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手紙もよこさず突然帰って来た息子に、父は何事かと玄関まで迎えに来た。たくわえた口髭の立派な父は、スウェイン伯爵と同い年とは疑わしいほど貫禄がある。柔らかさはなく、初対面の子供は大抵泣き出す。
若いころからそうだったので、父が子供を泣かす光景は早くから見慣れていた。このいげんたっぷりの公爵を見て笑顔になるのはミラベルくらいだった。
「おい、他になかったのか」
父の顔を見るなり、頬をひきつらせ笑うユリエル殿下が俺の後ろから服の裾を引っ張った。
数度面識があるそうなので泣き出さないが、ミラベルの話では殿下は父に嫌われていると思っているらしい。決して嫌いなのではなく、無愛想なので子供をあやすのが苦手なだけだ。
そして父の方も、苦手とする子供がいることに眉をひそめた。
「遠出というとここくらいしか思い浮かばなかったもので」
「友達がいないのか」
「親しき仲にも礼儀ありですから。突然押しかけても友人たちに迷惑がかかります」
俺以外に友達がいないのは貴方の一番上の兄の方だ。
「すみません父さん。殿下と共にミラベルに追い出されてしまいました」
「……そうか」
「……久しいな、ローデリック公」
「ええ。半年ぶりになりますか」
「ああ」
「……」
なんだこの息の詰まる空間は。
いつもの威勢のいいユリエル殿下も迷子になり、俺や家の人間やミラベルと話す時の饒舌な父も行方不明だ。
「帰ってミラと勉強をする」
「ミラベルのあの笑顔を壊す気ですか」
「俺はお前の父が苦手だ!」
あくまで小声だがおそらく父にも聞こえている。
「帰る」
「まあ待ってください。ミラベルの幼少期の肖像画もありますよ」
なんて単純な。うっかり愛らしいと思ってしまった。餌につられて黙って回れ右をして帰って来た。
「見たら帰る」
「夕食もすませていくつもりでしたが」
「ミラと食べる」
「今日だけ野菜は残しても許されますよ」
「食べたら帰る」
単純な。
***
ミラベルの五歳の頃の姿絵を抱いたまま眠ったユリエル殿下を俺のベッドに運んでやる。この年だと昼寝の時間は毎日必要なのではないだろうか。忘れがちだがまだ五歳だ。俺たちと同じ生活リズムは体によくないかもしれない。
俺が五歳の時。少なくともここまで賢い子供ではなかった。きっと色男になるだろう。美形で、この年齢で俺と同じだけの知識量。
年の差というハンデもないように俺の婚約者をさらっていきそうだ。
五歳と言えば、何も知らないのに年上ぶってミラベルに接していた。あの子は年上が好きだったから。というか、俺の父が好きだったから。父のマネをするのに必死だった。
それをあの子は鬱陶しがっていたが。
ユリエル殿下の頬をつつくと、弾力のせいで跳ね返った。女性や子供の肌はどうしてこうも成人かそれに近い男と違うのか。
香りは、それぞれだと思う。
香水を使う女性が多く、個人的に強いにおいは苦手だ。ミラベルは昔から、ミルクのような香りがする。ユリエル殿下も似ているように思う。一緒にいるせいか。一緒にいるせいで香りが移ったのか。だとしたら複雑だ。
「しばらく見ないうちに変な癖がついたな、ディー」
背後から声をかけられハッとする。
俺は何をしていた?そして今話しかけてきた父に何を目撃された?
「癖とは?」
「子供の頬を引っ張りながらうなじに顔を埋めるのか」
「それではまるで変態ですね」
「お前がしていたんだがな」
無意識なのがこの場合いけないのか。しかし意図的でも問題はあるし、言い訳もできない。
「お前は盲目的にミィばかりを欲していたと思ったが、そういう趣味があったか」
どういう趣味だ。
男の、それも子供をそういう目で見ていると?そんなわけがあるか。
ミラベルをミィと呼ぶのは俺の父だけだ。恋する少女が恋しい人に許したその人にとってだけの自分。未だにそれを不快に思う俺はある意味ユリエル殿下より幼いかもしれない。
「父さんはいつの間にか俺が嫌いになったんですね」
「冗談だ。許せ。……うまくやっているようだな、ユリエル殿下とは」
はっ、と、笑ってしまった。厳しい家なら親にこんな態度を取れば叱られるものだが、うちは父が過保護なのでその心配がない。そのせいで俺みたいな幼稚な息子ができあがったわけだ。
「ユリエル殿下とは、というのは嫌味ですか」
「卑屈な息子だ。父親に八つ当たりをするものじゃない」
貴方のお察しの通り、婚約者は相変わらず俺に靡かないと肩をすくめてみせると、父はおかしそうに笑った。
俺が困っている姿を見て面白がる嫌な父親だ。
「父さんは相変わらず子供が苦手なようですね」
「ああ……どうも、な。俺は子供受けをしない顔な上、子供にうまく言葉を伝えられん」
その言い訳は何度も聞いた。
難しい言葉を知りすぎているせいで子供にわかる言葉がわからないという少しイラッとする父の言い訳だ。
これを言うと、「貴方だって似たようなことを言ってよく私をイラッとさせますよ」とミラベルに睨まれる。
「眠っていればただかわいいだけなんだがな」
その強面でかわいいという単語が出るのが既に可笑しい。
「まあ、起きていても稀にかわいいところもありますがね」
懐の手紙のことを考えてまた口角が上がりかける。
「うまくいっているようだな、ユリエル殿下とは」
「今のは確実に嫌味ですね」
とは、を強調していた。
「アラン殿下には相変わらず頼られているか」
「ええ。言わなくていいですよ。アラン殿下とはという余計なことは」
苦笑した父は俺と一緒になってユリエル殿下の頬をつつき始めた。
「ディーにも、ミィもこんな時期があった」
「マダム・クレアにも言われましたよ」
「彼女もかわりないようだな」
俺の母とミラベルの母親が親しかったのが、二つの家の繋がりだ。ミラベルの母親は美しい人だが、母も社交界では有名な美女だったらしい。父から言わせれば、母は誰にも比べられないほどに誰より美しいそうだが。
その件でだけは、スウェイン伯爵も譲らず、自分の妻が一番だと言う。
そこで俺はミラベルが一番だと言いたいのを我慢していた。大人気ない大人たちと口論はしたくなかったから。
「俺には、少しですが母さんの記憶もある。それに口うるさいが、マダム・クレアも俺のもう一人の母親のようなものです。父さんの存在も大きい。けれどこの子には、いないんです」
よくぞここまで、まっとうな子になった。
父親も公には庇えず、フォローの下手な一番上の兄も厄介な癖がある。根性のある子だ。
「少しは力になってやるつもりです。父さんには迷惑をかけるかもしれませんが…。ユリエル王子殿下は俺の、友人の一人ですから」
父が俺を馬鹿にするように笑う。
「かけられるのならかけてみろ。ミィも言うだろう。お前は少しできすぎてはなにつく。利口で手のかからないつまらない息子だ。たまには世話をやかせてくれればいい。俺はお前の父親だ」
ミラベルに見せるのは少し気恥ずかしいものがある。
ユリエル殿下が俺によこしてきた手紙は、たった二文しかなかった。
お前のことは嫌いだし気にくわないが、少しは気に入っていないこともない。
友人になってやる。
かわいいのだかかわいくないのだかわからないが、不器用なのが妙に愛らしく思えた。同時に、子供が書いたとは思えない綺麗な文字はこれまでの彼の独りきりの日々を連想させ苦しくもなった。
なってやる、ということは、この子の中で俺は既に友人なのか。
眠る殿下の頬をつつきながら、急に試してみたくなった。
「俺は仕事に戻るとしよう。夕食はお前たちととる」
「わかりました」
父が出ていってしばらく、ユリエル殿下が目を覚ます。まだ頬をつついていた俺の手を煩わしそうに払って、目をごしごしこする。
「ミラ……」
寝ぼけている。
「ミラに見えますか」
「……見えるわけないだろう。ゴツい」
ミラベルには「線が細くて女性みたいですね」と言われるのでゴツいはむしろ俺を喜ばせる。
「書斎へ行きますか?ミラベルの好きだった本を貸してあげましょう。……ユリィ殿下?」
やはり不快だったのか、一瞬、殿下が目を細める。
「腹が減った。先に食事を用意しろディア」
どうやら呼称は継続でいいらしい。