大切なものとはなにか ダリア・イベリスの場合
私〈わたくし〉は貴族の家に生まれました。
私の物心がしっかりしたときは7歳のとき。ロココ調の宮殿と見紛う屋敷。何十人といる使用人。調えられた静かな庭園。広大な敷地に余すことなく私に提供される全て。薔薇に囲まれ兄弟に囲まれ、使用人達はかしずき、教師達は媚を売り、その他は羨望の眼差し。分刻みで定められた英才教育の数々。履く物着る物身につける物最上級。朝はメイドが私を起こし着替えさせ紅茶とトースト、昼になれば外のシェフを呼び寄せるは当たり前、夜は一家揃って食事をした後メイドに私を洗わせ着替えさせ。私は全て囲まれて生きてきました。
自分が、自分こそが選ばれた人間だと勘違いするまでにそう時間は掛かりませんでした。
選ばれた?誰に?神様に?そんなことも考えず自分は特別な人間だという認識が意識の根底にありました。身近にあるもの、そうでないもの全てが目の前に有っていながらも何一つとして自分のものではないのに。一流のシェフ、一流の仕立て屋から贈られる努力と研鑽と労働力の塊。当時私はなぜ自分にそれが提供されるのかという疑問について、つまり自分がそういう立場の人間だからという答えしか持っていませんでした。親兄弟を除く、自分が全てにおいて優先される、提供される人間であるという答えだけを持ち合わせていました。
転機は…、いえ、人生の岐路は11歳のときに訪れました。婚約をさせられたのです。
この11歳という年齢で婚約というものは現代においては早すぎるというものですが、当時の話ではあくまでも許嫁であると説明されました。相手はどこの誰とも知らない、一括りに欧州と呼ばれるだけの田舎の小国家の貴族。つまり格下。そんな格下の家に私は嫁ぐことを決められました。足下がガラガラと音を立てて崩れるという初めての体験でした。
それまでは順風満帆な蝶よ花よの人生。誰もが羨み、誰もが頭〈こうべ〉を垂れる私。その私が顔も名も知らぬ男、さらに格下。婚約を宣告された私は憤りを隠せませんでした。この全てにおいて一流の私がなぜ下の者と婚約など?聞けば名家でも高潔な血族でも無い、名ばかりの貴族の男だという。憤慨に憤慨を重ねる私でありましたが、末子の言うことなど一切聞き入れられることはありませんでした。兄弟で唯一の女子。父は事業と水面下の政治のために私を使ったのです。
弱小国家の名ばかり貴族。そんな格下でも我がイベリス家に無い、有れば都合の良い権力とコネクションを持っていたのです。名ばかり家族はこの2つを用いて取引を持ちかけていました。目的は我がイベリス家とのパイプと、名門貴族との血縁。私を差し出せば2つは献上すると営業を掛けてきていたのです。そして父はこの取引を受けました。結果として私は何も知らぬ男の嫁になることが決められてしまいました。幼い私は怒りと悲しみに明け暮れます。しかしその怒りも悲しみも、自分は選ばれた人間だという間違った意識が前提のもの。今となっては懐かしさすら覚えます。
やがて時は経ち、花嫁修行として極東の田舎にある学園へと飛ばされ私の苛立ちは収まることを覚えませんでした。私を道具扱いした上に未開の地で何をしろと?それもうさぎ小屋にも劣る物置小屋で?私はこのとき既に燃え上がる家への怒りとは別に、家からの決別を腹の底に持ちました。一から十まで何一つとして自分のものでは無い、人生すらも。にもかかわらず全てが自分のものと思っていた私の反逆。本当に愚かでありました。
あのお方と出会いました。
あのお方は最上階にある階級の高い者のみが入ることを許される場所になんと汚れた作業着でいらしたのです。数人の女子と一人の教師を連れたあのお方は最初の印象は最悪極まるもの。今となっては運命。このときほど神に感謝を覚えた日はありません。貴族でも権力者でも財閥の跡取りでもないあのお方は学園の生徒でありながら生徒でないという矛盾の存在。しかし一目見て分かる育ち。労働階級以下の振る舞い。まだ目が醒める前の私は憤りを隠せずに、あのお方に向かって愚かにもゴミを見るほどの蔑む眼で食って掛かったのです。今となっては暁光。あのときの愚かな行いがなければ今の私はありません。
あのお方は圧倒的なまでの強さを持っていました。貴族として恥じぬ英才教育を受けてきた私は国では兄弟にも引けを取らぬ剣の強さを持っていたのにも関わらず、私は一ミリと敵いませんでした。刃引きされていないサーベルでの決闘。その場から微動だにすることなく私は敗れてしまいました。その頃の私であれば絶望と衆人環視の凌辱で喚き散らしていておかしくなかったのにも関わらず、私はあのお方の剣に感動を覚えたのです。単純な強さではない、あのお方の剣から強い意志を感じたのです。決闘であれば殺されても文句は言えない。なのに、あのお方の剣は【誰一人として傷つけさせない】。敵である私も、己も、数千人の周囲の誰一人として傷つけさせない。なんなら敵である私すら指先触れさせずに守ってみせる。そういう強さでした。感じたものは絶望でも壁でも雲上でもなく、慈愛。包み込む慈愛。全てを守り、全てを愛す。ありえない!当時の私はそう思いました。しかし、同時に私はあのお方の剣に一目惚れしてしまいました。壁を感じていたとしたら、私が恋に落ちていたからでしょう。
あのお方は優しくしてくれました。真剣を向けた、向けられた相手に何事もなかったかのように接してくれます。喉元過ぎればなんとやら、という奴でしょうか。剣に強く、人に優しく、事に勇ましい。
外見にそぐわずあのお方は同じ年齢でした。学園のアルバイト用務員でありながら生徒でもある。容姿のほどはゴリラと表現して差し支えない巨躯。飾ることのない性格。しかし年頃の男の子らしい行い。張り巡らされる献立の数々。らしいところはらしいのにチグハグなところは本当に謎。少し感じたのですが、あのお方が矛盾を孕んでいることは何も本人によることが全てでは無いのではないでしょうか。あの方のことを何にも知らない私、私のことをなんにも知らない私。話すことなど他愛のない話、私の自慢話、世間話くらいなのに、話す度に私の心を占領していく。私の心を満たしてくださる、癒してくださる。それは今も変わらず。こんな幸福な時間がいつまでも続いて欲しいと願ったのは後のことでした。
私はそれまで通りに振る舞いました。同時に自己嫌悪に陥りました。私の器はなんと小さいことでしょう。あのお方の器は確かに大きいかもしれませんが、あのお方がという話ではありません。単純に私が小さな女だったのです。地位も名誉も成績も一般階級の方々より高くありながら、人としての器は下の下でした。私の物は何一つして私の物ではなく、唯一私の体と魂のみが私の物。さんざん自分のものでは無い物で大きく着飾って置きながら、その実それらの全てを取り払ったらとても貴族と呼べるような人間じゃない。今までの立ち振る舞いに嘔吐しました。己の矮小さを誤魔化して挙句人様を見下していた?自分さえ良ければそれでいい、他のことなど知ったことじゃない、なぜ自分が優先されないのか、なぜ他人のことを思わなければならないのかと常日頃考えていた。目の前にいるお方は私とは対局にいるというのに…。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
私には器どころか何も無いではありませんか。何もかもを虚構でしか持たない私。反抗心を持ちながら家に言われるがままになっている私。その言われるがままの家から何もかもを与えられている私。周囲の人、私を慕ってくれる人、何も関係ないクラスメート全てを自分の思い通りに動かせると思っている私。本当に反吐が出る。何一つとして自分で何かを成しえて得たものは無いくせに全てを全て飾り呼ばわり。人の素晴らしさに気付くことなどなく、いかに自分が正しく素晴らしく美しいかばかり。その素晴らしさも美しさも自分のものではないのに。自分さえ良ければそれが全てで、大切なものの存在にすら気が付かない。いえ、私は私が大切だったのでしょう。たとえそれが目に見えないもので塗り固められたものだったとしても。ありがちなセリフかもしれませんが、私は自分で何にも持たないくせに何を偉そうにしていたのでしょう。なんの根拠があって高慢な態度を取っていたのでしょう。私は何にも持っていない、何も持たない、持てない、何も出来ない。覚えたことは人を馬鹿にすることだけ。常識すらも身につけてない。私は一体今まで何をしたきたのでしょう。何もしてこなかったのです。流されて楽をして生きているくせに流れに反抗心を持つなんて。もはや自分のことを愚かという言葉で顕すことすら生温い。どのような罵詈雑言も私の愚かさには足らない。あのお方の優しさに気付き、自分の醜さに気付きました。
しかし私の窮地に変わりはありませんでした。学園の高等部卒業とともに本国へ戻され、形ばかりの大学卒業をし、直後に婚約者との婚姻という未来が待っていました。そのとき既に家にも自分にも頼れない、何も残されていない私はあのお方にすがりついてしまいました。全てを捨てて逃げ出してしまいたい。そんな思いに駆られるほど弱っていたのです。もう身分も階級も地位も名誉もいらない。自由が欲しい。あのお方は弱々しい私の嘆きになんと応えてくださったのです。嫌なことから逃げてはいけないなんて道理はない、逃げたいなら逃げてしまえばいい、自分にできることがあるなら助けよう、と。なぜ私はこのお方に剣を向けたのでしょう。
『どうして私に優しくしてくださるのですか?』
『決闘したとき、剣にダリアたんの本音が見えたから。本当に君が人を殺そうって思ってたら「助けて」なんて感じないから』
私はそのとき自制しました。胸が張り裂けて泣き出してしまいそうな自分と、あのお方に抱きついてしまいそうな自分を抑えたのです。さんざん馬鹿にして見下してきたあのお方に甘えるなど虫が良いにも過ぎる。でも本当は甘えたかった。他者からみれば子どものおままごとに過ぎない決闘で、自分へ切っ先を向けた敵に手を差し伸べる。私の意志を尊重した上で。私は今自分の出来うることをしようと笑って誤魔化しました。家出の決意です。
必要最低限の荷物をまとめて仮の住まいから飛び出した私は、また自分の愚かさに気付かされることとなりました。私にいつもついて来てくれる二人。あのお方に出逢うまでは二人のことを無礼にもただのコバンザメと思っておりました。私は二人に一通のメールでたった一言「話がある」とだけ呼び出されました。ついに来たかと腹を括りました。無様に恥を晒した決闘で私に愛想を尽かし、決別を言い渡すために呼び出したのだと思い、それも自分の行いからくるものなのだから素直に受け入れようと。私は二人にも何をされても仕方がない人間だったのです。私はこのとき二人に泣いて謝りました。今までの非礼と疑ったことを。会うなり二人は私とともに仮の住まいにいる使用人に国との裏の繋がりについて証拠を揃えて情報をくださったのです。あの二人は私の初めての年頃の女子らしい女子の泣き顔を見た初めての人です。私は自分に何も残されていないと思っていましたが間違いだったのです。私が二人に対してどんな態度を取っていたのか身を持って以って知っているはずなのに、二人は私の味方でいてくれる。私は恥ずべきは決闘でも家でもなく、自分自身だと悟りました。
私が家を出ると知ると二人は「自分達も共に」と言いましたが私は断固拒否しました。大切な友人に辛い目に遭って欲しくなかったのです。私の身の上のために大切な友人が辛い目に遭う様などとてもではありませんが見たくありません。見ていられません。「どうか、いつかまたそばに」と泣く二人と別れ私はアテも無く重たい足を運んでいると見知らぬ女性に声を掛けられました。曰く、あのお方の師匠。なんの証明もないのに私は付いて行ってしまいました。私はこのときのことを少し後悔しています。まさか死んでは生き返り、死んでは生き返りを繰り返すとは露ほどにも思っていませんでしたから。
見知らぬ女性はあのお方のご家族と交友のある方でした。さらに副学長とも。そしてあのお方のご家族は私を快く受け入れてくださいました。そして、現状を打破する手立てはある、が、私の覚悟が必要だと迫られました。私は決心しました。あのお方は知らぬ地で傷つき満身創痍。とても頼っていいときではない。なら自分でどうにかするしかない。なにより、手を差し伸べてくれたあのお方に少しでもお役に立てるようになりたい。そのためなら人であることすらやめてみせましょう。あのお方の剣から伝わる心、あのお方の置かれている身。慈しみの心を持ち、そのために人ではないあのお方。少しでもそばにいたい。そのためならば。同時に私は私に嘘をついていました。いえ、あのお方の役に立ちたいという気持ちに嘘偽りはありません。ただ。生きている心地がしなかったのです。だから痛みを求めたのです。痛みさえすれば、痛みさえあれば、痛みがあれば生きている気がする。何にも痛まないから生きている気がしない。私は本当につくづく最低な女です。私の心を満たしてくださる方を言い訳にして、自分が生きている確認をしたのです。生物として生きているのか、心が生きているのか。痛覚を覚えなくなっても死んでいないだけのか。痛覚すら覚え無くなってただ有機物として呼吸しているだけなのか。さんざん人を馬鹿にして、いざとなったら死に行く。自分が生きているって感じがしたいから。私は人間の化けの皮を被った別の何かかもしれませんね。でなければこんなに醜いはずがない。そう思いたい。
私は来るべき日に備えるため、鍛えることを始めました。あのお方のご家族と副学長の用意してくださった場で。このとき私はまたしても泣きそうになってしまいました。私の醜さにとうに気付いているはずなのに、誰もが私を責めることなく、私に機会を与えてくれたのです。あのお方の周囲の方々も優しい方ばかり。誰かから何かをもらうことがこんなに嬉しい、ありがたいことだなんてこのとき初めて感じました。二度目の決心です。私に優しくしてくださる方々の恩。そのために必ずや報いる。結果を出してみせる。私は人であることから脱しました。まだほんの少しではありますが。
『無理に異能力者になった人間の寿命が他と同じだと思うなよ』
あのお方に眼と翼を与えたいう方々は突然、あのお方の住まいにお世話になっている私の元を訪れ言いました。私はなんの疑問を持つことなく本能がすぐに反応し察しました。私は自分の生を犠牲にしたのだと。私の生はあとどれくらい残されているのでしょう。覚悟の上でしたが寂しくないはずがありません。お役に立ちたいからこうしたのに、実際にお役に立てる時間は少ない。幸せな時間、楽しい時間ほど短いとよく言いますね。私が泊まらせていただいている部屋に訪れたお二方の話を聞くと、どうやら決戦が迫っているようです。己の醜さ、矮小さに嘆いていた私はまさかあのお方がそんなことに巻き込まれているなどとは思わず。お二方は決戦の戦力になりうる者に意志の確認をして回っているとのこと。私はその場で二つ返事をいたしました。私はあのお方を助けたい、役に立ちたい。そのためにあのお方を泣かせてしまうかもしれない。それでも。
そして来るべき日を迎えた私は満身創痍でした。私の人生唯一の反抗。家と血族と、それまでの自分にさよならを告げる日。現実と虚構を行き来し、生と死を行き来し、私の身体は悲鳴をあげていました。チャンスは一度。私は願い、欲しました。
どうか、恩に報いるだけの力を!私自身を変える力を!願わくば、今度は私が誰かを助けられるようになりたい!
私の願いは聞き届けられました。ほんの少し、ほんの少しではあるけれど、私を助けてくれた方々と比べたら歩くような速さかもしれないけれど、私は私の心を現実のものといたしました。やった。これで、これであのお方に近づくことが出来た。これであのお方のそばにいられる。あのお方のために、だから私はここにいる。あのお方のためにここにいる。もう家も地位も名誉も階級も何もかも必要ない。ありがとうございます。薄れゆく意識の中で、私は温もりを感じていました。あのお方はどこまでも優しい。自分の身は未だ油断を許さぬはずなのに、その無理を押して私を抱きかかえてくださったのです。優しく微笑んでおりました。迎えに来てくださったのです。そして、ご自分を責めていらっしゃいました。
「申し訳ないでござる。吾輩が焚き付けたりしなければこんなことには」
焚き付けたりなんてそんなこと。言おうとしましたが私の意識は温もりを感じて安心したのか、途切れてしまいました。あのお方は決闘の後も変わらず、いえ、決闘の後からはまるで親しい友人のように話し掛けてくれました。それがどんなに私の心を救ってくれたことか。人の優しさが心に沁みると泣きたくなります。
女性は男性に、男性は女性に理想を求めがちかもしれません。でも、自分のことを大事に思ってくれる、大切にしてくれること以外に特別なことなど必要ないかもしれません。
これからは私がおそばにおります。たとえあなたがどれだけ遠くに行こうとも、私は必ずそばにおります。遠慮なさらず私を使ってください。私はあなたのためにあなたのおそばにおります。私は私を救うために変わったのです。だからどうかご自分を責めないでください。あなたは私に変わるきっかけをくださったのです。もうどんなに突き放されたとしても私はあなたと離れたくありません。いえ、優しいあなたのことだから誰かを突き放すことなどないでしょう。きっと一人でいなくなってしまうのです。自分だけを責めて、自分一人で全てを背負い込んで。でも、そんなの寂しいではありませんか。私はそんなの嫌です。あなたと一緒にいるんです。あなたとまた抱き合いたいのです。だから、だから、
どうか遠くに行かないでね?