22
いつもの夫婦喧嘩だった。
いつも通りごにょごにょとはっきりしない父にしびれを切らした母が、いつもの通り勢いで家を飛び出して、いつも通り私を哀れむ使用人たちの視線をあびながら、いつも通り父に指示された私は母を探す旅に出た。
家の周り、メイフォード邸、母の親友だった人のお墓。
大抵このどこかにいるのだけれど、その日はどこにもいなかった。
母を見つけられない自分の不甲斐なさに、帰るに帰れず、最後の場所にしばらく留まった。母の親友だった人のお墓。
お母様はどこにいるのでしょうか。
お墓の下から声がするはずもなく。
そもそも、私の何倍もお父様が不甲斐ないせいだわ!と父を。そもそも、私の何倍もお母様が子供なせいだわ!と母を責めた。
しかしあれでも愛しているので、一人で帰った時の父の淋しそうな背中を見るのは辛い。
このとき五歳。我ながらヘヴィーな幼少期。この年の娘を一人で外へ出すはずもなく、家の人間が後ろから見守ってくれていたそうだけれど、何も知らない当時の私は孤独だった。
「お母様……」
「そこは俺の母さんのお墓だよ」
ぱっと振り向くと、藍色の髪の、私より少し大きい男の子がいた。きょとんとした顔で私を見下ろす彼に、ぷつりと何かの糸が切れた。
「じゃあミラのお母様はどこぉ…っ?」
「え、ミラ?じゃあ君マダム・クレアの」
びゃっと泣き出す私に慌てた彼は、私の頭を撫でたり背中をさすったり色々していたけれど、それを無視して泣き続けた。
「あら!ミラちゃん!そんなに泣いてどうしたの」
今度は男の子ではなく、母の声がして、次には私を抱き上げてくれた。
「何をしたのディア」
「え!俺は何もしてません!」
母と彼はお友達だったようだ。目をごしごしこすった後で、母に軽く頭突きをした。
「お母様、ミラとお父様を、置いて行ったら、嫌」
「まあ…!ごめんねミラちゃん。いけないお母様ね」
ここで反省しても次の日には忘れる母である。
「やっぱり俺じゃないじゃないですか!」
「なによ器の小さな男ねえ。細かいことを気にするとろくな大人にならなくてよ」
私を抱っこしたままの母はオホホと高笑いをした。
おろされた私を見た彼は、小さく笑んで、「よかったね」と囁く。きっと一部始終をみていても彼には理解できなかっただろうに、当時から、優しくて頭のいい人だった。
家出をした母は亡き親友の息子に会いに行って、せっかくだからと彼と一緒に親友のお墓参りに来たと言う。
「ミラちゃん、ほら、ユーディアス様よ。こんにちはをして」
たじたじした私よりも先に、ディアが優しく笑って挨拶をしてくれた。
「こんにちはミラ。ミラのお母様に君のことを聞いてるよ。こっちへ来て。握手をしよう」
「ユーディアス…様…?」
「ディアでいいよ」
「ディア……」
第一印象は決して悪くなかった。むしろ、素敵なお兄さんのように思った。
おかしな話。
他の誰が、どれだけできのいい人でも、ディアに対するように憤りを感じることはなかった。幼馴染だからといって、両親や憧れの公爵様に、ディアと比べられることはなかった。
ディアが私よりも早く魔法が仕えるようになる。ディアが私よりも上手に絵を描く。ディアが私よりも上手におしゃべりをする。ディアが私より早く計算ができる。それなのに、優しい優しいディア。自分よりも劣り、見当違いな妬みをぶつける私に、それでもずっと世話をやいてくれた。
本当は気づいていた。私は必至でディアに追いつこうとして、それでも負ける。その理由はとてもとても簡単なことで。私の何倍も、比べるのも失礼になるほど、ディアは努力をしている。妬む前に、私は努力しなければいけなかった。
だけど妬まずにはいられなかった。
どうしてディアは努力をするの。
どうしてディアは私を置いていくの。
どうしてディアは私の傍にいてくれないの。
どうして私はディアに相応しい人間になれないの。
私が頑張れば、ディアはその十倍頑張る。やっと手が届くところまで着いたと思うと、すぐに先に進んでしまう。
頑張らないで。私の知らないディアにならないで。自分がとても恥ずかしい。とても彼の隣にいていい人間ではないのに、彼でも私でもない人間から与えられた婚約者という立場にいるのがいたたまれない。
もし私が彼に相応しいだけの努力のできる人間だったら。もし私が母のような美貌を持っていたなら。もし私が、せめて、家柄だけでもつり合う令嬢だったら。
そうしたらディアを妬むことも、今になって焦がれることもなかったかもしれない。
***
「お一人ですか?」
声をかけると、教科書をじっと眺めていたディアが視線をあげた。
「ああ、起きたんだね。よかった」
見慣れた微笑を浮かべて、大きな手を私の額に当ててくる。
「ユリィ殿下は君にお詫びのための花を摘みに行ったよ。アランは付き添いだ」
「そうですか…」
悪いことをしてしまった。ユリィ様は気に病んでいるだろう。五歳児に突進されてこのありさまでは仕方ない。体力づくりをしないといけない。
いつの間にかユリィ殿下なんて呼んで。愛称で呼んでいいのは私だけだったのに。そうやってまた、あっさりと私の優越感を奪う人。
「気分はどうだい?もう少し眠る?」
「いいえ……」
私はもうこの人を妬んだり嫌ったりしないけれど、とても苦手。いつ。どこから。この人は幼馴染から、男の人になってしまったのだろう。
この人の笑顔が苦手。この人が笑うたびに、どこかで安心してしまう自分がいる。いつかは離れなくてはいけないのに。
「どうしたの?俺の顔に何かついているかな」
「いいえ…。ディア…私、ずっと…」
本当は、ずっと
「ずっとずっと貴方が大嫌いでした」
違う。
ずっと貴方に恋をしていた。
公爵様への憧れとは違う、想いを返してもらうことを望む恋を。
「随分唐突に厳しいことを言うね」
いいえ。嫌いなんて言うつもりはなかったんです。私は自分勝手だから、手の届かないところへ行ってしまう貴方が嫌い。
一緒にいても貴方に何も利益を与えられない自分が大嫌い。
私のことを好きだと言うディアはいつも冗談めいていて、それもたまらなく嫌。きっと貴方は私を妹のようにしか思わないのだろう。
もし私を女として見ても、貴方を私のような卑怯で言い訳ばかりの人間に繋ぎとめるような残酷なまねはできない。一緒になったところで、貴方はすぐに気が付くだろう。私がいかにつまらない人間か。
「もっとも、よく承知していることだよ。君は昔から俺に敵意があったし」
「そんなことは…」
「俺にはそれも心地いいよ。君に関心をむけられなくなったらそれこそ絶望的な気分になるだろうね」
なんと言うべきだろう。突然の暴言を謝るべきなのに、謝る隙もない。
「……ユリィ様が来るまで、ライアン様とここで、話していたんです」
「ここに来るときにすれ違ったよ。何かあったの?」
ディアがいれば。そう思った。この期に及んで、そこにいない時でさえディアに頼ろうとしていた。
「あの方はもしかすれば、アラン殿下よりも多くのことを知っています。けれど私は有益な情報を一つも聞き出せませんでした。私の力不足です。きっと貴方だったら、もっとうまくやれたでしょうね」
皮肉っぽく言っても、ディアは許してくれる。そうやってまた甘えてしまう。
「ただ、ライアン様はどうも、お后様に利用されているようには思えませんでした。あくまで、私が感じた限りですが」
腕を組んだディアは、小さく溜息をついた。
「それだけわかれば十分だよ。それから、君は前々から俺を見くびりすぎているよね」
「そんなこと……」
「俺と君で、どちらがより、取引がうまくできるかなんて、比べるのもおかしい。俺はいずれ、父の後を継ぐために日々鍛錬に勤しんでいるし経験も積んできた。それで俺が君に負けていたら話にならないよね」
「それは、私ごときが調子に乗るなということですか」
「そうではなくて……君は機嫌が悪いと子供みたいになるね」
どうしてかディアは嬉しそうに笑う。
「何かおかしいですか?」
「いや…君のそんな顔を知っているのは俺くらいだろうと優越感に浸っていただけだよ」
今度は少し声まで出して笑われた。
「俺が言いたいのはね、俺と君ではできることも、すべきことも違う。俺にできなことが君に沢山あるように、俺にも、少しは君に頼ってもらえるところがなくてはいけないんだ。君が一人で何でもこなせたら俺は困ってしまうよ」
「……子ども扱いですね」
「今の君はまるで子供だからね」
ちゃっかり抱きしめてもらって、背中をトントンと優しくたたかれる。
貴方はそう言うけれど、何でもこなしてしまうのは貴方の方だ。私ができてディアにできないことなんて一つも思いつかない。
「昔から、時々こういうことがあったね。寝て、起きた後に君の機嫌が面白いくらい悪くなっているんだ。怖い夢でもみたのかわからないけれど、酷いときは口もきいてくれなくて手をやいたね。小さなミラがもう十六歳なんて、時間の流れは早いものだね」
「私と一つしか変わらない人が何を言っているんですか…」
父よりも母よりも、ディアに名前を呼ばれた回数が一番多いと思う。だから恥ずかしい姿も見られているし弱点だってバレている。
「俺のミラは抱きしめると少しだけ機嫌をなおしてくれるんだ」
「貴方のじゃありません」
「そうだね。だから予定だけど」
「私の予定にはありません」
「俺の予定にはあるんだよ」
私は貴方に恋しているけれど、貴方と結婚したくない。そう言ったら貴方はどんな顔をしてどんなことを言うだろう。
「いい夢をみたんですよ」
怖い夢なんかじゃなかった。
まだ、つり合いなんて考えず、なんとなく貴方に出会った日の夢。
「でも、だから、機嫌が悪くなってしまったのかも」
夢の中に住めたらいいのに。それが叶わないから、がっかりしてしまって。夢の中の幼い私は、まだコンプレックスなどなく呑気に生きていたから羨ましかった。
「ミラ!ミラが起きている!」
「ユリィ様…おかえりなさい」
ユリィ様の声に反応してお互い離れる。
「ミラ、痛いところはないか?もう大丈夫か?…怒ってるか?」
「うーん…、どうでしょう」
少し遠慮した距離にいるユリィ様は後ろに花を隠している。うまく隠せず少し見えているけれど。
すぐに怒っていないと言わない私にユリィ様は少し顔を強張らせる。いけない。罪悪感に潰されそう。
「お花を見たら、元気になれるかもー…。でも外に出るのは疲れますし…」
「こ!これでいいか?これで元気になるか?」
さっとユリィ様が出した花は、ここまで持ってくるとき強く握ったのか少し萎れている。ピンク、赤、黄色、青、一生懸命色々な種類を探してきてくれたのだろう。
「まあ…素敵。綺麗ですね。もうすっかり元気ですよ。ありがとうございます」
半分は押し花にしよう。
おいでと手招きすると、ベッドの上に上半身が乗って来た。
「ユリィ様のお兄様はどうしたんですか?」
「撒いてきたぞ!」
逞しい。
「おいディア!気を使って出ていけ!」
「どちらがですか。ユリィ殿下が出ていかれては?」
「ミラは俺といたいだろう?」
「すごくすごくすごく一緒にいたいです」
したり顔のユリィ様。ああ可愛らしい。
自分のことよりもまずこの子のことを考えなければ。恋愛なんてこの子の命に比べたらくだらないものだ。
――貴女も参加するのですか?レディ・ミラベル。
ふと、ライアン様の言葉を思い出す。
この小さな王子殿下は、果たして何を望むのだろう。王位を継承すること?そしてこの子にとって、最も良い結末とはどんなものなのだろうか。