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ユーディアス・ローデリックという人を、嫌ってはいない。子供のころは、なんでもそつなくこなす彼を妬んでいた。特技もなくて、彼の様に美しい容姿もなければ、頭のできだって年相応。家柄だって彼の方がずっとずっと上。常に劣等感ばかりが私を襲い、理不尽に彼を嫌った。
ディアは、私の幼少期の気持ちなんて知らないだろう。ただただ心の中で毒づくだけだったから。家柄故に。
成長すれば当然、そんな子供じみたことは考えなくなった。私は私。ディアはディア。探せば私にも、彼より優れていることが一つくらいはあるはずだと思うようになった。まだ彼に敵うものを見つけてはいないけれど。
嫌い、ではない。
昔のように彼を妬むこともなくなったし、どちらかと言えば好意的に思っている。
ただ、苦手意識がある。
つかみどころのない人。彼だって私と同じように大人になっていく。身長が伸びるたび、声が低くなるたび、ディアは知らない誰かになっていくような気がした。
子供の頃とは違う静かな笑みを浮かべるようになった。隠し事をするのがうまくなった。彼の心がわからない。彼が何を心から望むのか。彼は何を求めるのか。
私の知らないディアが構成されていく。それを不安に思うのは、彼が苦手である前に大切な幼馴染だからだと思う。
もう少し、一緒に過ごす時間をとっていたら。私がディアを知ろうとしていたら、今の彼の考えることがわからずに困惑することもなかっただろう。
後悔先に立たず。
薄れていく意識の中でディアの顔を見ながら、そう、思った。
***
ズキズキする頭をおさえながら体を起こすと、医務室のベッドにいた。私の傍に座っていたのはそわそわとしたディアだけだった。
「…っ、ユリィ様は……」
「無事だよ。君が心配しているようなことにはならない」
私の肩を支えたディアは、遠慮がちに私の顔をのぞき込んでいる。
「貴方に剣を向けられるなんて、思ったこともありませんでした」
「ごめん……」
剣を向けられたと言っても、本当に切っ先を向けられたわけではない。素早く後ろに回った彼に、柄で首元を叩かれただけ。だけでも、かなり痛いけれど。
おかげで気を失ったわけだし。
「ユリィ様はどこです?」
「安全な場所だよ」
「私は馬鹿ではありませんよ。前触れなく攻撃してきた人の曖昧な言葉を信じたりしません」
昼休みに食堂へ向かおうという時、ユリィ様がヤモリを見つけてそれを追い始めた。時間はまだあるから庭へ出て……。しばらくヤモリ探しをしながらのんびり歩いていた。
そこでディアに声をかけられたと思ったら、突然攻撃を受けて……。
はっとする。気を失う直前、ディアの隣にはアラン殿下の姿があった。
「ディア…貴方は……」
もう私の知っているユーディアス・ローデリックではないのかもしれない。
「私の、脅威ですか?」
私の平穏を脅かす人になってしまうのですか?
「俺は、何を敵にしても君の味方だよ」
「……アラン殿下は何をお考えなんです?ユリィ様の身に何かあれば、私は貴方を許しませんよ」
「誓って、君の大切なユリィ様に危害を加えたりしないよ。むしろこれはユリエル殿下のためだ。信じて、俺に任せてくれないかな」
「……」
「……」
溜息を、一つ。
「これでも貴方を信用しています。非人道的なことはできない人です」
「ありがとう」
「だからこそ、貴方に乱暴されるとは思いませんでしたけれど」
決まり悪そうにしたディアは、俯きながら苦笑している。
私はディアが何を望んで何を求めるのかはわからない。だけどディアが嘘をつく時の癖は知っている。彼自身も知らない彼のことだ。だからディアが嘘をついていないことはわかる。
心配なのはかわらないけれど、彼の言う通りユリィ様が傷つけられていることはない。
「私は貴方の理解者にはなれないけれど。貴方を、信じるくらいはできますよ」
苦手だけど、下手をすれば実の両親よりも長い時間を過ごした人。誰よりも頼りにしている大切な人だ。
「……ミラ、俺を、見て」
「見て話しているでしょう?」
「そうじゃないよ。ミラ」
「懐かしいですね。貴方にそう呼ばれるのは」
記憶の中で私を“ミラ”と呼ぶディアは、今の様に苦しそうな、大人みたいな顔はしなかったけれど。
「そうだね。これじゃあガキみたいだ」
「また、珍しい。貴方はあまり粗末な言葉は使いませんものね」
ガキ、なんて。そういう言葉が出てしまうということは彼が疲れているか気が抜けているかのどちらかだ。
「……王族と関われば君の日常は変わっていくよ。綺麗な君がこれまで過ごしてきた綺麗な世界なんて、一瞬で消える」
「はぁ…借金まみれで両親が別居している挙句板挟みの日々が綺麗かどうかは甚だ疑問ですが……」
そしてそのおかげで私の精神年齢は割と枯れている。どうもディアの中の私は捏造されている気がしてならない。
「ご両親のことについては俺からはなんとも……。そういう意味ではなくて、権力は人の意思を捻じ曲げられるということだよ」
「似たようなことは、先日も聞きましたが」
「そうだね。けれど今回はうやむやにさせる気はないよ。俺は、これ以上君がユリエル殿下と関わるのは反対だ。君がこのまま甘やかせば、あの小さな王子殿下も他と同じように権力に物を言わせる人間になる。君の心を無視して君をさらってしまう」
支えてくれていた腕は放されて、代わりに両肩をきつく掴まれた。
「俺はそんなことを許すわけにはいかない」
「貴方は考えすぎです」
「君が考えていないだけだ」
「あら、少し喧嘩腰……」
これもまた珍しい。
「私だって、何も考えていないわけではないんですよ。考えて、考えて、色々と考えたら負けだと悟ったので何かと放棄しましたが」
「つまり何も考えていないんだね」
「同じ状況に立てば貴方も……」
気づいた時には借金まみれ。それまで親しかった友人には遠ざけられ笑われ、貴族の大人には指を指されて笑われる始末。母は阿呆の父に愛想をつかして出ていく。残された私は、父に母への伝言を頼まれたり、泣き上戸の父の発作を宥めるお役目を担い。
愚痴ばかり言う母は結局メタボリックで頭頂部の輝く優しさだけが取り柄の父が大好きなので、うまいこと私に父を誘導するように頼み。しかも、浮気のできる甲斐性も財力も美貌もない父の浮気の監視まで任されて。
どうしようもない家族が支える我が家に王子様のお世話役を任される。真面目に考えていたら頭がショートする。
「いえ…貴方ならきっと考えすぎで病気になりかねませんね」
私と違って真面目で誠実でしっかりしていて、融通がきかないから。彼の家の方はしっかりしていてよかった。
「もう少し、ユリィ様を見てみてください。良い子ですよ。それにどこか……」
どこかディアに似ている。
高い高い目標に届かないことに憤りともどかしさで自分を追いつめて。一人でどんどん先へ進んで。けれど決して満足しなくて。最後には私のことなんて忘れてしまいそう。
年の離れた兄弟に追いつこうとする王子様と、これまで見本としていた父親に手を伸ばす公爵子息。実際気に入っているくせに仲良くできないのは、似ているものは好きになれない、という原理が働いているのかもしれない。
「どこか、逞しくて素敵でしょう?」
そういう人は、眩しくて、一緒にいるとくじけそうにもなるけれど。
「随分お気に入りだね」
「貴方だって、ユリィ様がお気に入りでしょう」
「まさか」
「子供は嫌いではないでしょう?」
「好きでもないよ」
「正直なのは貴方の美点なんでしょうがねぇ…」
「自分の子ならかわいいよ」
「どこかの娘さんをうっかり孕ませないようにしてくださいね」
既成事実なんて作られる迂闊な人とは思わないけれど。
「その点については心配ない。俺は婚約者以外を女性と見ないから」
「では早く、そんな婚約者に出会えるといいですね」
「君はどこまでも強情だ」
私の頭を撫でたディアは、少し眼光を強めて、顔を寄せて来た。
「……何をするつもりですか?」
「キスを」
この距離では逃げられないなー、と。ぼんやり思っていれば、口元を避け頬に口づけられた。
「常々思うのですが、貴方のことを“お兄様”とでも呼ぶべきでしょうか」
まるで妹のような扱いだ。
「是非とも遠慮したいね」
まあ、そんなことはさておき。
「そろそろユリィ様をお返し願えますか?まだ隠すのなら、怒りますよ」
「そうだね。君は怒ると父と同じくらい怖いから。呼んでくるよ。一人で待っていられる?」
「私も一緒に行きますよ」
「いや、君は気を失っていたんだし…。俺がそうしたんだが…」
それでも大したことはないし私も行きたい。俺に任せてくれればいいから、と二人で言い合っていると、医務室の扉が大きな音を立てて、次には叫び声。
「ミラっ!!」
「ユリィ様?」
「ユリエル!!待て!!」
「アラン殿下……?」
どうして二人が一緒に。というか、そもそもアラン殿下はどんな目的で行動を起こしたのか。
私の方へ駆け寄ろうとするユリィ様はアラン殿下に抱き上げられ、大暴れしている。
説明を求めようとディアを見れば、額に手を置き大きなため息をついている。
「アラン殿下、ほどほどに」
「おい!そっちへ逃げたぞ捕まえろユーディアス」
「聞け!!」
抜け出したユリィ様が私の上に到着する。
「ディ…ア……?」
叫ぶことだって滅多にない人が、王子殿下に、怒鳴った……なんて、幻聴としか思えない。ハッとしたディアは咳払いをしてから笑顔を作る。
「殿下。スウェイン嬢も困っています」
「何故だユリエル!俺は…っ!!」
「俺は少し外でアラン殿下と話してくるよ。君はユリエル殿下とゆっくりしていてくれ」
「はあ…」
その、目の血走ったアラン殿下と同じ部屋にいて心休まる気もしないし、ありがたいけれど。
ユリィ様が威嚇しているのがどうしても気になってしまう。
殿下とディアが出ていったのを確認してから、ユリィ様は心配そうにして私の顔を小さな手でぺたぺた確認した。
「ミラ、何もされていないか?ユーディアスに酷いことはされなかったか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
私が笑えばユリィ様も強張った顔をやわらげた。
「まったく、アランといるからにはやはりろくな男ではないな!ミラに手をあげるとは。早く婚約なんて取り消せ!」
「まぁ…まだ学生の私たちの一存ではどうすることもできないので…」
卒業すればある程度意見は尊重されるだろうし、ディアが望めばそうするつもりだ。
「それよりユリィ様は、どこかお怪我などはありませんか?」
「心が深く傷ついた!ミラ、抱きしめて慰めろ!」
「はい。喜んで」
説明はディアが戻ってくるまで待たなければいけないようだ。