番外編:赤ちゃんが
ただ書きたかったお話なのでまだ結婚前のお話です。
「赤ちゃんができたの」
うちに来てそうそう、満面の笑みでそう言ったのは、来月に卒業をひかえる俺の婚約者なわけだが、喜ぶには一つ問題がある。
「もう一度言ってくれるかな?」
「だから、赤ちゃんができたの」
俺はまだ、彼女に手を出していない。
「俺と……別れたいのかい…?」
肯定されたらこの世のありとあらゆるものを呪うつもりだが。
「はい?別れたいの?お断りしますけれど」
「うん。よかった。うん…うん…」
ではどういうことだ?俺は何か試されているのか。俺がきちんとミラを信じてあげられるか、マダム・クレアあたりがミラを使って俺を試しているのか。
とりあえず頭が追いつかない。
「父親は誰なのかな…?」
「何を言っているの。言わなくてもわかるでしょう?からかってる?」
言わなくてもわかる!?わからない。
というか、なぜ悪びれもしないのだろう。これは、俺に浮気を受け入れろと開き直っているのか?だが別れる気はないらしい。つまり浮気を受け入れたうえで結婚しろと?いやいやそんな子ではない。
それなら、もしや。
「赤ん坊はキャベツ畑から拾ってくるものじゃあないよ?」
「何を馬鹿なことを言ってるの。私はそんなスーパー純粋娘じゃないわ。夫婦の営みの方法くらい知ってます!」
ではその赤ちゃんとは誰の子だと!!
「今度ユリィ様が遊びに来たら報告しないと。自分より小さい子ができると知ったら喜ぶでしょうね。家族皆で今から名前を考えているのよ。私は、女の子ならメルヴィナで、男の子ならアルマンがいいと言ったのだけど、お母様が……その……その名前はディアとの子につけてあげなさいと……」
俺との子、と言って頬を朱色にし俯くミラは、こんな時でなければたまらなく可愛いのだが、今はどうすればいいのかわからない。
その名前は俺との子に、ということは今回は俺との子ではないとマダム・クレアも知っているのか?相手が誰だか知っているのか?
「あ、赤ちゃんが生まれたらしばらくは実家に通おうかと思うのだけど、大丈夫?」
育児のためにか!?
「い、いや、しかし、その…」
そうして夫婦の時間は減り、俺の存在も忘れられ、名ばかりの夫婦になってしまうことを危惧し、適当なことを言う。
「うちで育てればいいよ。君と血がつながった子なら、俺にとっても自分の子のようなものだし…」
「何言ってるの無理よ。だいたい、私と血がつながっていても貴方の子ではないからね?」
「う……ん……」
色々とぐさぐさ突き刺さる。
「ふふ、とても楽しみ。私としては、男の子がいいなって。ほら、大変な思いをさせることになるけれど、やっぱり家を継いでほしいから…」
俺以外の男とミラの子に家を継がせるのか……。
「その…どんな事情であれ、君が俺のもとに帰ってきてくれるのならその子のことも大切に育てるよ」
「え?どうも今日は話が噛み合わないわね。どうして貴方が育てるの?必要ないわよ」
必要ない…!!もはや俺はミラに必要ない…!!
だが別れる気はないと今さっきたしかに言ったはずだ。
どういうことだ。
「ああ、だけど父親にはあまり似てほしくないわ」
その父親は一体…!
「父親は、どんな人なんだい……?」
「ちょっと、大丈夫?貴方だってよく知っているでしょう?」
俺の知っている人物だと……っ。
「もう、今日は少しおかしいわ。疲れているの?」
「そうだね、かなり……」
ミラの、女性らしいふんわりとした香りがすぐそばに感じられた。思わず閉じていた目を開くと、心配そうに眉を下げたミラが俺の頬に触れて愛らしく首を傾げていた。涙が出そうなほど可愛い。
「お仕事忙しいの?あんまり無理をしないでね。貴方に何かあったらと思うと…」
「ミラ……」
昨年までだったらミラがこんな顔をして俺に触れるなんて考えられないことだ。こんな日をどれだけ夢に見ていたことか。
想像したのか瞳がゆれて、悲しそうにするミラに胸が締め付けられた。
「ミラ…っ!ミラ…っ!!君は俺のものだろう?どうか俺だけを見てくれ。俺には君しかいないんだ。君しか見えない」
「え、きゃ!?」
急に腕を引っ張ったせいで悲鳴をあげたミラは、俺の方へ倒れこんでくる。逃げようとするミラを捕まえて、華奢な身体を強く抱きしめた。
「俺のミラ、好きだ。大好きだよ。一度の過ちなんてもういい。だから俺の元へ戻ってきてくれ!!」
「過ち?なんのことっ?」
背後で咳ばらいが聞こえた。
目だけでそちらを見ると、出張帰りの父が大荷物を抱えた使用人と並び腕を組んで立っていた。
それに気づいたミラが俺から離れようと暴れるが、それをおさえられないほどやわではない。
「帰りは明日だと聞きましたが、父さん」
「予定より早く終わってな。それよりなんだ、家の入口で自分の婚約者に襲い掛かる馬鹿者があるか」
「どうぞ、よけて家に入ってください。今は離れる気はありません」
父が俺を愚息と罵る。
「愛想をつかされるぞ」
「そんなことはないよね、ミラ?」
「そんなことあるかもしれないわ、ディア」
しぶしぶ離すと、ミラは警戒するように後ろへさがる。
「こんにちは、お、お、お義父様……」
照れながら父を義父と読んだミラに父は目を細めて頷く。
それから思い出したように俺をキッと睨んだミラは更にじりじり後退していく。
「やっぱり今日の貴方は少しおかしいわ。悩み事があるの?それなら相談すればいいじゃない」
「悩みって……、君が来るまではなかったさ。わかるだろう?赤ん坊のこと…」
「赤ちゃん?どうして貴方が、赤ちゃんのことで悩むのよ」
俺たちの会話を聞いていた父は一つ手を叩いた。
「そういえば子供ができたそうだな。実は先ほどスウェイン伯爵と偶然会って聞いたよ。めでたいな」
めでたい!?
「何を言っているんですか父さん!たしかに、たしかに生まれてくる子供に罪はありませんが……、俺の子ではないんですよ?」
父が首を九十度ほど曲げる。
「はあ?何を当たり前のことを言っているんだ、お前は」
「当たり前って……!」
ミラは父の言葉にうんうんと頷いている。
荷物を持っている使用人は少し遅れつつも、ミラにおめでとうございますと微笑んでいる。
「しかし、こうなってくるとミィは今まで以上に頑張らないといけないな。生まれてくる子は君を一番頼りにするだろう。息子のこともこき使ってくれて構わない」
「ふふ…、そうですね。間違っても私の幼少期のように喧嘩に巻き込まれてうっかり怪我、なんて起きないようにしないと」
何故この空間がこんなにも穏やかなのか俺にはさっぱりだ。
「もちろん、ミラがその子を大事にするなら俺はミラと一緒にその子のことも大切にするけど、しかし、俺の子じゃないとなるとしばらく複雑な思いもぬぐえないというか……」
「だからお前は何を言っているんだ。クレアの腹の中にいる子供がお前の子なわけないだろう」
……クレアの、腹?
クレアの?
「……ミラ」
「なあに?」
「君、話す時はまず主語をつけなさい」
「え?」
突然赤ちゃんができましたと言われて誰が冷静に処理できるんだ。冷静に考えればわかりそうだったかもしれないが。
「つまり、君に念願の兄弟ができるというわけだね。俺の義弟か義妹だ」
「ええ。そう言っているじゃない」
「父親はもちろん疑いようもなくスウェイン伯爵だ、と」
「だから、ずっとそう言っているでしょう?」
「そうだったらしいね……」
溜息が思ったより深くなった。
うん。そうか。うん。
「ミラ」
「きゃ!ちょっと!もう!また!」
再び引っ張って抱きしめたミラは俺の腕の中で頬を膨らませている。父はもう好きにしろと言い捨て屋敷の中へ入っていた。
「ミラ」
「まったくもう。なあに?」
「俺は、女の子だったらシースティで男の子だったらフィリップがいいな」