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スウェイン伯爵家は、家の場所に関して言えばとても素敵な場所。お屋敷の周りはお花畑が広がって、母は毎年大喜びで駆け回る。余談。その母は優柔不断な父に愛想をつかして実家に帰っている。いつ帰ってくるかはわからないけれど私は時々会ってお茶をしている。だって学生寮の近くが祖父母の家だから。
まあそのせいでこの花畑を駆け回る人はいないわけで。
「折角ですから、私を捕まえてごらんなさい、と言いながら逃げてみましょうか」
「そして俺はお前をおいて屋敷に戻るというわけか」
「殿下は冷めた子供ですね」
「子供呼ばわりするな!」
子供扱いをされてムキになって怒るのは子供だけですよ。
父は仕事があるので、屋敷に置いてきた。私が粗相をしないかと心配そうにしていたけれど、私のほうが父よりしっかりしていると思う。
「今日はいいお天気ですね」
「曇天だぞ」
「晴れがいい天気なんて決まりはないでしょう。このくらいの方が私は好きです。太陽の光はあまり好きではありませんね」
「引きこもりか」
「ええまあ」
子供相手になんて話をしているんだろう。そしてこの子のつっこみも鋭いな。
外で遊ぶよりは部屋で本を読んでいたい派。それが私。
「ところで殿下。殿下は怖いものが、ありますか?」
「ない」
「本当にですか?」
「ない!」
じゃあ。
「私の足元のミミズをどこかへ放っていただいてもよろしいでしょうか?」
「俺を顎で使うのか」
「あら、怖いんですか?」
「怖くない!ほら!!」
何でもないように摘み上げた殿下はぽいっとミミズを遠くへ投げる。すごい
今時の子は虫を見ただけで悲鳴をあげたりするのに。学校にだって、無視に対抗できる男子は少ない。
「さすがですわ!素敵です!ユリエル殿下!なんて頼もしいんでしょう!」
かくいう私も無視やミミズや爬虫類が大の苦手だ。足元に発見したときには気を失うかと思った。殿下が平気でよかった。
「殿下はとても頼りになるのですね。立派な紳士ですのね」
「大袈裟じゃないか」
頭をぐりぐり撫でると、殿下は真っ赤になってそっぽを向いた。あら、照れている?これは……かわいい。
「殿下がいてくれて本当によかった…。殿下は私の恩人ですわね」
「な…下ろせ!!」
殿下を抱っこしてグルグル回ってやる。なんて軽いんだろう。羨ましい。羽のように軽い。殿下は真っ赤になったまま下ろせ下ろせと喚いている。が、かわいいのでやめてあげることもできず。そうするとそのうち、殿下は何がおかしいのかクスクス笑いだした。
初めての笑顔。想像以上にかわいい。
だけどそろそろ疲れて来た。背中から花の中に倒れこみ、殿下をおなかの上に乗せる形になる。
私の胸に顔を埋める形になった殿下は、慌てて起き上がり私の顔をのぞいた。
「ケガはないかっ?」
「ええ。上手に倒れましたから」
「潰れていないか…?」
「ええ。殿下は羽のようでしたから」
溜息をついた殿下はころんと私の隣に寝そべる。ごろんではなくころんと。
「近くへ寄れ」
「ちこうよれ、ではないのですか?」
「いいから早くしろ」
ぷんぷん怒る殿下もかわいらしいけれど、せっかく機嫌がいいようなので従うことにする。
「アランは仕事ができるし、真面目でいい奴だ。ロメオは賢しいが才能がある。ギルバートは素直で、誰からも好かれる」
「ご兄弟が好きなのですね」
「嫌いだ」
「あら…」
まあ、そうですよね。私も昔は婚約者が大嫌いだった。何でもできる人。誰よりも私の傍にいて、いつも私に差をつける。あの人といると劣等感に襲われてばかり。今でこそ、私は私で彼は彼だと、わかっているけれど。
できのいい人が傍にいるのは、時々窮屈になる。
ましてや殿下は、周りの評価がより聞こえるお城の中にいた。居心地のいい場所ではなかっただろう。
「俺は何もできない。俺は何もない」
「そんなことはありません。殿下は恐ろしいモンスターから私を守ってくださった勇者様ですわ」
「ミミズだろ」
ですから、恐ろしいモンスターです。
「皆できる。アランもロメオもギルバートもミミズくらい掴める」
「できませんわ」
ああ、いえ。他の王子様がミミズを取れるかはどうかとして。
「掴むことは他の殿下にもできるでしょう。けれど今、私を守ることができたのはユリエル殿下だけですわ。ここにいるのはユリエル殿下だけでした。私を助けてくださったのは貴方です。他の誰でもなく、貴方だけが私の頼れる王子様でしたのよ」
「くだらないこじつけだな」
ユリエル殿下は首だけそっぽを向いてしまった。だけど照れているのだろう耳は真っ赤だ。
「俺は何もできないんだ」
「いいえ。さっきの殿下はとても頼もしい方でした」
「できないんだ。勉強も、何も、兄の誰にも勝てないんだ」
そんなの当然。ユリエル殿下はまだ五歳なのだから。
「俺には褒めるところなんてどこにもない。だから今が初めてだ」
「何がです?」
「誰かにあんな風に、馬鹿みたいに褒められるのは初めてだ」
馬鹿みたいには余計です。
「それなりに気分がよかったからな。特別に許してやる」
「何をですか?」
「俺を愛称で呼ばせてやる」
あら…。これはどうやら、少し心を許してくれたのでは?そしてこんなに態度がでかいのに許せてしまう殿下の可愛らしさに脱帽。
「世界でお前だけだぞ!光栄に思え!」
「まあ…!それは素敵な響きですわね」
この小生意気なのがかわいい王子様を私だけが愛称で呼べるなんて。ちょっとした優越感。
「そうですね…ユリエル様ですから…ユーリ…ユリ…やはり無難にユリィ殿下、でしょうか」
「愛称と敬称を合わせるな馬鹿が」
「あら殿下、馬鹿と言う言葉は注意しなければ自分に返ってくるのですよ?」
「ユリィだ!」
「そうでした。意地悪な言葉はいけませんよ、ユリィ様」
不服そうに頬を膨らませたユリィ様はこの数分で一気に子供らしい姿を見せてくれた。
「では私のこともお好きなようにお呼びください。特別です」
「ミラベル……ミラ!!」
「はい、ユリィ様」
「蝶がいる!捕まえるぞ!」
自分を制していたのか、さっきまでの大人びた殿下の姿はない。個人的には今のユリィ様の方がかわいい。
蝶を追いかけながらもミミズから私を守ろうとする殿下はなんともかわいらしかった。
***
荷物を鞄へ詰めていると、部屋にユリィ様が訪ねて来た。おなかが空いたのだろうか。そろそろ夕飯だし。ユリィ様が言えばキッチンは仕事のペースを上げてくれるだろうけど。
扉から先に進むのをためらうユリィ様の手を引いて、ベッドの上に座らせる。私は床に座ったけれど、ユリィ様に言われ同じようにベッドに座った。すると私の膝の上にユリィ様が移動してきた。
「ミラも学校に行くのか」
「ええ。“も”とは?」
学校は全国どこも八年制。十歳から十八歳まで通う。家柄事で通う学校は変わる。曲がりなりにも伯爵家の私は王家の方も通う学校。私の婚約者様もだ。
十歳からなので、ユリィ様はまだのはず。
「アランも準備を始めていた」
「他のお二人は?」
「あの二人は知らない。俺の顔も見たがらない」
「あら…こんなにかわいいのに」
頭を撫でると、ぺいっと手をはたかれた。男の子にかわいいは言ってはいけないのだそうだ。
私なんて叶うのならつるつるのほっぺにキスをしてしまいたいくらいなのに。不敬罪で捕まりかねないからしないけれど。
「ミラはいつ帰ってくるんだ?」
「そうですわねえ…頻繁には無理ですね。年中に、長期休み以外では多くても三回ほど、でしょうか…」
せっかく少し懐いてくれたのに殿下と会えないのは少し寂しい。一年終わればユリィ様はお城へ戻ってしまうのだし。
「なら俺は、屋敷でずっとお前の父と二人きりか」
「悪い人ではないのですけれどねえ…少しイライラする人ですよね、ごめんなさい」
なにせそのイライラするところが原因で、妻に逃げられる始末ですから。母は、父が迎えにくれば素直に帰るつもりでいるのに、父といえばいつまでもうじうじうじうじ。母の愚痴を聞く私の身にもなってもらいたい。
「お手紙を沢山出しましょうね。文字は読めますか?」
「俺を誰だと思っているんだ!」
「そうでしたわね」
笑ってまた頭を撫でるとまた手をはらわれた。子ども扱いは厳禁だそうだ。
「ローデリック公爵の息子も同じ学校か?」
「ええ。学年は違いますけど」
彼は一つ上。アラン殿下と同い年で、それなりに親しいらしい。
「……そうか」
「どうしました?ああ、それで、殿下は何故ここに?どんなご用事ですか?」
「退屈だっただけだ。お前を遊び相手にしてやる」
「あらぁ…嬉しいですけれど、あと何年かしたら“遊び相手にしてやる”と女性に言ってはいけませんよ?」
かわいいユリィ様はあっという間に食べられてしまいますよ。
「お部屋のおかたづけは終わったのですか?」
「当然だ」
「さすが王子殿下です。では夕食までどんな遊びをしましょうか。ええっと…チェスと、トランプしかありませんね」
「それでいい」
チェスは三戦三敗、トランプでも全敗。
「ミラは頭を使うのが苦手だ」
「そんなことはありません!運勝負でも負けましたから」
「威張ることじゃない」
それにしたって、インドアなおかげで勉強だけはきちんとしてきたはずのミラベル・スウェインが五歳の子供に完敗…!ユリィ様はもしかしなくても天才だ。
他のご兄弟のように英才教育は受けなかったと聞いたけれど、ユリィ様曰く、一人で勉強したそうだ。
なんて良い子……。
「ミラ、ミラ」
「なんですか?」
「腹が減った」
「では食堂に行きましょうか。もう準備も終わる頃ですわ」
案の定食堂の準備はほとんど終わっていて、父はすでに席に着こうとしていた。
ユリィ様の姿を見ると、執事の一人がユリィ様の席へ案内しようとしたけれど、ユリィ様は首を横に振り、私の後ろについてくる。
その様子に父を含め皆がぎょっとした。ユリィ様が私になんと言うのか、心配そうに見ている。私が無礼を働いたと思っているのだろう。失礼な。働いたけれど。
「ミラ、乗せろ!」
小さな手が、私の膝を指さす。
「食べにくいですよ、きっと」
「いい。乗せろ!」
では、と先に椅子に座った私の膝の上にユリィ様がちょこんと座る。猫を乗せるより軽い気がする。
いただきます、と言ったのは私とユリィ様だけ。父はただ口を開け私たちを見ているだけだ。お行儀の悪い。
「特別だ!食べさせてやる!」
慣れた手つきのユリィ様はテーブルマナーも完璧。五歳でここまでなら上出来だ。そしてフォークにささった野菜を私の口元にあてる。
なんて可愛らしい……!母が帰ってきてくれれば、まだ、こんな弟が生まれるチャンスがあるかもしれないのに。ああけれど、この愛らしさはユリィ様だからこそ出せるのかもしれない。
若干、野菜ばかりよこされて、これは嫌いなものを押し付けられているのでは…?と思わなくもないが、食べると天使の笑みを浮かべるので誘惑には勝てず食べてしまう。
父が呆けている間に私たちは食事を終えてしまって、ユリィ様は「ウィリアムは食べるのが遅いな」と顔をしかめられた。
謝りながら急いで食べ始める父をよそに、膝の上のユリィ様は私の顔を見上げる。
「ミラ、今日は一緒に眠ってやる!嬉しいか?」
あら拒否権が初めからないんですね。拒否なんてしないけれど。父は大好きなお肉をのどに詰まらせた様子。むせている。
「ええ。とても。二人で眠ったらきっと怖い夢は見ませんね」
「そうだぞ。俺はミラを守る王子だからな」
後で父に、ユリィ様とどうやって仲良くなったのかと尋ねられたけれど、唇に人差し指を立てておいた。