現実逃避 2
「な、なんでここに…」
「帰りたくないの」
「えっ?」
「帰りたく、ないの…」
マンションに帰ると1階のロビーに茉奈美さんがいたでござる。結城さんのところへ行って一旦市内をぐるっと回って帰ってきたからもう日付は変わっている。だいたい3時間くらいのことだった。
(ただ帰すだけなら簡単だけど…、この子といい、ご主人のお願いといい、言われたことをただ鵜呑みにしてるだけじゃどうにもこうにも…)
少しの間考えて吾輩は仕方なくため息をついた。まさかご主人を今から叩き起こすワケにもいかない。帰り際にもう今日は休むように言ってしまった手前、今さら覆すのも気まずい。
「吾輩もお風呂まだでござる」
「え?」
「一番風呂がいいでしょ?」
不思議なことに、戸惑いながらも吾輩に手を引かれてついてくる彼女は悲しげなのにどこかほっと安心しているでござる。こりゃー半分アテにされてなかったな。
(しかし勢いで連れてきてしまったけど困ったな。女の子が着られる服なんか持ってないでござる…)
「お風呂、すぐに焚けるから」
スイッチ1つで栓を抜いて洗浄して湯を張って、人感センサーの働いてる内は追い焚きもしてくれる。味気ないでござる。くたびれてる独身系経営者には便利で楽な機能だけど、一日のほとんどを家で過ごす我輩からしてみれば無駄な機能だった。毎日毎日同じスイッチを押すだけ。調理もそう、食器洗いもそう、部屋の掃除もそう、空調もそう。毎日毎日スイッチを押すだけ。まるでロボットみたい。
「広い部屋…」
「眺めもなかなかでござるよ? 郊外の丘の上にあるキミの家と比べたら霞むけどね」
吾輩が右手を窓に向かってかざして、サッと払う。それだけでカーテンもリビングの窓も全開になる。
「すごい」
「モーショントレーサー付きセキュリティリストバンド。さっきのお風呂のスイッチも触ってないでござる。動作だけで全て認証される」
「いい眺め…」
ベランダに出て並ぶ二人。瞳に映るのは街の灯り。駅のそばに建てられたタワーマンションは最新の技術の粋を集結させたハイエンドを謳いつつも、身に触れる素材の一つ一つをこだわり抜いてデザインしたモダンテイスト。浮世離れする飛び抜けた科学に埋もれることなく、住んでいる者は現代に帰ってくる。
「あんな家、もう戻りたくない」
「どうして?」
「私は新しい家なんかいらない、ずっと死ぬまであの家がいい。そう思ってたのに」
美しい街の夜景とは裏腹に、苦々しい顔の茉奈美さん。死ぬまであの家がいいのに帰りたくない。これは本心だ。でも矛盾でもあるでござる。
「お父さんもお母さんもずっとずっと先のことを見てる。自分が死んじゃうときのことを考えてる。ラブは先に行っちゃった」
切ないような、哀しいような。泣きそうになっているのを我慢しているような、鼻の先がツンとして胸が締めつけられるあの感覚。きっと彼女は今それを味わっている。愛していた家族に先立たれたのが悲しい、親に先立たれるのが悲しい、そんなことばかり考えさせられるのが悲しい、あの家から離れるのが悲しい、思い出の中に帰られなくなるのが悲しい。今の茉奈美さんからは悲しさばかりが伝わってくる。
「私はね、小さい頃ずっと一人ぼっちだったの」
震える声で語り始める茉奈美さん。感情が溢れるのを必死に堪えて、声を震わせ肩を震わせ、昼間の気の強い彼女はどこへ行ったのか。
「お父さんもお母さんも仕事が忙しくて全然お家に帰ってこなかったの。お家に帰っても誰もいないの。誰もおかえりなさいって言ってくれないの」
「……」
孤児院育ちには分からない寂しさ。確かに両親はいないけど、いつも帰れば誰かがいて誰かがおかえりなさいって言ってくれる。施設に誰もいないなんてことは一度もなかった。嬉しいことも悲しいことも、楽しいこともつまらないこともいつも皆と一緒だった。良いことをすれば褒めてくれたし、悪いことをすれば叱ってくれたし、喧嘩をすれば止めてくれたし。吾輩は一人ぼっちじゃなかったでござる。
「毎日毎日、知らない人が作るごはんを口に運ぶだけ。そんなロボットみたいな生活。寂しくても寂しくても誰も慰めてくれない」
そういえばご主人や奥さんに普段何をしているのか聞かなかったし、話もしなかった。今日はなんで家に? 吾輩が訪ねてくるから?
「人に会えば作り笑いをして、誰かが争えば嘘泣きをして、誰かが悪さをしたら怒ったフリをして、誰かが泣けば慰めの言葉をかけて」
茉奈美さんは涙を流しながら拭うことなく、ただ夜景を眺めながら静かに泣いていたでござる。一切こちらを見ず、夜景を眺めながら、けど目に映る景色とは違うどこか遠くを見ながら。溢れても溢れても、こぼれてもこぼれても止まらない涙。本当の自分を知られたくなくて取り繕っているうちに、本当の自分が分からなくなって。本当は自分が泣きたい、本当は自分が怒りたい、本当は自分が慰められたい。本当は自分が誰かに一緒にいてほしい。誰もいない家に帰ったときのがらんとしたあの空白が心にも空白を作ってしまった。
「私と一緒にいてくれたのはラブだけだった。いつも私を慰めてくれた。お父さんとお母さんが家によく居るようになってもずっと一緒にいてくれた。でももう、そのラブもいない」
空白が埋まる前に新しく空白が広がって、その空白をまた取り繕って。
「なんで辛いことばかりなの? なんで私ばっかりこんな辛い目に合わなきゃいけないの? なんで私なの?」
「確かに世の中うまく行かないことばかりでござる」
「あんなに大きいお家じゃなくって良かったの。あんなになんでもあるお家じゃなくて良かったの。お金持ちなんかじゃなくて良かったの。私はお父さんとお母さんとラブと一緒にいたかっただけなの」
たったそれだけのことなのに…と。そう、たったそれだけのことなのに。たったそれだけのことなのに難しい。どんなにお金を掛けてもどんなに取り繕っても誤魔化すことは出来ない。
「なのに、お父さんもお母さんも…」
「確かにキミの言うことは間違っていないでござる。家族で一緒にいるっていうのはお金じゃどうにもならない。家族でいる幸せとお金で豊かになることは、お金で豊かになって得る幸せとは同じものではないはず」
お金で得られる幸せってなんなんだろう。なんでも欲しいものが買えること? いつでも美味しいものが食べられること? どんな欲求も満たされる? 本当に?
「だから吾輩はあの家が良かった。いつかは吾輩もお嫁さんもらって、子どもが出来て、普通の家族になる。でも吾輩は普通の家族というものを知らない。子どもに教えることも出来ない。そのときにこの家では何があった、どんなことがあったのかって話すことが出来るでござる」
「私は辛い。いつかあの家を買い直しても、流れた時間を買い戻すことは出来ない。欲しかったものは戻ってこないから」
人が生き物である限り必ずそのときはやってくる。
「もう嫌なの、辛いのは。こんな気持ちもう嫌だ。もう逃げ出したい」
「じゃあ逃げてみる?」
「いいの?」
「もちろん。ほら行こう! 善は急げでござる」
「えっ、ちょっと!」
吾輩逃げるのだけは得意だからね。逃げて逃げて逃げまくる。辛いことからも苦しいことからも逃げてここに来たくらいだし。とっとと逃げるに限るでござる。ヘルメットを取り出してご主人に知らせないで茉奈美さんの手を引っ張って後ろに乗せて原付に乗って走り始めた。
「お、お巡りさん追っかけてきてるよ?!」
「いーのいーの! もっと飛ばすでござる!」
「やっ、きゃあーっ!」
深夜の誰もいない道を走り続けて、朝陽が見える頃に海に着いた。なんとなく今やっていることに虚しさを感じたら考えるのをやめて気ままにただぼけーっと走って、全部をゼロに戻しちゃう。
「海…。海なんて来たの何年ぶりだろ」
「吾輩は逃げちゃいけないなんて言わないし、逃げるなとも言わないでござる。って言っても砂浜に寝転んでぼけーっとしてるだけなんだけど」
「お巡りさん、追ってこなくなったね。原付バイクで二人乗りなんてダメなのに」
「吾輩常習犯だから」
「えーっ、意外。真面目な人だと思ってたのに」
そんなの顔だけ顔だけ。名前にいたっては名前負けだし。
「…ねえ茉奈美さん。茉奈美さんはあの家に誰もいなくてもやっぱりあの家欲しい? ずっとあの家にいたい?」
「……うん、忘れられないから。過去にすがるのは間違ってるって言われるかもしれない、辛いことも苦しいこともまだあると思う。でも、大切な思い出は置いていけないから」
「そっか」