その男は
「……なにが、もういいのです?」
先程から、愚かしくオウム返しに質問をしている。
ヨゥロと名乗る女性がなにを言いたいのか、いまいちシーパルにはわからなかった。
「彼とは、誰なのです?」
「……彼……は……」
「知る必要はない」
声。
不意に、闇の中に流れる。
「なっ!?」
女性の姿が、歪んだ。
捻れ、縮み、一点に集まっていく。
消失は、一瞬のことだった。
入れ替わりに、男が現れる。
さっきまで女性がいた空間に、悠然と浮かび立っている。
緑色の頭髪。青白い肌。
(……なんだ?)
正対している。
正面から、はっきりと顔を、全身を見ている。
それなのに、男の頭髪と肌の色以外の特徴がわからない。
顔の輪郭も、顔付きも。体格、手足の長さ、見えているはずなのに、脳が理解できない。
情報が、脳まで達しない。
(なぜ……!?)
「ここのことを、俺よりも理解していないからさ」
冷たく見下ろす、瞳。
(……僕の、思考を……?)
「思考が垂れ流しになっているぞ、シーパル・ヨゥロ」
「!?」
「この世界での思考の仕方も、理解できていない。眼で見たものを、脳がどう解析するかも、わかっていない。だから、簡単に遮断できた」
「……」
なにを言っているのだ。
そして、何者なのか。
「けど、まあ、たいしたものだ。偶然とはいえ、この世界に接続できるなんてな。確かにヨゥロ族にとって、眠りはこの世界に赴くための儀式のようなものだが」
男が、肩をすくませる。
「呼吸の仕方も、心臓の動かし方も理解できているようだ。だが、さて……」
意思が伝わってくる。
これまでに、似たような意思を何度も向けられたことがある。
殺意に近い。けど、違う。
これは、悪意。
「脳の使い方を、理解しきれていない。体の動かし方も。そんな状態じゃ、とても俺に抗えないよな」
(そうか……)
唐突に、シーパルは悟った。
顔もわからないこの男が、何者なのか。
テラントには、ズィニア・スティマがいた。
もしかしたら、ユファレートにとってのハウザードは。
きっと、デリフィスにも誰かがいる。
(そして……そして、僕には……)
この男が、いる。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ルーアたちは、ティアの先導で、雪道を今度は南に進んでいた。
真夜中に、吹雪の中を出歩く。
我ながら、正気の沙汰と思えない。
なんで、こんな苦労をしなければならないのだ。
出発前に、シーパルの様子を見てきた。
寝台に、横たわったままだった。
ぐっすりと眠りこけているようでもあった。
無性に腹が立ったものだ。
やはり、蹴飛ばしてでも起こすべきではないのか。
「ユファ……デリフィス……」
ティアの呟きが、微かに聞こえた。
心配で堪らないのだろう。
テラントが、無言でティアの肩を叩く。
寒さのためか、口数は少ない。
「……待て」
ルーアは、足を止めた。
微弱だが、魔力の波動を二つ感じた。
「……ユファレートだ」
もう一人、他にも魔法使いがいるようだが、平凡な力しかないようだ。
ユファレートと並の魔法使いの魔力を比較すると、違いが歴然だった。
質が違う。輝きのようなものが違う。
錆び付いたなまくらと、研ぎ澄まされた名剣が、同じ棚に陳列されているようなものだった。
「ユファ!? どこどこ!?」
ティアが、袖を掴み引っ張る。
「……邪魔するなよ」
ルーアは、低く告げた。
集中しているのだ。
感知した魔力から、おおまかな位置を割り出す。
それほど簡単なことではない。
強風に、音に、容易く感覚を狂わされる。
シーパルなら、とルーアは思った。
ルーアよりも、遥かに魔力という力に慣れ親しんでいる。
きっと、すぐにユファレートがどこにいるのか、わかるのだろう。
「……あっちだ、多分な」
ルーアは、谷間の方を指した。
「自信なさ気ね」
「……」
なさ気ではなく、自信がないのだ。
魔力の発生源を探るというのがどれだけ繊細で困難な作業か、魔力が感知できないティアに言っても無駄だろうが。
「駄目だ」
崖の縁まで向かったテラントが、眼下を見て首を振った。
降りられないほど、切り立っている。
飛行の魔法で降下するにも、この強風では危険だった。
「どこかに、降りる道はないか?」
「えっと……」
テラントに聞かれ、ティアは瞑目した。
この地で育ったティアに、地理のことは頼るしかない。
やがて、彼女ははっと表情を変えた。
「ある……! あるよ! こっち!」
駆け出す。
「ついてきて!」
言われるまでもない。
ティアの後を、ルーアとテラントは追い掛けていた。
「他にも魔法使いがいる。多分戦闘中だ。急ぐぞ!」
言って、ルーアは空中に向かって衝撃波を放った。
ユファレートならば、戦闘中でも味方の魔力を感知できるはずだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
谷底へと降下して、ユファレートは飛行の魔法を解除した。
焦燥が募る。
崖上に、デリフィスの姿は見当たらなかった。
ならば、ここに転落したのだろうか。
結構な深さである。
普通に考えて、命はない。
それでも、デリフィスの死体を見た訳ではないのだ。
諦めるのは早過ぎる。
辺りを見回す。
と、ユファレートは一本の針葉樹に眼を止めた。
幹に、傷がある。
まだ、真新しい傷に思えた。
剣で水平に斬り付けたのではないか。
(……デリフィス? ……だよね?)
きっと、彼が目印にでも付けた傷だろう。
やっぱり、生きていた。
まだ確定ではないが、ユファレートは決め付けた。
この場にいないということは、どこかに移動したのか。
寒さを凌げる所を捜しに行ったのだろうか。
さすがにこの状況下にあって、一人で敵に突っ込むなんて真似はしないだろう。
みんなと合流するために、動いているかもしれない。
だとしたら、北だろうか。
「……」
周囲に眼をやる。
岩壁、針葉樹、雪。
「……北って、どっち?」
冷や汗が吹き出しそうになる。
「い、いやいや、平気平気。わたしなら、大丈夫。うん」
遭難なんてしない。
仮に道がわからなくなったとしても、長距離転移の魔法を使えばいい。
それで、帰ることはできる。
(だから、わたしよりもデリフィスよ)
足跡などは残っていない。
随分前に立ち去ったということだろうか。
すぐに移動できたということならば、怪我はないのかもしれない。
適当に、ユファレートは歩きだした。
正直、どちらが北なのかはわからない。
雪に足を取られながら、確たる当てもなく歩く。
精神的にかなりきついが、泣き言は口にできない。
みんなは、もっと苦しいはずだ。
ティア以外は、雪が積もった山道なんて歩き慣れていないだろう。
暖気を発生させて寒さを凌ぐこともできない。
どれだけ歩いたか、前方を塞ぐ人影に、ユファレートは足を止めた。
いや、前方だけではないか。
其処此処の木陰に、潜んでいる者がいる。
テラントやデリフィスのような勘は持ち合わせていないため、正確な人数はわからない。
十人くらいだろうか。
すっかり囲まれている。
正確な位置を掴まれていたということだ。
(魔法使いがいる……?)
明かりや暖気の魔法を使っている。
その魔力を辿ったのだろう。
問答などはなかった。
いきなり、右手から短剣を投げ付けられる。
「フレン・フィールド!」
力場で弾き、ユファレートは逆の方向へ杖を向けた。
木陰から飛び出している、黒装束の上に防寒着を羽織った『コミュニティ』の兵士。
「ライトニング・ボルト!」
真っ直ぐ伸びた電光が、男の胸板を貫く。
(大丈夫! いける!)
自らに言い聞かせ、奮い立たせる。
雪が降り積もった足場では、迅速な移動はできないはずだ。
すぐに接近戦に持ち込まれることはない。
注意すべきは、飛び道具と魔法。
「ファイアー・ボール!」
「!」
火球が、ユファレートの近くで破裂する。
四散する雪。蒸気。
視界が、覆い隠される。
やはり、魔法使いがいた。
「エア・ブリッド!」
ユファレートは、風塊で蒸気を吹き散らした。
直後に、男の声。
「ディレイト・フォッグ!」
周囲を、霧が包んだ。
確保したばかりの視野をすぐに奪われて、焦りが生まれるのをユファレートは感じていた。
相手は、魔法使いとしてはそこまでの腕ではない。
だが、効果的な使い方をしてくる。
四方から迫られているのを、肌で感じた。
逼迫する状況に、さらに焦る。
この位置は、まずい。
瞬間移動の魔法を発動させて、包囲を脱した。
転移完了と同時に、意識を尖らせる。
現在最も厄介な相手は、魔法使い。
ユファレートは、魔力の波動を読み位置を特定しようと試みた。
見つけた。岩陰。
「フォトン・ブレイザー!」
光線が、木々を薙ぎ倒し岩に穴を穿つ。
魔法使いは、魔力障壁で防いだようだ。
だが、衝撃を殺しきれなかったか尻餅を付いている。
好機。だが、膝が折れかける。
魔法を長時間使い続けた。
体が、休息を求めている。
(ちょっと、まずいわね……)
迫りくる兵士たち。
ユファレートは、背中を向けた。
「フライト!」
飛行の魔法を発動させて、逃げ出す。
ただし、引き離してしまわない程度の速度で。
(こういう時は……)
飛び道具を警戒して、時折進行方向を変えながら、必死で頭を働かす。
戦闘の経験がまだまだ不足していることは、自覚している。
シーパルなら、どうするか。
彼も、いくつもの事件に巻き込まれ、戦闘を繰り返してきた。
どう戦ったか、聞き出していた。
似たような事例が、あったはずだ。
アスハレム。負傷したシーパルは、敵に追われて。
魔力の波動を感じた。
敵の魔法使いのものではない。
もっと強靭で、だが荒々しい、よく知る魔力。
(ルーア……!)
彼が、近くに来ている。
連携が取れれば、敵を殲滅できるかもしれない。
飛び道具を避けるための動きは最低限に留め、ユファレートはできるだけ直線的に逃げた。
口の中で十まで数えたところで、飛行の魔法を解除する。
振り返り、ユファレートは杖を突き付けた。
追跡していた兵士たちは、ユファレートが直線的に逃げていたために、一塊になっていた。
「ヴァイン・レイ!」
光の奔流が、兵士たちを塗り潰していく。
取り敢えずは、作戦通り。
一人だけは、なんとか光の奔流をかわしていた。
だが、兵士が跳躍した先に待ち構えていたのは。
「いらっしゃい」
凶悪な笑みを浮かべた、テラント。
容赦なく光の剣を叩き込む。
「ひっ!?」
しゃっくりのような悲鳴が聞こえた。
兵士たちにかなり遅れて付いてきていた、敵の魔法使い。
仲間の全滅に、慌てて踵を返す。
だが、それを遮るようにルーアが現れる。
また、悲鳴が聞こえた。
両者の間で、光がぶつかり合い弾ける。
たたらを踏んだのは、敵の魔法使いの方だった。
ルーアが、足を振り上げる。
蹴り飛ばされ、魔法使いは木の幹に叩き付けられた。
「くっ!?」
なんとか抗おうとするが、ルーアの足の裏が魔法使いの腹の辺りを押さえ付ける。
剣が閃き、魔法使いの頬を掠め、木の幹に突き立てられた。
「死にたけりゃ、抵抗しろよ」
これまた凶悪な顔付きで、ルーアは低い声を出す。
「チンピラ臭半端ないわよ、ルーア」
遅れてやってきたティアが、そう言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
サミーは、ジャックとガンジャメの二人と念話で連絡を取り、合流した。
自分と似た顔をした魔法使いたち。
『地図』の欠点を知っている。
彼らは、そこに配置されていた。
オースター孤児院への、奇襲部隊を指揮させる予定だったのだ。
これまで、『地図』に表示されることはなかったはずだ。
ユファレート・パーターは、危険な相手だった。
個々の戦闘力では、敵うべくもない。
人数と連携で攻めるしかない、とサミーは判断した。
下手に作戦を立てても、これだけの悪天候では、思うように事が進まない。
アルベルトから、報告があった。
ユファレート・パーターを発見したというものだった。
次の報告は、捕まってしまった、というものだった。
指揮していた兵士十人も、殲滅されたという。
怒る気にはならなかった。
能力としては、サミーもアルベルトもさほど変わらない。
その場にいたのがサミーだったならば、やはり捕まるか殺されるかしていたのだろう。
アルベルト救出のため、サミーは動き出した。
戦力となる魔法使いを、むざむざ見捨てるつもりはない。
助けられるならば、助ける。
敵は、ユファレート・パーターに、合流したというルーアとティア・オースター、テラント・エセンツ。
それだけ揃われてしまうと、殺し合いをしても勝てない。
兵士たちは置いていくことにした。
連れていくのは、自分と同じ顔をした魔法使い二人、ジャックとガンジャメのみ。
戦うためではなく、機先を制し、出し抜くための人選だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
捕らえたその男から、ルーアは特別なものをなにも感じなかった。
どこにでもいる魔法使い、という印象しか受けない。
中肉中背、平凡な顔立ち、少し額が広いだろうか。
三十歳前後に見えるが、四十代だと言われても驚きはしない。そんな外見。
ロープなど持ち合わせていないため、魔力の縄の魔法をルーアが使い、木に縛り付けていた。
ユファレートはいくらか疲労している。
まだ敵が大勢いるのだ。
魔力を温存してもらわなくてはならない。
細かい魔法は得意ではないが、今回はなかなかの出来映えだった。
この男の筋力で、易々と引き千切れる強度ではないだろう。
魔法を使えば破壊できるだろうが、そんな真似をすれば、かなり痛い目に遭うことになる。
男は、現段階ではおとなしくしていた。
顔を伏せ気味にし、ルーアたちと眼を合わせようとはしない。
「さてと。まずなにを聞くかな」
男の顔を、テラントは覗き込んだ。
「取り敢えず、お前、名前は?」
「……」
男は、無言で顔を逸らす。
テラントは、ごきごきと首の関節を鳴らした。
「……ふっ!?」
男の表情が、苦悶に歪む。
テラントが、腹に膝を打ち込んだのだ。二度、三度と繰り返す。
「ちょっ!?」
「テラント……!?」
「あー……お前らは、回れ右な」
抗議の声を上げるティアとユファレートの肩を掴み、ルーアは押していった。
敵の情報が不足している。
そして、情報は重要だった。
特に、圧倒的な人数差がある、今のような状況では。
捕らえた者を尋問するのは、当然のことだった。
ティアたちは納得しないかもしれないが、口を割らないのならば、尋問以上のことも必要となる。
テラントたちからは少し離れた木の陰まで、ルーアはティアたちを連れていった。
「お前らは、ここにいろ」
「あの、さ……ルーア……」
「オースター、直視しろなんて言うつもりはないけどな」
ルーアは、白い溜息を付いた。
「これも、戦闘の一部だ。どうしても認められないなら、武器なんて持たずに、どこかに隠れるか逃げるかした方がいい」
「……」
ティアもユファレートも、考え込む表情をする。
背後では、時折鈍い音が響いていた。
綺麗事だけでは、武器を持ち戦うことなどできない。
ティアもユファレートも、わかってはいるはずだ。
だが、完全な肯定も否定もできないだろう。
おそらくティアとユファレートは、ずっと中途半端な位置に立ち続けることになる。
戦闘を楽しむような人種ではなく、しかし、周りの人々のために力を奮う。
状況によっては敵を危めるが、非情にも成り切れない、そんな中途半端な立ち位置に。
「まあお前らに、尋問をやれなんて言わねえよ。取り敢えずは、あの男の立場にならんようにしてくれればいい」
二人とも、充分に女だった。
女と男では、敵に捕まる意味が違う。
ティアとユファレートを残し、ルーアは引き返した。
テラントだけに、汚れ役をやらせる訳にはいかない。
テラントは、剣を抜いていた。
魔法道具ではなく、普通の剣の方である。
銀色の刃の方が、魔法道具よりも効果的なこともある。
「俺は別に、善人でも正義の味方でもないからよ」
男の頬や口の周りは、赤く腫れていた。
「素直に質問に答えてくれない奴に、手荒な真似をすることもある。拷問みたいなこともな。爪を剥いだり、指を捩折ったり、皮を剥いだり」
テラントは、元々ラグマ王国の将軍だった。
捕虜にした敵兵や間者に拷問を加えてでも、情報を聞き出さなければならないこともある。
条約によっては、捕虜への拷問は禁じられているが、それは建て前に過ぎないだろう。
そして、テラントの性格上、部下だけに手を汚させることはできないはずだ。
やりたくてやっている訳ではないだろう。
だが、やろうと思えばやれる。
「お前さん、名前は?」
テラントが、男の頬に抜き身の剣を近付ける。
男の眼を見ると、怯えているようだった。
「……アルベルトだ」
名乗る。声は、少し震えていた。
テラントの脅しが効いたのか、いささか素直にはなっているようだ。
「じゃあ、アルベルト。次の質問だ。デリフィスという奴、わかるな?」
「……ああ」
「あいつは、どうなった?」
「岩の下敷きになったか、谷へと落下したか……死んだ、と聞かされている」
「……」
テラントの剣先が、わずかに動いた。
感情が揺れているのだ、とルーアは思った。
横顔に、変化はない。
「……次。お前たちの戦力について、話してもらおうか。人数、配置、能力、指揮官は誰か……」
「人数や配置は、言わなくてもわかるだろう?」
含むような言い方。
アルベルトたちも、『地図』のことは知っているのだろう。
「長年使い込んでいない魔法道具を完全に信用するほど、素直じゃねえんだよ。欠点の一つや二つ、あってもおかしくない」
それは、魔法使いではなく、そして頭の回るテラントらしい意見だった。
魔法という力に関しては、魔法使いの方が懐疑的であろう。
魔法の力に限界があることを、全ての魔法使いが理解している。
そして、魔法道具の力に関しては、魔法使いの方が盲信的であるかもしれない。
その力は、魔法の力を軽く凌ぐ。
『光の剣』、『ブラウン家の盾』、『ヴァトムの搭』、『隼の翼』、『拒絶の銀』、『インビジブル』、『蟲の女王』、『ジグリード・ハウル』、そして、『地図』。
これまでの旅で見てきた魔法道具の全てが、現代の魔法を超越した威力や効果を持っていた。
旧人類の魔法。
(……欠点、か)
余り考えていなかったことに、眼を向かされたような気がする。
「……いいのか?」
アルベルトが言った。口許に、微かな笑み。
「……あん?」
「オースター孤児院の北に、三十の配置。『地図』を見たなら、わかっているはずだ。お前たちが留守の間、オースター孤児院がどうなっているか……」
「あの部隊に、動く気配はなかった」
『地図』上の様子を思い出しながら、ルーアは言った。
「それに、離れすぎている。俺たちがオースター孤児院にいないことを、奴らは知らないはずだ」
アルベルトの含み笑い。
ルーアは、小さく舌打ちした。
「なにが可笑しい?」
「ズィニア・スティマは知っているな? 『最悪の殺し屋』」
「……」
「あの男は、様々な人体実験を受けていた。そして、異常な身体能力と剣士としての莫大な知識を得た」
「……それで?」
「あの男に比べたら実にささやかだが、私たちも人体実験を受けている」
「……私、たち?」
「私たちにある能力。それは、離れた場所にあっても、意思の疎通ができるというものだ」
アルベルトの笑みが、深いものになる。
「北の部隊を率いる指揮官に、伝えさせてもらったぞ! 貴様たちが、オースター孤児院を留守にしていることをな! さあ、何人の子供たちが犠牲になるかな!」
(こいつ……!)
視界が、赤くなったような気がした。
その顔を蹴り付けるためには、剣を突き付けているテラントが邪魔だった。
テラントを押し退け、足を振り上げかけて。
「ディレイト・フォッグ!」
魔法を発動させる声が、響き渡った。
一人のものではない。
複数、おそらく三人。
濃い霧に、包み込まれる。
舌打ちすることは、堪えた。
声を出せば、それだけ正確に位置を特定される。
霧から飛び出し、気配と魔力を探る。
背後から、軽い足音。
これは、ティアとユファレートか。
気配を感じた。左。近い。
いつの間にか、かなりの接近を許していた。
この耳にうるさい風の音がなければ、気付けていたのだろうが。
「なっ……!?」
気配の方に眼をやり、ルーアは絶句した。
そこにいたのは、アルベルト。
どうやって、束縛から逃れたのか。
魔力の縄を魔法で破壊した、瞬間移動の魔法を使った、それならば、魔力の波動で必ず気付ける。
破裂音。破壊の魔力の波動。
アルベルトを木に縛り付けていた方向からだ。
ユファレートの魔力の波動ではない。
アルベルトの魔法。
(どういうことだ……!?)
「リウ・デリート!」
混乱しながらも、ルーアは解除の魔法を発動させていた。
邪魔な霧が、いくらか薄れる。
ルーアの魔力の縄の残滓が、微かに視えた。
誰もいない。
テラントの罵声が聞こえた。
混迷が深まる。
ルーアは、アルベルトの姿を捜した。
森の深い方へ、背中を向けて逃げていくところだった。
追跡や魔法の狙撃を、躊躇ってしまう。
意思の疎通ができる、と言っていた。
それ以外にも、なにかしらの能力があるのではないのか。
だから、魔力の縄の束縛から脱出できた。
ルーアたちには知られていない、未知の能力がある。
当然、警戒しなければならない。
迂闊に追跡できない。
未知の能力に備え、魔法は攻撃よりも防御に使おうと考える。
アルベルトが森の奥に消えるのを、ルーアは座して見送るしかなかった。
ユファレートが、二度、解除の魔法を発動させた。
霧が消え失せる。
テラントが、顔をしかめながら戻ってきた。
アルベルトを含め、敵はおそらく四人。
一人を追っていたのだろう。
「すまん。逃げられた」
左腕に、魔力の縄の残滓が視えた。
足止めを喰らったのだろう。
この足場では、わずかな時間ロスでも追跡は困難になる。
「……どんな奴だった?」
ルーアの質問に、テラントは不審そうな顔をした。
「どんなって……アルベルトだが」
「……なに?」
テラントが追跡した方向は、アルベルトが去った方向とまったく違う。
それに気付き、ルーアははっとした。
ルーアがアルベルトだと思った人物は、顔が腫れていなかった。
(……別人? 双子?)
「あれ?」
ティアが、声を上げる。
「アルベルトって、あの魔法使い? あの人なら、あっちに……」
と、また別の方向を指す。
「……三つ子?」
呟き、ルーアは手で顔を覆った。
くだらない手で撹乱された。
騙されたのが自分たちでなければ、笑い出していたかもしれない。
「三つ子かそっくりさんか知らんが、同じ顔の奴らが三人いる訳か」
「そういうことだな」
呆れたように言うテラントに、ルーアは頷いた。
起きた事態を把握するにつれ、悔しさが込み上げてくる。
ルーアは、一度地面の雪を蹴った。
「見事に出し抜かれた。けど、いいさ。こっちに犠牲は出ていない。今後、同じ手に掛からなければいい。それよりも……」
「アルベルトたちにあるという、離れた所にいても意思の疎通ができるという能力。オースター孤児院を、北から襲撃すると言っていた」
テラントが続ける。
ルーアは、ティアに視線を送った。
ティアは、顔色を変えている。
「そんな……!」
「ああ、オースター。すぐに戻らないとな」
「待って。デリフィスは……?」
ユファレートの言葉に、テラントが眼を細める。
「……デリフィスは、生きているのか……?」
「生きているわよ!」
ユファレートの声は、疲労のためか少し掠れていた。
「谷に落ちたと思う。だけど、きっと生きているわ。谷底に生えた木に、付けたばかりの傷があったの。きっと、デリフィスが付けた印よ」
「そうか……」
テラントが、少し表情を緩ませる。
やはり、心配だったのだろう。
デリフィスとの付き合いは、テラントが最も長い。
「デリフィスは、俺とユファレートで捜す。ついでに、アルベルトたちも潰す」
ユファレートの肩を、テラントは叩いた。
「じゃあ、俺とオースターは、孤児院の方だな」
「頼む」
全員が、頷いた。
風が、また強まった。
ティアの案内で、急ぎオースター孤児院へと向かう。
テラントたちも、急いでいるだろう。
オースター孤児院もデリフィスも、切迫している状況かもしれない。
どうにも、移動ばかりを繰り返している。
アルベルトたちの狙いは、なんだ。
走りながら、それを考えた。
こちらを掻き回し、疲労を誘っているのか。
別の意図があるのか。
なんにせよ、どうにも煮え切らない、回りくどいやり方である。
微かな不安を、ルーアは感じていた。