三 襲撃
街の中心にある古い高層ビルに入っている事務所は、土曜は主に「本体部門」の人間が出入りする割合が高いが、特に「A種」の案件が実行される日はそれ以外の部門の人間は極力出社しないよう取り計らわれる。
それは、それ以外の部門の人間が秘密を共有していないからではなく、精神的な影響を考慮してのものだった。
殺人をリアルタイムで見聞することが、精神に影響することを、重く見てのことである。
屋外からの陽光にも関わらず、テーブルの上のランプにも明々と照明がついたカンファレンスルームの中には、セミロングの髪も静かなその容姿もまったく特徴のない一人の女性が、地味なタイトスカートと地味な白いシャツを着て、奥の椅子・・・数日前に別のチームのリーダーがやはり静かに座っていたその席で、足を組み目の前のスピーカーに視線を向けていた。
向かいの席には、長身だが数日前座っていた同じくらいの身長のエージェントとは全く雰囲気の異なる、このチームの筆頭のエージェントが斜めに椅子に座りやはり足を組んでいた。
その容貌は精悍だが、無造作に耳の下まで伸ばした黒髪も、無精ひげも、その人物の実際の若さに関わらず彼を年齢不詳に見せ、なおかつその思考の内容までもを不明に見せている。
そして長身のエージェントの隣には、自然な金茶色の波打つ髪を肩近くまで伸ばした、異国的な容貌の細身の青年が、不機嫌さを隠さない様子で椅子の背もたれに体を預けていた。
黒髪と無精ひげの長身のエージェントが口を開いた。
「お客様と、夕べもお話しはったんですね?恭子さん。」
「ええ。」
吉田恭子は酒井凌介の顔を見ずに答える。
「予定は予定ですが、不確定要素がさらに増えましたな。」
「・・・お前と和泉が何日もホテルとホールに入って、事前の準備をしてくれたことは、基本的に無駄にはならない。」
「基本的に、ですな。」
酒井は既に楽しそうな笑顔になっていた。
「瑞原州麻さんの息子さんは、ご自身は舞はなさらないけれど、お父上がその仕事を捧げられたこの流派を愛しておられる。だから、最後まで・・・・いえ、今も、迷っておられる。」
「そうですな。」
「だから、最後までいくつかの選択肢を、残したい。」
「わかってますよ、恭子さん。気を遣わなくて大丈夫ですから。」
「・・・・・」
「基本料金はきっちり頂きますしね、あとは、結果ですから。最終的に誰をやるのか、は。」
吉田は少し微笑み、それから酒井の隣の青年のほうを見た。
「・・・深山。まだ怒っているの?」
「怒ってます、吉田さん。」
酒井が耐えきれないように笑い、深山祐耶はとなりの同僚かつ旧友の顔を睨みつけてから、正面の上司にもう一度抗議した。
「どうして、プロのボディガードがいるターゲットの殺しを、わざわざアサーシンじゃない人間がやるんですか?・・・うちのチームに、ちゃんといるのに。しかもよそのチームの、殺し専門でもない人間が・・・。」
「お前が有能なアサーシンだということも、そして今回いかにプライドを傷つけられたかということも・・・・もちろん、よく分かっている。」
「兄さんの指示ですよね?」
「社長と言いなさい。」
「文句を言おうとしても兄さんは、いえ社長は、僕が来ているときはわざと留守にしてた。」
「偶然よ。」
酒井は笑いをなんとか抑えながら、深山の顔を見る。
「今日は来てはるで、社長。まあ、もう遅いけどな。」
「うるさいよ、凌介。」
吉田はその鼈甲色の眼鏡の奥の目で、静かに二人の部下の顔を順に見て、そして少し伏し目になった。
「浅香は殺し専門ではないけれど、庄田の右腕、つまり阪元探偵社でも有数の敏腕エージェントだ。前回、庄田のチームのアサーシンの卵がしくじった仕事を、最後にフォローもしている。」
「彼が有能じゃないと言ってるんじゃありません。」
「それぞれのチームは、異なる人材を持っている。互いに協力しあう体制がもう少し必要ってことだと思う。」
「そうでしょうか。」
「特に、あの警備会社が関わることが増えた最近はね。」
「・・・・・」
酒井はにやにやしながらもう一度深山を一瞥した。
「まあ祐耶、今回はお前の可愛い後輩の板見が現地で頑張るんやから、遠くで温かく見守ってやれや。」
「・・・・・」
昼の休憩時間にロビーで関係者に挨拶をする瑞原州洋の傍に、茂はぴったりとついていた。
瑞原流の会場スタッフに扮して、クライアントから十~二十メートルの距離を保って周回警護を続けている葛城が、インカムで茂に呼びかけた。
「波多野部長とさっきもう一度連絡をとりました。警護依頼人の意思確認ができない以上、警護対象者の意向だけでは警護内容の変更はやはり無理です。」
「はい。」
「しかし、周回警護の延長上、私が位置取りを調整する分には、現場の裁量の範囲内だと。」
「はい。」
「・・・ただしそれは、動線が錯綜する場面のみ・・・・つまり、ホールをクライアントが出るそのタイミングに限るとのことでした。」
「わかりました。」
「いずれにせよ、茂さんはクライアントの警護に引き続き専念してください。そのほうが私も自由に動けます。」
「了解しました。」
午後の部が始まると、州洋とともに茂は今度は舞台袖へと向かった。その後会場内で英一とすれ違うことは、公演終了までなかった。
三村流宗家の若手が三人続けざまに出演して始まった午後の部は、立ち見が出ていた。
舞台袖で、三村家の二人目、三村蒼英つまり英一の舞が始まると、州洋の目の色が変わったのが茂にもわかった。それは、一番憧れているが一番近寄りがたいものを目の前にして、心をどこへ置こうか考えに考えているとでも言うべき表情だった。
素踊りだが、英一は舞台に立つといつもまったくの別人に見える。
何かが憑依しているとはまさにこのことだと、いつも茂は思う。
唾を何度か飲み込みながら、客席の、緊張の糸が張りつめられた空気が足元まで迫るのを感じ、茂は体を硬直させていた。
二十分間ほどの演目が終わり、拍手が沸き起こると、ようやく州洋はとなりのボディガードのほうを見て微笑んだ。
「河合さんは、舞のことがお分かりのようですね。」
「は・・・・」
「舞台と一体になるように、ご覧になっていた。」
「そ、そうでしょうか。」
「蒼英先生の舞が、どうしてこんなに人を惹きつけるのか、いつも考えます。」
「・・・・・・」
下手側へ退場していく英一を見ながら、州洋は少しため息をついた。
「たぶん、ご自分の個性とか想いとか、そういうものを、舞だけに全部注ぎ込まれているんだと思います。」
「・・・・・他の人は、そうじゃないんでしょうか?」
「そうですね・・・・うまく言えないんですが、舞は、それそのものが別物で、自分はそれをただ再現しているだけなのだ、という姿勢の人もいます・・・・蒼淳さんなんかが、そうですね。私もそうです。そして蒼英先生ほどではなくても、舞で自分の個性を表現するほうを重視するタイプの人もいます。まあ、表現しようとしなくても、誰もが個性を出してしまっている、とも言えなくもないんですが。」
「はい。」
「ただし蒼英先生は、彼の存在そのものが、全部舞の中に入ってしまっているんです。ほかに、何も残っていないんです。」
「え・・・?」
「極論すれば、生きていることが、そのまま、舞なんですね。ですから、それ以外の時間は、彼は、抜け殻なんだと思います。そのことが、舞台を見る者に伝わるんです。今ここにいる彼が、彼の全てだって。」
「・・・・」
「一流の踊り手は多かれ少なかれそういう部分があります。しかし蒼英先生は、それが常軌を逸したくらいに、極めて、そう、極端なんですよ。」
「そうなんですね・・・。」
「それを好む人もいるし、好まない人もいる。心を全部注ぎ込む舞は、単なる自己満足だというような、見方だってできますしね。」
「・・・・・」
「ただ僕はいつも、見ていて不思議に思います。舞をしていないときの蒼英先生は、何かに心を移したり動かしたりすることが、果たしてお出来になっているんだろうか、と。そんなゆとりが、あるようには見えませんからね。あの舞台を見ている限り。」
茂はぼんやりとした頭で、州洋の言葉を聞いていた。ほんの少しだが、なにか理解できるような気も、した。
「州洋さんは、やっぱりプロなんですね・・・・。俺は・・・私は、ずいぶん何度もあいつの舞を見てきましたが、そんなことまで全然思い至りませんでした・・・。」
州洋は少し驚いた顔になり、そして微かに苦しそうに、笑った。
「・・・・罪人である僕が、偉そうに語ることでも、ありませんけれどね・・・・。」
州洋が舞台に立ったとき、茂は一瞬仕事を忘れたほど、その舞を注視した。
英一の舞と違い、「なにかを、ただ再現しているだけ」という言葉の意味を、少し理解したいと思ったからだった。
三十分近い演目だったが、茂がそれを納得するのは最初の数分間で十分だった。正直、かつて三村蒼淳の舞を初めて見たときほどの感動はできなかったが、同じ種類の人だと感じた。
「余裕があるよな。」
一言でいうと、そういうことだった。
他人に何かを、訴える必要がない。ただ謙虚に、舞というものに自分を捧げることだけを考える、それだけの余裕があるのだと、思った。
英一との違いは、そこだった。
しかしその差をつくっているものが、まだよく茂には分からなかった。
舞台を退場した州洋に合流し、茂は黙ってクライアントと笑顔を交わした。
レセプション会場に、葛城は遅れて現れた。
「一回りしてきました。異常はありません・・・・今のところは。」
「ありがとうございます、葛城さん。」
インカムから入る葛城の声、そして人混み越しにちらちらと垣間見えるその姿を、茂は安堵と不安が入り混じった思いで確認した。
かつて、初めて葛城とペアを組んで三村英一の警護をしたとき、犯人の襲撃は公演後のレセプション会場で決行された。そしてその場で、葛城は茂の想像しない理由で瀕死の重傷を負った。今も生々しくその場面が思い出される。
茂は頭を振って邪念を追い払い、警護に専念した。
日が落ち、レセプションがお開きとなったとき、葛城が無事に会場入り口近くにいるのを見ただけで、茂は全てが完了したような脱力感を覚えた。
参加者を見送った後、茂と州洋のところへ瑞原広子が笑顔で近づいてきた。
「お疲れ様でした、河合さん。なんとか無事で・・・・」
「いえ、まだです。会場出口までお送りしますので、くれぐれも最後まで気を抜かれませんように。」
「はい、わかってますよ。頼もしい警護員さんで、ほんとに安心です。」
茂は半ば自分に言い聞かせるように言ったのだが、広子氏は感銘を受けたようだった。
ホールの入口の車寄せでは、係員が次々と乗り付けては客を乗せていく車をさばいていた。運転手つきの車はほぼ終わり、数台のタクシーが残った客をピストン輸送している。
あまり大きくない街の唯一の大きなこのホールは、最寄駅まで車で十分ほどかかり、そして車以外の唯一の交通手段であるバス便はもう終わっている時刻だった。
来賓たちが全てホールを後にし、州洋は後ろを振り返り笑顔で会釈した。三村流宗家の三人の舞踏家が、瑞原流の若き家元へ歩みよってきた。
「本日は、本当にありがとうございました。共演させていただき、感謝しております。」
三村蒼淳が、州洋に握手を求める。
「こちらこそ、ありがとうございました。お車は、大丈夫ですか?」
蒼淳が笑った。
「やはり少し遅れるそうです。途中でちょっとトラブルがあったらしくて・・・。どうぞ、お気になさらず、お先にお戻りください。同じホテルですし、明日朝また改めてお目にかかれましょう。」
すでに州洋と広子氏が乗るハイヤーは車寄せで待機している。
「はい。それでは、すみませんがお先に・・・。」
州洋は蒼淳の隣にいる蒼風樹に一礼し、そして最後にそのさらに隣に立っている英一に会釈をした。
車へ向かう州洋と広子氏の後に続いて、三村流の三人は見送るように車の傍まで同行した。
車寄せで車をさばいていた係員に合図され、ハイヤーが近づき扉が開いた。
係員が州洋と広子氏のほうを振り向いたとき、広子氏の傍まで歩いてきていた英一が、広子氏の前に入り、係員に何か話しかけた。
同時に、葛城が広子氏の腕を取り、「奥様、お足下が・・・・」と言って自分のほうへ引き寄せていた。
これらは、同時に起こり、しかし互いに連絡しあった行動ではなかった。
そして、その次に起こったことは、葛城も、そして茂も、もちろんほかの誰も、予想していないことだった。
「三村!」
茂が叫び一歩踏み出したとき、時すでに遅かった。
悪夢のようなスピードで、車寄せの係員は自らとともに英一の体を、ハイヤーの後部座席へと滑り込ませ、扉が閉じるかそれよりも早く、車が走り去った。
茂と葛城の目には、係員が英一の首元に突き付けていた光るものが映っていた。
そして、二人以外の人間が、何が起こったのか理解するまでにあとしばらくの時間が必要だったが、そのときは既に、茂が車寄せの自分のオートバイに飛び乗り走り去った後だった。
一時間後、車で、ホールからすぐ近くの場所にあるホテルへ戻った人間達は、ロビーでしばらく言葉もなく立ち止まっていた。
葛城が、ようやく口を開いた。
「・・・・警察は、捜索状況を逐次伝えてくれるとのことですので・・・・何か連絡がありましたら、お知らせください。」
「はい。」
蒼白な顔で、小柄な和装の女性が答える。傍にいる、がっしりとした体格の和装の男性が、女性の肩を抱く。
「部屋へ行こう。こうしていても仕方がない。今は祈って待つほかないよ。」
三村蒼淳は妻にそう言い聞かせ、しかし自分はもっと顔色が悪かったが、葛城と茂のほうを見て一礼した。
「英一の勝手な行動のせいで・・・ご迷惑をおかけしております・・・・」
「いえ、警護員が近くにいながら、本当に申し訳ありません。」
葛城が詫び、茂も頭を下げた。
「しかも、すぐに追ったにもかかわらず、追跡も成功せず、なんとお詫びしていいか・・・」
「車はすぐ近くに乗り捨てられていたのに、乗っていた人間が誰も見つからないなんて、まるで煙のように消えてしまったようですよね・・・・英一の携帯も電源が切られているようですし・・・・すみません、でもやはりきっと、・・・大森パトロールさんにおすがりするほかない気がいたします。」
「はい。」
「妻を部屋で休ませたら、またご連絡をいたします。すみませんが、しばらくお部屋で待っていてください。」
「わかりました。」
蒼淳氏が蒼風樹を伴ってエレベーターで上がっていくのを見送り、茂は葛城のほうを見て改めて詫びた。
「すみません、葛城さん・・・・。俺さえ、ちゃんと車を追いきれていれば・・・。」
「茂さんのせいではありません。まさに一〇〇%、私の・・・・・」
「葛城さん」
葛城はやつれたような表情で、その美しい顔を手元の携帯電話のほうへ向けた。
「・・・・波多野さんに連絡しましたが、滞在を延長していいとのことです。」
「はい。」
「ただし、行動は逐一、事前の許可を取るようにとのことでした。」
「はい。」
二人はエレベーターに乗る。
「瑞原広子氏からは、予定通り今日の公演終了をもって警護の終了とのことでしたが・・・。」
「そうですね。クライアントからメイン警護員の茂さんにそう意思表示があった以上、警護契約は正式に完了です。」
「確かに、警護すべきは三村ということになりますからね、今は。・・・・」
「茂さん、州洋さんと話がしたいんですね?」
茂は頷いた。
「控室でうかがった話だけで十分とお思いなんだろうなとは思いますが・・・・・。」
「はい。」
「・・・でも・・・・」
葛城は苦しそうに少し微笑んだ。
「こうなった今、なにか、やらなければと思っておられるはずですよね。私もそう思いますよ・・・茂さん。」
「はい。」
「警察でまだ少し事情を聴かれておられますけど、間もなくホテルに戻られるでしょう。ご連絡があるかもしれませんね。」
「はい。」
二人はエレベーターを降り、隣り合った部屋にそれぞれ入りいったん別れることにした。
「葛城さん。」
「・・・はい?」
「ご自分を責めないでください・・・俺なんかがこんなことを言うのもおこがましいことですが・・・・・二人で、三人守るのは、無理です。」
葛城はうつむいて苦笑した。
「・・・・・」
「・・・すみません。」
ドアを開け、入り際に葛城は言った。
「ありがとうございます。茂さん。」
夜中の大森パトロール社の事務室で、電話を終えた波多野は大きなため息をついて、目の前の事務机に座りこちらを凝視している部下のほうを見た。
すらりとした長身の、そして波多野の何倍も眼鏡の似合う、しかしいつもその知的な両目に湛えている愛嬌が緊張に取って変わられた、社内随一の警護員が波多野の顔を見ながら立ち上がる。
「そんな顔をするな、晶生。」
「怜からですね?その後なにか・・・・」
「なにもない。瑞原広子氏と州洋氏はまだホテルに戻っていないそうだ。」
高原の顔を苦い表情で見返し、波多野は自席の背もたれに体を預け、天井を仰いだ。
「三村さんを連れ去った人物に、怜も河合も見覚えはないんですね?」
「あるかどうかさえ分からん。顔をほとんど見ることができなかったらしい。警備員の制服制帽姿で車をさばいていたらしいし。」
「・・・・」
「実に鮮やかなもんだ。ハイヤーも運転手も、瑞原広子氏が頼んだものとまったく同じ。つまり本物だ。運転手が降りた後、別の人間が運転席に座りドアを閉めていた・・・。誰にも気づかれずにな。」
「そして、少し離れた場所に乗り捨てられていた車は、既に無人、だったんですね。」
「大したもんだよ。ただし唯一最大の問題は、彼らはもちろん当初狙っていた人間じゃない人間を襲撃したということだな。」
「俺、現地に向かってもいいですか?」
「今何時だと思ってる。飛行機は明日までないよ。」
「明日行きます。」
「晶生。」
波多野は目の前の部下の顔を睨むように見た。
「・・・・」
「現地にいる怜と茂に任せるんだ。」
「・・・・・」
「警護業務は終了しているから、立場は中途半端ではあるが・・・大森パトロール社の誇るガーディアンと、未来のガーディアンだ。できるだけのことをするさ、必ず。」
「・・・はい。」
クイーンサイズのベッドが小さく見えるほど広々としたホテルの一室へ、三人のホテルスタッフがドアを開けて足を踏み入れた。
一人はあまり背が高くなく、清掃員の制服姿で、残る二人はいずれも背が高く、ベルボーイの制服制帽に身を包んでいる。ベルボーイのうち一人は実際にボストンバッグをひとつ手に提げている。
三人が部屋に入り、最初に入った背の高いベルボーイ姿の男性が、後ろのもう一人に促されるままに奥のライティング・デスクの前の椅子へ腰掛けた。
「ありがとうございます、三村蒼英先生。」
笑顔で英一を見下ろしながら言った浅香は、右手のナイフを英一に向けたまま、左手で床にバッグを置き、そして自らの制帽を脱いで床へと落とした。やや長い、少し癖のある髪の先が、顎あたりまで落ちる。
清掃員の服装をした板見は、英一の背後に回り、ロープを取り出す。
浅香は手前のソファーに座る。
「抵抗されたらここに着く前にあなたを殺さなければなりませんでした。そうなったらこうしてお話することもかなわなかった。感謝いたします。」
「お話がしたかったのは私ですから。」
「帽子と上着はもう脱いでかまいませんよ。窮屈でしょうから。」
英一は言われるとおりにした。
その後板見が、ロープで英一の両手両足を椅子へ拘束した。
ソファーで、浅香は英一のほうを向いて背筋を伸ばし、組んだ足の上に両手を重ねるように置いた。板見は英一をその背後から監視するように見つめている。
「お話を伺わせてください、蒼英先生・・・・いえ、英一さん。」
「その前に、確認ですが」
「はい」
「あなた方は、瑞原広子氏を狙われましたよね」
「はい」
「なぜですか」
浅香はその繊細そうな表情を緩め、笑った。
「我々は探偵社です。それは愚問ですね。」
「確信されるだけの材料を?・・・広子氏が、瑞原州麻氏を殺したという、根拠をお持ちか?」
「もちろんです。」
「ではなぜ、私があんなことを言っただけで、中止をされたのですか?」
「我々がまだやっていなかった、ただ一つのことだからですよ。州洋さんに、事情を伺う、というのがね。」
英一はきつく縛られた両手を、痛みを和らげるように少し動かす。板見が厳しい視線を英一に向ける。
「州洋は、言っていました。根拠も証拠もないけれど、母が・・・つまり広子氏が、犯人であると直感していると。」
「はい。」
「自分を家元にすることだけのために生きてきた母に、しかし今も昔も、何も言えない、と。」
「はい。」
「根拠らしい根拠といえば、ただ一度だけ、広子氏の電話を盗み聞きしたくらいのものだそうですが、一緒に暮らしている息子ですから、何も気づかないほうが不自然でしょうね。」
「そうですね。」
「自首を勧めようと思ったこともあるそうです。しかし、瑞原流の醜聞になる。そして、ご遺族と思われる人間に自分が襲撃を受けるようになって、自分が死ねば全て解決するならそれが一番だと思うようになったそうです。」
「なるほど。」
「が、広子氏はボディガードを雇ってしまった。そして、その警備会社が言うには、襲撃が失敗すると次はプロに依頼することがよくあるらしい。そうなればきっと、そもそも母親の広子氏が犯人であることがつきとめられ、今度は広子氏が狙われると思った。そして、私に話してくれたんです。」
「・・・で、あなたは、そのことを大森パトロール社にはお話にならなかったんですか。」
「まあ、私が話さなくても、結局州洋が話したようですけれどね。」
「そうでしたね。」
「私の話は以上ですよ。あなた方に殺人を依頼した人が、もしも瑞原流のかたならば、家元のこうした発言を、心に留めておいて頂けたらと思います。それだけです。」
浅香は興味深そうな表情のまま、改めて英一の端正な両目を見返した。
「英一さん、我々プロの仕事を妨害されたら、どなたであろうと命を頂かなければならない。」
「わかっています。」
「三村流宗家のあなたが、他流のお家事情に、なぜそのようにこだわりを持たれるのですか。」
英一は少し首を傾けるようにして、目を伏せて笑った。
閉じたカーテンの手前の、背の高いランプの光がその漆黒の髪に反射する。
「どうしてでしょうね。」
「・・・・・」
「州洋は数少ない友人です。そして、流派を思う気持ちも、同じです。それに・・・・私がなにかすることで、ひとりの舞踏家が、その芸を守り、家族も守ることができるなら、私の存在も多少は意味があったと思えます。」
「・・・・・」
「三村流には、立派な家元とその後継者がいますから、なんの心配もありませんしね。」
組んだ足をもとに戻し、浅香はゆっくりと立ち上がって板見のほうを見た。
既に板見も、英一の脇を通り過ぎて浅香のほうへ歩みよっていた。
「貴重な情報をありがとうございました、三村英一さん。」
「いえ、お役に立てたなら光栄です。」
「これから、うちのエージェントが、直接州洋氏にお話を伺います。」
「はい。」
「伝聞だけでは、やはり不安ですからね。」
「ええ、そうですね。」
板見がその場で上着を脱ぎ、クロゼットから手早く別の服を取り出して身につけ、バッグを開けた浅香からいくつかの機器を受け取りそれらも装着した。
そして浅香は、手袋を緩みなく嵌め直した後、バッグから白い二十センチ四方ほどの薬品入れを取り出し、二種類の錠剤を数粒、テーブルの上でパックから開けて取りだした。
板見がバスルームからガラスボトルに水を満たして持ってきたのを振り返り、そしてナイフを腰のホルダーに指して錠剤を手に持ち、浅香が立ち上がる。
「英一さん、あなたとのお話は終わりました。では、死んで頂くことになります。」
「はい。」
歩いて英一のすぐ傍まで行き、浅香が言葉を続ける。
「もしも州洋さんのお話の内容が、少し違っていたならば・・・やはり、我々は、あの人たちを狙い続けなければならない。」
「はい。」
「そのときは、今度はメイン警護員の・・いえ、もとメイン警護員として彼らを守るであろう・・・河合警護員を、殺すことになります。」
「・・・・・!」
英一の顔色が変わった。
「なにか問題でもありますか?」
「・・・・・」
「あなたは河合警護員と、特に親友というわけではないはずですが?」
「・・・・・」
「我々は探偵社です。あなたがたのことは、全て調べています。あなたが大森パトロール社へ、種々貢献をされてきたこともね。」
「・・・・それが、どうしました?」
「最後にお尋ねしますが。」
「・・・・」
「なぜ、あの会社がお気に召されたのですか?」
英一は少し微笑んだように見えた。
「・・・・気に入ったわけではありません。ただ、無駄なことを必死でやる、信じがたいほど愚かな人々ですから、つい何か言ってやりたくなった。それだけのことです。」
「そうですか」
浅香は英一の顎をつかみ、ナイフの柄を口の端から歯の間に差し込んでこじ開けるようにした。
「・・・・っ!」
「さようなら、英一さん。ご安心を・・・・うちの使っている薬は優秀です。苦しい思いはしません。」
英一の口の奥へ錠剤を押しこみ、続けて板見の手渡したガラスボトルから英一の口内へ水を注ぎ込んだ。
咳き込んだ英一に、もう一度、ボトルの半分ほどまでの量の水を飲ませ、薬を飲みこませる。
英一が両目を閉じ、がっくりと全身から脱力したのは、板見が部屋のドアを開けて出て行ったのとほぼ同時だった。