弱点
着地、という表現が正しいのかどうかわからない。
足下にも、闇が拡がっているだけなのだから。
ともかく、男は闇に降り立った。
ゆっくりと、動けないシーパルに近付いてくる。
手が、届く距離。
男が、手を上げる。
シーパルの首に伸ばす。
「なぜ、僕を……?」
首を掴まれる前に、聞いた。
「わからないか?」
いや、わかる。
これまでの旅で知ったこと、出来事、なにより男の口ぶりでわかる。
パウロが、捜し求めた男。
過去、パナの元を訪れ、だが、はっきりと記憶に残ることなく去った男。
おそらく、ロデンゼラーでリパラーを殺害した男。
そして。
「僕を、殺そうとする理由は……」
ヨゥロ族だから。
この男が、一族のみんなを。
「そうだ」
思考が漏れている、と男は言った。
今も、そうなのだろう。
(……追放された、ヨゥロ族……こんな能力が)
男の手が、シーパルの首に掛かる。
たいした腕力ではない。
たが、体が動かないため抵抗できない。
まだ、なんとか声は出せる。
「どうやって、みんなを……?」
「ここに、導いたのさ。ヨゥロ族は、元々ここへ来るための素質を持っているのだからな。そう難しいことじゃあない。ここならば、俺は無敵だ。抵抗できない奴らを、一人ずつ壊していった……」
男の指に、少しずつ力が篭る。
「この世界は、外とは別世界だ。だけどな、この世界のお前は、外のお前と繋がっている。同一と言ってもいい。なにが言いたいか、わかるか?」
嗤う。男の表情は陰となり見えないが、嗤っているのはわかる。
「ここでお前が壊れたら、向こうの世界のお前も壊れるということさ」
「かっ!?」
呼吸が苦しい。
男の言う通りだった。
抵抗されることはないのだから、ここでは男は無敵だった。
(なぜ……こんな能力があるなら、僕をいつでも殺せたはず。なぜ、これまで……?)
パウロも、この男には殺されていない。
「お前とパウロ・ヨゥロは、特別だよ。やはり、覚えてはいないようだな」
(……特……別……?)
「お前たちは、何度もこの世界に来ている。五歳の時、あの特別な訓練を受けてからな。毎日毎晩、眠るたびに、ここへ来ている」
(ここに……僕が……?)
「ここは、俺が支配する世界ではない。ヨゥロの世界だ。そして、お前もパウロ・ヨゥロも、この世界の中に居場所を造っていた。自分の部屋みたいなものさ。俺でも侵入できない、厳重に閉ざされた空間」
血流を止められ、鼻の頭が熱い。
「だけど、お前はのこのこと自分の部屋を出てきてくれた」
殺される。
本当に、殺される。
こんな訳のわからない所で、一族の仇を目の当たりにして、なんの抵抗もできずに。
「さようなら、シーパル・ヨゥロ」
男が、呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
追跡はない。
林に待機させていた兵士たちと合流し、サミーは一息ついた。
冷や汗ものだったが、アルベルトの救出は上手くいった。
ジャックとガンジャメも、無傷である。
その結果については、サミーは満足した。
わざわざ自分たちの能力をばらしてオースター孤児院の危機を匂わせたのは、ルーアたちを分断するためである。
デリフィス・デュラムの生存を、彼らはまだ信じているだろう。
オースター孤児院へ向かう者たちと、デリフィス・デュラムの捜索に当たる者たちに、分かれるはず。
ルーアをザイアムが待つ崖まで連れていくという目的は、忘れていない。
偵察の報告に、サミーは苦笑した。
オースター孤児院へ引き返したのは、ルーアとティア・オースターであるようだ。
ザイアムがいる崖からは、ルーアは遠ざかることになる。
なかなか、思うように事は運ばない。
この夜だけで、何度そう思ったか。
日付が変わっていた。
対リンダ・オースターのためにこの山に来て、三ヶ月になる。
寒さに慣れたとはいえないが、以前よりは堪えられるようになった。
震えながら、考える。
どうすれば、ルーアをザイアムの元まで導けるか。
「ルーアに、こだわり過ぎではないか?」
ジャックが、サミーと同じ声で言った。
顔も体格も、筋力も知力もサミーとほぼ同じ。
だが、知識や考え方全てまでが同じという訳ではない。
違う発想をすることもある。
「ジャック、こだわり過ぎとは?」
「ザイアムの元へ連れていくのは、ルーアでなくてもいいような気がする」
自分と同じ声が、自分の外側から聞こえる。
なにか違和感がある。
ずっと慣れることはないだろう。
自分が喋っているのではないかと、錯覚してしまうほどだ。
「ユファレート・パーターならば、導くことができるのではないか?」
ジャックの顔には、自信が見えた。
「どうやって?」
「あの娘には、弱点がある。そこを突けば、ある程度は行動をこちらで制御できる。ユファレート・パーターの弱点は、取りも直さずルーアの弱点にもなるはずだ。ユファレート・パーターの危機を知れば、ルーアは助けに向かうだろうからな」
「……」
そうかもしれない。
ルーアは、オースター孤児院へと向かった。
まず確実に、『地図』を見るだろう。
仲間の位置は、それでわかるはずだ。
ユファレート・パーターを、ザイアムの元まで連れていく。
そこを押さえる。
ルーアは、きっと助けにくるはずだ。
それが、サミーには見えた。
「だが、ユファレート・パーターの弱点とはなんだ?」
「ハウザードだ」
ジャックが、にやりと笑う。
「まだ十代の女が、家を出て、世界中を旅する。アスハレムでは、『ジグリード・ハウル』に立ち向かってもいる。随分と思い切りの良い行動だ。その根幹には、ハウザードの存在がある」
会心の着想を思い付いた時、サミーもこんなふうに笑うのだろう。
余り気持ちのいい笑い方ではなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
オースター孤児院は、ルーアたちが出発した時と変わりなかった。
武器を持ったティアの兄たちに、迎えられる。
まだ、襲撃を受けていないということだ。
ティアは、安堵の溜息をついている。
「中に入ろう」
ティアは割りと平気そうだが、ルーアは歯の根が合わなかった。
この寒さは、体に堪える。
リンダは、居間にいた。
暖炉では、炎が燃えている。
「母さん、こんな所に……。まだ、横になってないと」
リンダは、ロッキングチェアーに揺られながら、気怠そうな眼をルーアたちに向けてきた。
「あのパナって子にも言われたよ」
なんとなく、リンダが居間にいる理由はわかった。
ここが、孤児院のほぼ中央に当たるのだ。
どこから襲撃があっても駆け付けられるように、居間にいる。
傷付き倒れたばかりなのに、意志はまだ折れていない。
ティアが、嘆息した。
「シーパルの様子、見てくるね」
深夜の孤児院に、床板が軋む音が響き、遠ざかっていく。
「『地図』、見せてもらってもいいですか?」
ルーアが言うと、リンダが無言でテーブルに『地図』を置いた。
受け取り、暖炉の前に座り、ルーアは歯噛みした。
「くそっ……!」
オースター孤児院の北に配置された、敵の三十ほどの部隊に、動きがない。
アルベルトのはったりに振り回されて、無駄に体力を使わされたということになる。
(なんなんだ、あいつらは? なにがしたいんだ?)
こちらを分断して、各個撃破したいのか。
だがその過程で、犠牲を出し過ぎているだろう。
各個撃破されているのは、むしろ向こうの方だ。
これだけの人数差があるのだ。
正面から揉み潰しにきた方が、余程犠牲を出さずに決着を付けられるだろう。
こちらには、足手纏いとなる者が大勢いるのだ。
もう一点、気になることがあった。
『地図』の消失した赤い印を見て、ユファレートかデリフィスの身に、最悪の事態が起きたのではないかと考えた。
だが、ユファレートは健在で、デリフィスも生きているという。
実は、『地図』に不備があるのではないか。
表示されないで済む方法があるのではないか。
それをアルベルトたちが知っているとしたら、非常に厄介なことになる。
「……あんたは」
リンダに話し掛けられ、ルーアは思考を中断した。
「ストラームの弟子なんだよね?」
「……ええ。そうですけど」
それを言った記憶はない。
なぜ知っているのか。
疑問が、顔に出たのかもしれない。
リンダが、自分の服の胸の辺りを引っ張る。
ルーアは、防寒着の下に、いつもの耐刃ジャケットを着ていた。
見る者が見れば、『バーダ』隊員だとわかるのだろう。
「ティアからの手紙にも、書いてあったしね」
「ああ、なるほど……」
リンダの補足に、ルーアは頷いた。
「ストラームは、あんたになにを教えた?」
「なにって、剣の扱い方とか、魔法の使い方とかですけど」
「……他には?」
「他には……一般教養から、普通の生活に必要な知識まで……なにもかも、全部ですよ」
ルーアにとってストラームは、戦闘の師であると同時に、上司だった。
そして、親や教師のような存在でもある。
「普通だね……」
リンダが、呟きロッキングチェアーを揺らす。
「……普通?」
「普通の、人の育て方だ」
「……?」
この中年の女が、なにを言いたいのかいまいちわからず、ルーアは眉根を寄せた。
リンダが座るロッキングチェアーが軋む音、建物を揺るがす風の音だけが、しばらく響く。
静寂にほど遠いその時に変化を与えたのは、ティアだった。
どたばたと足音を鳴らし、ルーアの名前を呼んでいる。
「……なんだ?」
廊下に出ると、ティアが駆けてくるところだった。
「……ガキ共が起きちまうぞ」
「あっ、ごめん! あ、いや、それどころじゃなくて……」
ルーアの腕を掴む。
「来て! シーパルが……」
「シーパル……?」
シーパルに、なにか変化があったのだろうか。
ティアの様子からして、只事ではない。
引っ張るティアを途中から追い抜いて、ルーアは自分たちが借りている部屋へと向かった。
扉は、開け放しになっていた。
頭から毛布を被ったパナが、シーパルを看ている。
「なんか、苦しそうで……」
おどおどしているティアを置いて、ルーアはシーパルが横になる寝台の側に座った。
目線で、パナに問う。
パナは、薬師だが医者のような知識も持ち合わせている。
「呼吸困難になってるみたいだね」
「呼吸困難……? なんで……!?」
パナが、苦し気に顔を歪めるシーパルの衣服をずらす。
「なんだ、これ……?」
首になにかの跡があり、鬱血している。
指の跡に見えた。
まるで、今も首を絞められているかのように。
(なんだ……?)
眼を離した隙に、誰かに絞殺されそうになったのだろうか。
ティアやパナを疑うのは、余りに愚かなことだろう。
ティアの家族たちの犯行とも考えにくい。
寝ぼけて、自分で自分の首を絞めたのだろうか。
そんなことが有り得るのだろうか。
わからないが。
ルーアは、シーパルの胸倉を掴んだ。
一部のヨゥロ族だけができる、不可思議な眠り。
無闇に起こすのは危険ではないかと、これまで様子を見ていた。
だが、これ以上放っておく訳にはいかない。
なにか、未知の危険がシーパルに迫っている。
ルーアは、それを直感した。
「おい! 起きろ、シーパル! ブロッコリー!」
ティアやパナの制止を無視して、ルーアはシーパルを揺さ振り、頬を叩いた。
乱暴でもなんでも、今すぐ起こさなければ、取り返しのつかない事態になる。
シーパルは、失われる。
これも、直感。そして、予感だった。
シーパルが、微かに呻いた。
眼は、開かれない。
◇◆◇◆◇◆◇◆
崖の上から転がり落ちてきた岩が、地面から突き出した岩と激突し二つに割れるのを、デリフィスは霞む視界で見ていた。
朦朧とした頭で、考える。
なぜ、死ななかったのか。
運が良かったからか。
だが、あれだけの高所から落下したのだ。
怪我くらいはしなければ不自然なのではないか。
寒さで鈍くなった思考で、考え続ける。
眠気に襲われているが、デリフィスは抗った。
眠りは、死であるような気がした。
何時間歩いたか、崖を登る道は見当たらないが、洞窟を見つけた。
浅い洞窟だが、雪と風は凌げそうだ。
焚き火の跡があり、消火が半端だったためか、わずかに熾が残っている。
洞窟の隅に積み上げられていた、木の枝を焼べた。
火に当たること、数分。
体は巨大な重りを背負っているかのようではあるが、頭は回るようになった。
洞窟の中を、観察してみる。
人が生活していた。
それは、間違いないだろう。
数時間か、数日かはわからないが。
食事の跡がある。
寝具が、二人分。
焚き火を、枝で掻き回す。
(二人、いた。少なくとも片方は、魔法使い)
焚き火の跡が、不自然だった。
地面の焦げた範囲のわりには、燃え滓が少ない。
魔法で炎を点け、持続のために枯れ枝を焼べていった、というところか。
(……敵、だな)
猟師ではないだろう。
魔法が使えるなら、冬の山で猟をするよりも、割の良い仕事はいくらでもある。
ただの旅人である可能性もあるが、現状を考えると、敵であると心構えをしていた方が良い。
(……なぜ、俺は死ななかった?)
落ち着いてくると、またその疑問が擡げてきた。
あの時のことを、思い出す。
崩れる足下。落下してくる岩。枯れ木。そして、転落。衝撃。
所々、記憶が途切れていた。
(なぜ……)
五体満足でいるのが、おかしい。
(なぜ、テラントは死ななかった?)
ふと、その疑問が湧いた。
ズィニア・スティマとの戦闘の後、テラントは死ぬはずだった。
それだけの負傷をした。
だが、実際のところは、どうだ。
調子は未だに悪そうだが、完治はしているようだ。
なぜ、テラントは死ななかったか。
それは、魔法による治療を受けたから。
凄腕の魔法使いが、迅速で的確な応急処置をしたから。
おかしな話だ。
テラントを発見したのは、城外演習中のラグマの部隊だった。
その中に魔法使いがいたのならば、宮廷魔術師となるのか。
そんな立場の者が、一部隊の演習などに付き合うのか。
なぜ、応急処置までで治療を留めた。
治療を、中断しなければならなかった。
治療をしているところを、見られるのがまずいから。
誰に。部隊の者にか。だとしたら、城外演習に付き合った宮廷魔術師ではない。
部隊がテラントを発見する前まで、治療をしていた。
そして、テラントが目覚める前に、部隊に見られる前に去った。
なぜ。
テラントの中で、死んだことになっている人間だから。
「まさか……」
いや、まさかではない。
頭の隅に、その考えはあったような気がする。
ただ、その発想と向き合いたくはなかった。
それはきっと、テラントの旅を知っているから。
その重さを、血を、怒りを。
テラントにとっては、良い事なのだ。
だが、あってはならないことでもあるような気がする。
テラントがどれだけのものを捨てて、どれだけの命を奪ったか。
(テラントを救ったように、俺のことも救った……?)
転落の時。
途切れ途切れの意識。
落下物が当たらないように、地面に叩き付けられないように、デリフィスを助けたのではないのか。
いつの間にか、デリフィスは剣を抜いていた。
考え事をする時は、剣に自身の姿を映すのが癖になっていた。
今は、剣の表面には炎も舞っている。
(考えるのは、俺の役割じゃない)
ルーアに、押し付けたはずだ。
体に、力が入るようになっていた。
オースター孤児院を出て、どれくらいの時間が過ぎたか。
今は、午前四時か五時くらいだろうか。
すっかり狂ったであろう当てにならない時間感覚で、適当に時刻を探る。
北国の冬の山を、甘く見ていた。
覚悟はしていたつもりだが、どこかで侮っていたのだろう。
その結果が、これだ。
テラントは、平気だろうか。
あの男は、デリフィスよりも寒さに弱い。
デリフィスは立ち上がり、焚き火を踏み消した。
洞窟の入り口には、何者かの足跡が残っている。
外に出てすぐに雪で消されているが、それでも進んだ方向は見当がついた。
そちらへと、足を向ける。
崖を登る道を、すぐに見つけた。
洞窟を利用していた二人は、敵だろう。
戦場の匂いが、濃くなったような気がした。