六 困惑
阪元航平はいつになく早朝に出社した。阪元探偵社は「本体部門」以外であっても、勤務時間に明確な定めがないが、朝九時より前はやはり人は少ないかほぼいないことが多い。
期待通り静まり返った事務室を抜け、社長室へ入ろうとしたが、カンファレンスルームの扉の隙間から明りが漏れていることに気がついた。
中に誰がいるかよく理解しているというように、阪元はドアを開け、そして微笑んだ。
「おはよう、恭子さん。」
部下が振り向き、そして立ち上がろうとしたのを右手で制する。
「いいよ、そのままで。」
「おはようございます、社長」
「徹夜は美容によくないよ」
「珍しいですね、社長がそのような古典的なセクハラをおっしゃるなんて」
「私は昔からこんな感じだけどな。」
「冗談です。ご心配くださって、ありがとうございます。」
鼈甲色の眼鏡の奥の、少し疲れた目を細め、吉田は微笑んで会釈した。
その三十分後、阪元は社長室ではなくカンファレンスルームで吉田から一通りの報告を聞き、コーヒーカップから最後の一口のコーヒーを飲みきっていた。
朝日が次第に高く上る。
阪元はその異国的な顔立ちと金茶色のよく手入れされた髪に似合う、深いエメラルドグリーンの両目から、宙に視線を留めてしばらくだまっていた。
吉田も沈黙し、社長の顔から視線を外して手元を見る。
「おもしろい人なんだね、その黒髪の二枚目さん。それとも・・・・・おもしろい人になってしまったんだね、と言うべき?」
「・・・・・」
「三村英一・・・・。君がかつて初めてあの警備会社に邪魔された、記念すべき案件の。」
「はい。」
吉田は小さくため息をつき、そして気を取り直したように言葉を出す。
「三村英一は、河合警護員の非常に重要な友人です。高原警護員とも、相当な信頼関係があります・・・。大森パトロール社との関係では、キーパーソンと言ってもよい人物です。」
「そうだね。」
「しかしこれまでは、クライアントであったときを除いては、業務案件の表舞台で警護員たちに関わることはありませんでした。」
「今回は、ほんとにびっくりしたね。」
「はい。殺害案件で我々の業務を故意に妨害する者は、お客様から別途特段のご指示がない限り、殺害してよいというのが基本ルールです・・・・それはもちろん、プロのボディガードであろうと一般の人間であろうと同じことです・・・・。しかしこの人物は、対応が困難です。行動は不合理である上に、プロの警護員ではありませんからそこから想像できる部分さえない。そして警備会社との関係に至っては警護員たちへの影響がどの程度か、想像はできますが予想できません。」
「なおかつ、高原警護員に劣らないレベルの頭脳の持ち主だね。・・・・・まあ、恭子さんほどじゃないとは思うけど。」
「・・・・いずれにせよ、今後も継続してデータを収集し、分析いたします。」
「よろしくね。あの警備会社対策のために、とっても大事な事柄のような気がする。」
「はい。」
立ち上がり、自らコーヒーカップを回収し片手にソーサー二枚、もう片方の手にコップふたつを持ち、阪元はテーブルを離れた。
部屋のドア開けるために吉田が立ち上がる。
「コーヒー、ありがとうございました。」
「今日はこれからお客様のところへ?」
「はい。」
「終わったらそのまま帰って休んでね」
「ありがとうございます。そのようにいたします。」
ドア口まで行き、阪元は吉田のほうを振り返った。
「あ、そうそう、恭子さん。」
「?」
「浅香の独断行動については、許してやってほしい。」
「大丈夫です」
「恭子さんのことだから、大体想像ついてると思うけど」
「・・・・ついています。」
「またひとつ、課題が増えた気がするけれど、それは私が心配することだからね。悪いけど、少し時間をもらえると嬉しいよ。」
「大丈夫です。」
「・・・・本当に、あの警備会社は、人をおかしくするね。」
「・・・・・」
「敵も、味方も、どちらでもない人も。」
「そうですね・・・・・・」
阪元はことさらに優しい表情で微笑し、そして出ていった。
残された吉田は、少しも笑っていなかった。
朝日が高く上り部屋全体を明るくしていく。
英一が身支度を整えてドアを開けると、廊下に大森パトロール社の美しい警護員が立っていた。
「そろそろご出発かなと思いました。」
「葛城さん。」
「蒼淳さんご夫妻が、今日は別行動だと昨夜おっしゃっておられましたので。」
葛城の男性離れした美貌の、そして寝不足で少し疲れの残る顔を見下ろし、英一は目を少しだけ細めた。
二人はそれぞれ微笑した。
「すみません、河合警護員がちゃんと起きておらず・・・・」
「あははは、いいえ、皆さんにご迷惑をかけたのは私です。お手数かけてしまいまして、すみません。」
「まだ寝てますか?」
「寝てますね。」
英一は今出てきたドアから、もう一度入り、葛城に部屋の中を見せた。
ツインベッドのひとつに、茂がもぐりこんで熟睡していた。
葛城は笑いをこらえ、小声で英一にささやく。
「夕べ、交代の時刻になってこちらに伺ったときは、英一さんと茂さんが相似形みたいになって、それぞれのベッドで寝ていたので、びっくりしました。ミイラ取りがミイラにとはまさに」
「ははは・・・・」
「でも英一さんがすっかり回復された様子だったので、安心もしました。それにしてもすみません。河合警護員を起こさないように御仕度のときもお気を遣ってくださったのでしょう。」
「いえいえ。」
二人は再びそっと廊下に出た。
「もしかして、州洋さんから英一さんにご連絡があったのではありませんか?」
「はい。」
「河合警護員は絶対電話に出なかったでしょうから・・・・」
「ご明察です。」
「警察へ行かれると?」
「はい。母親と・・・・広子さんと一緒に、これから地元へ戻り、そこの警察に行くと。さっき、電話がありました。」
「そうなのですね。」
「よかったと、思います。」
「はい。」
「瑞原流は、確かに少し、大変なことになるとは思います。」
「はい」
「でも、そんなことでダメになるようなら、そんなことがなくてもいつかダメになるでしょう。」
「そうですね。」
英一は荷物を肩にかけ、もう一度部屋を振り返ってから、葛城のほうを見た。
「私はこちらの警察に寄ってから、自宅へ戻ります。できれば、大森パトロールさんの事務所にも立ち寄りたいと、思っています。高原さんから、メールをいただきました。」
「はい、今日は非番のはずですが、事務所にいる予定と言っていました。きっと会いたがっていると思いますが・・・英一さんはお疲れのはずですから、くれぐれもご無理はなさいませんように。」
「はい。・・・葛城さん」
「・・・・・・」
「今回のこと、本当に申し訳ありませんでした。」
英一は、頭を下げた。
葛城も一礼し、そして長身の舞踏家を見送った。
そしてすぐに英一のほうを振り返り、葛城が少しだけ意を決したように、言った。
「あの、英一さん。」
「・・・・はい?」
「私がこのようなことを申し上げるのも、おこがましいことですが・・・・」
「はい」
「どうか、もう、危ないことはなさらないでください。河合警護員の・・・ために。」
「・・・・」
「いつかあなたがおっしゃったこと、覚えておられますよね。」
「はい。」
「私に、高原より先に死ぬなと。」
「はい。」
「私もあなたに、同じことをお願いします。」
「・・・・・・」
「河合警護員より、先に死なないでください。」
英一はかすかな驚愕を湛えた、その漆黒の両目で、葛城の顔をしばらく見ていた。
やがて、打ち負かされたような、複雑な微笑を浮かべた。
「葛城さん、あなたはいつも、心の底の底まで、宝石のようなかたですね。」
「・・・・・・」
「河合が嫌がるようなことは、絶対にしません。お約束します。」
葛城は、笑顔で、一礼した。
吉田はカンファレンスルームから事務室内へ戻り、奥の別のチームの事務机がある一角へ目をやった。
手元の端末に目をやっていた庄田直紀は、吉田が近くまで来て、自分の脇に立ち止まると同時に顔を上げた。
「今、話しても大丈夫?庄田。」
「ええ。」
庄田は抜けるように白い肌をした顔の、涼しげな切れ長の目をまっすぐに吉田へと向けた。
「今回、チームのメンバーを貸して頂いたこと、感謝している。」
「どういたしまして。」
事務室は無人だったが、吉田は声をさらに少し低めた。
「既に浅香本人から報告はあったとは思うけど。」
「はい。」
「社長に報告した概要は共有ファイルにあげてあるとおりよ。」
「拝見しました。」
静かな瞳で吉田は同僚を見下ろしている。
「・・・社長に言われている。単独行動については、問題にしないように、と。」
「そうですか。」
「言われるまでもなく、そうした。」
「ありがとうございます。」
庄田は一瞬、手元の端末へと視線を落とす。
そして庄田はもう一度吉田の顔を見て、吉田の表情に愉悦の色があることに驚いた顔をした。
吉田は、両手で自分の両肘を抱えるように持ち、顔を少し傾け、しかし視線は庄田から外さずに続ける。
「人のDNAって、親から子へと伝わるとか、兄弟で共通するものがあるとか、そういうものだけど、・・・それだけじゃない。その人間の持つ大事なものは、上司から部下へとか、先輩から後輩へとか、そういうふうにも受け継がれていくものだ。」
「・・・・・」
「河合茂は、高原晶生たちのものを受け継ぐ。高原たちは、その先輩である・・・朝比奈和人のものを受け継いでいる。」
「なんのお話ですか?」
「そして彼らは、大森政子を・・・受け継いでいる。」
「・・・・」
「でも我々は、里見祥子の後継者は大森ではないと考えている。」
「そうですね。」
「それは吉田明日香であり、阪元航平なのだから。」
「はい。」
「だから、河合茂を何か特別に大切にする理由は、どこにも、断じて存在しない。」
「・・・・・」
「彼が受け継いでいるもの、受け継ぐものが、誰から伝えられているものであろうと。」
「何がおっしゃりたいのですか」
吉田は庄田の記憶に存在しないような、残忍さにかすかな非難の混じった、一度見たら忘れられないような笑顔で同僚を一瞥した。
「・・・河合茂と、朝比奈和人は、別の人間だ。混同するな。」
「・・・・・」
「反論があれば聞く。」
庄田は力なく苦笑し、吉田を改めて見上げた。
「・・・・ありません。」
「吉田のチームは河合をスカウトしようとしたじゃないですか、とか言わないのね。」
「あれは目的はあの警備会社の士気低下だったわけですから。」
「うちのチームが二度も河合の命を助けようとしたことも。」
「別に特別に大切にしたわけではなく、人道上の普通の対応だっただけのことですから。」
「なぜ、三村英一の行動が想定できた?」
庄田は目を伏せた。
「・・・・質問が、間違っていますよ。」
「そうね。訂正する。三村英一と大森パトロール社の関わりを、なぜそこまで微細に調べた?警護現場に彼が関わる可能性を、考えるようになったほどに。」
「そう、それが正しいご質問ですね。」
「答えて。」
「河合警護員にとって大事な人間のことは、知りたかったからですよ。」
「つまり、朝比奈和人のDNAが、誰にどこまで受け継がれるのか、知りたかった。いえ、過去形じゃないわね・・・今も、これからも、知りたい。」
「そうです。」
「社長がこれを聞いたら、発狂するわね。」
「そうでしょうか?」
「浅香が三村英一を拉致したことは、結果的にはよかった。でも普通あの場面で咄嗟にあそこまでの対応はできないでしょう。あなたから、事前にそれを想定した指示がない限りは。」
「はい」
「知っていると思うけど、社長は、あなたを多分会社で一番、いえ、もしかしたらこの世で一番、可愛がってる。今回、あなたの代理として浅香の忠誠を確認した。なのに、実はあなたが、あの亡きボディーガードの、弟からようやく自由になったかと思ったら、弟どころか・・・後継者に拘束されていたなんて知ったら。」
「・・・・」
「あなたを殺すかも」
「社長だって、あそこの警護員はかなり好きでしょう」
「意味が違う。あなたにとって、朝比奈は、心臓の一部だ。今回、はっきりわかった。」
「・・・・」
「社長にとって、あなたがそうであるのと、同じように。」
「・・・・」
「そして恐らく、社長は、気づいていないんじゃなくて、気づいていないふりをしているだけ。いえ、正確に言えば、現実から目を背けておられる状態でしょう。私は社長が少しお痛わしい。」
庄田はようやく、これ以上のやりとりを拒否するという方法に気づいたかのように、吉田から視線を外した。
事務所入口で、出てきた吉田とすれ違った和泉は、挨拶をするのも忘れて上司の後姿を見送った。
吉田の表情は、まるで不治の病を宣告されたばかりの人間のようだった。