現実逃避
「こんばんは」
「ああ、戦野さん、夜分に申し訳ない」
娘さんが、茉奈美さんが消えたという電話をもらってさっきの今ですっ飛んできたでござる。昼間、家を売りに出し新しい家を建てて引っ越そうという夫婦のお宅にお邪魔して、夕飯を食べた後にコピーの資料をコーヒー片手に読んでいた。
「今お茶を淹れますから」
「おかまいなく」
玄関で出迎えてくれたご主人もリビングにいた奥さんもだいぶお疲れなご様子。おそらく吾輩に連絡する前に探し回ってきたんだろう。たった半日と経っていないくらいなのにひどい顔をしているでござる。
「して、娘さんは?」
「まだ…」
「警察にも探してもらえるようお願いしましたが…」
市内であればすぐに見つかるはず。それが見つからないとは上手く隠れているのか、いや、家出ならすでに遠くへ行っている可能性も…。
「何か手がかりは?」
「あの子の机の上にこれが…」
そういって奥さんが出してくれたのは家族3人と一匹の犬で仲良く写っている写真だったでござる。満開の桜の木の下で、幼い茉奈美さんとまだ若い頃であろうご主人と奥さん。満面の笑みは幸せな家庭を物語っている。
「写真…。失礼ですが、誘拐ということは?」
「まさかそんな…!」
「なくはないでしょう。私の仕事もライバルのいる生業です、私のことを面白く思わない連中だっているはずです」
「裕福な家庭の息子娘を誘拐して身代金を…なんて話はよくあるでござる」
「しかし誘拐ではないでしょう」
ご主人が確信を持ちながらもため息をして顔を隠した。ひどく疲れた顔を見せたくないから…ではなく何か激しい後悔をしているでござる。それを察したのか奥さんも暗い顔をしてうつむいてしまった。
「…お恥ずかしい話なんですが、戦野さんが帰ったあと喧嘩をしたんです。あの子と」
「喧嘩を?」
「ええ」
幸せいっぱいの写真からは想像もつかないでござる。もちろん親子だって人間なんだから喧嘩の1つもするだろうけど、いなくなる理由になるほどとはよほどの事情や理由があってのことだろう。
「あの子はここが大好きなんです。生まれたときから育った、思い出でいっぱいのこの家が。幸せなときも、悲しいときも、辛いときもずっと過ごしてきたこの家が。それを離れようというんですからもう手のつけられないくらいの荒れようでした」
羨ましいでござる。孤児院育ちの我輩は生まれた家なんかなかったし育った家もなかった。もちろん自分の部屋なんてのもなかった。思い出の詰まった家も家族も持ってない我輩からしてみれば羨ましいの一言に尽きる。
「もちろん私達だって辛いんですの、結婚して初めての家ですから。でも私達にはあの子しか子どもがいません。私達が歳を取ったらいつかあの子の重荷になります」
自分達に何かあったらあの子の邪魔になる…、奥さんはそう続けて涙ぐんでいた。
「難しい話でござる」
どっちが正しいとか、どっちが間違っているかという単純な話じゃない。思い出と、親の愛情と。どちらも大切でどちらも人が生きていくにはあるべき存在。何も間違ってない、誰も間違ってない。それだけに他人の吾輩がどうこう言う立場でもない。
「戦野さん、少しお庭によろしいかしら」
「はい」
「…! お客さんに見せるものじゃないだろう!」
「私達にいたもう一人の家族…。あの子はこの子のことも忘れられないんです」
ご主人を無視して立ち上がる奥さんについていくと、庭の片隅の桜の木の下にささやかなお墓があった。お墓は最近のものなのか、まだ小さな傷や汚れがない。供えられているお花も新しい。
「あの子の最初のわがままでした。雨の日に、入れられていた段ボールを抱えてずぶ濡れになって帰ってきたんです」
奥さんはお墓を見つめたままゆっくりと、ゆっくりと、悲しげで懐かしい表情で話し始めたでござる。吾輩はこのときすでに誰のお墓なのか察していた。同じ人間でも、同じように歳を重ねられないことはよくあること。それが犬と人間なら。
「お医者さんには見つけたのが少し遅かった、そんなに長くは生きられないと言われていましたわ。でも、この子はすくすくと育って元気に生きてくれました。いつもあの子と一緒だったんです。朝起きるときも、お散歩のときも、夜寝るときも」
「これは生き物の宿命です。いつかこうなることはあの子だって分かっていたはず。幼い頃は気が付かなくても大きくなればやがて知ることになる。知っていた私達だって辛い」
リビングにある庭に面した大きな窓から寂しそうに旦那さんの影が伸びる。過ぎ去った時間は帰ってこない。同じときは過ごせない。幸せだったあの頃に戻ることは出来ないでござる。
「この子を亡くしたときの茉奈美は見ていられなかったの。毎日毎日泣き腫らして、夜も寝られずに体も壊して。お友達が慰めに来てくれても上の空。ふと部屋を出たと思ったらずっとこの子の前で、虚ろな目をして膝を抱えて見つめているの」
「それからというものあの子は笑わなくなってしまいました。理屈や綺麗事では片付けられないことを諭すにはまだ若すぎる」
「昔はもっと明るくて笑う子だったんですのよ。毎日毎日、私にとって、私達にとって太陽のようなまぶしいまぶしい笑顔でしたわ」
優しい女の子でござる。吾輩のような人のために涙も流せない冷めた男とは違う、優しくて温かい女の子。そんな彼女が笑わなくなって、喋らなくなって、ふさぎ込んで。そんなときに知らない人が家にやってきたら自分の大切な場所を乗っ取られたと思っても不思議じゃない。1ミリも離れたくないのに、自分は何も知らないのに、いつの間にか自分のいないところで物事を進められて決まってから告げられる。もうここにいられないなんて。
「…裏切られた気分でござる、吾輩が彼女ならそう感じるでござる」
「おっしゃるとおりです、言い返す言葉などありません」
「茉奈美さんを想ってのことだったなんて言っても言い訳でござる。人から大切な場所を奪うことがどれだけ人を傷つけるのか知っていてなんで! 大切な場所だけじゃない、大切な誰かを奪うことがどれだけ傷つけることか!」
たとえその誰かがこの世にいない存在だったとしても、その誰かは胸の中でずっと生きているんだから。だから誰にも大切な誰かを、場所を、奪う権利なんかどこにも誰にもないでござる。
「忘れられないほど大切なのに、離れなきゃいけないなんてあなた達だって辛いはずでござる…」
吾輩にだって大切なものを失ったことくらいあるからこのくらいはね。分かっているつもりでござる。とはいえ、今を生きている人をないがしろにすることは出来ないし、板挟みになる。
「私達は親失格でしたわ…。茉奈美のこと、ちっとも助けてあげられなかった」
「戦野さん、こんなことを言えた立場じゃないのかもしれない。しかし恥を忍んでお願いします。あの子の心を助けてやってください」
助けてください、か。人から助けてくださいなんて言われたのは人生で初めてのことでござる。吾輩の20年という短い人生の中で誰かに助けてもらったことはあっても、誰かを助けてあげたことなんてささいなことしかなかった。今回は、道に迷った人を助けてあげるとはワケが違うでござる。でも、人から助けてと言われたら断る理由は無いでござる。
「こんな男でよろしければ」
ひとまずこの日は夜も遅いのでいったんお開きということにして、マンションに帰るとロビーの玄関に女の子が立っていた。吾輩が出てったときにはいなかったのにいつの間に…。
「遅い」