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七 抵抗

 午後の明るい陽射しが差し込む小さな事務室で、高原は打ち合わせコーナーでぼんやりとした表情をしながら、テーブルに両肘をつき、組んだ両手で鼻と口の間辺りで顔を支えていた。

 開いていた来客用入口から入ってきた英一が、カウンター越しに高原をみつけて会釈したが、高原の反応がないので英一はそのままカウンター脇を抜けて事務室内へと入っていく。

「高原さん」

「・・・・・」

 肩にかけていた荷物を下ろし、英一はもう一度声をかける。

「高原さん・・・・」

 大森パトロール社随一の上級警護員の高原晶生が、ようやく顔を上げて英一を見た。そして目を細め安堵の色が浮かび、椅子から立ち上がって英一を迎えた。

 ここまで反応の鈍い高原に接するのは、英一は二度目だった。

「三村さん」

 高原の顔は徹夜したようなやつれかたをしていた。

 メガネではっきりとは分からないが、その知的な両目の下にはかなりひどい隈ができている。

「・・・すみません、すこしボーッとしていました。メール、お返事ありがとうございました。わざわざお越しくださって・・・ありがとうございます。」

「大森パトロールの皆様に、お詫びをしなければなりませんから。」

「とんでもないです。とにかく、ご無事で本当によかった。」

 高原は本当に嬉しそうな顔をしていたが、同時に、疲労しているのが外見からも明らかだった。

「高原さん・・・・どうなさったんですか?」

「・・・・」

「一昼夜くらい、寝ておられなくてしかも何も召し上がっていない、そんな感じに見えますが・・・・」

「・・・・・」

 英一は目を丸くした。

「まさか、本当にそうなんですか?」

「・・・・・」

 給湯室から麦茶のピッチャーとグラスを持ってきた英一は、テーブルの上でそれを注ぎ、高原に渡す。

 グラスから麦茶を飲み干して、高原は小さく息をついた。

「もしかして俺のせいですよね、やっぱり」

「いえ、・・まあ、はい、そうです。」

「・・・・すみません・・・・」

「あ、いえ・・・・怜から、夕べ三村さんが無事に発見されたとき、すぐに連絡がありましたから、別にそれから今までの間、なにがどうということもなかったはずなんです。」

「はい。」

「でもなぜか、ずっとここでぼんやりしていました。」

「非番なのに、帰宅も仮眠もされなかったんですか。」

「誰もいなかったので、なんとなく・・・」

「・・・・・・」

 高原はグラスをテーブルに置き、英一の顔を見て、そして初めて少しだけ笑った。

 逆に英一の顔は、誰かに責め立てられているような苦いものになった。

 しばらくしてようやく高原が、口を開いた。

「三村さん、あなたの顔を見ると、なんとなく自分の中の、タガが外れるような気がします。三村さんにとっては迷惑な話だとは思うんですが、私はやっぱりあなたに全面的に甘えて依存しているんだなと、改めて思います。」

「・・・・・・」

 英一はほぼ言葉を失って、目の前のプロのボディガードの知的な・・・そしていつもはそこに不思議に愛嬌が同居しているはずだが今はそうではない・・・両目を凝視した。高原は、あの阪元探偵社の殺人専門エージェント、通称「アサーシン」でも、真正面から対峙すればまず襲撃は成功しない、けた外れの実力の持ち主である。しかし高原と親しくなるにつれて、英一の前で、高原が見せる顔は、そつのない一流警護員のそれよりも、一人の悩める人間のものであることが圧倒的に多くなっている。

 そしてそのことが、嬉しく、かつ誇らしいものに思えていたことに、今はっきりと気がついた。

 英一は、高原が、自分を頼りにしていると感じ、そのことに心地よさを感じてきたのだと、はっきりと気がついた。

 しかし今ここにいる高原は、なぜこれほどまでに、心地よさから遠いところにいるのか。急に英一は、胸がつかまれるような焦燥に襲われた。

「高原さん、すみません。どうか、そんな顔をなさらないでください・・・。私の・・・・俺のために、そんなふうになってほしくない。」

「・・・・・」

「甘えていたのは、俺かもしれません」

「三村さん」

「人に甘えたくない、と思ってきたはずでした・・・・しかし葛城さんと河合の警護現場で、自分のしたいことだけを自分勝手にやってしまった。これを甘えと言わずなんと言うんでしょうか。それに」

「・・・・・」

「それに、皆さんに温かく迎えられてしょっちゅうこの事務所にお邪魔してきた。皆さんに甘えてきた以外の何物でもない。」

「・・・・三村さん、それは・・・・」

「私はそれなのに、あなたを苦しめてしまった。」

 英一は唇を噛んだ。

「たしかに・・・そうではありますね。」

「はい」

「三村さんが発見された後、色々考えました。この先、三村さんに、どうやったらもう二度と危ないことをしないでもらえるのかを・・・・。」

「・・・・・・・・」

「脅そうか、とも思いましたし。」

「え?」

「次にバカなことをしたら、河合警護員に難易度ウルトラCの警護をさせますよ、とか。」

「・・・・・・」

「しかしそれは我々のほうにダメージが大きすぎる」

「そうですね。」

「やはりこれは・・・・大森パトロール社へ出入り禁止にさせていただくほかないかな、と思いました。」

「俺も・・・私もそう思いました。ここの警護員さんたちとの関わりを断ち切れば、また以前の、舞のことだけいつも一〇〇%考えているだけの人間に戻れる。誰にも迷惑をかけることもなくなる。」

「そうですね。」

「ええ。そうですね・・・・。」

 英一は微笑み、高原も笑顔を返した。

 打ち合わせコーナーの椅子から、英一はゆっくりと立ち上がった。

「今まで本当に、ありがとうございました・・・・・高原さん。」

「こちらこそ、数えきれないほど、我々を助けて頂いた。お礼の言いようもありません・・・・。」

 右手を英一が差し出す。

「みなさんに、くれぐれもよろしくお伝えください。」

「はい。」

 高原も右手を出し、ふたりは握手した。

 事務所出口まで、高原は英一を見送り一緒に歩いた。

 扉を開け、もう一度振り返った英一の目に、高原が額に手を当て、うつむいているのが映った。

「高原さん・・・・」

 そのままで、高原は言った。

「無理です。」

「・・・・・」

「無理です、三村さん。」

 英一は、しばらくして、ほぐれるような微笑を浮かべた。

「俺も、無理です、高原さん。」

 高原が顔を上げた。知性と懇願とが主導権争いをしているような、複雑な表情で、そしてやはり微笑んでいた。

 二人は向かい合って立ったまま、顔を見合わせ、しばらくそのままでいた。

「・・・・どうすればいいんでしょうかね・・・・」

「八方ふさがりということじゃないでしょうか・・・・」

「・・・まあ、しょうがないということじゃ、ないでしょうか。」

「そういうことですかね。」

「でも、大丈夫かもしれない。なにしろうちの職業は、ボディガードですから。」

「・・・・・」

「どんな人も、お守りするのが仕事ですからね。」

 英一が今度は声を上げて笑った。

 高原も笑い、そしてすぐに表情を硬くして、英一の顔を見た。

「三村さん、今回、あいつらがあなたを拉致したこと、私は単発の案件としてでなく、懸念をしています。」

「はい。」

「あなたを排除するわけでもなく、やり過ごすわけでもなく、かといって殺すわけでもなく、これらのいずれでもないことをした。・・・・あなたを、連れ去った。異常なことです。」

「そうですね。」

「阪元探偵社が、あなたを、もう単なる元依頼人の関係者とも見ていない、ましてや単なる第三者としては見ていない。そういうことです。」

「はい。」

「積極的に把握し、押さえるべき相手と思われた。いわばある意味、我々とほぼ同一視されてしまった。そういうことなんですよ。」

「・・・はい。そう思います。」

「気をつけてください。そう申し上げるしかありません。」

「はい。」

「本当に、お願いします。」

「はい。」

 高原は、信用できない、というような表情で英一を睨むように見つめた。

「三村さん・・・・・本当に、反省してますか?」

「え?」

「反省してますかと、うかがってるんです。」

「・・・もちろんです。」

 高原は頭を垂れ、大きくため息をついた。

 英一は申し訳なさそうな表情で、高原を見た。

「高原さん・・・・・」

 再び顔を上げた高原は、少しそれまでと違う表情になっていた。

「今、うちの事務所で、静かなブームになっている事柄があるんですが」

「は?」

「いえ、難しいことではありません。反省している証拠をみせてください。」

「?」

 従業員用入口をカードキーで開けて入ってきた葛城は、カウンターのところまで来て来客用入口近くに立っている高原と英一が目に入り、そして驚愕した。

 派手な音をたてて、高原がいきなり英一の頬を引っ叩いたからだった。

「晶生!」

 葛城が叫び、高原を後ろから羽交い絞めにして英一から引き離す。

「いったい・・・・何やってるんだ、晶生!お前、気でも・・・・」

 予想を超えた威力によろめいていた英一が、態勢を立て直し、高原と葛城のほうを向き直った。

「ありがとうございました、高原さん。」

「英一さん?」

「葛城さん、ご心配なく。無駄に命を危険に曝したら、お仕置きされるということで、私も例外ではなくするようお願いしたところです。」

「・・・・・・・」

 葛城の腕から自由になった高原が、微笑んだ。

「よく反省してください、三村さん。」

「はい。」

「本当は往復なんですが、ゲストということで一発にしておきました。」

「ありがとうございます。」

 あっけにとられて葛城は二人の顔を見比べた。



 夕日が時折梢の間から覗き、しかし駆け足で夜が迫るビル街の、広い歩道を庄田はゆっくりと歩いていた。

 隣では、背の高い同僚が、退屈そうな顔で火の点かない煙草を弄ぶように咥えている。

 酒井はその精悍な顔に、不審そうな表情を絶やさず、自分より背の低い色白の同僚の横顔を少し見て、また正面に視線を戻す。

「今日、仕事で恭子さんの携帯に電話したら、なんかもうこの世の終わりみたいにご機嫌斜めでしたで。」

「そうなんですか。」

「今回の案件が失敗したわけでもないし、社長に三時間つかまったとかそういうわけでもなさそうですし。」

「ええ。」

「和泉に聞きましたが、事務所で庄田さん、あなたと話しておられたみたいですね。あなたのせいなんじゃないですかね。」

「そうかもしれません。」

 涼しげな切れ長の目を細めて、少しだけ庄田は笑った。

「ついでに、別の筋の情報では、社長も死ぬほど機嫌が悪かったそうです、今日一日。」

「そうですか。」

 酒井の、耳の下まで無造作に伸ばした黒髪が、夕方の風に揺れ、横顔が露わになっては再び髪に隠れ、その表情は庄田からは見えづらい。

「どう考えても浅香さんのあの不可解な行動が、原因ですな。」

「まあ、そうでしょうね。」

「他人事みたいに。」

「すみません。」

 庄田は少し茶色がかった髪を短くしているが、透き通る白い肌をした顔と一緒に見ると、その髪は柔らかい黒に近い色に見える。

 切れの長い目は葛城のそれが持つ化粧したような美でもなく、月ヶ瀬の凍るような端正さでもない、翳を落としたような静けさと無機質な残忍さを併せ持っている。

「社長も恭子さんもそんだけダメージ受けてはるということは、あの警備会社発の不治の病系のお話なんでしょう。」

「あははは。」

「あははやありませんよ。」

「酒井さんは、初めて吉田さんがあの警備会社に仕事を邪魔された案件で、あの可愛い新人警護員さんに会っておられますよね。」

「会ったというより、押しかけられたんですけどね。それに、そろそろもう新人とはいえません。」

「相当、お気に召したんでしょう?その後リクルート活動されたとき、酒井さんはなんだか必要以上に熱心だったとうかがいましたよ。」

「別にそんなんじゃありませんよ。」

「これまでの記録も読みました。ずいぶん、バカな警護員さんですね。」

「まあ、そうですな。」

「和泉さんに至っては、助けられてさえいる。」

「・・・・・・」

 酒井が苦い顔をしたのを見て、庄田は少し言葉を切った。

 しばらく後、少し上に目線を上げながら、庄田は尋ねた。

「私にご質問があったのではないのですか?」

「そうですが、考えたらもうきっと、恭子さんにさんざん追求されたんと違うかな、と思いました。」

「はい。」

「でも、ちょっとやっぱり聞きたいことは、あります。」

「はい。」

「唯一あなたが手こずったボディガード。それは、そんなに、忘れがたい存在ですか。」

「直球ですね。」

「逸希を社長があなたのチームに入れたときから、疑問でした。そこまでするくらい、社長が捨て身の逆療法をするくらい、重症なんかなと、思いました。」

「そうですか。」

「あなたは、どんな相手も、眉ひとつ動かさず殺した、他のアサーシン達のカリスマみたいな存在でしたからね。いや、今でもそうです。そして俺にとっても、そうです。」

「身に余るお言葉です。」

「余ってなんぞいませんよ。」

「・・・・私は、相手が憎くて殺したことは確かに一度もありません。」

「ええ。」

「相手に同情したことも、ありません。」

「そうです。」

「でもそれは、私に感情がないからではありませんよ。」

「・・・・」

「自分の感情を制御する術を、割とよく知っているだけのことです。」

「はい。」

「酒井さん。吉田さんは言いました。心臓の一部だって、ね。」

「あのボディガードが、ですか?あなたの?」

「ええ。非常に心外ではありましたが、でも一般的に、言えることがひとつだけあります。誰かに縛られているとき、ふたつ選択肢はある。」

「・・・・」

「縛られ続けるか、逃れるか、です。」

「・・・・・」

「逃れる方法はふたつあります。相手をそのままにしておくか、あるいは・・・・・」

「・・・・・」

「あるいは、そうでないか。」

 酒井はゆっくりと隣の同僚のほうを見た。

 庄田は顔色ひとつ変えずに前を見ていたが、酒井の表情は凍り付いていた。

「庄田さん・・・」

「特に後者の場合、重要なことは他のあらゆる仕事の場合と同じです。相手を、よく知ることです。そして自分を。」

「・・・・・」

「逸希は、もはや、和人の幻ではない。本人もそう決めた。私も、そう決めた。」

「ええ、そうですな。」

「しかし、そんなふうにうまくいかない場合もある。」

「その場合は、やり方もまた違う、ということですね。」

「そうです。」

 酒井は結局最初の質問には答えなかった庄田が、しかし質問しなかったことには答えた、その内容を、できればこの場限りで記憶から除外しようと努めていた。



 平日夜の稽古場は、社会人の弟子と見学者が多いが、常に同じ師範仲間たちも何人か部屋の隅から英一の教授風景を見守っている。

 数人の弟子に稽古をつけ、仕事を終えた英一が奥に下がる前に、静かに近づいてきた師範の一人がいた。

 三村蒼雅だった。

「今日も大変勉強になりました。」

「恐れ入ります。」

「今回は良いお返事が聞けず残念でしたが・・・・まだまだ諦めませんよ。」

「この先も良いお返事はできないと思いますが・・・・。」

「いえいえ。」

 小柄な体の背を少し丸め、蒼雅は笑った。

「瑞原流のお家騒動を見ておりますと、流派というものはあまり大きくなってもいけないなと思いますし。適度に分散して、皆がそれぞれに必要なリーダーを戴けることが理想ではないでしょうか。蒼英先生は、人を率いる資質がおありです。」

 英一が少し視線を上げ、そして微笑する。

「瑞原流は再生すると思っています。」

「それは蒼英先生のお友達が家元でいらっしゃったから?しかし州洋先生は確か流派を離れることを発表されたのでしょう?」

「はい。でも彼は、これからも舞をやめないと言っていました。そしてきっと、また戻ってくると思います。」

 蒼雅は笑顔で一礼し、退出した。

 見学者達を見送り、英一が稽古場の和室へ戻ると、ふたりの弟子兼助手が片づけをしていた。

「私は少しここに残ります。今日はこれであがってください。」

「はい。かしこまりました。失礼いたします、先生。」

 弟子たちが稽古場を後にすると、広い和室を覆うような静寂が訪れる。

 英一は袴の裾を上げ、畳の上に正座する。



 大森パトロール社の事務所は、平日夜は概ね何人かの警護員がそれぞれの席で作業をしているが、今日はかなり人数が多い。

 茂は共有の事務机で一通りの作業をしてしまうと、自席でまだ端末を操作している先輩警護員のほうを見た。

 高原は茂の視線に気づき、顔を上げて手を振り、そして後ろを見ろという仕草をした。

 茂が振り向くと、葛城がにこにこしながら既に帰り支度を済ませて立っていた。

「茂さん、晶生がぐずぐずしているので、先に行きましょう。」

「え、いいんですか・・・?」

「そのほうがプレッシャーになるでしょうしね。」

 二人は高原のほうを見て手をふり、そして一緒に事務所を後にした。

 茂は階段を下りながら、携帯電話を取り出し、メールを打つ。

「今日のこと、連絡してありますよね?」

「あ、はい、そうなんですが・・・・ぐずぐずしてる予感がするんで、ダメ押ししておこうかと思います。」


 大森パトロール社の入っている雑居ビルの外に出た二人は、夜の街を足早に駅のほうへと向かう。

「葛城さん。」

「はい。」

 茂は、今こんな話をしてよいのか迷っている、というように一度言葉を止めたが、やはり続けた。

「・・・あの、あいつらはどうして・・・・嘘を言ったんでしょう・・・。」

「・・・・・茂さんに?・・・いえ、おふたりに、ですね。」

「はい。俺には三村を殺したと言ったし、三村には、俺を殺すことになる、みたいなことを言った。」

「はい。」

「前者は確実に嘘でしたし・・・・後者だって、確かに未来のことですから嘘とは言い切れないとしても、なぜあの場で三村に言う必要があったのか・・・・いくら考えてもわかりません。」

「そうですね。前者は、茂さんを直ちに英一さんのいた部屋へ向かわせるため、といえるのでしょうけれど、別に、そこまで言う必要があったかといえば、そうでもない気もしますよね。」

「そうですよね。」

 葛城は横断歩道の信号を待たず、茂を促して歩道橋の階段を上がる。



 英一は静かに床の上の扇を取り、開き、そして立ち上がる。

 地歌を、口ずさみ、扇を持った腕を伸ばし、そして旋回する。

「明け渡る

 空の景色もうららかに 

 遊ぶ糸遊

 名残の雪と

 謎を霞にこめてや春の 

 風になびける 青柳姿」



 歩道橋の上まで上がり、茂のほうを見ずに葛城は言った。

「警察によれば、あの部屋から、簡易型の盗聴器もみつかっています。」

「はい。」

「たぶんですが、茂さんと英一さんの関係を理解したかったんじゃないでしょうか。」

「・・・・?」

 葛城は微笑んだ。

「あ、おかしな意味じゃありませんよ。」

「当然です」

「敵を知るために、各人の人間関係をよく理解する、というのは基本的なことです。」

「・・・・・」

「探偵社みたいに、敵を知るのが本業みたいなところにとっては。」

「・・・・はい。」

「彼らは、茂さんにとって三村英一という人間がどういう存在であるか、すっかり理解した、ということです。」

「はい。」

 葛城はため息をついた。

「これは、困ったことと言えるかもしれませんね。」

「・・・・・」

「彼らが理解したということそのものではなく・・・・彼らが理解したいと思った、そのことが、です。」

 葛城は、歩道橋を渡りながら、茂の顔を、見た。

「・・・・・・」

「そしてその内容を考えるならば・・・・・茂さん、あなたが受ける被害を、英一さんが受ける、そういうことも今後は十分、ありえるということです。」

「葛城さん・・・・・」



 英一ひとりが舞うその稽古場は、ほかのものがその役目を一切放棄し、その舞だけが存在しているかのように見えた。

「緑の眉か

 朝寝の髪か 

 好いた枝ぶり

 慕ひて薫る」



「すみません、茂さん。でも我々はこのことを、認識しておく必要はあります。」

「はい。」

「なによりこれは、英一さんの意思で、始まったことです。英一さんとして、本望であることでしょう。」

「・・・・・」

 葛城は、ふと足を止めた。

 そして、足下の地上を走る車に、目を落とす。

「自分にとって、身の一部であるような、絶対の、大切な存在というものがあります。」

「はい。」

「家族愛とか夫婦愛とか、友情とか、あるいは恋愛とか・・・・そういった、あらゆる種別、カテゴリなんかを全部超越した・・・まったく次元の違う、強い情というものが、あります。」

「はい。」

「そういう相手に、出会う人もいるし、一生出会わない人もいるでしょう。でも茂さんは、英一さんに出会った。」

「はい。」

「その人を、どんな危険なめにも遭わせたくないと、思うことでしょう。しかしなぜか運命は、そういう存在ほど、危険に曝す。・・しかも自分の見ている前で。」

「・・・・・・」

 葛城は再び前を向き、歩き始めた。横顔には、苦しそうな笑顔がよぎっていた。

「そして英一さんにとっての茂さんも、そういう存在なんでしょう。」

「・・・・・・・」

「でも、私は、あきらめてはいません・・・・茂さん。」

「はい。」

 茂は、葛城にとってのそういう存在は、高原なのだなと思った。

「失うことを恐れて、逃げるよりも、抵抗するほうを選びます。」

「はい。」

「会って、話をする、一秒一秒が・・・・・幸福、なんですから。」

「・・・はい。」

 茂はあらためて携帯を取り出し、英一へのメールを送信した。

 葛城が茂の前を階段を下りながら、ふたたび茂へ声をかける。

 その表情は、すでに気持ちを一段切り替えたように、優しい微笑に満ちていた。

「メールに何て書いたんですか?茂さん。」

「せっかく高原さんが飲み会に三村も呼んでくださったんだから、高原さんより一時間以上遅れたらお仕置きだ、って書いておきました。」

「お仕置きって、何ですか?」

「昼間の会社で、係長に頼んで、俺と三村をまたペアにしてもらう。」

 葛城は階段を踏み外した。

「・・・・・っ」

「大丈夫ですか?葛城さん」

「茂さん・・・・・」

「はい。」

「お仕置きという言葉がうちの会社に流行るのも多少いかがなものかと思いますが」

「はい。」

「茂さんがだんだん自虐的になっていくのも、先輩警護員としては問題視しなければいけませんね。」

「・・・・・」

 空には、満月が誇らしげに輝いている。



 長身の、黒髪の美青年は、滑るように広い畳の部屋を、ただ舞う。

 その表情は無心に見えると同時に、透明な満足感に満ちているようにも、見えた。

「好かいでこれが梅の花

 宿る鶯

 気の合うた同志

 変わらでともに

 祝ふ寿」

第十六話、いかがでしたでしょうか。

ご感想や、また今後の展開についてご意見・リクエストなどももしもいただけましたら、とても嬉しいです。

これからもよろしくお願いいたします。

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