザメしか無いクセに何を思い上がっているのか。この三隻にいる人達とは雲泥の差、月とスッポン、天と地ほどの差がある。自殺行為だったとしてもそれも厭わず慕って着いてきてくれる。それだけは分かった。それだけ自分が大切に思われていることだけは分かった。
「ミサイル接近! 増援なおも多数!!」
「弾幕絶やすな! ええい、うじゃうじゃと!! どっから湧いて出てきてるんだ奴らは?!」
「奥様、混戦している模様です。さすがに数が多過ぎます」
「表に出られる奴は奥様の支援をしろ!」
「捌くだけで手一杯ですよ! 動けるとしたら一人しか…」
副艦長さんとオペレーターさんの視線がこちらに向いた。私は正直言って母と似た部分がある。だからずっと座っているのもそろそろ我慢の限界だった。ようやく暴れられる。準備運動がてらに雑魚なんか蹴散らしてさっさと試練を終わらせられる。結果なんてどうでもいい、この退屈な時間さえ終われば。
「いや駄目だ! お嬢様は船を沈めてでも試練の島に届けろと奥様から厳命されている!! 全員なんとしてでも持ち堪えろ!」
「敵主砲、本艦に照準! 照射されています!」
「回避ー!」
本当に敵中央に三隻で突っ込んでいく。当たり前だがそんなことをすれば周りは敵だらけでいつ蜂の巣にされるか分からない。そろそろ回避運動もままならないはず。そうなれば私はこの人達を見殺しにしてでも島に向かわなければならない。
(ここにいるだけで自殺もいいとこなのに、本当によくやる…)
「敵戦闘機に取りつかれました! 数10!」
「ええい、こっちの戦闘機と弾幕は何をしている!」
「補給です」
「冷静に返さないでくれる?!」
「このままではシールド発生装置が危険です!」
「分かっとるわ!」
「敵主力艦、正面!」
「奥様、光学映像出ます!」
母はついに正面を突破して敵の親玉までの道を開けていた。雑魚が寄ってくるがそれは処理するしかない。だが何が様子がおかしい。勢いが無い。通常兵器相手に既に疲弊している。そんなこと今まで一度も無かったのに、肩で息をしている。戦闘開始からまだ三時間くらいしか経っていないのにもう息切れ?
「奥様被弾!」
「主砲発射準備! 目標敵主力戦艦! 囮でもなんでもいいから沈めて奥様を支援しろ!!」
「出来ません! ジャミングです!」
「ダニィ?!」
「ついでにデコイもいますね。まさかこの大量の艦隊、デコイも大量に混ざってるんじゃ?」
「完全に漏れているな、これは。謀られている」
なんとなくそんな気はしてた。母も言ってたけどここは地図に載っていない国家機密の孤島。朱雀との継承の儀式を行うときのみ訪れることが許される。一切の情報は本家が持ち、それ以外には知られることのないようシャットアウトされている。それが待ち伏せを食らった上にこちらの手の内まで知っているかのような対応。内側に裏切り者がいるとしか考えられない。
「…シールド発生装置の残電力、10%を切りました。だーから予備も積もうって言ったのに」
「積んだら通路で雑魚寝するハメになると言ったらやっぱやめるって言ったのお前らだろう」
母の猛進撃が止まった。敵艦隊はチャンスとばかりに私達を蜂の巣に変えようと攻撃してくる。シールド発生装置の電力はもう無い。切れた瞬間三隻は海の藻屑にされる。正直今の私はこの人達を見殺しにする気が起きなかった。
「お嬢様、いざというときは後ろを開けますからそちらから脱出を」
「出来ません」
「お嬢様!」
「もう敵中央です、このまま突破してください。それに私はあなた方の会話を聞いていますよ」
「えっ?」
「自殺行為に等しい身代わりなど私が許しません」
「お嬢様…」
シールドはあとわずかしか使えない。なら私が外に出て膜を張ればいいだけのこと。母にはきっと怒られるかもしれない。けれど自分一人で試練で死ぬよりこの人達と一緒のがいいかもしれない。そう思ってしまったのだ。少なくとも寂しくはないかもしれない。私はまだ大切な人なんかいない。いたとしても家族しか眼中にない。そんな小娘に付き従い命を惜しみなく捨ててくれる人達を、そう無碍には出来ない。
「ミサイル直撃コースです!」
「回避ぃぃぃぃ!」
「間に合わないってぇぇぇぇぇぇ!!!!」
「呼ばれて飛び出てジャジャジャーン! お嬢様、その通りでござる」
知らない声がした。誰? どこから声が?
「こっちこっちー。目の前でござる」
「なに、あれ…」
すんでのところで撃ち落とされたミサイル。言われて向かった視線の先に見慣れない真っ黒い鎧の男。膜が三隻を覆い尽くして浮上している。浮遊感に気付いたのは膜を見てから何分も経ってからだった。いつの間にこんな巨大な膜を展開したの? さっきまでいなかったじゃないですか。膜か中にお母さんもいる。距離があったのにいつの間に帰艦したの?
「通信機借りてきて正解だったでござる」
「なんであなたがここにいるのよ」
「ルージュの予定は公表されている通りだけど、ドンパチ始まるまでは吾輩もここは知らなかったでござる。なにかあるか分からないから待機していて欲しいとは武蔵野から言われたけども」
「あんのクソババア早く死ねばいいのに」
武蔵野? あの巨大財閥の? この人は結局誰なの? 武蔵野にこんな黒い人いるなんて聞いたことがない。展開されたバリアはとんでもないサイズで、しかも完全な球体を形成し、さらに宙に浮いて移動している。私も皆も度肝を抜かれて弾幕もミサイル発射も止まった。お母さんでもこんなサイズを涼しい顔で展開して移動するなんて無理なのに、この人は本当に一体何者?
「あの、えっと、どちら様ですか?」
「…今は名乗れないでござる」
「は?」
艦橋に入ってきたお母さんと知らない黒い騎士。私は瞬時に変身して警戒した。どこの誰とも敵とも味方とも分からない彼が名前も名乗れないって言うから、私はてっきり敵だと思ったの。
「大丈夫よカレン。コイツは訳アリだけど敵じゃないわ」
「お母さん…」
お母さんに制止された私だったけど、いきなり知らないとんでもない強さの人が来たから警戒を解けずにいた。周りの皆もそう。片手に炎を持っている。反射的に打とうとしている。私も同じ気持ちだった。こんな圧倒的なまでに力を見せつけられる、得体の知れない誰かがいきなり現れて味方と言われても受け入れられない。…でもカッコいい。こんなに強い人初めて見た。ましてや男の人だなんて。それにお母さんより強い。おじいちゃんよりも強い。この人を前に感じる力の強さが、ただ垂れ流されているだけのものだと体が悲鳴を上げている。もし力のそのものを感じてしまったら押しつぶされてしまうと私に警告する。垂れ流しているだけでこんなに強いなら本気を出したら一体どれだけ強いの? 私はどうなってしまうの?
「もし何かあった場合、武蔵野からは全てを一任されているでござる。よって、皆さんをこのまま孤島まで送り届け、残る敵勢力は吾輩がお相手する」
「…道中だけ?」
「はい」
「ならば良し。試練にまで首突っ込んでくるならそのときは…と思ってたけど」
「勘弁しちくりー」
お母さんはどうやらこの人のことを知っているよう。こんなに強い人のことなんて一度も聞いたことないのに。寸前で助けられて試練の孤島まで運んでくれて残りの敵も片付けてくれる。いくらなんでも話が旨すぎる。でもカッコいい。身長高いし、いい声してるし、スタイルいいし、凄い力。私の理想、いえ妄想をそのまま体現したような人。でも、この人、大人だ…。
「ま、朱雀いなくなって電池切れ早くなってたからありがたいっちゃありがたいわね」
「奥様、電池切れってどういう…」
「四神剣持ちは神剣から凄まじいほど力のを受けるでござる。そのおかげて本来のスペック以上の力が発揮できる。だけどそれはあくまで四神剣に認められて、四神剣のうち誰かを所持している時のみの話。主従契約が切れたら元のスペックに戻るでござる」
「な、なるほど…。しかしなぜそんなことを君が?」
「四神剣が悪者に渡らないよう、それでいて良い心を持った実力者に渡るよう、中国から持ち出したの吾輩だからね。まあそのくらいは」
「なんだろう、ヤバいことさらっと言うのやめませんか?」
この人の能力はなんなんだろう? 属性は? 契約する四神剣は? 正体は? 全力出したらどれくらい強いの? 素顔はどんな人? 武蔵野の通信機使ってるってことはフランス出身じゃないんだよね? ってことは白人でもないんだよね? 今何歳? どこに住んでるの? 趣味は? 普段は何してるの? 特技は? 髪の色は? 身長は何センチ? 足のサイズは? 体重は? 好きなものは? 何を食べてるの? 住所はどこ? どんな生活してるの?
「ん? どうかしたでござる?」
「あっ、いえ、なんでも…」
彼は私の視線に気が付いたのか私の頭を撫でてくれた。
「よーしよしよし、後のことはお兄さんに任せて心置きなく試練に行ってくるでござる」
温かい。父にも触れられるのは嫌だったのにこの人の手は嫌な感じがしない。優しい、強い、カッコいい。
「知らない人が来たらそりゃびっくりするよね。大丈夫! 吾輩がぜーんぶ守ってあげるからね」
しばらくして孤島に着くとお兄さんはバリアをそのままにすぐさま飛び立ってあっと言う間に残存勢力を無力化した。次々に沈んでいく敵艦隊。お兄さんになすすべなく一方的にやられていく。お兄さんはというと激しい弾幕にものともしないどころかただの一発も掠ることなくデコイごと一撃で葬っていった。強すぎる。お母さんでもそこまでは無理なのにこの人は平気でやってみせた。とんでもない味方だ。こんな凄まじい人がいながらなんでロイヤルセブンは一度に半数を失うことになったのか分からない。敵残存勢力はいなくなった。ものの3分と経たないうちに。
「ウォーミングアップを奪っちゃって申し訳ないでござる」
「いいのよ、ウォーミングアップなんて自分で済ませるものだから。それに内側からやられたのは私のミスよ」
「しかし、奪えるものならこの子から試練も奪ってしまいたいでござる。こんなに可愛い女の子に命のやり取りをさせるなんて…」
可愛い? 私が可愛い? 今私のこと可愛いって言ったの? 男なんて欲望にまみれた汚い生き物だとばかり思ってたのに、こんなに強くて優しい人が私のこと心配してくれたの? さっき会ったばかりなのに?
「そこまで言ってくれるならお願いしようかしら。試練に行く前にちょっとこの子に付き合ってあげてくれる?」
「吾輩なんかでよろしければお安い御用でござる」
吾輩なんか? 謙虚な人。私の近くにいた男なんて今回の船員の人達を除いて皆尊大でうざったい気持ち悪い無能な連中ばかりで謙虚なケの字も知らない奴らばっかだったのに。付き合う? 私と? いつから? 今から?
「あっ、あああのあの…」
「どうかしたでござる? 遠慮はいらないよ? 全力でぶつかってくるでござる」
「こらこら、これから試練だっての」
「そうだったでござるテヘペロ」
懐が大きい。いくら強いからって、ウォーミングアップだからって、ついさっき出会ったばかりの、それも歳下の女の子にいきなり拳をぶつけられたら普通は苛立ちを覚えたり嫌な気持ちになるはず。なのに本気でぶつかっていいの?
「じゃあ私達は船の損害確認やらなんやらしてくるからよろしくね」
「任されたでござる!」
ええええええ待って待ってお母さん?! 知らない人と二人きりにするの?! 凄く強いんだよ?! お母さんより強いんだよ?! 知らないお兄さんと砂浜で二人きりになった私は取り敢えず変身した。私の真っ赤な顔を隠すために。お母さんがこの人のことをどれだけ信頼しているのか分からない。船員の皆も渋々船に戻っていった。私も、この人は凄まじく強くて優しいけど、信用していいのかまでは分からない。そうなるまでの経緯をせめて話してから行って欲しかった。
「なんか落ち着かない様子でござるね。ほら、こっちこっち」
「えっ?! ええっと、そのう…」
「座ってお話でもするでござる」
おもむろに座って隣に座れと砂浜をポンポンする彼。正体でも明かしてくれるの?
「到着するの遅れて申し訳ないでござる。フランスの国家機密は吾輩にも開示されないから、近くで待機してても事が始まるまで何も出来なかった」
「ああ、いえ、そんな」
「でも無事で良かったでござる。でも、これから試練に向かわせると思うとまた申し訳ない。せっかく助けたのにまた死地に向かわせるなんて、それを止められないなんて…」
「あ、あの!」
「はい?」
「手…」
「て?」
「手を握ってもいいですか…?」
我ながらか細い声だった。男の人の手を握ってもいいですかなんて言うの初めてだったから。男の人の温もりに触れるのは初めてだったから。男の人に初めて甘えるのが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったから。
「どうぞ。吾輩の手じゃちょっと大きいかもしれないけど」
彼の手は大きくて優しくてちょっと硬い、でも温もりを感じる男の人らしい手だった。男の人らしいっていうのは私の妄想だけど。でも、私の理想の人が目の前にいる。私よりも強い人じゃないと認めない、ましてや親の七光なんてボンクラじゃ認めない。そんな風に思ってたのに。
「私、正直嫌なんです、試練が」
「うん」
「私自身の犠牲とか、周りの人の犠牲とか、色んなものを犠牲にしてまで誰かを助けようとするのって間違っていると思ってるんです。でもこんなこと家じゃ言えなくて、きっと怒られるから言いづらくて」
「うん」
「それに…、私まだ死にたくないから…」
「うん」
「誰かを助けるのはそりゃ大事なことかもしれないけれど、それはそれとして私はもっと遊びたいしお喋りしたいし、楽しいことしたいし…」
「うん」
私は自分の声がうわずっているのを感じた。誰にも弱音を吐けないことが思った以上に私にストレスを与えていた。辛かった。貴族なんてかっこつけてるけど制約ばっかりの毎日。不自由な生活。おまけに宿題はやんなきゃいけないし、毎晩ボロボロにされるまでしごかれるし。私は私の時間が欲しかった。学校と家を往復するだけの生活がもういい加減に嫌になっていた。でも、その生活から脱出することなんて小学生の私には出来なかった。しかも貴族。護衛という名の見張りがいるせいで私は一人になれる時間がまったくなかった。常に誰かがいるっていうのは息が詰まる。せめて寝る時くらい一人にして欲しかった。せめてお母さんと一緒が良かった。嫌な生活が続いた挙句、今度は死ぬか剣を取るかしろという。私はいったいなんなんだろう。
「もう少し、甘えてもいいですか…?」
「うん」
彼のそばに寄って頭をもたれ掛かると、彼は抱き寄せてまた頭を撫でてくれた。私は安心して泣いた。静かに、誰にもバレないように、でも彼には聞こえる泣き声だった。わずがな嗚咽が漏れる度に今までの辛さが再び身にしみる。何にも言わずにただ聞いてくれる彼が温かった。
「なんで私なの…? 私じゃなきゃいけないの…? 私だって痛いし、怖いし、嫌なのに…」
「うん」
私は弱音を吐いた。お母さんは私が弱音を吐く度にさらにしごくから、私はいつの間にか弱音を吐くことをやめていた。自分で知らないうちに禁止していた。弱音を吐いて痛い思いをするなら我慢する方がよかったから。でもこの人には素直に弱音を吐くことができた。何にも言わずに聞いてくれる。ただうなずいてくれる。私を抱いて撫でてくれる。鎧越しなのに伝わる温もりが私の弱さをさらに晒け出させる。自由のないレールの敷かれた人生、息が詰まってどんなに嫌な思いをしても聞いてもらえず、それどころかさらに嫌な思いをさせられる。最後は生きるか死ぬか私の実力次第なんて試練に向かわされる。籠の中の鳥にしたのに、一番重要なところだけ自己責任。私の態度が冷たくなったのは自分のことを諦めていたのかもしれない。
「私、死にたくない…」
「うん」
泣き止まない私をずっと抱きしめてくれるお兄さん。ずっとこのままでいられたらいいのにと思った。そしたら嫌なことから逃げてずっと二人っきりでいられたのに。でも現実はそうもいかなかった。
「お兄さん」
「ん?」
「もし私が生きて帰ってこれたら、また抱きしめてくれる?」
「もちろん」
私は彼の胸の中から出ると驚いた。いつの間にか変身が解けていた。お兄さんも。私もお兄さんも素の姿のままで抱き合っていたんです。温もりを感じて当たり前だった。私は止まらない涙をそのままに、お兄さんの頬に優しくささやかなキスをした。お兄さんは私の頬に同じように優しくささやかなキスを返してくれた。結局泣き止めなかった私はもう一度変身して島の中に向かっていった。
「あれ、あの子は?」
「もう行っちゃったでござる」
後にお母さん曰く、そのときの彼の顔は見ていないらしい。後に朱雀曰く、なんとも言えない表現に困る顔で、涙を流したままの幼い女の子が来たら折れるしかないと語った。私のそれまでの苦労を返して欲しい。
それから何年かして彼が日本人だということをお母さんから聞き出した私は武蔵野学園に行った。お母さんは反対したけど朱雀との主従契約打ち切りを人質にした。朱雀は呆れていたけど後悔は無かった。本当に出会えるかどうか分からなかったけど。生きて帰った私を約束通り抱きしめてくれた後、連絡も一切着かなくなった彼を追いかけずにはいられなかった。武蔵野の中等部に入った頃には私の中でお兄さんの存在が肥大していった。メキメキと伸びる実力と同時に彼に実力で追いつけないことを実感していき、その度に理想と憧れが膨らんでいく。私はお兄さんのことをもっともっと知りたいと思っていた。
高等部になってついに彼と再会出来た。でもなぜか彼は以前の記憶を失っていた。私は怒りに燃えた。私の初めてのキスだったのに忘れた?! 私の初恋を忘れた?! いいの、私は心が広いから許してあげる。だから私色に染め上げてあげる。私しか考えられないようにしてあげる。私がいないと生きていけないようにしてあげる。私の心に、体に依存しないと生きられないようにしてあげる。だってこれからはいつでもどこでも好きなように好きなだけ彼を抱きしめる事が出来るから。そう、私は彼を、お兄さんを愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの愛してるの。
だから、私のことも愛してくれるよね? 私はあなたのことを愛しています。ずーっと、ずぅーっとね。