第一話
大学構内の、桜の木の下に、掲示板がある。
4月はそれは見事に桜が咲いていたが、いまは五月。
すでに、緑色の葉が生い茂っている。
二年生の春であった。
休講がないだろうかと、由香は掲示板をじっと眺めていた。
「――か、由香」
遠くから呼ぶ声が聞こえる。
由香はちらっと振り向いた。
友人の庸子だった。いつになく急いで、小走りで駆け寄ってくる。
「どうしたの」
こういう風に声をかけてくるのは、珍しい。
ピアスを直しながら、由香の傍へ近づいてきた。
庸子は紺のジャケットに水玉のスカートという格好。
アクセサリーもきれいに身に付けていて、嫌味なくお洒落だ。
髪もゆるやかなパーマで、つややかな栗色に染めている。
庸子に知り合ったのは今年度に入ってからだが、いつ見ても華やかで、すぐに見つけられる。
それに比べて由香は――ジーパンに、地味なジャケット。髪を染めるのは面倒だし、派手な服を着こなす自信など元からなかった。見れば見るほど、対照的だとつくづく思う。
それでいて、仲はいいのだから不思議だ。
「ねえっ」
庸子は息を整えて、テンションの高い声を上げた。
彼女はたとえば、クラスの代表的な立場なんかにも、進んで出ていってしまうような人で、いつも積極的で前向きであった。どちらかと言うと消極的な由香は、たまに、彼女が眩しく見えることがある。
「七月の試験終わってからすぐの頃、暇かな」
彼女の耳の輪っかのピアスが、揺れる。
それを眺めながら、由香はいぶかしんだ。
七月って――今はまだ五月だ。一体どういうことだろう。
それでも由香は答える。
「そうねえ、レポートでもやってると思う」
今学期、専門科目のレポートがたくさん出そうなの、と付け加える。
庸子は、しかし、それには構わずに言った。
「レポートか。ね、それじゃ、私と一緒に韓国研修に申し込もうよ」
「え」
突拍子もないことを言われ、由香は軽く、混乱した。
「韓国って。な、何の話」
何とか声を絞り出した。
「まったくわからなくて――」
そりゃそうだろうと言わんばかりに、庸子が説明をまくし立て始めた。
「あのね。韓国の慶安大学と、うちの桐尚大学と」
「うん」
「交換留学先の大学と、交流会みたいなものを毎年してるんですって」
「ああ、うちの大学と、何だっけ、協定があるんだったよね」
その大学の名前、シラバスかどこかで、見たことあるかもしれない。
庸子はさらに説明を続ける。
「そう。そこで、韓国語を習ったり、文化体験の研修をするらしいよ。
渡航費を援助してくれるらしいし、滞在中は費用もかからないよ。面白そうじゃない」
「うん、面白そうだね」
あくまで他人事として答えたつもりだった。
しかし庸子は、始めに言ったことを、丁寧にも繰り返してくれた。
「ね、一緒に申し込もうよ」
一生のお願い、と言わんばかりに見つめられる。
微かに、動揺した。
「なぜ、私なの」
庸子は、第二外国語が韓国語だ。
そんな彼女は、韓国語に縁のない私から見ても、一生懸命勉強しているな、と感じるくらい、きちんと取り組んでいた。
そんな彼女が、韓国に行ってみたいと思うのは当然だろう。
そして、同じ韓国語のクラスにも友達はいるだろうに、よりによって語学オンチの私を、選んだらしい。
先に頼んだけど断られた、とか。
しかし、彼女に頼まれて断れる人はいるのだろうか。
庸子の勢いに押されそうになりながらも、由香は反論した。
「だからね、庸子は第二が韓国語だったからいいかもしれないけど、私、ドイツ語だよ。無理だよ」
それについてはバッチリよ!といわんばかりに力強く答える。
「大丈夫、韓国語能力ゼロの人でも大丈夫って、書いてあったもの」
にわかには信じがたい。
だって、言葉ができなくて、どうやって過ごせるっていうの。
「それでもできる人が集まるんでしょう」
なお、食い下がって反論してみるも、庸子は介さないようだった。
「わからないわ。とりあえず面接に行きましょうよ」
「え」
韓国に行くための面接を受けに行く――。まったく、実感が湧かない。
英語も、ドイツ語も、頭の中で、粘土をこねくり回したようにごっちゃになってるような、語学下手な私が、海外へ行こうとするなんて。
「試しに、付き添ってくれるだけでもいいわよ」
彼女なりの譲歩なのだろう。
「そうね――」
掲示板の傍の桜の木を見やりながら、由香は逡巡した。
いいかもしれない、と思い始めていた。
大学生になって、順調に2年目を迎えた。
何か生活に変化が欲しかった。
「行こうかな」
あくまでも軽い調子で、庸子に返した。
その刹那、風が吹いた。
高く、高く、地面の葉を巻き上げていった。