26
とある女の話をしよう。
特別な地位にあるわけでもなく、特別美しいのでもなかった。だが女には人を惹きつける魅力があった。若さゆえか素直で、明るく、穢れを知らなかった。
そんな女には、どんなに気難しい人間もよく懐いた。
俺は自分が気難しいとは思わないが、扱い辛い人種だろう。口が達者で、機嫌が悪くなればよく回る頭で相手を言い負かす。そんな俺が獲得できる親密な関係など限られていた。今の友人なども、俺の友達が少ないのもよくわかると言う。だが、女はそんな俺も簡単に手なずけた。俺にとって女は、誰よりも特別な存在になっていった。
とても恵まれた環境で育ったと言えない女は、しかし、この世で最も聡明な女だった。
ああ、だけれども。
ある朝女は冷たくなった。
この世で最も聡明だった女は、この世を去ってしまった。
優しいレオノーラ。大好きだったレオノーラ。
守ってやりたかった。
もっと俺に力があればよかった。
だからせめて、忘れ形見は……。
***
「なんだお前。マイブームは百面相か」
ハン、と鼻で笑う友人に舌打ちすると、人差し指を立てられた。
「俺に感謝しろよ?なにせ俺がスウェイン嬢の背中を押したんだからな」
「恩着せがましいな。言われなくても感謝はしているよ」
廊下を歩きながら適当な礼を述べておく。
昼休みに生徒会として見回りをと歩いているが、ようは書類から逃げる口実だ。俺もさすがに、今日は書類と向き合う気にはなれなかった。
二晩前の出来事は全部夢だったのではないか。果たして俺の報われない片思いは何年続いていたのか。こうも一瞬にして叶うなどと、そんなことがあるのか。
実は妄想と現実の区別がつかなくなっているのではないか。
昔のように俺に敬語を使わず話していたのが翌日には元に戻っていたし、彼女の様子になんら変化は見られない。
「女子寮から戻ったお前の顔は傑作だったな。だらしなく口を開けて」
「いや、あれはミラではなかったのかもしれない。俺は何者かにばかされたのかもしれないよ」
「お前が素直に喜べなくなるまで引きずったスウェイン嬢もなかなかのものだな」
ここから六年生の教室の並びが続く。
六年生と言えば、数度顔を合わせた俺を見下し気味の王子殿下と、マリアンの息子、それに俺をやっかんでいるアルウィックのアルフォンソがいる。なかなか俺には居心地の悪いところだ。
ミラの親族に俺が嫌われるのも仕方のないことだ。俺のせいでミラは生死を彷徨うほどの怪我を負ったわけだし、婚約の件も、ローデリックから無理やり取り付けたものであると知らないのはミラくらいのものだから。
「さあ!出陣ですよ」
「ディア!馬になれ!」
……。
「はい?」
「馬になれ!肩車をしろ!」
「お願いしますディア」
俺は何を頼まれているんだ。というかどこから湧いて……現れたんだ。
ユリィ殿下を抱きかかえたミラは、満面の笑みで俺にぶつかってくる。学内で俺と親しくすると余計嫉妬されると、お互い避けるようにしていたはずがミラから積極的に俺の元へ来ている。
うん。夢ではなかったに違いない。
「随分楽しそうですね」
「これからごっこ遊びだ!なあミラ!」
「はい、不謹慎ながら戦ごっこです」
ミラの腕から俺に乗り移って来たユリィ殿下は肩車状態になろうと首の方までよじ登ってくる。危ない。少し待て。してやるから。落ちるから。
「アルのところに招待状を持って行くのですけれど、ちょっとおふざけをしていたんです」
「ああ、俺とアランが昨日ユリィ殿下にもらった…」
自ら渡してくれたユリィ殿下にアランは泣いて喜んでいた。
「はい。では肩車でダッシュでどうぞアルの教室まで」
「俺に行けと」
アランが喚いている。
「俺が行こう。代われユーディアス。肩車などさせてもらえたらいっそ空も飛べる」
今は空を飛べなくても困らないから飛ばなくていい。
「俺はアルフォンソに嫌われているけど」
「そうですね。あ、ストップ。やっぱり動かないでください」
俺にそう言ったミラは通りがかった見知った顔に声をかける。
「ごきげんよう、ロメオ殿下。ケインも」
呼び止められた二人は心底面倒くさそうな顔を隠さない。だが次には、俺の顔を見つけたマリアンの息子は「げ」とでも言いたげに一層顔をしかめた。
それと同じように、アランを見たロメオ殿下の顔も少し不機嫌そうに歪む。こちらはすぐにうさん臭い笑みを戻したが。
「君や君のお仲間の姿を見たおかげでごきげんではなくなったよ、スウェイン伯爵令嬢」
「それはお気の毒ですわ」
強い。俺の婚約者は強い。
物怖じしない上に笑顔を崩さない。
「よろしければロメオ殿下も、土曜日のパーティーにいらしてください」
なんのことかはすぐにわかったらしい。というのも、アランが既に勧誘済みだからだ。当然の如く断られたが。
ユリィ殿下は冗談じゃない、とミラに文句を言うが、ミラは華麗にかわしていく。
「ケインも来るのですもの。居心地が悪いということはないと思いますが」
マリアンの息子がギョッとする。俺の強引な婚約者はもしかするとたった今勝手に決めたのかもしれない。
俺もマリアンの息子を家に招くのは穏やかではない。幼いユリィ殿下には、兄弟に祝ってもらうことも大切だろう。だがロメオ殿下はギルバート殿下に、というよりは王妃の次に危険な人物だ。マリアンもまた不安の要因。そして俺にとっては、大切な人を悲しませた憎むべき相手でもある。
得策とは思えないが、ミラは結局、ユリィ殿下と兄弟の仲を深めることを選んだようだ。
「俺は先輩と違い、毎日が暇な人間ではありません」
「そんなことを言って、知っているわ。ダリアが、貴方の予定を教えてくれたもの」
「……あの愚妹……」
舌打ちをする勢いのマリアンの息子は、逃げるように足を進めようとする。それをミラはすかさず止める。
「何も予定はないそうじゃないの」
「あれにはいちいち俺の予定を教えていません勝手に言っただけです」
「何かご予定があるの?」
「貴女にお伝えする義務はありません」
「融通のきかない子ね」
「かってに言ってください」
会話がひと段落ついたところで、マリアンの息子がちらりと俺を見た。こいつ、今度は本当に舌打ちをした。
「お前も一日くらいはいいだろう、ロメオ」
「先日お断りしたのを忘れましたか兄上」
こちらは笑みを絶やさないが話しかけるなと目で言っている。
「アルも来るのよ」
「アル……?ああ、貴女の従弟でしたか。彼が来ることを何故俺に伝えるんです」
「あら…?お友達でしょう?この間も二人で話していたし…」
アランの目つきが変わる。
それは俺も初耳だ。要注意人物とスウェイン家の関係者が親しいというのだから。
「アルウィックと?……ああ、落とし物を拾ってやっただけですが、それがなにか」
「あらぁ…折角だから親睦を深めればいいのに。貴方ってば不愛想だからなかなかお友達ができないでしょう」
「そちらは性根が腐っているので友人ができないのでは?」
「私はいいのよ。だけど貴方は寂しがりやだから。夜にはよく、一人では寂しいからとべそをかいて……」
「心当たりがありませんね」
俺の婚約者は天然ではなく天然を装う人なので、これは悪意をもって幼少期の恥ずかしい話をしている。性根が腐っていると言われたのを根に持ったんだろう。しかも性格が悪いことは自覚しているので反論ができないという、そのため彼女の最終手段に至ったと。
「そんな奴ら来なくていい!行くぞミラ!アルが向こうにいる!」
「あ、ちょ!危ないですから!殿下!!」
とても王族とは思えないやんちゃなユリィ殿下は俺に肩車をされていたところから飛び降りる。心臓に悪い。
ミラの手をひっぱり、ユリィ殿下は振り返らず駆けていく。ロメオ殿下やギルバート殿下との仲が良くないとは聞いていたが、いやアランと仲がいいと言っていいのかもわからないが、事実だったようだ。
離れていくユリィ殿下を見つめるロメオ殿下は目を細めていた。煩わしそうにしていて、しかしどこか、弟を尊ぶ様な目で眺めている。
隣の友人がぽつりと呟いた。
「俺は守るぞ。レオノーラの宝を」
レオノーラ。
聞き覚えのある名だ。その女性に直接会ったことはないが。もしかしたら、すれ違ったことがあっても気づかなかったかもしれない。いっかいの侍女だったのだから。
「お前はユリエルをどう見ているんだロメオ。仇と、憎んでいるのか。ただ生まれて来たあの子をか。それなら俺は少し怒るかもしれないな。俺はあの子を守ると誓った」
少し怒るだけで戦争まで起こす。そんな友人のその台詞はなかなかきく脅しだ。
年の近い友人の弟は喉を鳴らして小さく笑った。
「馬鹿な男と愚かな女の子供になんて興味がない。誓ったのなら勝手にすればいい。僕の知ったことではない」
「お前はその愚かな女を愛していただろうに」
「兄上はよくご存じのはずだ。僕は馬鹿が嫌いだ。だがそれ以上に、愚か者が嫌いだ」
薄ら笑いを浮かべた第二王子は腕を組む。
「対し兄上は僕と真逆のようだ。愚かな女にほだされたのは貴方の方ではないか」
「否定はしないさ。あの女は、誰よりも聡明で、誰よりも愚かで……誰よりも美しかった」
今までに見たこともないほど穏やかな笑みを浮かべる友人の顔は穏やかでありつつ思いつめているようだ。
「お前は何を望んでいる。何のために動く。レオノーラのためじゃないのか。それならユリエルをどうしようとしているんだ」
「自らの手のうちを敵に話す馬鹿はいない」
敵、という言葉に場の空気が一層冷たくなる。アランの横を通り抜けたロメオ殿下はもうこちらを見向きもしない。
一人残ったマリアンの息子も去ろうとし、一度俺の横で止まった。こいつの目にはアランではなく俺が映っている。
「……あんたといたら、ミラはきっと、壊れてしまう」
敵意のはっきりした態度は、俺に向けられているのであって俺の大切なものには向けられていないように思えた。